現代則自然法人権擁護社会的分業制度社会論
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(第U編 絶対自由資本主義を原理原則とした社会あり得ない)





則自然法社会化により人権(そのもの)顕在化した現代
                            (写真は長野県上高地)

第二部―2

則自然法社会化により
人権(そのもの)顕在化した現代

 ――自由意思人擬制し
   人権(そのもの)否定された近代似非社会





      目   次


第1章

人権(そのもの)は
人が社会の中で生きていく権利
1 (自由が
  人権(そのもの)の意味で使われている

2 (「生命、自由及び幸福追求権」は
  人権(そのもの)のことだ

3 (人権(そのもの)は
  人が社会の中で生きていく権利

4 (社会(国家)制度も
  自然法も人権(そのもの)も正義も政府制度も
  由来は同じ
)
5 (何故人権(そのもの)はきちんと
  認知されてこなかったのか
)


第2章

則自然法社会化されて
 はじめて顕在化する
  人権(そのもの)
1 (則自然法社会(国家)化により
  人権(そのもの)社会権として顕在化
)
2 (自由権は
   絶対万能権力国家妄想と対を成して
   浮かび上がってくる妄想
)
3 (自由権を人権と錯覚し
   人権(そのもの)を捉え損ねた近代
)
4 (人権(そのもの)が
   社会権の名の下に顕在化した現代
)


第3章

暫定自由制度は
人権(そのもの)擁護システム
1 (最低限度の人権(そのもの)は
   暫定自由制度によって守られる
)
2 (暫定自由権→絶対自由権→人権
   と二重偽装
   絶対自由資本主義妄想
)
3 (暫定自由制度人権(そのもの)擁護
   社会に生きる恵沢が公共の福祉
)
4 (憲法29条が保障するのは
   財産権暫定自由で絶対自由ではない
)





第1章

人権(そのもの)は
人が社会の中で生きていく権利




1 (
自由が
  人権(そのもの)の意味で使われている


佐伯啓思教授は、こう言っている。
「自由が無条件に大事だと言ってしまうと、とんでもない「悪」を
なす自由も認めることになりますし、単なる放縦も認めなければ
なりません。
「自由」が大事なのではなく、「自由」によって何をするかが
大事なのです。
市場競争についても同じです。
経済を活性化することによって、どのような生活をするか、
どのような国土をつくるかが大事なのであって、市場競争そのもの
が大事なのではない。
富を生み出すことそのものではなく、富をどう使うかが重要なのです。」
(佐伯啓思「自由と民主主義をもうやめる」幻冬舎新書72頁)、と。


これは、正論だ。
これは、自由が一番大事なのではない、ということだろう。
では、自由の名の下に言われている一番大事なものは何だろう。


1961年1月20日(現地時間)のケネディ大統領就任演説
から探ってみたい。

「In the long history of the world, only a few generations
have been granted the role of defending freedom in its
hour of maximum danger.
・・・・
And so, my fellow Americans, ask not what your country
can do for you; ask what you can do for your country.
My fellow citizens of the world, ask not what America will
do for you but what together we can do for
the freedom of man.」

「世界の長い歴史の中でも、わずかな世代しか与えられたことが
ないのです、自由がその最大の危機に瀕しているときに自由を
守るという役割は。
・・・・
ですから、アメリカ国民の皆さん、祖国があなたに何をしてくれるかを
問うのはやめましょう――あなたが祖国のために何をできるかを
問うのです。
世界各国の皆さん、アメリカが皆さんのために何をしてくれるかを
問うのではなく、人間の自由のためにわれわれが共に何をなしうるのか
を問うてください。」
(ケネディ大統領就任演説「オバマ大統領就任演説」
朝日出版社36頁、37頁)


人間は、生きていく、という絶対的な目的を持った
生き物だ。
それ故、人間社会(国家)の普遍形は、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム
社会(国家)だ。
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な
生活を営むべく自由に生きていく、いかねばならない
超法規的権利義務が人権(そのもの)だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
人間社会(国家)で一番大事なものは人権(そのもの)のはずだ。
とすると、自由の名の下に言われている一番大事なものは
人権(そのもの)に違いない、と考えられてくる。
つまり、
「freedom自由―→人権(そのもの)
your country祖国―→社会(国家)
for the freedom of man人間の自由のために
      ―→すべての人が生きていくために」、
というような意味のはずだ。


これらを入れ替えてみると、こうなる。
「世界の長い歴史の中でも、わずかな世代しか与えられたことが
ないのです、人権(そのもの)がその最大の危機に瀕しているときに
人権(そのもの)を守るという役割は。
・・・・
ですから、アメリカ国民の皆さん、社会(国家)があなたに何をして
くれるかを問うのはやめましょう――あなたが社会(国家)のために
何をできるかを問うのです。
世界各国の皆さん、アメリカが皆さんのために何をしてくれるかを
問うのではなく、すべての人が生きていくためにわれわれが共に
何をなしうるのかを問うてください。」、と。


要するに、すべての人が生きていくために組織された
人間社会(国家)での自由は、
「自由」という意味にではなく、
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な生活を
営むべく自由に生きていく権利、つまり人権(そのもの)の意味で
使われているのである。
自由を守る、というのは、
「自由」を守る、という意味ではなく、
人権(そのもの)を守る、という意味だ。
自由が普遍的価値だ、というのは、
自由が普遍的価値だ、という意味ではなく、
人権(そのもの)が普遍的価値だ、という意味だ。
絶対自由権というのは、人権(そのもの)を支える手段権利義務
である暫定自由権の誤解なのである。
要するに、自由が人権(そのもの)の意味だったり、絶対自由権が
暫定自由権だったり、しているのである。


なぜ、こんなことになってしまったのか。
それは、則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム
社会(国家)が、修正資本主義とか福祉国家とかと誤解されて、
理論化可視化されてこなかったからだ。


自由を人権(そのもの)の意味で使うことが可能なのは、
人権(そのもの)は、先述のように、
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な
生活を営むべく自由に生きていく、いかねばならない
超法規的権利義務だからだ。
「人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な
生活を営むべく」という部分を省略してしまえば、
「自由に生きていく権利」、と言えてくるからだ。
それを更につづめて「自由」と言えなくもないから、だろう。


それは、要するに、人権(そのもの)はきちんと認識されて
こなかった、ということに他ならない。
それは、自由の意味が明確になっていなかった、ということ
でもある。
自由それ自体は、解放という意味しか持っていないのである。
当然、その意味は前後の文脈によって違ってきてしまうのである。
では、自由が人権(そのもの)の意味で使われているときの、
自由は何からの解放だろうか。
勿論、人為法(似非法律)からの解放だろう。
人為法(似非法律)は人間を自由意思人と擬制しての上で成り立つ
詐術だ。





2 (
「生命、自由及び幸福追求権」は
  人権(そのもの)のことだ


憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利につては、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする。」、と規定している。
「生命、自由及び幸福追求権」とは人権(そのもの)のことだ
政治の目的はすべての社(国)民の人権(そのもの)を守る
ことだ。
「個人の尊厳」とは、人権(そのもの)擁護システム社会(国家)に
生を受けた個人は、それ故に、健康で文化的な最低限度の
生活を営む生存権、つまり最低限度の人権(そのもの)は保障
されている、という事実を表現した言葉だ。


人間は、誰もが、生きていく、という絶対的な目的を持った、
生き物だ。
そういう人間たちが、ひとりではいきていけない、ということで、
社会(国家)を組織して、みんなして生きていく、
ということになった。
社会(国家)は、すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくことを目的に
組織された有機的組織体(共同体)だ。


その必然の結果として、
「すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし」
とする超法規社会(国家)規範が自然法として
自然発生的に存在するようになった。
そして、真っ先に、「人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
いかなければならない超法規的権利義務」、すなわち
人権(そのもの)が観念された。
人権(そのもの)は、簡単に言えば、人が生きていく権利だ。
したがって、人権(そのもの)は、
人間が生きていくという絶対的な目的を持った生き物である、
という自然事実に由来する自然権であると同時に、社会(国家)が
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム
社会(国家)である故に存在する社会(国家)権だ。


したがって、人権(そのもの)は、
社会(国家)組織の目的であり、
それ故に人為法(絶対法律)によって否定しえない
超法規的権利義務だ、と考えてもいい。
人権(そのもの)は人為法(絶対法律)によって否定しえない
超法規的権利義務という意味で、自然権だ、と考えてもいい。


とすると、すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくことを目的に
社会(国家)が組織はされたが、
直接人権(そのもの)擁護の執行に当たる政府(狭義の国家)は
まだ存在しない社会(国家)状態、というのを、
考え得るのではないだろうか。
それも「自然状態」と考え得るのではないだろうか。
そして、そういう「自然状態」でも、
「人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
いかなければならない超法規的権利義務」、
つまり人権(そのもの)が存在する、という状態は考え得る。
そういう「自然状態」でも、「人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし」、
とする自然法が存在する、という状態は考え得る。
そして、仮に「生命、自由、幸福追求権」が、人権(そのもの)のこと
を意味しているとしたら、おもしろくなってくる。


1776年に大陸会議で可決されたアメリカ独立宣言は、
則自然法人権(そのもの)擁護制度社会(国家)の建立を
目指したものとして普遍性を帯びてくる。


竹澤喜代治は、アメリカ独立宣言の内容を、
こう説明していた。
曰く。
「独立宣言は、1776年に大陸会議で可決されたものであるが、
その起草者は、トーマス・ゼファーソン(Thomas Jefferson)である。
この宣言の内容は、第一に、独立の理論的基礎である天賦の
人権を宣言し、第二に、ジョーヂ3世が古来の憲法上の原則を
無視して人民の権利自由を侵害した暴政を列挙しているのである。
独立宣言は、その劈頭において「人類の各種の出来事の過程
において、一国民が他国民と結合していた政治的拘束を断ち、
自然法と神の法(the laws of nature and of nature’s God)
が与える独立平等の地位を占めることが必要になった場合に、
人類の意見を尊重するならば、その分離を余儀なくする原因を
声明しなければならない。」と述べ、革命の理論的基礎として、
「我等は次の諸真理を自明であると信じる。
すなわち、すべての人は、生まれながらに平等であり、造物主から
一定不可譲の権利を与えられている。
これらの権利の中には、生命、自由及び幸福追求(Life, Liberty
and the pursuit of Happiness )が含まれていると信じる。
これらの権利を確保するために、人類の間に政府が組織せられ、
その政府は被治者の承認によって、正当な権力を得ていると信じる。
そして如何なる形態の政府でも、この目的を破壊する場合には、
人民はこれを改廃し、最もその安全と幸福に適する原理に基づき、
新政府を樹立して権限を委任するのは人民の権利であると信ずる。」
と述べている(Margaret Spahr ; op. cit. p.3-6)。
これを要するに、独立宣言は、第一に、政府のない自然状態では、
自然法あるいは自然の神の法だけが支配し、人は平等であり、
生命、自由及び幸福追求などの自然権を有する。
第二に、政府はこれらの権利を確保するために組織されたものであり、
それは契約に基づくものであるから、被治者の同意を必要とする。
第三に、政府の権力は人民に由来するものであり、政府が若し以上の
目的に反するならば、人民はこれに対する改廃権、すなわち革命権
を有するというのである。
そしてその思想的背景は、神法の思想であり、これと相並んでロックの
自然法学説であった。
ロックの「政府二論」の中で展開した自然権、社会契約、革命権の理論
は、そのまま独立宣言に採り入れられているのである(Charles A. Beard
and Mary R. Beard ; the Rise of American civilization, 1930. p.240 )。」
(竹澤喜代治「人権の思想」嵯峨野書院77頁以下)、と。


「生命、自由及び幸福追求権」とは人権(そのもの)のことだ。
人権(そのもの)は、
人間が生きていくという絶対的な目的を持った生き物である、
という自然事実に由来する自然権であると同時に、社会(国家)が
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム
社会(国家)である故に存在する社会(国家)権だ。
政治の目的はすべての社(国)民の人権(そのもの)を守る
ことだ。
アメリカ独立宣言も日本の憲法も、すべての人が、社会(国家)
の中で、他者と共に、健康で文化的な生活を営むべく自由に
生きていく、則自然法人権(そのもの)擁護制度社会(国家)の
建立を目指したものなのではないだろうか。
神というのは、人間が自然の一部である故に、否定しえない
法(自然法)を、否定しえないとして、説得するための方便で
しかないのではなかろうか。





3 (
人権(そのもの)は
  人が社会の中で生きていく権利


人間は、誰もが、生きていく、という絶対的な目的を持った、
生き物だ。
そういう人間たちが、ひとりではいきていけない、ということで、
社会(国家)を組織して、みんなして生きていく、
ということになった。
社会(国家)は、すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくことを目的に
組織された有機的組織体(共同体)だ。
人間社会(国家)は、目的を持たない、単なる有機的共同体
なのではない。


その必然の結果として、
「すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし」
とする超法規社会(国家)規範が自然法として
自然発生的に存在するようになった。
超法規社会(国家)規範=自然法は人間社会(国家)に
これ一つしかない。
そして、真っ先に、「人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
いかなければならない超法規的権利義務」、すなわち
人権(そのもの)が観念された。
人権(そのもの)は、簡単に言えば、人が生きていく権利だ。
権利義務とは、超法規社会(国家)規範に適っている故の
社会(国家)的な妥当性ないしその意識のことなのだ。
したがって、人権(そのもの)は自然権であると同時に
社会(国家)権だ。
ちなみに、法律は、形式的には社会(国家)的契約だが、
実質的にはこの人権(そのもの)を守るための方策(政策)だ。
したがって、法律は超法規社会(国家)規範=自然法とは
全くの別物だ。


「すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし」
とする超法規社会(国家)規範=自然法感覚が
神の見えざる手だ。
したがって、人権(そのもの)が観念されたのは、
人間にこの神の見えざる手が備わっているから
ではないか、と考えられてくる。
人間は、誰もが、生きていく、という絶対的な目的を持った、
生き物であり、超法規社会(国家)規範=自然法感覚、
つまり神の見えざる手を備え持った生き物だ、
と考えられてくる。
とすれば、そういう人間社会(国家)でのどんな制度も
権利義務も、この神の見えざる手が本当は創った、
と考えられてくる。


実際、則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度
社会(国家)は、修正資本主義と誤解された結果として
理論化可視化されてこなかった。
にも拘わらず、戦後の日本社会(国家)が、
資本(絶対自由)主義化によって大分歪められてきていて、
分かりにくくなってはきているが、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則法(自然法) 暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)であるのは明らかだ。
基本的人権が、
人権(そのもの)とそれを支える権利義務の総称である
ことは明らかだ。


要するに、人間社会(国家)では
人権(そのもの)や法(自然法)はあっても、
絶対自由権は妄想だ。
絶対自由権というのは、人権(そのもの)を支える
手段権利義務である暫定自由権の誤解なのである。
人権(そのもの)や法(自然法)を否定する自由は
人間社会(国家)にはない。
それは人間が自由意思人ではないからだ。
絶対自由権は自由意思人という幻覚が生む妄想だ。
絶対自由権という権利は人間社会(国家)では実在しない。
基本的人権は、人権(そのもの)とそれを支える権利義務の
総称だ。
したがって、自由という言葉が使われていても、
それは人権(そのもの)の意味で、
あるいは、それを支える権利義務という意味で、
使われているはずだ。


たとえば、憲法29条1項は、
「財産権は、これを侵してはならない。」と規定している。
これは、人権(そのもの)を支える権利たる財産権は、他者から
見れば、これを侵してはならない義務だ、というのが趣旨
のはずだ。
したがって、「個人が財産権を享有しうる法制度、
つまり私有財産制の保障」としての一面を持つ
(芦部信喜「憲法新版補訂版」岩波書店210頁)、と考えるのは
誤りだ。
自然発生的な私有財産制ないし自然発生的な社会(国家)的
分業制度は、人権(そのもの)擁護制度としての暫定自由制度の
一環としてある、と考えられる。
当然、そこでの所有権・契約には絶対自由はないから、
資本(絶対自由)主義ではない。
財産権の性質は人権(そのもの)だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくことを目的に
組織された人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会(国家)だから、
それは、ある。
社会(国家)あっての人権(そのもの)であり、それを支える
財産権だ。
健康で文化的な生活がどんなかは流動的で発展的なもの、
進歩向上するものだ。
暫定自由は健康で文化的な生活の進歩向上を促すためにある。
財産権が財産権故に尊いという理由はどこにもない。


たとえば、憲法22条1項は、
「何人も、公共の福祉に反しない限り、・・・職業選択の自由を
有する。」と規定している。
これは、何人も、法(自然法)に反しない限り、人権(そのもの)を
支える権利たる職業選択権を有する、という趣旨のはずだ。
職業選択権の性質も人権(そのもの)だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくことを目的に
組織された人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会(国家)だから、
それは、ある。
健康で文化的な生活がどんなかは流動的で発展的なもの、
進歩向上するものだ。
暫定自由は健康で文化的な生活の進歩向上を促すためにある。
職業が職業故に尊いという理由はどこにもない。


たとえば、憲法23条は、
「学問の自由は、これを保障する。」と規定している。
これは、人権(そのもの)を支える権利たる学問をやる権利義務は、
これを保障する、という趣旨のはずだ。
学問をやる権利の性質も人権(そのもの)だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくことを目的に
組織された人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会(国家)だから、
それは、ある。
健康で文化的な生活がどんなかは流動的で発展的なもの、
進歩向上するものだ。
暫定自由は健康で文化的な生活の進歩向上を促すためにある。
学問が学問故に尊いという理由はどこにもない。


たとえば、憲法21条1項は、
「・・・言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」、
と規定している。
これは、人権(そのもの)を支える権利たる表現する権利義務は、
これを保障する、という趣旨のはずだ。
表現する権利の性質も人権(そのもの)だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくことを目的に
組織された人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会(国家)だから、
それは、ある。
健康で文化的な生活がどんなかは流動的で発展的なもの、
進歩向上するものだ。
暫定自由は健康で文化的な生活の進歩向上を促すためにある。
表現する権利が表現する権利故に尊いという理由はどこにもない。


たとえば、憲法20条1項前段は、
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と規定している。
これは、人権(そのもの)を支える権利義務たる信教権は、
何人に対してもこれを保障する、という趣旨のはずだ。
信教権の性質も人権(そのもの)だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくことを目的に
組織された人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会(国家)だから、
それは、ある。
健康で文化的な生活がどんなかは流動的で発展的なもの、
進歩向上するものだ。
暫定自由は健康で文化的な生活の進歩向上を促すためにある。
信教が信教故に尊いという理由はどこにもない。
人間が犯してはならないのは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、とする
超法規社会(国家)規範たる法(自然法)だろう。
宗教が神の名で説くべきはこの法(自然法)だろう。
宗教が特別扱いされているのは、そのためだろう。


要するに、人権(そのもの)とは、
「人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
いかなければならない超法規的権利義務」のことだ。
簡単に言えば、人が生きていく権利だ。
人間は、生きていく、という絶対的な目的を持った生き物であり、
それが、ひとりでは生きていけない、ということで、
社会(国家)を組織して、みんなでして生きていくことになった。
人権(そのもの)が自然権であると同時に社会(国家)権である
所以だ。





4 (
社会(国家)制度も
   自然法も人権(そのもの)も正義も政府制度も
   由来は同じ
)


人間は自由意思人ではない。
人間は、生きていく、という絶対的な目的を持った
生き物だ。


福岡伸一教授曰く。
「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、
食物として摂取した分子と置き換えられている。
身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り
変えられ、更新され続けているのである。
だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヵ月前の
自分とはまったく別物になっている。
分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを
作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。
つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。
いや「通り抜ける」べき容れ物があったわけではなく、ここで
容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も「通り過ぎつつある」
分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。
つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。
その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて
一定の状態を保っている。
その流れ自体が「生きている」ということなのである。
シェーンハイマーは、この生命の特異的なありようを
ダイナミック・ステイト(動的な状態)と呼んだ。
私はこの概念をさらに拡張し、生命の均衡の重要性をより
強調するため「動的平衡」と訳したい。
英語で記せばdynamic equilibrium (equi=等しい、
librium=天秤)となる。
ここで私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答える
ことができる。
「生命とは動的平衡にあるシステムである」という回答である。
そして、ここにはもう一つの重要な啓示がある。
それは可変的でサスティナブルを特徴とする生命という
システムは、その物質的な構造基盤、つまり構造分子
そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす
「効果」であるということだ。
生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。」
「サスティナブルなものは、一見、不変のように見えて、
実は常に動きながら平衡を保ち、かつわずかながら変化
し続けている。
その軌跡と運動のあり方を、ずっと後になって「進化」と
呼べることに、私たちは気づくのだ。」
(福岡伸一「動的平衡」木楽舎231頁以下)、と。


池田清彦教授曰く。
「進化とは何だろう。一言で言ってしまえば、
「生物が世代を継続して変化すること」だ。」
「ダーウィンからネオダーウィニズムに至る自然選択を主因
とする進化論が大進化の理論を考えることができなかった
のは、形態形成システム自体の変更こそが、進化にとって
最大の要因であることに思い至らなかったからだと
私は思う。」
(池田清彦「進化論を書き換える」新潮社10頁、188頁)、と。


千葉康則曰く。
「もちろん、人間には目的があります。
それは、人間は生物ですから、生きるという方向を持っている
からで、その方向が目的ということになるわけです。」
生体にしろ脳にしろ物質であることに変わりはないのですから、
あらゆる現象に因果関係が存在している点では人間も機械とか
無生物と共通しています。
だからといって、人間が機械ということにはなりません。
その因果関係が生きるために都合のいい方向を持っている
という点で人間は機械とは違うのです。
因果関係(S→R)を反応というのであれば、その反応が生きる
方向を持っているというのが生体や脳や行動の特性なのです。
順応とか適応というのは単なる反応ではなく、生きる方向を持った
反応を指しているわけです。」
「ことばは伝達手段としてこのように使われるだけではなく、
人間の意識や思考や意志などの心の世界をつくる素材として
使われるようになりました。」
「脳の中の現象でことばで自他に向かって表現できるものを意識
とすれば、ことばが意識を生み、ことばを持たない動物には意識は
生まれないことになります。
また、人間についても、持っていることばによって意識の内容も
違うということになります。
たとえば、「いがらい」ということばを知らない人は、それに相当する
味を受けとめても「いがらい」と意識することはできません。」
「このような考え方は、まず意識の世界があって、その一部が意識下
に沈むという考え方とは対照的です。
つまり、脳生理学では、まず脳のはたらきがあって、人間の場合は、
その中で言語化された一部が意識の世界をつくると考えるわけです。
深層心理学ではさまざまな方法と仮説で無意識の世界を探ろうと
しますが、脳生理学では脳のはたらきを知ることが無意識の世界を
知ることにもなるわけです。
そして、意識の世界と無意識の世界は別のものではなく、ひとつのもの
と考えています。」
(千葉康則「脳と人間と社会」法政大学出版局12頁以下)、と。


要するに、人間は自由意思人ではない。
人間は、生きていく、という絶対的な目的を持った生き物だ。
とすると、
「動的平衡にあるシステム」である生命体としての人間が
自然界の中で「生きる、生きていく」べし、というのが、
自然状態での自然法のはずだ。


この前自然法感覚、すなわち神の見えざる手が、
人間はひとりでは生きていけない、
社会(国家)を組織してみんなで生きていく以外に生きていく
術はない、という厳然たる事実を受け止め、
すべての人が生きていくための社会(国家)制度を発明した。
同時に、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする、超法規社会(国家)規範=自然法を観念せしめた。
また、人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
いかなければならない、超法規的権利義務=人権(そのもの)を
観念せしめた。
更に、人権(そのもの)を侵害阻害損傷せしめるものから
予め解放されている社会(国家)的状態=正義を
観念せしめた。
また、人権(そのもの)を守るための政府(狭義の国家)制度、
人権(そのもの)を守るための方策=(広義の)法律制度、
人権(そのもの)を侵害阻害することが明確でない限り
取りあえず当事者の意思に任せる契約暫定自由原則
ないし暫定私的自治原則を編み出した。


社会(国家)そのものが、人権(そのもの)を擁護するための
システムになっている社会(国家)。
人権(そのもの)擁護システムである暫定自由制度社会(国家)。
人権(そのもの)を守るための事前規制は必要最低限にとどめ、
取りあえずは自由(暫定自由)とすることによって、人々の健康で
文化的な生活の進歩向上を促すこととした。
当然、産業形態は自然発生的な社会(国家)的分業制度だ。
そして、超法規社会(国家)規範=自然法感覚、すなわち
神の見えざる手は、遂に、
(暫定)自由の結果もたらされる
人権(そのもの)の侵害阻害・損傷ないし社会(国家)の歪み・綻びを、
事後的に、裁判制度や公共事業制度や
帰属所得再評価不当利得返還制度である累進課税制度と
一体になった社会(国家)保障制度などの
社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)を以て、
補修復元することとし、
人権(そのもの)擁護システム暫定自由制度を完成させた。


すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)は、普遍的な人間社会(国家)だ。


要するに、社会(国家)制度であれ、自然法であれ、人権(そのもの)
であれ、政府(狭義の国家)制度であれ、(広義の)法律制度であれ、
契約制度であれ、暫定自由制度であれ、
すべて、
人間は、生きていく、という絶対的な目的を持った生き物である、
という事実に由来する。


人間を自由意思人と擬制した上で立案されている
欠落才覚人たちを限りなく豊かになることを可能にした仕様の、
自由主義資本主義人工市場似非社会・国家は、
似非社会・国家であって人間社会(国家)ではない。





5 (
何故人権(そのもの)はきちんと
   認知されてこなかったのか
)

人権(そのもの)はきちんと認知されてこなかった。
それは、人為法から解放されてみたものの、自然法が
分からなかったからだ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な
生活を営むべく自由に生きていくべし、という超法規社会(国家)規範
=自然法は、人間が生きていく、という絶対的な目的を持った生き物
である、という自然事実に由来する超法規社会(国家)規範である。
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム社会(国家)
は、人間が生きていく、という絶対的な目的を持った生き物
である、という自然事実に由来す普遍的な人間社会(国家)だ。
人権(そのもの)は、則法(自然法)社会(国家)を前提にして、はじめて、
「人間が生まれながらにして持っている権利であって、奪うことの
できないもの」たり得るのである。


人権(そのもの)はきちんと認知されてこなかった。
それは、人為法から解放されてみたものの、自然法が
分からなかったからだ。
竹澤喜代治は、「人権とは」を、こう説いていた。
曰く。
「一 人権とは
人権という語は、1789年のフランス革命における人権宣言に
始まるといってよい。
この人権宣言は、正式には、「人及び市民の権利の宣言」・・・・
であって、これが人権と呼ばれるに至っている。
この人権宣言の内容は、宗教の自由、思想の自由、表現の自由等、
政治権力によって侵されてはならない当為性をもった概念として
把握せられていた。
これをもって見ると、人権は「人の自由」と考えられていた。
しかも、これをトーマス・ペイン(Thomas paine)によって、
The Rights of manと呼び、これが一般的にはHuman Rightsと
呼ばれた。
ジョン・ロック(Johu Locke 1632−1704)は、これを自然権(Natural Rights)
といい、ブラックストン(Sir wilian Blackstone)は、個人の絶対自由権
(Obsolute rights of individuals)と呼んだ。
リチャードプライス(Richard price1723―1781)は、市民的自由
(Civil liberty)の語を用いている。
フランクフルト憲法(1849)では、「基本権」(Grundrechtc)といい、
国際連合憲章(1945)では、「人権及び基本的自由」
(Human Rights and Fundamental freedoms)といい、ポツダム宣言では、
「基本的人権」(Fundamental human rights)といったのである。
わが国では、明治憲法では、「臣民の権利義務」、日本国憲法では
「基本的人権」の用語を採用している。
なお、明治維新では、「天賦人権」が唱えられている。
このように、人権は、人の自由、自然権、基本権、基本的自由、
基本的人権、市民的自由、絶対的権利と呼称されても、
表現の相違であって、内容的には「人間が生まれながらにして
持っている権利であって、奪うことのできないものである。」
というに帰する。
すなわち、それが絶対的な自由であったり、成文憲法上において、
異なった表現形式をとって保障されるに至っていると考えなければ
ならない。
しかも、自由が保障される規定から見て、国家権力と個人の自由
との関係から、当然に、その自由は個人の権利とされ、その権利
行使も、一定の制限に服するものとなり、この制限は義務として
現れる。
これらの関係によって、人権が保障されるものと理解しなければ
らないのである。
本講では、これら諸々の表現を「人権」と総称することにする。」
(竹澤喜代治「人権の思想」嵯峨野書院2頁以下)、と。


すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な
生活を営むべく自由に生きていくべし、という自然法に則った、
暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム社会(国家)が、
人間が生きていく、という絶対的な目的を持った生き物
である、という自然事実に由来す普遍的な人間社会(国家)だ。
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な生活を
営むべく自由に生きていく、いかなければならない超法規的権利義務、
すなわち人権(そのもの)は自然法上の権利(自然権)であると同時に、
社会(国家)がそういうものである故に存在する社会(国家)権だ。
人権(そのもの)がそういうものであり、自然権である。
社会(国家)はそういうものであり、人権(そのもの)は社会(国家)権でも
ある。
そうであってはじめて、人権(そのもの)は、「人間が生まれながらにして
持っている権利であって、奪うことのできないものである。」、ということ

なってくる。
この事実は、「人の自由、自然権、基本権、基本的自由、基本的人権、
市民的自由、絶対的権利と呼称されて」きた人権とは、人権(そのもの)
のことである、ということを教えている。
また、自由の本義が人為法からの解放=自然法であることを教えている。
自由は、そこから転化して、自然権である人権(そのもの)の意味で
使われている。
さらに転化して、人権(そのもの)を守る制度である暫定自由の意味でも
使われている。


何故人権(そのもの)はきちんと認知されてこなかったのか。
要するに、それは、人為法から解放されてみたものの、
自然法が何であるかが分からなかったからだ。
それは、畢竟するに、人間が生きていく、という絶対的な目的を持った
生き物であって、自由意思人ではない、という自然事実が分からなかった
からに他ならない。







第2章

則自然法社会化されて
 はじめて顕在化する
  人権(そのもの)




1 (
則自然法社会(国家)化により
  人権(そのもの)社会権として顕在化
)

人権(そのもの)とは、
人が社会(国家)の中で他者と共に生きていく権利のことだ。
正確には、人が、社会(国家)の中で他者と共に
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく・
いかなければならない、超法規的権利義務のことだ。
そのため自由が人権(そのもの)の意味で使われていると
考え得る例も少なくない。
基本的人権は
人権(そのもの)とそれを支える手段権利義務の総称だ。
人権(そのもの)は、直接的には、
「生命、自由及び幸福追求権」として憲法13条と
最低限度の人権(そのもの)、つまり生存権として
憲法25条に確認されている。


運命か自由意志(思)か、と問うのは間違いだ。
人間は生きていくという絶対的な目的を持った生き物だ。
すべての人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という自然法はこの自然法事実に由来する超法規社会(国家)
規範だ。
人権(そのもの)は、
この自然法上の権利即ち自然権であり、
同時に、社会が則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)
擁護システム社会故に存在する社会(国家)権だ。
第二次大戦後の日本社会(国家)は、
すべての人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム社会(国家)だ。
それは、国家主義絶対自由主義資本主義絶対国家人工市場
似非社会が行き詰まった結果の戦争という犯罪の
反省の結果としてある。
だか、それは修正資本主義と誤解されてきた。
確かに、暫定自由制度は修正資本主義に一見似ている。
しかし、絶対自由の修正は論理的にあり得ない。
そもそも暫定自由制度は人権(そのもの)擁護システムだ。
それは、「健康で文化的な生活」は流動的で発展的な
もの、進歩向上するもの、だからだ。
暫定自由は、人々の「「健康で文化的な生活」の進歩向上を促す
手段としてある。
当然、暫定自由の結果として人権(そのもの)の侵害阻害損傷が
惹起され、社会(国家)が歪んできたら、事後的に、社会保障制度
などを以て補修し、復元することが予定されている。
戦後の日本社会(国家)を絶対自由主義資本主義だ、と考える
妄想が命脈を保ってきたのは、暫定自由制度が修正資本
主義と誤解されてきたからに他ならない。


要するに、人権(そのもの)は自然法上の権利=自然権であり、
則自然法社会(国家)故の社会(国家)権なのである。
自由主義は、したがって自由権も、妄想でしかないのである。





2 (
自由権は
   絶対万能権力国家妄想と対を成して
   浮かび上がってくる妄想
)

自由権とは何か。

奥平康弘曰く。
「これら精神活動の自由、経済活動の自由、そして人身の自由は、
近代国家の成立時において、人間にとっての基本的な権利・自由
として要求され、憲法保障をうるにいたったものである。
起源において近代的であり、性質において「国家からの自由」、
つまり国家からの侵害をうけないことを内容とする権利である
この一群のものを、ふつう「自由権」と呼ぶ。」
(奥平康弘「憲法」弘文堂入門双書44頁)、と。


大石眞教授曰く。
「自由権(国民の消極的地位)
個人の利益にまである種の国家活動が禁止される場合における
個人の能力をいい、その意味で、国民が国家の不作為を求める
ことのできる地位を指す。
具体的には、人身の自由・私生活の自由(プライバシー)・信教の自由・
表現の自由・職業選択の自由などを内容とするが、契約の自由や
財産権の保障なども、当然このなかに含まれる。
もっとも、その行動を規制することがむしろ国民の利益となる場合には、
その限度において国家活動も認められる。
しかし、この場合の規制は、「禁止されていないことは許されている」
との自由主義の原理からいって、例外的・限定的なものでなくては
ならない、とされる。」
(大石眞「立憲民主制」信山社46頁)、と。


「国家からの自由」とは「絶対万能権力国家妄想からの自由」である。
つまり自由権は絶対万能権力国家妄想と対をなして浮かび上がってくる
妄想でしかない。
絶対万能権力国家妄想は人為法を観念するための詐術でしかない。
それは、人間を自由意思人と思い込んだ思い上がりからきている。
人間は、自然の一部であり、生きていく、という絶対的な目的を持った
生き物だ。
すべての人が、社会(国家)の中で他者と共に、健康で文化的な生活を
営むべく自由に生きていくべし、という自然法はこの自然法事実に
由来する超法規社会(国家)規範だ。
人権(そのもの)は、
この自然法上の権利即ち自然権であり、
同時に、社会が則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)
擁護システム社会故に存在する社会(国家)権だ。


では、「人身の自由・私生活の自由(プライバシー)・信教の自由・
表現の自由・職業選択の自由など、契約の自由や
財産権の保障など」は何なんだろうか。
それは暫定自由権だ。
暫定自由権は自由権(絶対自由権)ではない。
暫定自由権は「健康で文化的な生活」の進歩向上を促す手段
としてある。
暫定自由権は人権(そのもの)ではない。
自由権(絶対自由権)とは、人権(そのもの)擁護システムの一環
として存在している暫定自由権の誤解だ、と考えられてくる。





3 (
自由権を人権と錯覚し
  人権(そのもの)を捉え損ねた近代
)

近代は、自由権(絶対自由権)を人権と錯覚してしまい、
人権(そのもの)を.捉え損ねた時代だった。
つまり、自由権(絶対自由権)という妄想が人権としてまかり通って
いたのが近代だった。
言い換えれば、近代という時代は、人権(そのもの)を顕在させるに
足る犠牲・エネルギーを蓄えた苦難の時代であった、と言えてくる。
要するに、自由権(絶対自由権)は、人権(そのもの)ではなく、妄想で
しかない。


杉原泰雄は、
自由権(絶対自由権)を人権と錯覚し
人権(そのもの)を捉え損ねた近代を、
こう描写している。
曰く。
「経済活動の自由は資本主義経済の展開を保障し、精神活動の
自由は学問・文学・芸術・科学を飛躍的に発展させた。
科学の発展は、産業革命の動因となり、資本主義をいっそう発展
させる力となりました。
身体の自由の保障によって、人間は自由な人間として生きるための
最小限の保障をえました。
この保障がないと、その他の基本的人権の保障は大きくそこなわれる
ことになります。
しかし、このような人権の保障のあり方は、とくに賃労働者にとって、
人間らしい生活を保障することにはなりませんでした。
契約の自由は、雇ってもらう以外に生きる手段をもたない賃労働者に、
低賃金と長時間労働をもたらしました。
たとえば、フランスの19世紀の中ごろ、平均拘束時間は、1日15時間
程度――実働13―14時間、食事などの休憩時間1―2時間――に
達していたといわれます。
それでも父親=労働者の賃金だけでは家族をやしなうことができず、
女性や子どもが働きにでるのはあたりまえのことでした。
子どもにとっては、長時間労働自体が拷問でした。
疲れて手や体を休める子どもを働かせるためにムチを備えている工場
もありました。
契約は日雇いで、労働者は、不景気がきたり、病気になったりすると、
ただちに解雇されました。
失業しても社会保障はなく、貧しい者には生きていくことさえも困難
でした。
ナポレオンが戦争をしていた1806年にはフランス人の平均寿命は
28歳でしたが、1840年にはそれは20歳にまで低下しています。
その原因は、労働者の高い死亡率にあったといわれています。
政治は、契約の自由や「自由放任」――経済活動に政治が介入し
ないことを求める経済的自由主義の標語――の名のもとに、
このような事態を是正しようとはしませんでした。
また、たとえば学問の自由は保障されていても、労働者や農民は
貧しくて本を買ったり学校にかよったりする余裕がなかったので、
その保障はかれらにとっては「絵に描いた餅」にちかいものでした。
近代市民憲法下の人権保障には、もう一つ大きな問題がありました。
近代市民憲法がはっきりと性による差別を禁止していなかったことも
あって、男女の性別特性論(男女間に生来的に肉体的精神的な差異
があるとする考え方)や男女の性別役割論(日常生活で分担する役割
が異なるとする考え方)などにより、女性は、選挙法でも民法や刑法
でも男性とは差別して扱われていました。
国民の半分は、基本的人権を全面的にまたは部分的に制限されて
いたのです。
選挙法は女性に選挙権を認めず、民法は女性を原則として自分だけ
では法律行為をすることができない無能力者とし、刑法はたとえば
姦通について妻を夫よりきびしく処罰していました。
「人権」・「人間の権利」の「人」・「人間」のなかに女性はふくまれて
いないのではないかという疑問や批判が出されるような状況でした。」
(杉原泰雄「新版憲法読本」岩波ジュニア新書12頁以下)、と。


要するに、自由権(絶対自由権)という妄想が人権としてまかり通って
いた近代は、人権という言葉は語られてはいても、人権(そのもの)は
潜在したままで、顕在はしていなかった。
言い換えれば、近代という時代は、人権(そのもの)を顕在させるに
足る犠牲・エネルギーを蓄えた苦難の時代であった、ということだ。





4 (人権(そのもの)が
  社会権の名の下に顕在化した現代
)

現代という時代になっても、人権(そのもの)は依然として認識
されるには至っていない。
にもかかわらず、人権(そのもの)は間違いなく顕在化している。
だが、それは社会権という名の下にではある。
人権(そのもの)とは、人が生きていく権利のことだ。
正確には、人が、社会(国家)の中で他者と共に
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく・
いかなければならない、超法規的権利義務のことだ。
そのため自由が人権(そのもの)の意味で使われていると
考え得る例も少なくない。
基本的人権は
人権(そのもの)とそれを支える手段権利義務の総称だ。
人権(そのもの)は、直接的には、
「生命、自由及び幸福追求権」として憲法13条と
最低限度の人権(そのもの)、つまり生存権として
憲法25条に確認されている。
人権(そのもの)を守る最も合理的な社会(国家)制度は
人権(そのもの)擁護システムである暫定自由制度だ。
産業形態は自然発生的な社会(国家)的分業制度だ。
民主主義とはこの人権(そのもの)を守る政治のことだ。
政治とはこの人権(そのもの)を守る行為のことだ。


杉原泰雄は、
人権(そのもの)が社会権の名の下に顕在化した現代を、
こう描写している。
曰く。
「このような近代市民憲法下における人権保障のあり方とそこ
からおこってくる事態については、賃労働者たちからはもちろん
のこと、あらゆる階層からきびしい批判が出されました。
そして、ときには、階級闘争や大きな社会運動もおこりました。
それは資本主義体制を不安定にするものでもありました。
そこで、とくに第1次世界大戦後の市民憲法は、1919年の
ワイマール憲法を先駆として、近代市民憲法の人権保障に
たいして、以下のような注目に値する修正をくわえています。
このような修正をしている市民憲法は、とくに現代市民憲法
とよばれています。
その第一は、資本主義の枠組みのなかで、賃労働者や社会的
経済的に弱い立場にある人たちにも人間らしい生活を保障する
ために、生活の保護を受ける権利(生存権)、教育を受ける権利、
労働の権利、労働組合を結成する権利(団結権)、労働条件について
労働組合が使用者と交渉する権利(団体交渉権)、労働条件の
維持・改善を求めてストライキその他争議行為をする権利(争議権)、
契約の自由を制限して労働者保護の立場から労働条件の大枠や
基準を法律で定める「労働条件法定主義」、母親・子ども・老人・疾病者
にたいする保護、中小企業や中小農の保護などを保障しています。
「社会権*」の保障です。
*社会的基本権または生存的基本権ともよばれます。社会的
 経済的弱者に人間らしい生活を確保することを目的とするもの
 です。
その第二は、第一と同じ目的から、その目的と矛盾する関係に
あるような経済活動の自由を積極的に制限することが認められて
います。
「大きな財産」、「独占的な経済活動」についての積極的な制限の
導入であり、「修正資本主義」の承認です。
たとえば、1919年のワイマール憲法は、この点について、「経済
生活の秩序は、各人に人間に値する生活を確保することを目的と
し、正義の原則に適合しなければならない。
各人の経済上の自由は、この限界内で保障される」、「所有権は、
義務を伴う。
その行使は、同時に公共の福祉に役立つべきである」、「国は、
法律により、公用収用に関する規定を準用して、補償を付与し社会化
に適する私的経済企業を公有に移すことができる」などの規定を
設けています。
フランスの1946年憲法は、「財産、企業で、その運用が国家公役務
としての性格または事実上の独占としての性格をもちもしくは取得
したものは、すべて公共団体の所有としなければならない」とまで
定めています。
一般に、資本主義経済体制をとりつつも賃労働者を含めすべての
国民に人間らしい生活を保障しようとして、第一と第二の対応をして
いる国は、社会国家とか福祉国家とよばれています。」
(杉原泰雄「新版憲法読本」岩波ジュニア新書15頁以下)、と。


要するに、現代社会(国家)では、人権(そのもの)は依然として
認識されるには至っていないにもかかわらず、人権(そのもの)は
間違いなく顕在化している、ということだ。
暫定自由制度は、人権(そのもの)を守るための事前規制は
必要最低限にとどめ、取りあえずは自由(暫定自由)とする
ことによって、人々の健康で文化的な生活の進歩向上を促し、
その後の人権(そのもの)侵害阻害損傷による社会(国家)の
歪みは、裁判制度や公共事業制度や帰属所得再評価不当利得
返還制度としての税制度と連結した社会保障制度などの
社会補修復元制度を以て事後的に補修復元することとした
人権(そのもの)擁護システムなのだ。
人権(そのもの)を守るための規制は数多とある。
その結果の自由は人々の健康で文化的な生活の進歩向上を促す
ための取りあえずの自由(暫定自由)のはずだ。
所得税相続税も累進課税を原則としている。
自由(暫定自由)の結果として帰属した所得の再評価のはずだ。
社会(国家)保障制度も相当規模にある。
それは、取りあえずの自由(暫定自由)の結果として惹起された
人権(そのもの)侵害阻害損傷による社会(国家)の歪みの補修復元
制度のはずだ。
人間社会(国家)は、すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくために存在して
いる。
人が社会(国家)の中で生きる、ということは、分業の恩恵、共通言語
の恩恵、インフラの恩恵を受けて生きる、ということだ。
それでも自由主義資本主義を原理原則とした社会だ、と考える
というのは、気が狂っているとしか思えない。
戦後の日本社会(国家)を絶対自由主義資本主義だ、と考える
妄想が命脈を保ってきたのは、暫定自由制度が修正資本主義と
誤解されてきたからに過ぎない。
現代での自由権(絶対自由権)は暫定自由権の誤解でしかない、
と考えられてくる。
社会国家・福祉国家というのは、則自然法暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)の誤解・誤称だ、と
考えられてくる。







第3章

暫定自由制度は
  人権(そのもの)擁護システム




1 (
最低限度の人権(そのもの)は
   暫定自由制度によって守られる
)

憲法25条1項は、「すべて国民は、
健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」
と規定している。
2項は、
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障
及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
と規定している。
憲法25条は、
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
生きていかなければならない、
超法規的権利義務、即ち人権(そのもの)を規定したものである。
第1項は、最低限度の人権(そのもの)即ち人権(そのもの)は
具体的な権利義務として、
(狭義の)国の責任の下に保障する、される、旨を約した
社会契約即ち法律だ。
これは、人権(そのもの)が生存権に姿変え憲法25条に規定され
ていることを意味するのに他ならない。
暫定自由は人権(そのもの)擁護システムの一環としてある。
それは、健康で文化的な生活は、
こういうもんだと、という形にはまったものとして
存在するものではなく、
流動的発展的なもの、進歩向上していくものだからだ。


池上彰教授は、こう解説している。
曰く。
「大気汚染が進み、河川も汚れていては、「健康で文化的な生活」が
送れません。
「公衆衛生の向上及び増進」のためには、大気や河川の汚染を
減らさなくてはなりません。
1960年代から70年代の日本は、
いまの中国のように汚染がひどい状態でした。
でも、憲法の精神にもとづいて努力した結果、
現在の日本があります。
私たちの暮らしは、憲法によって守られているのです。
日本では、年をとると年金が受け取れます。
決して十分な金額ではなかったり、年金制度の維持が
むずかしくなっていたりという報道もありますが、
まがりなりにも年金制度が誕生して維持されているのも、
第25条で「社会福祉、社会保障」の「向上及び増進」が
求められているからなのです。」
「これは、「最低限度の生活をしろ」と言っているわけではありません。
「せめてこれくらいの生活を送りたいよね」と一般の人が考える
くらいの生活を国は保障してくださいね、と言っているのです。
公営住宅法で、所得の少ない人でも住むことができる公営住宅を
建設したり、
公害対策基本法で公害対策を義務付けたりしているのも、
この条文が基になっています。
年金制度は、この条文が根拠です。
年をとって働けなくなり、収入が途絶えたら、とても不安ですよね。
高齢になっても「健康で文化的な生活」を送りたいものです。
そこで、老後の生活費になる年金の制度があるのです。
年金制度が将来もし破綻したら、それは政府が憲法第25条を
守っていないことになります。
この条文が根拠になって、収入もなく、助けてくれる家族がいなくて
生活に困っている人は、生活保護を受けることができます。
しかし、かつて生活保護を受けている人がクーラーを取り付けたところ、
役所か、「クーラーをつけることができるだけの余裕があれば、
生活保護は受けられません」と言って、クーラーを撤去させ、
大問題になりました。
終戦直後の日本人にとってクーラーは大変なぜいたく品でしたが、
いまは真夏にクーラーのない生活は考えられなくなってきています。
そうなると、クーラーがあることが「最低限度の生活」ということに
なります。
時代によって、
「健康で文化的な最低限度の生活」の水準は変化するのです。
ただ、このところ、生活保護で受け取る金額より、
非正規雇用(正社員でない)の労働者の給料の方が少ない、
という問題も起きてきています。
こういう問題を、政府は解決する義務があるのです。
私たちは、政府に対して、「憲法25条を守れ」と主張できるのです。」
(池上彰「池上彰の憲法入門」ちくまプリマー新書
6頁、79頁以下)、と。


東京新聞政治部編「いま知りたい日本国憲法」は、
こう解説している。
曰く。
「1項の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」は、
生存権と呼ばれています。
この項は当初GHQ案にはなく、
戦後の国会で、衆議院において討論されて修正追加されたものです。
とかく「米国の押し付け」と思われがちな憲法ですが、
この項にかぎっては、まぎれもなく日本独自のオリジナリティをもった
条文と言えます。
25条に基づく法律の代表的なものに生活保護法があります。
ほかに、年金、医療、介護の各社会保障制度、
さらには2002年に成立、施行されたホームレス自立支援法も、
この条が根拠になっています。」
「最低限度の生活  
国民は、病気や障害・高齢等のため働けずに収入がなかったり、
収入があっても国の定めた基準より少ない場合、
最低限度の生活を保障される。
生活保護法は世帯人員数や地域などを基準にして、
各地域ごとの最低生活費を計算、
収入だけでは最低生活費に満たない場合、不足分を支給する。」
(東京新聞政治部編「いま知りたい日本国憲法」講談社72頁)、と。


2016年3月24日の東京新聞(朝刊)は、
「生活保護が最多更新 14年度 161万世帯、高齢者半数」という
見出しで、
こう報じている。
「厚生労働省は23日、
2014年度の一ヶ月平均の生活保護受給世帯(確定値)は
前年比1.3%増の161万2,340世帯で、
過去最多を更新したと発表した。
受給者数も同0.2%増の216万5,895人で最多となった。
世帯別(一時的な保護停止を除く)では、
65歳以上の高齢者世帯が前年度と比べ5.8%増の76万1,179
世帯で、半数近くを占めた。
働ける世帯を含む「その他世帯」や母子世帯、傷病者・障害者世帯は
いずれも減少した。
保護が始まった主な理由は「貯蓄の減少・喪失」が32.2%で
最も多く、
「傷病」「収入の減少・喪失」が続いた。
保護を終えた主な理由は「死亡」の35.2%が最多、
「収入の増加」は前年度の19.0%から18.8%に減った。
厚労省は月別の速報値を毎月発表しており、
15年12月時点の受給者世帯数は163万4,185世帯だった。」
(2016.3.24東京新聞朝刊)、と。


年金制度や生活保護制度といった社会保障制度は、
暫定自由の結果として人権(そのもの)が侵害阻害損傷され
歪曲された社会(国家)を補修復元するための制度だ。
これは、こういうことだろう。
人権(そのもの)とそれを支える手段権利義務が基本的人権
としてある。
暫定自由制度は、人権(そのもの)を守るための事前規制は
必要最低限にとどめ、取りあえずは自由(暫定自由)とする
ことによって、人々の健康で文化的な生活の進歩向上を促し、
その後の人権(そのもの)侵害阻害損傷による社会(国家)の
歪みは、裁判制度や公共事業制度や帰属所得再評価不当利得
返還制度としての累進課税制度と連結した社会保障制度などの
社会補修復元制度を以て事後的に補修復元することとした
人権(そのもの)擁護システムだ。
ここでの産業形態は、当然、自然発生的な社会(国家)的分業だ。
暫定自由は人権(そのもの) 擁護システムの一環として存在して
いる。
人権(そのもの)を支える手段権利義務は、
財産権であり、集会・結社権であり、居住・移転権であり、
職業選択権であり、人身権などなどである。
これらの人権(そのもの)を支える手段権利義務も性格は
人権(そのもの)であり、暫定自由を属性として持っている。
つまり、これらの人権(そのもの)を支える手段権利義務も、
すべて、「人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく」ために
存在している。
そして、この「自由」は人権(そのもの)擁護システムの一環
としての暫定自由なのだ。
暫定自由の結果として
人権(そのもの)が侵害阻害ないし損傷され、社会(国家)が歪曲
されたとき、
それを補修復元するための制度が、
年金制度や生活保護制度などの社会保障制度である。
そういうことではないだろうか。


要するに、憲法25条の生存権は最低限度の人権(そのもの)で
あり、それは人権(そのもの)擁護システムである暫定自由制度
によって守られる。





2 (
暫定自由権→絶対自由権→人権
   と二重偽装
   絶対自由資本主義妄想
)

絶対自由制度資本主義妄想似非社会では、人権(そのもの)
擁護システムの一環として存在している暫定自由権は、
絶対自由権と、更に人権と二重に偽装されている。


奥平康弘は、
近代絶対自由資本主義妄想の顛末と現代人権(そのもの)擁護
社会(国家)顕現の必然を、こう活写していた。
曰く。
「これに反し、
人間の経済的・物質的あるいは肉体的な生活領域では
「自分でやりますから、かまわないでください」という内容の
自由権だけではだんだんうまくゆかなくなってきている。
これは現代の人権問題の特徴の一つである。
近代的な考え方からすれば、
各人が契約の自由(取引の自由)、職業選択の自由、所有権不可侵の
保障など経済活動の自由が与えられ、
平等な人格をもつ者として一生懸命はたらけば、
自分や家族を養うに足りる経済的な基盤が生まれるはずだ、
と想定された。
「行かしめよ、なさしめよ」(「レッセ・アレ」、「レッセ・フェール」)を合いことば
とする自由放任主義の思想が支配するようになる。
また、こうした考え方のもとでは、生活設計における自己責任ということが
強調された。
自分のことは自分で面倒をみるという個人主義の精神がゆきわたる
ことになった。
けれども歴史の進行とともに、近代のはじめに想定したような
自由放任主義、個人責任主義だけでは、
どうにも始末がつきにくい社会現象が、いわば構造的に出てきた。
近代における歴史の進行とは、
資本主義の成立、展開そして爛熟という経過を意味する。
こうした過程のなかで資本家階級と労働者階級の区分がはっきりしてきて、
労働問題、社会問題や経済の独占、富の集中そのほかの
深刻な経済問題が生じた。
これらは自由放任主義の結果生じた問題なのであって、
自由放任主義やそれと裏腹の個人責任主義にまかせておいたのでは
どうにもならないことが、少しずつわかるようになった。
一方で、富の集中(逆にいえば貧困の排出)を招くような経済活動の自由を、
「公共の福祉」の観点から制限する法律が出てくるとともに、
他方、貧困、疾病、傷害、家族の離別などから生ずる生活上の諸困難を
広く社会的な規模で解決することを目的として、
各種の社会保障制度(民生・福祉行政)が展開するようになった。
20世紀にはいってからはじめての体系的な憲法であった
1919年のドイツワイマール憲法は
「経済生活の秩序は、各人をして人間に値すべき生存を得しめることを
目的とし正義の原則に.適合することを要する。
各人の経済上の自由は、この限界において保障される」(151条)
と規定した(宮沢俊義編『人権宣言集』による。・・・・)。
ここには、「人間に値すべき生存」を各人に得さしめる経済政策・社会政策
を展開することを国の責務とするという考え方が、
明瞭に打ちだされている。」
(奥平康弘「憲法」弘文堂入門双書101頁以下)、と。


絶対自由制度資本主義妄想似非社会では、人権(そのもの)
擁護システムの一環として存在している暫定自由権は、
絶対自由権と、更に人権と二重に偽装されている。
どうしてそうなってしまったのか。
それは、人間を自由意思(志)人と思い込む思い上がりからだ。
人間は生きていくという絶対的な目的を持った生き物だ、という
厳然たる自然事実を分からなかったからだ。
そのため社会(国家)そのものが、
すべての人が、社会の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくために組織された
制度組織だ、
という事実に思い至らなかったからだ。
生きていく、という絶対的な目的を持った生き物である人間が、
社会(国家)を組織してみんなで生きていく以外に
生きていく術はなかったのだ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範は、
その結果として自然発生的に存在することになった自然法だ。
社会(国家)を解消してめいめい勝手に生きていけない以上
この超法規社会(国家)規範=法(自然法)に
時代を超えた普遍性があるのは、当然だ。
人権(そのもの)も自然権であると同時に社会(国家)がそういうもの
である故に存在する社会(国家)権だ。
法律即ち社会契約は、この人権(そのもの)を守るための方策だ。
戦後の日本国憲法は、
超法規社会(国家)規範(自然法)、人権(そのもの)を否定し
自由(暫定自由)を絶対化した絶対自由資本主義妄想
大日本帝国憲法を廃棄し、人為法から解放された則自然法
暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム社会(国家)を約した
社会更改契約書だ。
憲法25条に人権(そのもの)が規定されている所以だ。
絶対自由権は規定されてはいないはずだ。





3 (
暫定自由制度人権(そのもの)擁護
   社会に生きる恵沢が公共の福祉
)

従来の憲法学は、絶対自由権を観念してきた。
曰く。
「自由権は、
国家が個人の領域に対して権力的に介入することを排除して、
個人の自由な意思決定と活動とを保障する人権である。
その意味で、「国家からの自由」とも言われ、
人権保障の確立期から人権体系の中心をなしている
重要な権利である。
その内容は、精神的自由権、経済的自由権、人身(身体)の
自由に分けられる。」
(芦部信喜「憲法新版補訂版」岩波書店81頁)、と。


しかし、そもそも絶対自由権など実在し得ない。
思想および良心であれ、信教であれ、集会・結社であれ、
言論・出版その他いっさいの表現であれ、学問であれ、
居住・移転であれ、職業選択であれ、財産権であれ、
人身であれ、
それ故に重要なのではない。
つまり、絶対自由権として保障されているのではない。
信教であれ、学問であれ、職業であれ、財産権であれ、
人身であれ、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくために
存在している、のである。
つまり、人権(そのもの)の手段として存在しているのである。
とすると、暫定自由として保障されている、と考えられてくる。
それは、健康で文化的な生活はこういうもんだ、という
形にはまったものとして存在するものではなく、
流動的発展的なもの、進歩向上するものだからだ。
要するに、実在するのは暫定自由権であり、
それは人権(そのもの)システムの一環として存在している。


問題を解くかぎは公共の福祉にある。
公共の福祉は、単なる制約の原理なのではなく、
権利義務発生の理念に他ならないからだ。
公共の福祉とは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=自然法に則った、
つまり人為法(似非法律)から解放された、
則自然法人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会(国家)に
生きる恵沢(めぐみ)のこと、だ。
とすると、公共の福祉は、単なる制約の原理なのではなく、
権利義務発生の理念だ、と考えられてくる。


戦後まもなく出された、東京大学憲法研究会による
「註解日本國憲法」には、こう書かれている。
曰く。
「新憲法第25条は、このような生存権の概念の発達に対応して
認められたものである。
新憲法第29条は、「財産権は、これを侵してはならない」として、
財産権の不可侵を一般的に宣言して、
私有財産制を基調とする資本主義経済組織をとることを
前提としつつ、
すべての国民に生存権を保障せんとするものである。
ただ、すべての国民に広汎な自由権を、
基本的人権として保障し、
すべての国民の「法の下における平等」を一般的に宣言する
新憲法の基本的立場には、多分に17・8世紀の個人主義的
社会観をとる自然法思想を思わしめるものがある。
しかし、又、新憲法は「公共の福祉」という概念を強く認め
(12条・13条等)、これに、自由のみならず(例えば、22条1項)、
財産権をも制約しうる(29条2項3項)、
重要な作用の発揮を期待している。
ここに新憲法は20世紀憲法としての新鮮味をも帯有していること
を認めねばならない。
けだし、生存権を確保するということは、
まさに「公共の福祉」の要請するところであり、
その生存権の確保を、
資本主義経済組織のもとに、実現せんとするときは、
多かれ少なかれ、財産権に対する若干の制約を認めざるをえない
ものであるが、憲法は、
すでに公共の福祉による財産権の制約を予定しているからである。」
(法學協会「註解日本國憲法上巻」有斐閣484頁)、と。


先述のように、公共の福祉とは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=自然法に則った、
つまり人為法(似非法律)から解放された、
則自然法人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会(国家)に
生きる恵沢(めぐみ)のこと、だ。
生存権とは最低限度の人権(そのもの)のことだ。
人権(そのもの)は、人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
生きていかなければならない、超法規的権利義務のことである。
そうだとすると、憲法は、
25条で人権(そのもの)を確認するとともに、
19条20条21条23条22条29条などで
暫定自由権を人権(そのもの)擁護システムの一環として確認
している、と考えられてくる。
「註解日本國憲法」が本当に言わんとしている真意も、
そういうことではないだろうか。


要するに、従来の憲法学は、
絶対自由権を観念することと生存権を観念することとの
理論的矛盾に苦慮してきたのである。
そして、結局は、その矛盾を解決することが出来ないまま、
絶対自由権と社会権との名の下に併存させることで、
糊塗してきたのである。
その矛盾を突く形で、絶対自由資本主義国家主義化を
企てているのが、今の自民党でありその側近憲法学者たちだ。
それは、国家主義絶対自由制度資本主義妄想似非社会・国家が
行き詰まった結果の戦争の反省が出来ないということでもある。
憲法9条の改正の意向はその線上にある。


憲法前文にある「自由のもたらす恵沢」とは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=自然法に則った、
つまり人為法(似非法律)から解放された、
則自然法人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会(国家)に
生きる恵沢(めぐみ)のことに違いない。
自由の本義は人為法からの解放=則自然法による人権(そのもの)
擁護だ。
そして、暫定自由権は人権(そのもの)擁護システムの一環として
存在している。
人権(そのもの)を守るための方策=規制に反しない限り、
取りあえずの自由、すなわち暫定自由とし、健康で文化的な生活の
進歩向上を促す、というのが、趣旨のはずだ。





4 (
憲法29条が保障するのは
   財産権暫定自由で絶対自由ではない
)

法学サイドからも、
絶対自由制度資本主義妄想がこう語られてきた。
曰く。
「19世紀初頭のナポレオン法典が明らかにした近代市民法
の基本原則は、
「所有権絶対の原則」、「契約自由の原則」および
「過失責任の原則」の三つである。
「所有権絶対の原則」とは、
一面では、国家と国民との関係で、
国家は個人の所有権を侵すことができないということである。
日本国憲法29条1項でも、
「財産権は、これを侵してはならない。」という形で、
国民の基本的人権の一つとしてこの原則を定めている。
これに対して、国民相互の関係では、
個人は自分の所有物を排他的に、自由に利用し、
あるいは処分することができるということである。
所有権は私有財産制度の法形式であるといえるが、
これが絶対的に保障されることによって、
人は自分の経済的な活動の結果を
自分のものとすることができるし、
さらに、それを投資することによって、
あらたな経済活動を開始することができる。」
「所有権絶対の原則は、
人が自分の所有物を資本にして、
あらたに経済活動を開始する自由をも保障する。
そして、その新たな経済活動の結果もまた、
所有権の対象として法的にまもられる。
これが、いわゆる資本の再生産の法的な形式であって、
このように、近代的な所有権は、
所有権者の経済活動の自由――とりもなおさず、
契約の自由――と不可分の関係にある。
結局、「所有権絶対の原則」と「契約自由の原則」とは、
個人の経済活動の自由を法的に保障するための
二つの側面であるということができる。」
(倉沢康一郎「プレップ法と法学」
弘文堂プレップ法学112頁、115頁)、と。


しかし、憲法29条が保障しているのは、財産(所有)権
暫定自由だ。
人権(そのもの)擁護システムの一環である財産(所有)権
暫定自由だ。


芦部信喜もこう言っていた。
曰く。
「歴史的にみると、
財産権は、18世紀の近代憲法においては、
個人の不可侵の人権と理解されていた。
1789年のフランス人権宣言の、
「所有権は、神聖かつ不可侵の権利である」という
規定(17条)は、この思想を表す。
しかし、社会国家思想の進展にともない、
財産権は社会的な拘束を負ったものと
考えられるようになった。
1919年のワイマール憲法が、
「所有権は義務を伴う。その行動は、
同時に公共の福祉に役立つべきである」(153条3項)と
規定したのは、
その思想を表現した典型的な例である。
第二次世界大戦後の憲法は、ほとんどすべて、
この思想に基づいて財産権を保障している。」
(芦部信喜「新版補訂憲法」岩波書店209頁以下)、と。


人間は生きていくという絶対的な目的を持った生き物だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で
文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、という
自然法はこの自然事実に由来する超法規社会(国家)規範だ。
現代暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム社会(国家)は、
この自然法に則った普遍的な人間社会(国家)であり、
戦後の日本社会(国家)だ。
自然法が社会(国家)の法として顕在化したのは現代になって
からだ。
社会国家(福祉国家)とは、すべての人が、社会(国家)の中で、
他者と共に、健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム社会(国家)
のことだ。
公共の福祉とは、則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)に生きる恵沢(めぐみ)幸福のこと、に違いない。


人権(そのもの)とは、人が生きていく権利のことだ。
正確には、人が、社会(国家)の中で他者と共に
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく・
いかなければならない、超法規的権利義務のことだ。
そのため自由が人権(そのもの)の意味で使われていると
考え得る例も少なくない。
基本的人権は
人権(そのもの)とそれを支える手段権利義務の総称だ。
人権(そのもの)は、直接的には、
「生命、自由及び幸福追求権」として憲法13条と
最低限度の人権(そのもの)、つまり生存権として
憲法25条に確認されている。
人権(そのもの)が社会(国家)権として顕在化したのは現代
になってからなのだ。


暫定自由制度は、人権(そのもの)を守るための事前規制は
必要最低限にとどめ、取りあえずは自由(暫定自由)とする
ことによって、人々の健康で文化的な生活の進歩向上を促し、
その後の人権(そのもの)侵害阻害損傷による社会(国家)の
歪みは、裁判制度や公共事業制度や帰属所得再評価不当利得
返還制度としての累進課税制度と連結した社会保障制度などの
社会補修復元制度を以て事後的に補修復元することとした
人権(そのもの)擁護システムだ。
ここでの産業形態は、当然、自然発生的な社会(国家)的分業だ。


要するに、人権(そのもの)が顕在化している現代社会(国家)では、
自由権は絶対自由権ではなく暫定自由権のことなのである。
絶対自由権というのは妄想でしかない。
憲法29条が保障するのも財産権暫定自由であって絶対自由では
ない。