現代則自然法人権擁護社会的分業制度社会論
トップページ
(第U編 絶対自由資本主義を原理原則とした社会あり得ない)




絶対国家はシステム社会化完了迄の過渡期の妄想・人工制度
             (写真は米ワシントン郊外のアーリントン国立墓地のケネディ元大統領の墓)

第六部

絶対国家は
 システム社会化完了迄の
 過渡期の妄想・人工制度


 ――絶対幻覚国家前提に成り立つ
   絶対自由制度資本主義似非社会





市場ないし市場メカニズムが
(本物の)神の見えざる手なのではない。
「人間は、
社会(国家)を組織して、みんなで生きていく以外に
道はないのだから、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくしかない、」
という正義(公平)感・法(自然法)感覚・人権(そのもの)感覚が
(本物の)神の見えざる手だ。
売り手にとっても、買い手にとっても、
所得も蓄えも、時間も能力も、限られている、という事情は
同じなのである。
同じ社会(国家)の中で生きていかなければならないのである。
売り手にとっても、買い手にとっても、野菜(ここではキャベツ)は
生きていくために欠かせないものである。
とすれば、
買い手のことを考えないで、一方的に売り手が値決めする、
というようなことは、起こりえない。
とすれば、確かに、値決めという決定を、
取りあえずは当事者の自由にさせるのが合理的である、
ということになる。
市場ないし市場メカニズムとは、ただそれだけのことである。
この足して二で割る式の決定法に合理性があるからと言って
神の見えざる手だ、というのは、
荒唐無稽というものだ。
詐欺だ。
実際、スミスは、
「自分だけの利益を追求している個人・・・・が
つねに社会にとってよくないものであるとは限らない」、
と言っているだけであって、
「つねに社会にとってよいものである」、とは言っていない。
そもそも、欠落才覚人は、
(本物の)神の見えざる手が欠落した、
口八丁手八丁で、弁舌に長け、強欲で、戦略的で、
詐欺的才覚のある人たちだ。
はっきり言わせてもらえば、新種の狂人だ。
資本主義自由主義国家主義
欠落才覚人天下人工市場社会・国家は、
この欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした設計の
人工の犯罪社会だ。
資本主義自由主義国家主義を原理原則とした社会(国家)など
あり得ないことだ。
とすれば、
絶対万能権力国家は、
人権(そのもの)擁護を目的とした
暫定自由制度人権擁護動的平衡システム社会化が
完成するまでの
過渡期の妄想・制度だ、と考えられてくる。
それに対応する社会は、
似非自由主義資本主義
欠落才覚人天下人工市場似非社会だ、と考えられてくる。




                       




        
目 次


第1章

 架空の見えざる手措定詐術によってでっち上げられた
 絶対自由妄想
 ――手段にして暫定的存在である自由は
    (本物の)神の見えざる手の発現を阻害するものから
    解放されている社会(国家)的状態にしか存在し得ない

 (暫定自由制度とは何か)
1 (絶対自由は架空の見えざる手措定詐術によって
   でっち上げられた妄想

2 (アダム・スミス自身は
   見えざる手が何か分からなかった

3 ((本物の)神の見えざる手が創出した
   人権擁護暫定自由動的平衡制度

4 (「市場の失敗」なのではなく
   暫定自由原則の結果もたらされる
   社会の歪み・綻び

5 (市場の価格調整メカニズムは暫定自由原則
   の結果的現象

6 (分業も暫定自由原則の結果的現象
7 (人権擁護暫定自由動的平衡制度が
   資本(自由)主義妄想の真意



第2章

 所有権と自由と契約と法律と国家の絶対化が生む
 人工市場似非社会

 (資本主義とは何か)
  資本(自由)主義社会・国家は
    欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家の詐称

2  強欲と非情と
   欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家学が生んだ
   欠落才覚人

3  所有権と自由と契約と法律と国家の絶対(正義)化が生むのは
   欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)

4  欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)へと
   社会「構造」を転換させる「革命」が「構造改革」

5  法律絶対(正義)化による正義(公平)法(自然法)抹殺
6  所有権と自由絶対(正義)化による
    社会(国家)の市場(マーケット)化、共生のための規制撤廃

7  契約の絶対(正義)化による税のフラット化
8  格差拡大積極是認は
   欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)主義の

   論理必然核心的部分
9  実体化絶対(正義)化万能化された
    欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)サポート国家

10 欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)アメリカの属国化の
     道拓いた年次改革要望書制度



第3章

 從法(自然法)社会抹殺するため
 措定された架空絶対万能権力国家

 (広義の国家は人間「社会」の別称)


1 (人間「社会」でない似非社会、
  絶対自由(資本)主義人工市場似非社会
)
2 (絶対自由と絶対万能権力国家、
  二つの妄想詐術の目的は同じだ
)
3 (自衛隊の目的は人権(そのもの)を守ることで
  「国」を守るというのは妄想
)
4 (社会契約説は契約絶対自由妄想を以て
  絶対万能権力妄想国家をでっち上げた
  超巨大詐術だ
)
5 (絶対万能権力妄想国家→從法(自然法)社会抹殺
  →人工市場似非社会
)
6 (資本(自由)主義は
  絶対自由(資本)人工市場似非社会主義
  (←從法(自然法)社会抹殺←絶対万能権力国家妄想)
  の詐称
)





                      





第1章

 
架空の見えざる手措定詐術によって
 でっち上げられた絶対自由妄想

 ――手段にして暫定的存在である自由は
    (本物の)神の見えざる手の発現を阻害するものから
    解放されている社会(国家)的状態にしか存在し得ない
 (暫定自由制度とは何か)



1 (絶対自由は架空の見えざる手措定詐術によって
   でっち上げられた妄想


法(自然法)・正義(公平)・人権(そのもの)の拘束を
免れた・解かれた絶対自由は、
架空のアダム・スミスの見えざる手を措定するトリックによって
でっち上げられた妄想だ。

(本物の)神の見えざる手が欠落したM・フリードマンはこう言っていた。
「アメリカの物語は経済的な奇跡と政治的な奇跡の物語であり、このような奇跡は二組の理念が現実へと具現されたことによってはじめて可能になった。おもしろいことにこの二組の理念は、1776年という同一の年に刊行された書物で形成されたという偶然の一致がある。その一組の理念は『諸国民の富』という著作の中に具体化されており、この著作こそスコットランド人アダム・スミスを近代経済学の父とさせることとなった傑作だ。人びとが必要とする食糧や衣料や住宅を生産するためには、経済分野で個人たちの間における幅広い協力や協同が不可欠だが、このことと、個人がそれぞれの目的を追い求める自由とを、市場経済体制がうまく調和させることができる方法を、『諸国民の富』は分析した。アダム・スミスが行った洞察の核心は、人びとの協同が真に自発的なものである限り、交換の当事者たちである双方が利益を得られないのであれば、どんな交換も行われない≠ニいう点だった。すべての人びとが利益を得られるのだから、人びとを協同させるために、外部からの力とか強制力とかによって自由を侵害する必要などないわけだ。だからこそ、アダム・スミスは次のようにいっているのだ。「自分だけの利益を追求している個人は、見えざる手に導かれて、本人もまったく意図しなかった目的を促進させることになる。このように個人が意図しなかった目的だからといって、その目的がつねに社会にとってよくないものであるとは限らない。個人が初めから社会の利益を増大させようという意図をもっている場合よりも、自分だけの利益を追求する場合の方が、もっと効率的に社会の利益を増大する場合がしばしばある。わたしは、公共の福祉のために商売していると気取って主張する人びとによって、実際に社会の利益が増大されたという話を聞いたことがない(1)」と。
第二の組の理念は、アメリカの独立宣言に具体化されている。この宣言は、トーマス・ジェファーソンによって、その同胞たちの一般的な考え方を表そうとして起草された。この宣言は、アメリカ合衆国というひとつの新しい国の独立を宣言した。アメリカ合衆国は、すべての人びとが自分自身の価値観を追求する資格を生まれながらにもっているという原則のうえに樹立された、歴史上はじめての国だ。「われわれは、すべての人びとが平等に創られ、創造者によっていくつかの侵害されることのない権利を与えられており、それらの権利の中には生命と自由と幸福の追求とに対する権利が含まれていると確信している」と、独立宣言は述べている。
注(1)アダム・スミス『諸国民の富』大内兵衛・松川七郎訳岩波書店」
(M&S・フリードマン「選択の自由」(西山千明訳)
日本経済新聞社1ページ以下)、と。


法(自然法)・正義(公平)・人権(そのもの)の拘束を
免れた・解かれた絶対自由は、
アダム・スミスの「諸国民の富」を完全に読み違えた結果の
妄想だ。
けだし、スミスは、
「自分だけの利益を追求している個人・・・・が
つねに社会にとってよくないものであるとは限らない」、
と言っているのであって、
「つねに社会にとってよいものである」、とは言っていない、
からである。


人権(そのもの)を侵害阻害することが予め判然としている事柄は
事前にきちんと規制するが、
それ以外は取りあえず暫定的に自由とする。
暫定自由は、人が社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営んでいくための手段として存在している。
それは、健康で文化的な生活の形は流動的発展的なものであり、
予めきちっと決められた形で存在しているものではないからだ。
暫定自由原則の結果もたらされる人権(そのもの)の侵害阻害、
その結果の社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
「社会保障制度などの生活基盤保障制度と累進課税制度一体の
帰属所得再評価・不当利得返還・社会(国家)補修復元制度」を以て
是正ないし補修し復元する。
法(自然法)に従い、暫定自由制度を以て、
すべての人の人権(そのもの)を守っていく、というのが、
アダム・スミスの真意であるべきなのではないだろうか。
暫定自由原則は、まさに、
「つねに社会にとってよくないものであるとは限らない」もの、
だから、である。



人間は、社会(国家)を組織して、みんなで生きていく以外に、
生きていく道はなかった。
法(自然法)・正義(公平)・人権(そのもの)は
この厳然たる事実に由来する。
アメリカ独立宣言の間違いは、
この厳然たる事実を無視し、
法(自然法)・正義(公平)・人権(そのもの)の拘束を
免れた・解かれた絶対自由を観念した所にある。
所有権と自由と契約と法律と国家の絶対(正義)化によって
やってくるのは、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の、
詐称自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家だ。
それは人が住めない似非社会(国家)でしかない。



2 (アダム・スミス自身は
  見えざる手が何か分からなかった


経済学者たちは、
アダム・スミスが、見えざる手が何であるか、分かっていた、
と思い込んで来た。

池上彰教授も、こう説いている。
「スーパーマーケットの生鮮食料品が買いやすい価格になっているのは、「需要と供給」の関係で決まった市場価格だからです。
「市場価格」というのは、その値段で商品の売買が行われているわけですから、商品を買う側からすれば、「買いやすい値段」ということになります。
しかし、商品が買いやすい値段になっているのは、お客のために売る人が損をしているわけではありませんよね。「この値段なら売れるだろう」と考えて値段をつけているにすぎません。スーパーの人は、できればキャベツを一個500円で売りたいかも知れませんが、それでは誰も買ってくれず、損をしてしまいます。そこで、利益の幅を小さくして、一個150円や130円で数を多く売ることにしているのです。
つまり、できるだけ多くもうけようと考えてつけた値段が、結果として「買いやすい値段」になるのです。
自分の利益を考えて行動すると、それが結果的に、他人の利益にもなる。
この関係が成立することを、「経済学の創始者」と言われるイギリス人アダム・スミスは、1776年に刊行した『国富論』という書物の中で、「見えざる手」という表現を使って説明しました。

「生産物の価格がもっとも高くなるように労働を振り向けるのは、自分の利益を増やすことを意図しているからにすぎない。だがそれによって、その他の多くの場合と同じように、見えざる手に導かれて、自分がまったく意図していなかった目的を達成する動きを促進することになる。」(アダム・スミス著、山岡洋一訳『国富論』)

「社会のために」と考えて働く人たちもいます。しかし、誰もが崇高な目的を持って働いているわけではありません。
売れる商品を作っている人は、その商品を作ることによって自分がもうかるから、一生懸命働きます。でも、その商品を買って、便利になったと喜ぶ人がいます。
多くの人が、とりあえずは自分の利益が最大になるように働いているはずです。それが結果として、社会全体のためになっている。スミスは、そんな経済の仕組みを指摘したのです。」
(池上彰「「見えざる手」が経済を動かす」
ちくまプリマー新書34ページ以下)、と。


しかし、アダム・スミスは、続けてこう言っている。
「そして、この目的を各人がまったく意図していないのは、
社会にとって悪いことだとはかぎらない。
自分の利益を追求する方が、
実際にそう意図している場合よりも効率的に、
社会の利益を高められことが多いからだ。」
(アダム・スミス「国富論」(下)
山岡洋一訳日本経済新聞社31ページ以下)、と。
アダム・スミスは、
「自分の利益を追求する方が・・・・社会の利益を高められることが多い」、
と言っているのであって、
「自分の利益を追求することによって社会の利益は高められる」
と言っているわけではない。
これは、アダム・スミス自身が、
見えざる手が存在するらしい、ということは分かった、
というだけで、
見えざる手が本当は何であるかは、分からなかった、
ということを意味している。


実際、市場ないし市場メカニズムが
(本物の)神の見えざる手なのではない。
「人間は、
社会(国家)を組織して、みんなで生きていく以外に
道はないのだから、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくしかない、」
という正義(公平)感・法(自然法)感覚・人権(そのもの)感覚が
(本物の)神の見えざる手だ。
この(本物の)神の見えざる手が暫定自由原則を
創出したのである。
売り手にとっても、買い手にとっても、
所得も蓄えも、時間も能力も、限られている、という事情は
同じなのである。
同じ社会(国家)の中で生きていかなければならないのである。
売り手にとっても、買い手にとっても、野菜(ここではキャベツ)は
生きていくために欠かせないものである。
とすれば、
買い手のことを考えないで、一方的に売り手が値決めする、
というようなことは、起こりえない。
とすれば、
取りあえずは当事者の自由にさせるのが合理的なはずだから、だ。
市場ないし市場メカニズムは、
(本物の)神の見えざる手が創出した暫定自由原則の
結果的現象だ。



3 ((本物の)神の見えざる手が創出した
  暫定自由動的平衡制度


人が生きていく、ということは、
単に糊口をしのぐ、ということではなく、
社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
ということだ。
したがって、
人間社会(国家)の正義(公平)とは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく、自由に生きている
状態にあること、だ。
法(自然法)とは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範のことだ。
モラル(道徳)、健全な常識といってもいい。
人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
超法規的権利が人権(そのもの)だ。
人間は、
社会(国家)を組織して、みんなで生きていく以外に、
道はなかった、
とすれば、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくしかない、
という正義(公平)感・法(自然法)感覚・人権(そのもの)感覚が
(本物の)神の見えざる手だ。
とすれば、
この(本物の)神の見えざる手が創り出す社会(国家)は
こうなるはずだ。


まず、
人々の自由勝手とすることが明らかに反正義・反法(自然法)である
ことが予め判然としている事柄については、
しっかりと規制をする。
人権(そのもの)を侵害阻害することが予め判然としている事は
事前にきちんと規制する。
規制は人権(そのもの)擁護の方策としてある。
それ以外は取りあえず暫定的に自由とする。
事前の事としては、
所有権・契約・自己責任暫定自由を原則とする。
(暫定)自由制度は、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営んでいくための手段として
存在している。
それは、
健康で文化的な生活の形は流動的発展的なものであり、
予めきちっと決められた形で存在しているものではないからだ。
暫定自由原則の結果もたらされる人権(そのもの)の侵害阻害、
その結果の社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
「社会保障制度などの生活基盤保障制度と累進課税制度一体の
帰属所得再評価・不当利得返還・社会(国家)補修復元制度」を以て
是正ないし補修し復元する。
(本物の)神の見えざる手が創り出した社会(国家)は、
そういう從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度組織
のはずだ。


要するに、
健康で文化的な生活の形は流動的発展的なものであり、
予めきちっと決められた形で存在しているものではない以上、
人々の自由勝手とすることが明らかに反正義(公平)・反法(自然法)
であることが
予め判然としている事柄以外は、
取りあえず暫定的に自由とする他はない、ということだ。

とすれば、
自由とは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営んでいくための手段であり、
健康で文化的な生活の形は流動的発展的なものであり、
予めきちっと決められて存在しているものではない故に、
手段たる自由は暫定的存在である、
と考えられてくる。
また、人権擁護暫定自由動的平衡制度は、
人間は、
社会(国家)を組織して、みんなで生きていく以外に、
道はなかった以上、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくしかない、
という正義(公平)感・法(自然法)感覚・人権(そのもの)感覚、
すなわち(本物の)神の見えざる手が創り出した、
と考えられてくる。
ということは、絶対自由は、
正義(公平)感・法(自然法)感覚・人権(そのもの)感覚が
欠落した欠落才覚人たちによってでっち上げられた
妄想・幻覚だ、
と考えられてくる。



4 (「市場の失敗」なのではなく
   暫定自由原則の結果もたらされる
   社会の歪み・綻び


手段にして暫定的存在である自由を事前原則とし、
事後的に判然としてきた行き過ぎを是正ないし補修し、
社会(国家)を復元する、
その論理構造は、
修正資本(自由)主義と錯覚させてきた。
暫定自由原則の結果もたらされる社会の歪み・綻びは、
「市場の失敗」と言いくるめられてきた。
つまり、修正資本(自由)主義・「市場の失敗」は
自由(資本)主義が妄想でしかないことの証拠以外の
何物でもないのである。
「格差が拡大するのは、努力する人とそうでない人がいる
から当然のことだ。格差があって何が悪い」、
というのが、
資本(自由)主義を原理原則とした社会・国家のはずだ。
資本(自由)主義を原理原則とした社会・国家に社会保障
制度も存在しないはずだ。
資本(自由)主義に「市場の失敗」という概念は存在しない
はずた。


池上彰教授は、
暫定自由原則の結果もたらされる社会の歪み・綻びを
「市場の失敗」として
次のように解説している。

「「市場の失敗」もある
こうして見ると、「見えざる手」の働きが、うまくいかない分野があることがわかります。一般論として言えば、国営事業を民営化することで活性化するものもあるでしょう。その一方で、医療保険や水道事業など、国民の健康に直接関係する分野では、「利益第一主義」ではうまくいかないこともあるのです。
「市場経済」に任せることでうまくいく分野もある一方で、市場経済ではうまくいかないこともある。これを「市場の失敗」と呼びます。「見えざる手」が失敗することもあるのです。「見えざる手」が苦手な分野がある、とでも言うべきでしょうか。」
(池上彰「「見えざる手」が経済を動かす」ちくまプリマー新書117ページ)

「「市場の失敗」をカバーするのが政府だ
第6章で、「市場の失敗」を取り上げました。市場経済には、浅知恵の人間を上回る力があるけれど、時には失敗するので、全面的に頼るわけにはいかないと書きました。
では、「市場の失敗」は、どうカバーすればいいのか。そこで政府の出番なのです。
国家とは、そこに住む人たちの生存を守る組織です。その国家で、国民から選ばれて組織された政府が、国家の意思を代行して国民のための仕事をしています。
私たちが生きていく上では、とりあえず自分や家族、そして友人たちの力に頼っていくしかありません。しかし、世の中には、個人個人の力ではできないことも多数あります。それを実施するのが政府なのです。」
「治安も教育も政府の仕事
たとえば治安を守ることです。自分たちで武器を持って自分たちを守るには限界があります。治安を守るプロつまり警察官や検察官、裁判官、刑務所職員を雇って治安を維持した方が効率的です。火事が起きたときのためには消防士も必要です。こういう仕事を、もし民間企業に任せると、どんなことになるでしょうか。
「犯人を捜査して欲しかったらボーナスをはずんでくれ」「火を消したかったら、出動手当を出してくれ」なんてことになったら大変です。こうした業務は、国民から税金を集めて専門職員を公務員として採用するのが、一番公平で効率的なのです。
教育もそうでしょう。個人で自分の子どもたちの教育をすることは可能でしょうが、社会全体の人々が読み書きできないと、交通信号も理解できないし、会社で働くこともできないという人たちが続出する恐れがあります。法律(広義の)が理解できない人たちばかりでは、治安が悪くなります。こう考えると、社会の人々にとって必要な最低限の知識・教養は、義務教育として政府が実施する必要があることがわかります。
社会保障も同じことです。個々人が老後に備えて貯金をするにしても、中にはそれができない人もいます。できない人たちにとって老後は悪夢です。「その前に荒稼ぎしておこう」と考える人が出たら治安は悪化します。自分の将来に不安を持たない人が増えれば、社会は安定します。
老後に備えることができない人たちのための年金制度や、医療保険、介護保険が充実することで、その社会は安定したものになります。」
「格差是正も政府の仕事
市場の失敗によって貧富の差が拡大すると、社会が不安定になります。治安も悪くなるのです。貧富の差を解消すること、格差を是正することは、治安を維持し、社会を安定したものにするために必要なのです。
「格差が拡大するのは、努力する人とそうでない人がいるから当然のことだ。格差があって何が悪い」
こう考える人もいることでしょう。しかし、格差が拡大して、将来に希望を持てない若者たちが犯罪に走れば、社会は住みにくいものになります。金持ちは、厳重に警備された特別地区に住み、外出するときは警備員が同伴する。世界には、こうした国が現実に存在しますが、こんな状況は、決して住みやすいとは言えませんよね。
つまり、格差是正は、貧しい人を救うだけではなく、結局は金持ちにとっても住みやすい社会をつくることなのです。」
(池上彰「「見えざる手」が経済を動かす」ちくまプリマー新書141ページ以下)


要するに、
市場ないし市場メカニズムが
(本物の)神の見えざる手なのではない。
人間は、
社会(国家)を組織して、みんなで生きていく以外に、
道はなかった、
とすれば、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくしかない、
という正義(公平)感・法(自然法)感覚・人権(そのもの)感覚が
(本物の)神の見えざる手だ。
この(本物の)神の見えざる手が、
暫定自由原則の結果もたらされる社会の歪み・綻びを
感知させ、
事後的に、
「社会保障制度などの生活基盤保障制度と累進課税制度一体の
帰属所得再評価・不当利得返還・社会(国家)補修復元制度」を以て
是正ないし補修復元させるのである。
勿論、その執行の任に直接当たるのは、
社会(国家)制度組織の執行部(国会・内閣(政府))だ。


逆に考えていけば、こういうことだ。
「治安も教育も民営化すればいい」
「年金や、医療保険、介護保険」などの社会保障制度はなくていい、
「格差はあればある程いい」、
というのが、
法(自然法)・正義(公平)・人権(そのもの)の拘束を
免れた・解かれた絶対自由を前提とした、
詐称自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家主義
の論理的帰結なのである。
したがって、
「市場の失敗」という概念を経済学者や政治家たちが認めざるを
得なくなった段階で、
絶対自由を前提とした、
詐称自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家主義
は破綻している、ということだ。



5 (市場の価格調整メカニズムは暫定自由原則の
    結果的現象


経済学者たちは、
市場ないし市場メカニズムを神の見えざる手と信ずる大罪
を犯して来た。
市場ないし市場メカニズムに任せればいい、とし、
法(自然法)・正義(公平)・人権(そのもの)の拘束を
免れた・解かれた絶対自由妄想を信ずる大罪
を犯して来た。


飯田経夫教授は「経済学の終わり」の中でこう説いていた。
「しかしそれにしても、神の「見えざる手」という言い方は神秘的(?)に過ぎる。その具体的な実体は、いったい何なのだろうか。ポイントは、たぶん二つある。
まず第一は、人間のモチベーションもしくは「やる気」の問題である。人間誰しも、自分の利益に関わることとなれば、熱の入れ方・努力の仕方がまるでちがう。つまり、人間がほんとうに何事かを成しとげるためには、「やる気」をもってそれに当たらなければならない。
ところが、他人からとやかく指示・命令され、それに拘束されては、人間としては「やる気」の持ちようがないだろう。人間が他に拘束されることなく、もっぱら「私利」だけを追求することを許される時にはじめて、彼は心に「やる気」を抱くことができる。
・・・・
見えざる手の第二の側面は、価格メカニズムもしくは市場メカニズムの力である。経済の役割は、各種の財・サービスをつくることである。多種多様な財・サービスは、どれも過不足なくつくられることが望ましい。ところが、財・サービスのバラエティはまことに多いし、それらに対する人びとのニーズは変転きわまりないから、どの財・サービスをどれだけつくったらいいのか――を、あらかじめ(たとえば、政府が)計画することは、ほとんど不可能に近いだろう。
そこでその決定は、市場(マーケット)で、試行錯誤的に行われる。すなわち、もしある財・サービスに対するニーズ・需要が供給を上まわれば、それはその財・サービスが不足していることを意味し、したがってその価格は上昇するだろう。ところが、@価格が上がれば、一方では、その財・サービスをつくることは以前より有利となるから、その生産・供給が増える反面で、A他方では、価格が上がれば、それに対する需要は減るだろう。こうして供給は増え、需要は減るから、はじめの需要超過・供給不足はしだいに解消され、価格は下がって、需要と供給は一致へと向かう。
他方、もしある財・サービスに対する需要がその供給を下まわれば、それはその財・サービスが供給過剰であることを意味し、したがってその価格は下がる。ところが、@価格が下がれば、それをつくることは以前より不利となるから、その生産・供給は減るとともに、A価格が下がれば、それに対する需要は増えるだろう。こうして、供給は減り、需要は増えるから、はじめの需要不足・供給超過はしだいに解消され、価格は上がって、需要と供給とは一致へと向かう。
こうした調整が行われる「場」は市場であり、そのシグナルは価格(の変動)である。したがって、もし価格が市場での需給を反映して伸縮的に変動し、さらに、その財・サービスの需要側と供給側との両者が、市場での価格変動に敏感に反応して、みずからの行動を変化させれば、多種多様な財・サービスの需要と供給とは、若干の摩擦と遅れとを伴いつつも、容易に一致することが期待できる。これこそが、「市場メカニズム」または「価格メカニズム」のエッセンスにほかならない。
したがって、第一に、もし人びとの「やる気」が保証され、さらに第二に、「市場メカニズム」「価格メカニズム」がスムーズに機能するならば、利害の矛盾・衝突によって大きな混乱に陥ることなく、経済は順調に発展し、国はますます富むことができるのである。」
(飯田経夫「経済学の終わり」PHP新書78ページ以下)、と。


確かに、
「市場メカニズム」「価格メカニズム」はそれとして正しいだろう。
しかし、だからと言って、
市場ないし市場メカニズムに任せればいい、とし、
法(自然法)・正義(公平)・人権(そのもの)の拘束を
免れた・解かれた絶対自由妄想を導くのは、大きな誤りだ。
その禍根は、
「経済の役割」を
「各種の財・サービスをつくること」、
「国をますます富ますこと」、と規定した所にある、
のではないだろうか。
人間にとって一番大切なことは、生きていく、ということだ。
人が生きていく、ということは、
単に糊口をしのぐ、ということではなく、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
ということだ。
「多種多様な財・サービスが、どれも過不足なくつくられることが
望ましい。」のもそのためだ。


市場ないし市場メカニズムが
(本物の)神の見えざる手なのではない。
「人間は、
社会(国家)を組織して、みんなで生きていく以外に
道はないのだから、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくしかない、」
という正義(公平)感・法(自然法)感覚・人権(そのもの)感覚が
(本物の)神の見えざる手だ。
この(本物の)神の見えざる手が創出したのが、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度だ。
それは、こうだ。
人びとの自由勝手とすることが
明らかに反正義(公平)・反法(自然法)であることが、
予め判然としている事柄については、事前にしっかりと規制をする。
人権(そのもの)を侵害阻害することが
予め判然としている事柄については
事前にきちんと規制する。
それ以外は取りあえず暫定的に自由とする。
暫定自由は、人が社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営んでいくための手段として存在している。
それは、健康で文化的な生活の形は流動的発展的なものであり、
予めきちっと決められた形で存在しているものではないからだ。
暫定自由原則の結果もたらされる社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
「社会保障制度などの生活基盤保障制度と累進課税制度一体の
帰属所得再評価・不当利得返還・社会(国家)補修復元制度」を以て
是正ないし補修し社会(国家)を復元する。
これが、
(本物の)神の見えざる手が創出した
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度だ。
「市場メカニズム」が(本物の)神の見えざる手なのではなく、
それは、この暫定自由原則の結果的現象でしかない。



6 (分業も暫定自由原則の結果的現象

経済学者たちは、
アダム・スミスが、見えざる手が何であるか、分かっていた、
と思い込んで来た。


橘木俊昭教授も、
アダム・スミスの語る「分業」を、次のように説明している。

 「スミスの語る「分業」とはどのようなものでしょうか。わかりやすく説明すると、1人の職人が製品を一から1人でつくりあげるのではなく、複数の職人などによって作業を区分けして分担していくことです。
その過程に創意工夫が生まれ、効率も高まると考えました。
スミスは『国富論』のなかで、ピン製造工場の例を挙げて、これを説明しています。1人の職人であれば、1日1本のピンをつくることすらむずかしいが、作業を分担することで1日に数多くのピンを製造できると紹介しました。
その分業の背景には何があるのでしょうか。スミスは、そこには職人の熟練度や技能・技術を改善し、仕事の工程間の移動時間を短縮し、労働を単純化して機械の導入を容易にするといったことがあるとしています。」
「スミスは、「文明社会においてはこのような分業を、一工場ではなく社会全体として行っていくことができる(社会的分業)」とします。
その社会的分業が確立された社会では、自分自身が消費する分を超えた部分は他の人の生産物と交換できることになります。農産物(農業)、機械(工業)も含めた生産物の交換が可能になり、そこに、商業が発生します。
この商業では、貨幣が交換の手段として重要な役割を果たし、商業に欠かせない用具・手段となります。そして、貨幣の交換の条件、交換価値、交換比率、価格は「自然価格」として、「神の見えざる手」によって人々の自由な意思に沿って調和が保たれるとしたのです。
すなわち、経済全体を見渡せば、それぞれの人が自分の利益を優先して行動しているかに見えても、社会全体として望ましい状態になるということです。
この自然価格というものには、労働とその賃金のほかにも、たとえば資本家が求める利潤や地主が求める地代といったものも含まれます。その結果として、労働者、資本家、地主という三つの大きな階級から構成される市民社会において、それぞれ自由放任主義で行動しながらも、自然価格のもとで全体として調和のとれた経済社会が実現されます。そして、社会全体の富が蓄積されることになるのです。
『国富論』では端的に述べると、「市場における自由な競争に委託する経済がもっとも最適である」ということを主張しています。いわゆる市場主義、市場原理主義ということになりますが、この主張を説明するために、分業論、価値論(価格論)、資本蓄積論、経済史論、重商主義批判、財政論を展開したと言ってもよいでしょう。」
(橘木俊昭「21世紀の資本主義を読み解く」宝島社25ページ以下)、と。


経済学者たちは、
市場ないし市場メカニズムを神の見えざる手と擬制し、
神の見えざる手=市場メカニズムに任せればうまくいく、
と言いくるめることによって、
法(自然法)・正義(公平)・人権(そのもの)の拘束を
免れた・解かれた絶対自由をでっち上げた。
しかし、
アダム・スミスは、
「自分の利益を追求する方が・・・・社会の利益を高められことが多い」、
と言っているのであって、
「自分の利益を追求することによって社会の利益は高められる」
と言っているわけではない。
これは、アダム・スミス自身が、
見えざる手が存在するらしい、ということは分かった、
というだけで、
見えざる手が本当は何であるかは、分からなかった、
ということを意味している。


そもそも、「社会の利益」とは何なのか。
社会(国家)は人が生きていくために組織された制度だ。
人が生きていく、ということは、
勿論、単に糊口をしのぐ、ということではなく、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
ということだ。
したがって、「社会の利益」とは、
「すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていけること」だ、
と考えられてくる。


健康で文化的な生活の形は流動的発展的なものであり、
決して、予めきちっと決められた形で存在しているものではないはずだ。
となれば、
人びとの自由勝手とすることが明らかに不都合であることが、
予め判然としている事柄については、
予めちゃんと規制をするとして、
それ以外は、取りあえず暫定的に自由にする、
以外には方法はないはずだ。
それは人知の限界の問題ではない。
暫定自由原則の結果もたらされる社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に社会(国家)補修復元制度を以て
是正ないし修復すればいいわけだ。


市場ないし市場メカニズムが
(本物の)神の見えざる手なのではない。
「人間は、
社会(国家)を組織して、みんなで生きていく以外に
道はないのだから、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくしかない、」
という正義(公平)感・法(自然法)感覚・人権(そのもの)感覚が
(本物の)神の見えざる手だ。


暫定自由制度は、この(本物の)神の見えざる手が
創り出したのだ。
分業も、市場メカニズムも、
この暫定自由原則の結果的現象だ。
分業や市場メカニズムによってもたらされる社会(国家)の歪み・綻びは、
「社会保障制度などの生活基盤保障制度と累進課税制度一体の
帰属所得再評価・不当利得返還・社会(国家)補修復元制度」を以て
是正ないし補修すればいいわけだ。
経済学者たちが、
市場ないし市場メカニズムを神の見えざる手と擬制し、
神の見えざる手=市場メカニズムに任せればうまくいく、
と言いくるめることによって、
法(自然法)・正義(公平)・人権(そのもの)の拘束を
免れた・解かれた絶対自由をでっち上げたのは、
超巨大犯罪なのである。
自由の絶対(正義)化によってやってくるのは、
自由(資本)主義を詐称した、
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家だ。
それは人が生きるための社会(国家)ではなく、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の
人工市場社会・国家であり、
似非社会・国家だ。



7 (從法(自然法)暫定自由制度が資本(自由)主義妄想
   の真意


詐称資本(自由)主義
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家主義を
原理原則とした社会はあり得ない。
それは似非社会であって、
人が生きていくための社会(国家)ではないのだから。
それは、所有権絶対・契約自由絶対を原則とし、
人権(そのもの)という概念が欠落した、
それ故、人権(そのもの)擁護のための規制のない、
社会保障制度もない、
税はフラットな、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした
人工市場似非社会・国家でしかないのだから。
では、なぜ、ほぼ100%の人が、資本(自由)主義妄想に
しがみついているのだろうか。


橘木俊昭教授は、
資本主義を次のように説明している。
「資本主義とは資本や生産手段を保有する資本家が労働者を雇用して生産・販売を行う経済制度で、その制度において、労働者は対価として賃金を受領します。18〜19世紀にイギリスで起こった産業革命に端を発し、資本主義は機械化の進行とともに欧米において各国に浸透し、それらの国の経済が飛躍的に強くなり、先進工業国として世界経済の中心となりました。
資本主義はその後になって独占資本主義、帝国主義への途を歩み、大きな矛盾も抱えました。一つは、資本家が強くなりすぎて労働者を搾取するようになり、労働者は苦しい働き方・生活を強いられたのです。」
「一方で、資本主義の国でも労働者の苦しい労働や生活を保護するために、工場法の制定をはじめ、労使関係を改善し、さまざまな福祉制度を創設するようになりました。そして、資本主義の悪しき部分を修正する動きが成功を収めることとなり、経済繁栄を続ける国も生まれます。代表例はイギリスやドイツでした。
資本主義のメリットは、自由な経済活動が経済を効率的に運営するのに貢献することにあります。俗に言う近代経済学は、これを証明することに成功しました。」
「資本主義・自由主義は人々の自由を尊重し、経済を効率的に運営できるというメリットがあります。しかし、それをそのまま放置しておくと格差の拡大というデメリットが生じます。それは平等性の阻害ということと解釈できます。一般に経済効率性と公平性(あるいは平等性)はトレード・オフ関係にあるとみなされていますが、それを同時に達成することはやり方によっては可能なのです。」
(橘木俊昭「21世紀の資本主義を読み解く」宝島社3ページ以下)、と。


確かに、
「市場メカニズム」「価格メカニズム」はそれとして正しいだろう。
しかし、だからと言って、
市場ないし市場メカニズムに任せればいい、とし、
法(自然法)・正義(公平)・人権(そのもの)の拘束を
免れた・解かれた絶対自由妄想を導くのは、超巨大犯罪だ。


市場ないし市場メカニズムが
(本物の)神の見えざる手なのではない。
「人間は、
社会(国家)を組織して、みんなで生きていく以外に
道はないのだから、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくしかない、」
という正義(公平)感・法(自然法)感覚・人権(そのもの)感覚が
(本物の)神の見えざる手だ。
この(本物の)神の見えざる手が創出したのが、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度だ。
それは、こうだ。
人びとの自由勝手とすることが
明らかに反正義(公平)・反法(自然法)であることが、
予め判然としている事柄については、事前にしっかりと規制をする。
人権(そのもの)を侵害阻害することが
予め判然としている事柄については
事前にきちんと規制する。
それ以外は取りあえず暫定的に自由とする。
(暫定)自由は、人が社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営んでいくための手段として存在している。
それは、健康で文化的な生活の形は流動的発展的なものであり、
予めきちっと決められた形で存在しているものではないからだ。
暫定自由原則の結果もたらされる社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
「社会保障制度などの生活基盤保障制度と累進課税制度一体の
帰属所得再評価・不当利得返還・社会(国家)補修復元制度」を以て
是正ないし補修し社会(国家)を復元する。
これが、
(本物の)神の見えざる手が創出した
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度だ。


「市場メカニズム」が(本物の)神の見えざる手なのではなく、
それは、この暫定自由原則の結果的現象でしかない。
戦後の日本社会(国家)が依っている
修正資本(自由)主義社会(国家)というのは、
資本(自由)主義妄想社会(国家)なのではなく、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度社会(国家)
のことである。
法(自然法)に従い、暫定自由動的平衡制度を以て、
すべての人の人権(そのもの)を守っていく、
というそれは、おそらく、資本(自由)主義妄想の真意だ。
とすると、資本(自由)主義妄想は、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度社会(国家)
が顕在する過渡期の現象だろう、
と考えられてくる。





第2章

所有権と自由と契約と法律と国家の
 絶対化が生む
  人工市場似非社会

  (資本(自由)主義とは何か)



1 資本(自由)主義社会・国家は
   欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家の詐称


資本(自由)主義とは何なのか。
それは、自由主義資本主義・小さな政府社会(国家)では、
所有権と自由と契約と法律と国家が絶対(正義)化されている、
という事実が教えている。
所有権と自由と契約と法律と国家の絶対(正義)化が生むのは、
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家だ。
したがって、
資本(自由)主義社会・国家の本当の正体は、
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家だ、ということになる。
資本(自由)主義という言葉は、
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家主義の詐称だ、
ということになる。
資本(自由)主義という言葉は、
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家主義を
騙し通すための詐称詐術だ、ということになる。


人間は、社会(国家)を組織して、
みんなで生きていく以外に、生きていく道はない。
人間社会(国家)は、
すべての人が生きていくための仕組みやきまりで成る組織、
である。

法(自然法)・正義(公平)・人権(そのもの)は
この厳然たる事実に由来する。
人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
超法規的権利が
人権(そのもの)だ。
したがって、
法(自然法)・正義(公平)・人権(そのもの)の拘束を免れた
絶対自由は、人間社会(国家)では、存在し得ない。

実際、絶対自由は、架空の見えざる手措定詐術によって
でっち上げられた、妄想だ。
絶対自由を前提とした
詐称自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場社会主義は、
人工市場社会という似非社会(国家)でしか
正当なものであり得ない。



詐称自由(資本)主義
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家のイメージは、結局、
こんな感じた。

図19−従人為法詐術国家絶対自由制度
     資本主義似非社会化図


詐称自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家イメージ図


2 強欲と非情と
   欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家学が生んだ
   欠落才覚人


自由な個々人が健康で文化的に共生する社会(国家)たるべし、
とする自然法意識・モラル感覚が、
自由に生きていく、という絶対的な目的を持った人間が、
社会(国家)を組織して、その社会(国家)の中で生きていく以上、
自由な個々人が共生していくしかない、
という正義(公平)感が、
本物の「神の見えざる手」だろう。
人間を、社会(国家)を、本当に動かしているのは、
この自然法意識・正義(公平)感だろう。
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)とは、
この正義(公平)感法(自然法)感覚が欠落した、
口八丁手八丁で、弁舌に長け、
強欲で戦略的で詐欺的才覚のある、
欠落才覚人たちに、
社会(国家)が一体となって奉仕する、奉仕せざるを得ない、
仕組みが、出来上がった、
反正義(公平)反自然法な、人工市場社会(国家)だ。
言い換えれば、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の
人工の市場社会(国家)だ。
とすれば、これは、
学者たち特に経済学者たちや大企業家たちや政治家たちが、
自分たち欠落才覚人たちの強欲を充足させるに、
最も効率的で利便な社会(国家)として、
考え出した社会(国家)だ、
と考えられてくる。
欠落才覚人は、おそらく、
持って生まれた強欲と非情に、
後天的に身に付けた欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)学が、
生んだものだ。
したがって、おそらく、欠落才覚人の更生は不可能だろう。


3 所有権と自由と契約と法律と国家の絶対(正義)化が生むのは
    欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)


則正義(公平)法(自然法)な、
自由な個々人が健康で文化的に共生する
動的平衡自然社会(国家)を、
正義(公平)感法(自然法)感覚が欠落した、
口八丁手八丁で、弁舌に長け、
強欲で戦略的で詐欺的才覚のある、
欠落才覚人たちに、
社会(国家)が一体となって奉仕する、奉仕せざるを得ない、
仕組みが、出来上がった、
反正義(公平)反自然法な、詐欺社会(国家)へと、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の
人工の市場社会(国家)へと、
社会(国家)「構造」を反転させることによって「革命」する
「構造改革」をするには、
所有権と自由と契約と法律と国家の絶対(正義)化が
絶対必要不可欠だ。
欠落才覚人たちに、
社会(国家)が一体となって奉仕する、奉仕せざるを得ない、
仕組みとしては、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の
人工の市場社会(国家)としては、
所有権と自由の絶対(正義)化による
社会(国家)の市場(マーケット)化、共生のための規制撤廃、
契約の絶対(正義)化による税のフラット化、
法律の絶対(正義)化による正義(公平)法(自然法)抹殺、
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)を支えるための、
国家(社会)を、
実体化絶対(正義)化万能化すること、
が絶対必要不可欠だ。
言い換えれば、
所有権と自由と契約と法律と国家の絶対(正義)化が生むのは、
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)なのだ。


4 欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)へと
   社会「構造」を転換させる「革命」が
   「構造改革」


日本の憲法の理念が、
自由な個々人が健康で文化的に共生する社会(国家)、
すなわち正義(公平)・法(自然法)であることは、
疑問の余地がない。
戦後の日本社会(国家)は、
自由な個々人が健康で文化的に共生する
動的平衡にあるシステム自然社会(国家)だ。
これを、
正義(公平)感法(自然法)感覚が欠落した、
口八丁手八丁で、弁舌に長け、
強欲で戦略的で詐欺的才覚のある、
欠落才覚人たちに、
社会(国家)が一体となって奉仕する、奉仕せざるを得ない、
仕組みが、出来上がった、
反正義(公平)反自然法な、詐欺社会(国家)へと、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の
人工の市場社会(国家)へと、
社会(国家)「構造」を反転させ乗っ取る「革命」が、
「構造改革」だ。
したがって、「構造改革」の理念は、
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)主義だ、
と考えられてくる。
「新自由主義・市場原理主義」と称すべきものではない。


その点は目を瞑るとして、
菊池英博に、「小泉構造改革」について、聞いてみよう。
「2001年4月の自民党の総裁選挙で、小泉純一郎氏は「自民党をぶっ潰す」「構造改革なくして成長なし」と絶唱して当選し、首相に就任した。当初の支持率は歴代の内閣で最高の80%に達し、多くの国民が、小泉氏が日本を変革し、経済が好転することで、自分たちの生活が豊かになるものと期待した。ところが、「規制緩和」「不良債権処理」「公共投資不要論」「財政は緊縮・金融は緩和」という新しい政策はデフレ政策であり、デフレは解消するどころか一段と進み、日本経済は低迷した。円安ゼロ金利政策で輸出は伸びても国民の所得は減る一方で、所得格差は拡大し、日本の経済力が減退していった。
小泉構造改革の時点では、政府もマスコミも公表しなかったので、多くの国民が気がつかなかったことがある。それは、「構造改革」という政策は、1994年からアメリカが日本に送付してくる「年次改革要望書」に沿って、日本をアメリカ型の社会に改造し、デフレ政策をとらせ、日本の富をアメリカに吸い取らせるものであったことである。
アメリカの対日要望書の基本理念は、新自由主義・市場原理主義であり、この政策理念に基づく政策をとっていけば、日本国民の富をアメリカの一部の富裕層と大企業に集中させることができるように仕組まれていたのである。まさに構造改革は、新自由主義・市場原理主義という恐ろしい悪魔の襲来だった。そもそも、このイデオロギー(思想)と策略を組み立てたのは、ミルトン・フリードマンという経済学者であった・・。」
(菊池英博「そして、日本の富は略奪される」ダイヤモンド社2ページ以下)。


5 法律絶対(正義)化による正義(公平)法(自然法)抹殺

自由な個々人が健康で文化的に共生する社会(国家)、が
人間社会(国家)の目的であり、
正義(公平)・法(自然法)である。
法律は、
自由な個々人が健康で文化的に共生する動的平衡自然社会(国家)、
という人間社会(国家)の目的のために作られる、
自由な個々人が健康で文化的に共生する社会(国家)であるべし、という
法(自然法)を遵守することを目的とした、
政策規範である。
契約は関係当事者間で作られる法律であり、
それ故の限界と暫定性がある。
したがって、法(自然法)は目的であり、
契約や法律は手段でしかない、
といってもいいのかもしれない。
正義(公平)法(自然法)に則った社会(国家)の形は、
自由な個々人が健康で文化的に共生する動的平衡自然社会(国家)だ。
ここでの税制度は、
正義(公平)法(自然法)に照らしてする、
帰属所得再評価・超過不当利得返還・広義の社会(国家)保障制度である。
詐称自由市場資本主義社会(国家)
=欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)では、
法律が法であり、法と法律は同義語だ。
契約も正義であり法であり法律だ。
したがって、契約による帰属所得には絶対的な正当性がある、
ということになる。
さらに、契約の絶対(正義)化は税のフラット化を帰結する。
結局の所、
正義(公平)・法(自然法)を抹殺するために、
法律の絶対(正義)化は行われている、
と考えられてくる。
勿論、それが、
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)樹立に欠かせないから、
であることは、
言うまでもないことだ。


6 所有権と自由絶対(正義)化による
    社会(国家)の市場(マーケット)化、共生のための規制撤廃


自由とは、
自由な個々人が他者と共生しながら自由に生きていく、
その自由のことだ。
この自由の生みの親・理念は
正義(公平)・法(自然法)だ、ということだ。
自由な個々人が健康で文化的に共生する社会(国家)、が
正義(公平)・法(自然法)なのだから。
したがって、自由には他者との共生による制約がある。
自由は共生のための規制に服する。
たとえば、働いていく以外に生きていく術のない者との
共生を目的とした自由の規制が
労働法だ。
労働法の生みの親・理念も正義(公平)・法(自然法)だ。
だが、アメリカの「独立宣言」(1776年)当時のような、
人間が無限の存在と思われた頃には、
自由には共生による制約があることが
意識されることはなかっただろうし、その必要もなかったはずだ。
「生命、自由および幸福追求の権利」を天賦の権利と
謳いさえすれば足りたのだろう。
この生みの親・理念も正義(公平)・法(自然法)だ、
と考え得る。
とすれば、憲法25条の生存権だけではなく、
憲法13条が規定する「生命、自由及び幸福追求権」も、
その生みの親・理念は正義(公平)・法(自然法)だ、
と考えられてくる。
要するに、
社会(国家)を市場(マーケット)化するために、
共生のための規制を撤廃するために、
所有権と自由の絶対(正義)化は行われている、
と考えられてくる。
勿論、それが、
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)樹立に欠かせないから、
であることは、
言うまでもないことだ。


7 契約の絶対(正義)化による税のフラット化

自由主義資本主義というのは、
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)主義の詐称だ。
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)とは、
自由な個々人が健康で文化的に共生する社会(国家)たるべし、
とする自然法意識が、
人間が社会(国家)を組織して、みんなで、生きていくことになった以上、
自由な個々人が健康で文化的に共生していくしかない、
という正義(公平)感が、
欠落した、
口八丁手八丁で、弁舌に長け、
強欲で戦略的で詐欺的才覚のある、
欠落才覚人たちが、
限りなく豊かになることが可能になるように、
ポリシーミックスの限りを尽くして、
社会(国家)の仕組みを整えた社会(国家)が、
社会(国家)のあり方としてはいい、正しい、
とする犯罪思想である。
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にするには、
共生のための規制撤廃(緩和)と
契約の絶対(正義)化による税のフラット化は
絶対に欠かせない。


税のフラット化と契約の絶対(正義)化は、切っても切れない関係にある。
実際、
自由な個々人が健康で文化的に共生する
動的平衡にあるシステム自然社会(国家)では、
税制度は累進課税だ。
それは、
合意すなわち契約ないし約束によって帰属した所得を、
自由な個々人が健康で文化的に共生する社会(国家)、という
正義(公平)・法(自然法)に照らして、
社会(国家)的に再評価し、
超過(過多)帰属所得を、社会(国家)へ返還させ、
「良好な自然環境、良好な公共財、十分な(狭義の)社会保障制度、目的正義(公平)法(自然法)を守る法律制度・狭義の国家(執行部)制度」という
インフラ・生活基盤の構築・保守の費用として充てる、
帰属所得再評価・超過不当利得返還・広義の社会(国家)保障制度である、
ことの結果である。


法律は、
自由な個々人が健康で文化的に共生する社会(国家)たるべし、という
法(超法規社会規範=自然法)を
遵守することを目的とした政策規範だ。
契約は当事者間で作られる法律であり、
それ故の限界と暫定性がある。
したがって、
契約による帰属所得に絶対的な正当性なり妥当性は
全くない。
そもそも、社会(国家)の中で生きる、ということは、
分業・共通言語・インフラ(生活基盤)の恩恵にあずかって生きる、
ということだ。
今の日本で、ある年のある個人の課税所得が1億円あったとすれば、
当該個人の才覚努力で得た所得は、
その30%ぐらいで、
あとは、分業・共通言語・インフラ(生活基盤)の恩恵によるものだろう。


ポール・クルーグマンは、
累進課税を「文明社会の対価」として説いている。
「[クルーグマン] オリバー・ウェンデル・ホームズか、けっこう。とにかく租税は文明社会の対価なんです。
私たちは社会の中でくらしています。孤立した島≠ナある人などいません。全員が文明社会の基本を心に留めておく必要があるでしょう。社会への貢献を義務だと感じるべきないのです。
「これは自分のものだ。自分だけがそれを手にする権利がある」などと考えるのは間違いです。もちろん勤勉やイノベーションには報いたいですし、私たちの社会はそうしたものにたっぷりと報いています。
しかし、こうも考えるべきなのです。先進国に暮らしていることに感謝しよう。ここには進んだインフラがあり、社会的なセーフティネットがある。だから我々の社会は、誰もが住みたいと思うような好ましい社会になっているのだと。
金持ちはそうしたものを賄うためのお金をより多く出せるのですから、裕福でない人よりもいくぶんか高い税率を負担するべきですよ。
そうしたインフラやセーフティネットが存在しない社会で暮らすことを想像すれば、そのことに大きな道義的意味のあることがわかるでしょう。」
「[グリーン] 適切な税率についての話に戻りましょう。やはり70〜80%に引上げることを提唱されますか?
[クルーグマン] 最高税率に関してはね。そこははっきりしています。
[グリーン] 最高税率を適用するのは、どの程度の所得の人からですか?
[クルーグマン] おそらく100万ドル以上でしょう。それより高いかもしれません。試算しないと決められませんがね。だけどこれはある意味、机上の空論ですよ。なぜならそこまで税率を上げるのは、政治的に無理だとわかっているからです。
現実に問えるのは、その方向に多少なりとも進むのかどうかでしょう。実際に試算してみれば、何百万ドルも稼いでいる高所得者の税率は70%に近いものであるべきだと誰もが言いたくなるはずです。」
(「金持は税率70%でいいVSみんな10%課税がいい」ポール・クルーグマンほか著町田敦夫訳東洋経済新報社134ページ以下、137ページ以下)



8 格差拡大積極是認は
   欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)主義の
   論理必然核心的部分


川北隆雄が言うには、こうだ。
「小泉の経済政策を事実上「丸投げ」され、与謝野の前の経済財務相を勤めていた竹中平蔵もまた、格差拡大を是認していた。竹中はまだ政権周辺を遊泳し、政権中枢に食い込む前の1999年、慶應義塾大学教授の肩書きで、11月7日付の「読売新聞」朝刊の「論陣・論客」欄で格差論の論客である橘木俊詔京都大学教授との紙上対論を行い、次のように述べていた。
〈確かに日本の所得格差は広がっている。だが、これは国民の九割が中流意識を持つという極端な平等社会から「普通の社会」に変りつつあることを意味する。(中略)チャンスを生かせた人と生かせない、あるいは生かさなかった人との差が、所得という形で出てくる。重要なポイントは、早く走れる人に能力通り走ってもらうことにより、社会全体の利益が高まるということだ。(中略)日本全体が、のどかな平等社会を壊すのが怖かったのだろうが、今は「機会の平等」を重視すべき環境に置かれている〉
竹中は、小泉改革が始まる以前から、日本の格差社会化が進んでいることを認めた上で、その傾向をさらに進めるべきだと主張していたのである。同じスタートラインに立つ「機会の平等」さえ確保しておけば、あとは本人の能力や努力、運次第で、所得や資産に格差が生じるのはやむを得ない、というより、その方が望ましい、というわけだ。そして、それが「普通の社会」だというのである。」
(川北隆雄「「失敗」の経済政策史」講談社現代新書172ページ以下)


自由な個々人が健康で文化的に共生する社会(国家)たるべし、
自然法意識、
人間が社会(国家)を組織して、みんなで、生きていくことになった以上、
自由な個々人が健康で文化的に共生していくしかない、
という正義(公平)感法(自然法)感覚、
が欠落した、
口八丁手八丁で、弁舌に長け、
強欲で戦略的で詐欺的才覚のある、
欠落才覚人たちが、
限りなく豊かになることが可能になるように、
ポリシーミックスの限りを尽くして、
社会(国家)の仕組みを整えた社会(国家)を是とする
犯罪思想が、
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)主義だ。
「チャンスを生かせた人と生かせない、あるいは生かさなかった人との差が、所得という形で出てくる」社会(国家)は、
「同じスタートラインに立つ「機会の平等」さえ確保しておけば、あとは本人の能力や努力、運次第で、所得や資産に格差が生じるのはやむを得ない、というより、その方が望ましい」のは、
それが、欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)の
論理必然核心的部分だから、に他ならない。
とすれば、竹中平蔵は、
自由主義資本主義の実体・正体が、
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)以外の何物でもないことを、
本当は知っている、とさえ考えられてくる。


憲法14条を見れば分かるように、
平等とは、
正義(公平)法(自然法)に照らして、
不合理な差別を受けることによって共に生きることを拒絶されないこと、
されてはならないこと、
をいうのである。
したがって、平等の実体は共生なのである。
「「機会の平等」さえ確保しておけば、」ということ自体が、
一種の詐術なのである。
平等は、
「機会の平等」のことでもなければ、「結果の平等」のことでもないのである。
欠落才覚人天下(主権)人工犯罪社会(国家)主義の核心は、
自由を絶対(正義)化することによって、
他者との共生を否定するところにある。
格差拡大積極是認は、
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)主義の
論理必然核心的部分なのである。


9 実体化絶対(正義)化万能化された
   欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)サポート国家


戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認を規定した
憲法9条の生みの親・理念も
自由な個々人が健康で文化的に共生する社会(国家)、
すなわち正義(公平)・法(自然法)だ。
国家という人は実在しない。
個別自衛権の実体は国民が持つ正当防衛権でしかない。
自衛隊はいくら大きくなっても、
その理念が正義(公平)・法(自然法)である限りは、
軍隊ではない。
軍隊が前提とする社会(国家)は、
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)だ。
反正義(公平)反自然法社会(国家)である以上、
結局は、最後は、
腕ずくで、力ずくで解決するしかないのだ。
戦争は、
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)主義が引き起こすものだ。
たとえ勝っても、
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)が持続することはあり得ない。
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)主義は、
たとえ、それが表面的には通説と化しても、
人間社会(国家)の理念・原理原則となることは、
絶対にあり得ない。


実際、今の日本の社会(国家)は、
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)主義によって
大きく歪められてはいるが、
自由な個々人が健康で文化的に共生する
動的平衡にあるシステム自然社会(国家)だ。
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)主義は
社会(国家)を歪め破壊する犯罪思想でしかなく、
社会(国家)を歪曲し破壊することしかできないものだ。
それは、今のイラクを見ても分かる。


要するに、
国家の実体化絶対(正義)化万能化は、
反正義(公平)反自然法な
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)を
サポートするためだ、
と考えられてくる。


10 欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)アメリカの属国化の
    道拓いた年次改革要望書制度


欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)主義のおそろしいことは、
そこでは、
法律は法であり正義であり、法と法律は同義語であり、
契約も正義であり法であり法律だ、
ということだ。
したがって、
契約による帰属所得には絶対的な正当性がある。
この妄想を利用して、
欠落才覚人天下(主権)人工市場社会(国家)アメリカの
属国化の道を拓いたのが、
年次改革要望書制度である。


菊池英博に聞いてみよう。
「1994年からの「年次改革要望書」によって、すでに多くのことが実現している。主なものを挙げていくと、建築基準法の改訂(安全基準の緩和)、商法の改訂(外資による企業買収をやりやすくする)、金融の自由化(1997年の金融ビッグバンとしての金融規制を大幅に緩和した)、郵政公社の民営化(政府保有の公社では民間と公平でないとして、郵政公社の民営化の実現を要求、2005年に実現)、政府の医療支出の削減と混合診療の認可を要求(アメリカの薬品の販売拡大と医療保険の拡販、日本の国民皆保険を不可能にさせる)、時価会計の導入(デフレの日本に導入させて企業を弱体化させる)、司法制度改革(民事訴訟の活発化による日本企業の弱体化、裁判所による行政への牽制、裁判員制度の導入(ただし刑事事件に限る))、大店法の改訂(外資のスーパーが日本に進出しやすくするために、大手スーパーの郊外店舗拡張を認可させた。これで小売り商店は廃業に追い込まれてシャッター通りに)、労働基準法の改訂(人材派遣の自由化、1996年には労働者派遣法の改訂によって、それまで秘書・通訳など16の専門業種に限定していた派遣の対象業種を26に増やし、1999年には一部を除き、原則自由とした)などである。
労働基準法の改訂では、さらに2004年の改訂で派遣労働の期間を1年から3年まで延長し、それまで除外されていた製造現場や社会福祉施設での派遣労働も認め、派遣受け入れの許可や届出を事業所単位から事業主単位とした。この改訂を契機として、企業は正社員を減らし、派遣労働の割合を増やして、実質的な賃金の引き下げが可能になったのである。
また「年次改革要望書」によって、アメリカは経営者による従業員の解雇をやりやすくするために労働基準法の改訂を要求し、さらに、税制改革として累進課税の緩和、フラット税制の導入、法人税の減税、消費税の増税を要求してきた。これを受けて、日本は2007年度から地方税に一律10%のフラット税制を導入し、2012年3月に法人税減税を実現、8月には消費税増税法案を成立させた。
基礎年金の税方式(基礎年金の企業負担4兆円をゼロにして消費税で負担させる案であって、賛同する自民党と民主党の国会議員が共同で検討中である)もアメリカの要求であり、これが実現すると、大企業の社会保障費の負担が減り、その分を外資は配当金で持ち去ろうとしている。
このようにアメリカの要求は、「1%」の人間の利益を目指した要求であり、いずれも「99%」の日本国民にとっては不利になるものばかりだ。まさに悪魔の侵略である。」
(菊池英博「そして、日本の富は略奪される」ダイヤモンド社145ページ以下)。





第3章

 
從法(自然法)社会抹殺するため
 措定された架空絶対万能権力国家

  (広義の国家は人間社会の別称)



1 (人間「社会」でない似非社会、
  絶対自由(資本)主義人工市場似非社会
)

人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
超法規的権利が人権(そのもの)だ。
この人権(そのもの)を暫定自由制度組織社会(国家)を以て
擁護していこう、というのが從法(自然法)自然社会だ。
広義の国家とはこの從法(自然法)自然社会の別称だ。
狭義の国家とは、
この從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度組織の、
直接人権(そのもの)擁護の任に当たる執行部・機関のことだ。
今の日本では国会と内閣が該当する。
当然、執行部・機関には、人権(そのもの)擁護の責任と権限が
超法規的に備わっている、ということになる。


したがって、
絶対万能な権力を備え持った国家が存在する、というのは
妄想でしかない。
勿論、単なる妄想ではない。
架空の絶対万能権力国家は、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度組織社会を
抹殺するために措定された詐術に他ならない。
勿論、それは、從法(自然法)自然社会(国家)を、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした
絶対自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会化
するためだ。
要するに、架空の絶対万能権力国家措定は、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度組織社会を
絶対自由(資本)主義人工市場似非社会・国家化するための
詐術・トリックの一つなのである。


ともあれ、
架空の絶対万能権力国家を措定することによって
でっち上げられた、
絶対自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会は、
似非社会であって、人間社会ではないのだから、
人間「社会」でない似非社会、ということになる。
似非社会は、
人工的に作り変えられた、マーケット(市場)でしかない。
しかし、人間「社会」は、マーケット(市場)ではない。


菊谷和宏教授は、こう言っている。
「要するに、
日本に「人間社会」は、実際には存在していなかったのだ。
日本という概念枠組の中に社会はなく、国(国家)のみがあり、
したがって日本人とは日本国民でしかなかったのだ。
それが、ドレフュスが最終的には救われた、人権が現実に
守られたフランスと、幸徳らを処刑し人間性が踏みねじられた
まま満州事変そして太平洋戦争へと猪突した日本との違いだ。
無論フランスに完璧な社会が存在していたというわけではない。
しかし、ぎりぎりのところで人権は、人間性は、社会的に守られた。
ドレフュスは殺されることなく、その名誉は回復された。
社会性は確かに存在していた。
しかし、日本ではそのぎりぎりの一線がいともたやすく越えられた。
そこでは人権は、人間性は踏みにじられた。幸徳らは殺された。
そこに普遍的な社会性、共に生きる人間性はない。」
(菊谷和宏「「国家」のない国、日本」講談社選書メチエ
221ページ)、と。


欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家の行き着く先は、
超格差社会・国家であり、戦争だ。
戦前の日本は、
絶対自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家
だったのである。
戦後の日本国憲法は、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度組織社会(国家)
を約する契約更改契約書なのである。
とすれば、
この契約更改契約を不当として、再更改契約をする、ということは、
戦前の
絶対自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家に
戻す、ということだ、と考えられて来る。
憲法改正を立党精神とするなど、正気の沙汰ではない。


2 (絶対自由と絶対万能権力国家、
  二つの妄想詐術の目的は同じ
)

すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範が法(自然法)だ。
戦後の日本社会(国家)・憲法は、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度組織
社会(国家)・憲法だ。
だが、アメリカは、少なくともレーガン政権後のアメリカは、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした、
絶対自由(資本)主義
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家色の極めて強い
社会・国家だ。
小泉純一郎首相も安倍晋三首相も
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家主義を信奉する
革命家だ。
自由(資本)主義・新自由主義というのは、
法(自然法)人権(そのもの)正義(公平)の拘束から解放された
絶対自由を是とする、
絶対自由(資本)主義
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家主義の詐称だ。
絶対自由と絶対万能権力国家という二つの妄想は、
從法(自然法)自然社会(国家)を抹殺し、
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家化させる、という目的
においては同じなのである。


佐伯啓思教授は、その辺の所の問題を直感している。
6月5日の朝日新聞紙上でこう言っている。
「われわれは、ずっと日米安保体制とは、
日本が米軍に基地を提供する代わりに、
日本の防衛を米軍に委ねるという相互的防衛体制だと考えてきた。
だが、この意味での日米安保体制は21世紀にはいって大きく変質してきた。
ひとつの転機は小泉・ブッシュ政権時代の2005年に示された
「日米同盟・未来のための変革と再編」であり、
ここで、
日米同盟とは「世界における課題に効果的に対処する」ために、
日米が協力して「共通の戦略的目標を追求する」とされたのだった。
これは、従来の日米安保体制の大きな変質であり、
今回の安倍首相の集団的自衛権行使にかかわる方針転換も
その延長線上にある。
2005年にはこの方針転換はすでに打ち出されており、
しかも当時はほとんど論争にさえならなかった。」
「しかし気になることがある。
それは、
安倍首相が日米同盟の基礎は、日米両国の価値観の共有にある、
と述べている点だ。
本当にそうだろうか。
アメリカの価値観は、
ただ自由や民主主義や法の支配を説くだけではなく、
それらの価値の普遍性と世界性を主張し、
そのためには先制攻撃も辞さない強力な軍事力の行使が
正義にかなうとする。
簡単にいえば、アメリカ流儀の自由や民主主義によって
アメリカが世界秩序を編成すべきだ、という。
これがアメリカの価値観であろう。
これはこれでたいへんな覚悟のいることだ。
そんな覚悟が日本にあるのだろうか。
その前に、
果たしてこの種の価値観を日本は共有しているのであろうか。」
(佐伯啓思「日本にあるか米国の覚悟」
2015.6.5朝日新聞朝刊)、と。


アメリカや中国が世界平定の野望に燃えているとしたら、
法(自然法)人権(そのもの)正義(公平)の拘束から解放された
絶対自由を是とする、
絶対自由(資本)主義
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家主義に冒されている
からだろう。
絶対自由妄想は、(本物の)自由とはえんも縁もない。
絶対自由妄想は、社会を自由に作っていい、とする、
正に社会主義主義以外の何物でもない。
(本物の)自由とは、
人権(そのもの)ないし(本物の)神の見えざる手の発現を
侵害阻害するものから予め解放されている
社会(国家)的状態にあることだ。
したがって、(本物の)自由は人権(そのもの)の属性だ。
人権(そのもの)とは、
人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
超法規的権利のこと、だ。
そこに国境などない。
自衛隊の目的は、人権(そのもの)を守ることで、
「国」を守るというのは妄想だ。
専守防衛に徹っしなければならないのは、そのためだろう。


3 (自衛隊の目的は人権(そのもの)を守ることで
  「国」を守るというのは妄想
)

すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範が法(自然法)だ。
人間「社会」とは、
この法(自然法)に従い、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
超法規的権利(人権(そのもの))を守っていくために
組織された、暫定自由動的平衡制度組織のことだ。
広義の国家とは、
この人間社会の別称にしか過ぎない。
狭義の国家は、
人権(そのもの)を守る責任と権限を超法規的に持った、
暫定自由動的平衡制度組織の執行部・機関のことだ。


要するに、この人間「社会」とは別個独立の絶対万能な権力を
持った国(国家)というのは、妄想でしかない、ということだ。
では、この国(国家)妄想は一体どこから来ているのだろうか。
八木秀次教授は、こう言っている。
「もう一つわかりやすい例を挙げてみましょう。
外国に行ってトラブルに巻き込まれたとき、
自分の出身民族を言ったところで何の役にも立ちません。
自分のパスポートを持っている国、
すなわち国籍のある国の大使館が我々の身を守ってくれるのです。」
(八木秀次「憲法改正がなぜ必要か」PHPパブリッシング
151ページ)、と。
「国」が自分の身を守ってくれる、という妄想から来ているのだろう。
確かに、パスポートには、
「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、
かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、
関係の諸官に要請する。  日本国外務大臣 」
と書かれている。
しかし、守られるのは人権(そのもの)だ。
守るのは、人権(そのもの)を守る責任と権限を持った、
暫定自由動的平衡制度組織社会の執行部・機関である政府だ。
とすると、国(国家)という妄想を観念させるのは、
法(自然法)人権(そのもの)正義(公平)の拘束から解放された
絶対自由という妄想に冒されている結果だ、
と考えられて来る。


実際、絶対自由という妄想に冒されている八木秀次教授は、
次のように言っている。
「しかし、この「ポツダム体制」は長くは続きませんでした。
すぐにアメリカとソ連が対立し、東西冷戦に突入しました。
東アジアにおける現れが朝鮮戦争です。
その朝鮮戦争の勃発によって、日本国憲法の規定に背く形で、
日本はアメリカから再軍備を求められます。
そして、その後、サンフランシスコ講和条約を締結しますが、
同時に結ばれたのが日米安全保障条約でした。
講和条約の発効によって、日本が主権を回復し、
国際社会に復帰したときには、
日本はアメリカを盟主とする
自由主義陣営の「サンフランシスコ体制」の一員になり、
アメリカの同盟国となりました。
日本はアメリカの敵国ではなくなったのです。
サンフランシスコ体制は、自由・民主主義・基本的人権・法の支配・
市場経済という普遍的価値を重んずる体制です。
日本はこの体制の優等生≠ニして、その役割を果たして来ました。」
「しかし、憲法だけは
現在、わが国が属している「サンフランシスコ体制」の価値観とは異なる、
時代が一つ前の「ポツダム体制」の維持装置であるのです。
それゆえ、「サンフランシスコ体制」の一員に相応しい憲法に
変えていくことが求められます。・・・・
自民党が考えている憲法改正とは、
戦前に回帰しようというものではありません。
あくまでも「サンフランシスコ体制」の一員としての態勢を整えるための
装置に過ぎません。
日本国憲法第九条二項を改正して
自衛隊を「国防軍」に名称変更するのも、
集団的自衛権の行使を可能にするのも、
そのためのものです。」
(八木秀次「憲法改正がなぜ必要か」PHPパブリッシング
320ページ以下)、と。


先述のように、
アメリカや中国が世界平定の野望に燃えているとしたら、
法(自然法)人権(そのもの)正義(公平)の拘束から解放された
絶対自由を是とする、
絶対自由(資本)主義
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家主義に冒されている
からだろう。
絶対自由妄想は、(本物の)自由とはえんも縁もない。
絶対自由妄想は、社会を自由に作っていい、とする、
正に社会主義以外の何物でもない。
(本物の)自由とは、
人権(そのもの)ないし(本物の)神の見えざる手の発現を
侵害阻害するものから予め解放されている
社会(国家)的状態にあることだ。
したがって、(本物の)自由は人権(そのもの)の属性だ。
人権(そのもの)とは、
人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
超法規的権利のこと、だ。
そこに国境などない。
自衛隊の目的は、人権(そのもの)を守ることで、
「国」を守るというのは妄想だ。
専守防衛に徹しなければならないのは、そのためだろう。
であるなら、勿論、違憲ではない。
今、日本がやるべきなのは、
戦後の日本社会(国家)・憲法が、
法(自然法)に従った、
人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度組織社会(国家)・憲法
であって、
それは、絶対自由(資本)主義でもなければ、共産主義・社会主義
でもないことを、
米中両社会(国家)に、更には世界に向かって、
言うことだ。
人間社会(国家)として普遍性を持った今の憲法を改正し、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした、
詐称自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家化
させるなど、正気の沙汰ではない。


4 (社会契約説は契約絶対自由妄想を以て
  絶対万能権力妄想国家をでっち上げた
  超巨大詐術だ
)

(本物の)自由とは、
人権(そのもの)ないし(本物の)神の見えざる手の発現を
侵害阻害するものから予め解放されている
社会(国家)的状態にあることだ。
したがって、(本物の)自由は人権(そのもの)の属性だ。
(本物の)自由は、具体的には、
人権(そのもの)を発現させるための暫定自由制度として存在している。
したがって、契約自由制度も、
契約絶対自由制度ではなく、契約暫定自由制度として存在している。
そもそも、人間は、社会(国家)を組織して、
みんなで生きていく以外に、生きていく道はない。
人間社会(国家)は、
すべての人が生きていくための仕組みや決まりで成る組織、である。
法(自然法)・人権(そのもの)・正義(公平)は
この厳然たる事実に由来する。
したがって、
法(自然法)・人権(そのもの)・正義(公平)の拘束から解放された
絶対自由は、人間社会(国家)では、存在し得ない。
絶対自由は、
絶対自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家
でしか、存在し得ない。


社会契約説は、契約絶対自由妄想を以て、
絶対万能権力妄想国家をでっち上げた、超巨大詐術だ。
絶対万能権力妄想国家は、
從法(自然法)自然社会(国家)を抹殺し、
欠落才覚人天下人工市場似非社会化するための、超巨大詐術だ。
要するに、社会契約説は、
從法(自然法)自然社会(国家)を抹殺し、それを
欠落才覚人天下人工市場似非社会化するための、超巨大詐術だ。


辞書によれば、社会契約説はこうまとめられている。
「社会契約説 theory of social contract
法秩序や政治秩序の起源を契約に求め、
またはそれによって正当化する理論。
中世以前の契約説は、既に存在する秩序の中で、支配者と被支配者の
間で服従契約を結ぶというものであったが、
ホッブズは、まつたくそのような秩序の存在しない「自然状態」における
契約によって国家権力を基礎づけた。
その契約は人民の自由な合意による立法行為であるという点では、
法実証主義と結びつくが、
理性的存在としての人民の自然法に則った合意であるという意味では、
自然法思想と結びつく。
ロールズの理論は後者の側面を発展させるものである。
米合衆国は移民たちによりこのような契約によって結成された国家である
といわれ、
選挙は社会契約の更新と性格づけられることがある。」
(三省堂コンサイス法律学用語辞典「社会契約説」)、と。


勿論、法秩序や政治秩序の起源を契約に求めること自体は
間違いではない。
しかし、契約は法律(広義の)であり、
法律(広義の)は人権(そのもの)を守るための方策だ。
万能な法律(広義の)は存在しない。
法律(広義の)が絶対万能なのは、
絶対自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家
においてでしかない。


田中浩は、
社会契約説の原理は、
〈社会の国家にたいする優位の思想〉だ、と次のように言っていた。
「「社会契約説」の原理として、
まず第一に指摘すべきことは、
人間が現実にその生活の基礎をおいている《社会》が、
強制力を前提として考えられた《国家》に先行する、
とのべている点である。
この考え方の重要性は、人間は、
国家や政府したがって法律も知らない以前の社会状態=自然状態から、
生まれつき〈自由〉で〈平等〉であったこと、
またそのようなものとして人間は、等しく、自分の生命は自分で守る権利
=自然権をもっていた、としているところにある。
こうした自然のすなわち生来の権利は、内容的には、
フッブスのいうように、なによりもまず自己保存の権利を意味し、
ロックにあっては、自己保存を確保する手段としての、
生命・自由や生活資料をも含む財産権の保障を、
ルソーにあっては、人間自由の尊重を意味した。
こうして、社会契約論者たちによって、国家、政府、主権者、立法者、統治者
の役割は、
人間が政治社会=国家状態に入るまえから有していた自然権を
優先させて守るべきもの、
いう思想的前提が確立されたのである。
さて、この「社会契約説」にみられる、
《社会の国家にたいする優位》という思想は、
《権力と自由》、《国家と個人》の関係を考えるうえで、
きわめて重要な意味を持つ。
それは、社会を国家に優先させるか、あるいは逆に、
国家を社会に対して優越的地位におくかは、結局のところ、
国家や社会の構成員たる人間の在り方、人間観、人権思想の捉え方と
深いかかわりをもつことになるからである。
前者の立場では、人権は、生来のものであり、国家や政府は人権を
よりよく保障するために設立された、とみる。
後者にあっては、たとえば明治憲法にみられるように、
人間の権利は、後天的なものであって、国家や支配者が定める法によって、
またその法律の範囲内においてはじめて与えられたものである
という立場をとる。」
(田中浩「序章――近代政治原理としての「社会契約説」
(飯坂良明他編「社会契約説」新評論)6ページ以下)、と。


すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範が法(自然法)だ。
人間「社会」とは、
この法(自然法)に従い、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
超法規的権利(人権(そのもの))を守っていくために
組織された、暫定自由動的平衡制度組織のことだ。
広義の国家とは、
この人間社会の別称にしか過ぎない。
狭義の国家は、
人権(そのもの)を守る責任と権限を超法規的に持った、
暫定自由動的平衡制度組織の執行部・機関のことだ。
要するに、この人間「社会」とは別個独立の絶対万能な権力を
持った国(国家)というのは、妄想でしかない、ということだ。


先述のように、
契約絶対自由妄想を以て、
絶対万能権力妄想国家をでっち上げた、超巨大詐術だ。
絶対万能権力妄想国家は、
從法(自然法)自然社会(国家)を抹殺し、
欠落才覚人天下人工市場似非社会化するための、超巨大詐術だ。
要するに、社会契約説は、
從法(自然法)自然社会(国家)を抹殺し、それを
欠落才覚人天下人工市場似非社会化するための、超巨大詐術だ。


5 (絶対万能権力国家→從法(自然法)社会抹殺
  →人工市場似非社会
)

先述のように、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範が法(自然法)だ。
人間「社会」とは、
この法(自然法)に従い、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
超法規的権利(人権(そのもの))を守っていくために
組織された、暫定自由動的平衡制度組織のことだ。
広義の国家とは、
この人間社会の別称にしか過ぎない。
狭義の国家は、
人権(そのもの)を守る責任と権限を超法規的に持った、
暫定自由動的平衡制度組織の執行部・機関のことだ。
要するに、この人間「社会」とは別個独立の絶対万能な権力を
持った国(国家)というのは、妄想でしかない、ということだ。


逆に言えば、
架空の絶対万能な権力を備え持った国家は、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度組織
社会(国家)を抹殺し、
それを、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした、
詐称自由(資本)主義、絶対自由(資本)主義人工市場似非社会化
するために、
措定された詐術だ、
ということだ。


レーガン政権後のアメリカは、
ほとんど欠落才覚人天下(主権)人工市場似非社会・国家
と断言していいまでに成り下がっている。
堤未果は「株式会社化」というが、
聞いてみよう。
「新古典派経済学の父と呼ばれた
経済学者のミルトン・フリードマンは、
株式会社の有り様について、
こんな言葉を残している。
「企業経営者の道徳義務とは、
社会や環境といったことよりも株主の利益を最大限あげることだ。
モラルも善意も、それが収益に結びついている場合のみ容認される」
フリードマンが言及したこの株主至上主義は、
IT革命とグローバリゼーションで国境を越えた企業の規模を
急速に拡大させた。
激しい価格競争の中で効率化が進み、
株主、経営者、仕入れ先、生産者、販売先、労働力、消費者、
特許、税金対策用本社機能にいたるまで、
すべては最も低コストで最大利益をあげる場所へと移されてゆく。
多国籍化に加え株主利益拡大を後押ししたのは、
規制を緩める法改正の数々だ。
アメリカでは一つの業界における少数企業支配を防ぐ「独占禁止法」が
レーガン政権下で骨抜きにされ、
タガが外れた企業群は次々に競争相手に買収や合併をしかけ、
急速に寡占化していった。
銀行が国民の預金でギャンブルを禁じる
「ダグラス・スティーガル法」が廃止され、
暴走したマネーゲームで法外に儲けたウォール街の銀行や投資家が、
手数料目当てに各業界の買収劇に荷担した。
金融、食品、農業、医療、教育、軍需など、
様々な分野でピラミット型の支配構造が確立したアメリカでは、
この多国籍企業や投資家からなる上位1%の影響力が、
今や国全体を揺るがしている。
さらなる市場拡大のためにあらゆるものを「商品」化する戦略の中、
今まで守られていた分野まで、じわじわ浸食し始めているのだ。
たとえばその国の根幹を形作る憲法や、
司法、立法、行政という三権分立のチェック アンド バランス。
国民の幸福を最優先する「公益」という概念。
それはかって建国の父たちが、国の存続のために、
決して失ってはならないと警告したものの数々だ。
少数の為政者に権力が集中することに対する
彼らの懸念は正しかった。
違っているのは米国民の主権を奪っているのが、
従来のように暴力で支配する独裁者ではなく、
極めて洗練された形で合法的に国全体を市場に変えた、
顔のない1%層だったという点だろう。
アメリカの実体経済が体現しているこの「略奪型ビジネスモデル」は、
いま同じように株式会社化の波が忍び寄る
日本の私たちに問いかける。」
(堤未果「株式会社化する国家」世界(岩波書店)2013年11月号
90ページ以下)。


堤未果は、AERA2015.5.25号誌上で、
こうも話している。
「米国では3010年に民間皆保険制度(通称オバマケア)が成立しました。
しかし、民間保険への加入を罰金付きで義務づけた制度で、
日本の国民皆保険制度とは全く別物。
保険会社のロビイストが法案を書き、彼らに利益が出る仕組みです。
バマケア後は多くの州で保険料が値上がりし、
保険対象外の新薬や高額治療が増えました。
医療が「商品」の米国では、
一部の富裕層以外の国民は常に医療破産≠ニ隣り合わせです。
「いのちの格差」が深刻化しています。
これは決して対岸の火事ではありません。
米国の医療産業複合体は、
日本を次の優良市場として数十年前から政府に圧力をかけています。
例えば13年12月に成立した「国家戦略特区法」。
東京や関西を中心とした特区内で、
医師以外の企業人も病院を経営しやすくするなどの規制緩和を進め、
のちに全国に広げる制度です。
自由化すれば利益が出て、外資系企業や投資家は喜びますが、
医療の質の低下や皆保険制度崩壊のリスクがあります。
先を行く米国では、
ERや小児科、産科など採算が取れにくい診療科が廃止され、
医療事故も増えています。
また、
4月末に関連法案が通過した「患者申し出療養制度」も要注意です。
患者の希望に応じて未承認新薬がわずか2〜3週間で承認され、
混合診療が拡大する制度です。
政府は「患者のため」と言いますが、
抗がん剤治療に月100万円も払える患者が、
どれほどいるでしょうか。
今のままでは医療の商品化が進められ、
米国式の医療格差社会になってしまいます。
        聞き手 ライター 越膳綾子」
(堤未果「日本がアメリカ式の医療格差社会≠ノなる日」
AERA2015.5.25号31ページ)、と。


要するに、資本(自由)主義は、
絶対自由(資本)人工市場似非社会主義の詐称なのである。
新古典派経済学というのは、
絶対自由(資本)人工市場似非社会学の詐称なのである。
それは、
すべての人が生きていくことを目的とした
從法(自然法)人間社会(国家)を、
アダム・スミスの見えざる手という架空の見えざる手を
措定することによって、
あるいは契約絶対自由妄想詐術を以て絶対万能な権力を
備え持った国家を措定することによって、
抹殺し、
從法(自然法)人間社会(国家)を、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした、
人工市場似非社会・国家化する
一種の詐欺学なのである。


6 (資本(自由)主義は
  絶対自由(資本)人工市場似非社会主義
  (←從法(自然法)社会抹殺←絶対万能権力国家妄想)
  の詐称
)


先述のように、資本(自由)主義は、
絶対自由(資本)人工市場似非社会主義の詐称なのである。
新古典派経済学というのは、
絶対自由(資本)人工市場似非社会学の詐称なのである。
それは、
すべての人が生きていくことを目的とした
從法(自然法)人間社会(国家)を、
アダム・スミスの見えざる手という架空の見えざる手を
措定することによって、
あるいは契約絶対自由妄想詐術を以て絶対万能な権力を
備え持った国家を措定することによって、
抹殺し、
從法(自然法)人間社会(国家)を、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした、
人工市場似非社会・国家化する
一種の詐欺学なのである。
これだけ巧妙で大がかりな騙しに引っ掛からない、
というのは、かなり難しい。


騙しに引っ掛かっているのは、
「資本主義の終焉」を説く水野和夫教授の場合も同じだ。
曰く。
「資本主義の固有の矛盾とは、
資本主義の定義自体にあります。
資本主義は資本の自己増殖のプロセスであると定義するのですから、
「目標地点」あるいは「ゴール」を決めていないということです。
一三世紀の「地中海世界」で始まった合資会社による資本主義や
一七世紀初めに始まったオランダ東インド会社による資本主義の時代
にあっては、「ゴール」を設定する必要はありませんでした。
資本家からみた「地球」は「無限」だったからです。」
「「物理的・物的空間」が消滅してもなお「過剰」を追い求めれば、
新しい「空間」をつくることが必要になります。
それが「電子・金融空間」だったのです。
前者の空間は北(先進国)と南(後進国)の間に見えない壁がありました。
グローバル資本主義はいったんその壁を取り払って、
新たな壁を作り直すためのイデオロギーなのです。
新しい空間が「電子・金融空間」となれば、
この空間に参入できる人は
ある程度の所得をもつていなければなりません。
「努力した者が報われる」と宣言して、
報われなかった者は努力がたりなかったのだと納得させることで、
先進国内に見えない壁をつくり、
下層の人たちから上層部の人たちへの富の移転を図ったのです。
収奪の対象は、
アメリカであればサブプライム層と呼ばれた人たちですし、
EUであれば、ギリシャなど南欧諸国の人たちです。
日本の場合は非正規社員です。
さらに言えば、「電子・金融空間」で収奪するというこの状況下で、
我々が成長を追い求めるために行っている経済政策・経済活動は、
「未来からの収奪」となっている可能性が大きいのです。
ケインズ主義者が唱える財政出動も、
公共事業にかってのような乗数効果が見込めない現在にあっては、
財政赤字を増加させると同時に、
将来の需要を過剰に先取りしている点で、
未来からの収奪にほかなりません。
金融の世界でも同じです。・・・
経済成長が依存している地球環境という点でも同じことがいえます。
人類は数億年前に堆積した化石燃料を一八世紀後半の産業革命以降、
わずか二世紀で消費し尽くそうとしています。・・・」
「資本主義は、
未来世代が受け取るべき利益もエネルギーもことごとく食いつぶし、
巨大な債務とともに、
エネルギー危機や環境危機という人類の存続を脅かす負債も
残そうとしているのです。」
(水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」
173ページ以下、176ページ以下、179ページ)、と。


しかし、資本(自由)主義は、
絶対自由(資本)人工市場似非社会・国家主義の詐称でしかない。
それは、
すべての人が生きていくための人間社会(国家)のこと
ではない。
絶対自由(資本)人工市場似非社会・国家主義を
心底原理原則とした社会(国家)は、
人間社会(国家)ではあり得ない。
「絶対自由(資本)人工市場似非社会・国家化は犯罪だから、
止めろ」、
と言うべきなのである。


完全に資本(自由)主義詐称詐術に引っ掛かった
「笑えない喜劇のような現状」日本を、
社会学者の大澤真幸は、
次のように言っている。
「原因は大きく言って二つあります。
一つは、いつか確実に沈むとわかっていながら、
資本主義という船を下りることができないからです。
『民主主義は最悪の制度だが、これ以上の制度はない』という趣旨の、
チャーチル元英首相の発言がありますが、
これは資本主義にこそ当てはまります。
資本主義はとてつもない格差を生み、
善でも美でもないことを人間に要求する。
この船は必ず沈む。
だけど他に船はない。
社会主義という船はもっと危なそうだし、
外は嵐だから下船したら即死だと。
だからみんな必死にしがみついていて、
一見すると、
資本主義が信奉されているかのようにしか見えない。
笑えない喜劇のような現状です」
(大澤真幸「2013 不可能性の時代を生きる」
2013.12.31朝日新聞朝刊)、と。


資本(自由)主義詐称詐術が
何故それほどまで威力があるのだろうか。
資本(自由)主義か社会主義か、という二者誤謬中択一の罠
が効いているのは確かだろう。
しかし、それだけではない。
先述のように、近代経済学は、
絶対自由(資本)人工市場似非社会学の詐称なのである。
それは、
すべての人が生きていくことを目的とした
從法(自然法)人間社会(国家)を、
アダム・スミスの見えざる手という架空の見えざる手を
措定することによって、
あるいは契約絶対自由妄想詐術を以て絶対万能な権力を
備え持った国家を措定することによって、
抹殺し、
從法(自然法)人間社会(国家)を、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした、
人工市場似非社会・国家化する
一種の詐欺学なのである。
それは、法律学も、少なくとも皮相に読む限り、ほとんど変らない。
これだけ巧妙で大がかりな騙しに引っ掛からない、
というのは、不可能、と言って大過ない。