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(第U編 絶対自由資本主義を原理原則とした社会あり得ない)






暫定自由分業制度社会が人権そのもの守る最も合理的な社会制度
                          (写真は長野県上高地)

第五部

 暫定自由分業制度社会

  人権そのもの守る
   最も合理的な社会制度

――
人権侵害規制社会保障制度
   連結一体の
   
暫定自由分業制度社会





人間は完全なる自由意思人などではない。
人間は、生きていく、
という絶対的な目的を持った生き物である。
だが、人間にとって、外界は一人で生きていくには、
余りにも厳しい。
となれば、すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくしかない。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範が法(自然法)だ。
そうするしかない、
そうするべきだ、
という超法規社会(国家)規範(=自然法=法)感覚が
本物の神の見えざる手だ。
となれば、どんな制度も権利義務も、
社会(国家)制度さえ、人権(そのもの)さえ、法律制度さえ、
その生みの親はこの本物の神の見えざる手であるはずだ。
どんな制度も権利義務も、出自は、
この一つの超法規社会(国家)規範(=自然法=法)感覚、
即ち本物の神の見えざる手のはずだ。
実際、戦後の日本が到達した、
法(自然法)に則った、
人権(そのもの)擁護暫定自由制度動的平衡一元社会(国家)は、
この本物の神の見えざる手が創ったとしか考えられない。
人権侵害規制と税と(広義の)社会保障制度とが
連結一体となったそれは、
人権(そのもの)を守る最も合理的な社会(国家)制度に違いない。



                        





        目 次


第1章

人権侵害規制と税と社会保障制度
  連結一体の暫定自由制度社会

  (規制と税と社会保障制度は連結一体)

1 (人権侵害規制は
   暫定自由制度の一環として存在している

2 (社会保障制度は
   則自然法暫定自由制度社会の社会補修復元制度

3 (税、特に累進課税制度は
   帰属所得再評価・社会補修復元制度

4 (国家代替制度ない限り福祉国家は作動し続ける、
   という卓見

5 (則自然法人権擁護暫定自由制度社会が
   現代型福祉国家論の真意



第2章

社会とは別次元の国家が存在する
  という妄想の起源は錯覚

  (社会国家二元論妄想起源錯覚)

1 (人が糊口をしのぐための所有権の保護
   を供与する国家という詐術

2 (アダム・スミスの見えざる手という
   社会国家二元化のための大詐術

3 (契約法律絶対化という
   社会国家二元化のための大詐術

4 (「国民共同体としての国家」という
   社会国家二元化のための大詐術

5 (「国による所得再分配」という
   社会国家二元化のための大詐術



第3章

社会国家二元妄想覚醒で
  人権擁護暫定自由制度社会顕現

  (妄想覚醒で暫定自由制度社会顕現)

1 (市民法行政法二元妄想覚醒で
   人権擁護暫定自由制度社会顕現

2 (公法私法二元妄想覚醒で
   人権擁護暫定自由制度社会顕現

3 (似非自由資本主義妄想覚醒で
   人権擁護暫定自由制度社会顕現

4 (似非自由資本国家主義三位一体妄想覚醒で
   暫定自由制度社会顕現

5 (国家社会二元妄想覚醒で
   人権擁護暫定自由制度社会顕現






                     





第1章

人権侵害規制と税と社会保障制度
 連結一体の暫定自由制度社会

  (規制と税と社会保障制度は連結一体)



1 (
人権侵害規制は
   暫定自由制度の一環として存在している


昼食に何をたべようか、どんなヘアスタイルにしようか、
テレビは何をみようか、どんな本を読もうか、
新聞は何新聞にするか、何時に寝ようか、
宗教を信ずるか信じないか、どの宗教を信ずるか、
どこの会社に就職しようか、どんな職業につこうか、
結婚するかしないか、誰と結婚するか、いつまで働くか、
可能な限り個人の自由だ。
だが、このような暫定自由は人権(そのもの)の枠内の事柄だ。
したがって、暫定自由は人権(そのもの)の属性だ。
人権(そのもの)は、
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
超法規的権利義務だ。
勿論、人権(そのもの)が実在しているのは、
人が生きていくために、
全ての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくために、
社会(国家)が組織された、
という事実があるからだ。
規制はこの人権(そのもの)を守る方策として存在している。
つまり、規制は人権侵害規制だ。
予め経験則的に、人権(そのもの)を侵害阻害することが、
判然としている事柄は、
事前に規制をするのが、合理的なのだ。
逆に言えば、
予め経験則的に、人権(そのもの)を侵害阻害することが
予測され存在するかぎり、
「規制がなくなることはありえない」、ということになる。
勿論、規制だけで人権(そのもの)なり社会(国家)が守られる
わけではない。
それ以外は取りあえず自由、即ち暫定自由とし、
事後的に、結果として、人権侵害により綻びてきた社会(国家)は
広義の社会保障制度によって補修復元するのが
暫定自由制度社会だ。
人権侵害規制は、人権(そのもの)を守る暫定自由制度の一環として
存在している、と考えられてくる。

原田尚彦は、
「規制がなくなることはありえない」、と、
こう言っている。
「いま、このことを示す身近な一例として、
ある人が土地を買い、工場を建てて操業しようと計画している場合を
考えてみよう。
この場合、土地の購入はむろん地主との民法上の売買であり、
工場の建設は建設会社との請負契約による。
いずれの行為もなんの変哲もない市民法上の行為であり、
もっぱら民法によって規律される。
そのかぎりでは、行政法上の問題は生じない。
しかし、現実の事態は、そう簡単ではない。
まず、工場を建てるには、
その土地が工場建設の許される土地かどうかを
確かめておかなければならない。
それには、都市計画法、建築基準法、自然公園法、農業の振興地域の
整備に関する法律など、
民法や刑法の勉強だけをしていたのでは滅多にお目にかからない
ような法律の規定を調べ、
その土地が行政によってどのような用途地域に指定されているかを
調べておく必要がある。
購入する土地が農地であれば、土地の売買には都道府県知事の
農地法上の許可が要るし、
農地であると否とにかかわらず、
土地の一定規模をこえるときには、さらに国土利用計画法上の届出を
し、都道府県知事の審査を受けなければならない。
ついで工場建設の段階になると、
建築計画を建築主事に提出して計画が建築基準法に適合しているか
どうかを確認してもらわなければならない。
そのほか、工場に公害関連施設を設置するには、
大気汚染防止法、水質汚濁防止法、騒音規制法、悪臭防止法などに
基づく届出が必要である。
こうした規制は国の法律によるものだけではない。
憲法で地方自治が保障され、
行政法上の基本原理とされている現在では、
国の法律の規定だけでなく、地元の地方公共団体の定める条例の規定
にも注意を向けなければならない(憲法94条、地方自治法14条参照)。
たとえば、公害関連施設を設置する場合には公害防止条例により届出
(場合によっては許可)が求められることが多く、
施設が条例上の基準に適合しない場合には、これらの条例に基づいて
都道府県知事または市町村長から施設の改善が命じられる。
また、環境アセスメント条例ないし要綱によってアセスメントの実施が
求められることもあるし、
自然環境保全条例による規制なども配慮しなければならない場合もある。
つぎに、工場が完成すると、上水道や工業用水道の供給、下水道の利用、
ごみの収集などを地方公共団体に依頼しなければならない。
産業廃棄物の処理は事業者自身の責務であるが、そのやり方については
都道府県知事のやかましい監督に服することとなる。
このように工場一つ建てるにも、建設者は行政と多くの場面で接触し、
規制や指導を受けたり、サービスの提供を仰がなければならない。
行政との関係は、大規模な危険施設になればなるほど、
いっそうその数を増してくる。
原子力発電所の建設などの場合には、
俗に33法66許認可≠ェ必要だなどといわれるほど規制が多い。
――もっとも、今日では、行政上の規制がおお過ぎ、民間活力の
発揮を削ぐことがあるので、
行政上の規制緩和(いわゆるデ・レギュレィション)の必要が叫ばれ、
自由競争を阻害する経済的規制については大幅な整理統合、
原則的廃止が求められている。
だが、現代の高度技術社会においてそこに生きる市民の生活を
社会的危険から予防するには、
最小限の社会的規制は不可欠であり、
規制がなくなることはありえない。」
(原田尚彦「プレップ行政法第二版」弘文堂プレップ法学3頁以下)、と。

規制がなくなることはありえないのは、
規制が人権(そのもの)を守る方策だから、だ。
要するに、規制は自由の規制ではなく人権侵害規制だ。
人権侵害規制は広義の社会保障制度とともに、
暫定自由制度の一環として存在している。
勿論、暫定自由制度が人権(そのもの)を守る最も合理的な
社会制度だから、である。
人類は、試行錯誤をくり返しながら、
数限りない犠牲を払いながら、
やっと人権(そのもの)を守る最も合理的な社会制度が
暫定自由制度であることに気が付いたのである。
アダム・スミスの見えざる手は、
この暫定自由を見ての、錯覚だった、と考えることができる。
だが、強欲で、戦略的で口八丁手八丁で、弁舌に長け、
詐欺的才覚がある欠落才覚人たちは、
彼らが限りなく豊かになることを可能にした
似非自由(資本)主義人工市場似非社会国家二元社会を是として
引き下がることができないでいるのである。
彼らは、どんなに社会的地位があろうが、
暫定自由を神の見えざる手と錯覚ないし擬制し、
似非自由(資本)主義社会国家二元社会を是と信じて疑わない、
愚か者たちだ。
人間社会(国家)が、心底、似非自由(資本)主義
人工市場似非社会・国家化することは、あり得ない。
当然、人権侵害規制がなくなることもあり得ない。



2 (
社会保障制度は
   則自然法暫定自由制度社会での社会補修復元制度


勿論、
狭義の社会保障制度とて決してゆすりたかりの制度ではない。
富者たちのおなさけにすがる制度でもない。
狭義の社会保障制度を含めて(広義の)社会保障制度は、
自然法に則った人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度社会(国家)
での、社会補修復元制度なのである。
つまり、人権侵害規制とともに、暫定自由制度の一環として
存在しているのである。
勿論、暫定自由制度が人権(そのもの)を守る最も合理的な
社会制度だから、である。
人類は、試行錯誤をくり返しながら、
数限りない犠牲を払いながら、
やっと人権(そのもの)を守る最も合理的な社会制度が
暫定自由制度社会であることに
気が付いたのである。
だが、強欲で、戦略的で口八丁手八丁で、弁舌に長け、
詐欺的才覚がある欠落才覚人たちは、
彼らが限りなく豊かになることを可能にした
似非自由(資本)主義人工市場似非社会国家二元社会を是として
引き下がることができないでいるのである。

植村尚史早大教授は、
狭義の社会保障制度を次のように説明している。
「社会保障制度とは、
「生涯のうちに遭遇する可能性のある、
さまざまな生活上の危機や困難を回避、軽減するための仕組み」
であるということができます。
長い人生には、
それまでの生活を維持していくことが困難になってしまうような、
生活上の危機に遭遇する可能性があります。
例えば、病気になって働けなくなる、莫大な医療費がかかる、
高齢になって働けなくなり収入の途が途絶える、
寝たきりになって介護を受けることが必要になる、
などです。
人間は、そのような危機に遭遇する可能性があることを知り、
それを避けるための準備をしておこうとします。
まず考えることは、自分でお金を貯めて、
いざというときのために備えるということでしょう。
しかし、生涯に遭遇する危機はどれだけあるのか、
個人では確定的な予測はできません。
生きるか死ぬかの病気になるかもしれませんが、
ずっと元気で医者にかかることさえないかもしれません。
定年で退職して収入がなくなるということは予測できますが、
退職後いつまで長生きするかはわかりません。
あらゆる可能性に対応できるように個人で準備しておくには
限界があります。
よりしっかりした安心のためには、
個人ではなく集団で対応するほうが合理的です。
まずは、家族や親戚、隣近所といった小集団=いわば身内
といえるような範囲で、
お互いに困ったときに助け合うことを考えます。
そういう助け合いは、家族や近隣社会が生産や生活の場でもあり、
だれかが病気になったり働けなくなったりしても、
周りの人がそれをカバーし、
援助するということができるところでは有効にはたらくかもしれません。
しかし、都会のサラリーマンにはなかなかむずかしいことです。
都会のサラリーマンは、
会社=職場でお互いに助け合うということも
できないわけではありません。
しかし、会社はある年齢になると退職しなくてはなりませんし、
景気が悪くなると会社ごと苦しくなることもあります。
会社に自分の生活上の危機を回避する仕組みを任せることにも
限界があります。
そう考えていくと、
もっと大きな集団、あるいは社会全体でリスクを分散するほうが、
確実で安全ということになります。
こうして、制度として社会保障が生まれてきたのです。
このように、社会保障というのは、
生活上の危機を社会全体で分散して確実に危険を避け、
しかも個人の負担を軽くする合理的な仕組みということができます。」
(植村尚史
「図説これからはじめる社会保障[第4版]」日本加除出版2頁以下)、と。

「生涯のうちに遭遇する可能性のある、
さまざまな生活上の危機や困難を回避、軽減するための仕組み」
を欠いたら、
社会(国家)は崩壊してしまうのである。
社会(国家)は、
全ての人が生きていくために、
全ての人が健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくために、
組織されたものなのだから・・・。
狭義の社会保障制度を含めた広義の社会保障制度は、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則自然法人権(そのもの)擁護暫定自由制度
動的平衡組織社会(国家)の骨格の一部をなす、
税特に累進課税制度と一体となった、
帰属所得再評価・社会(国家)補修復元制度なのである。
所有権と自由と契約法律と国家が絶対(正義)化された、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の、
欠落才覚人天下人工市場似非社会国家二元社会では、
原理的に存在し得ない制度である。



3 (
税、特に累進課税制度は
   帰属所得再評価・社会補修復元制度


人間にとって一番大切なことは、生きていくこと、生存だ。
だが、人間が生きていく、ということは、
単に糊口をしのぐ、ということではなく、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、ということだ。
取りあえずの自由・暫定自由なのは、
契約暫定自由原則なのは、
健康で文化的な生活の形は、
流動的で発展的なものであり、予めきちっと決められた形で
存在しているものではないからだ。

結局、まず、
人権(そのもの)を侵害阻害することが
経験則的に予め判然としている事は事前にきちんと規制する。
それ以外は取りあえず暫定的に自由とする。
所有権暫定自由の原則、契約暫定自由の原則、
暫定自己責任の原則だ。
その結果もたらされる社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
「狭義の社会保障制度などの生活基盤保障制度と累進課税制度
一体の帰属所得再評価・不当利得返還・社会(国家)補修復元制度」
を以て是正ないし補修復元する。
勿論、その執行の任に直接当たるのは、暫定自由制度社会の
執行部(国会・内閣(政府))だ。
それが、超法規社会(国家)規範=法(自然法)に則った、
暫定自由制度を以て人権(そのもの)を守る、
則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度
一元社会(国家)だ。
そこでは、規制と税と(広義の)社会保障制度とが連結一体となって、
暫定自由制度を成している。
暫定自由制度は、規制と税と生(広義の)社会保障制度とが連結一体
となってできている。

税、特に累進課税制度は、
帰属所得再評価・不当利得返還・社会補修復元制度だ。
全ての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範が法(自然法)だ。
この法(自然法)=超法規社会(国家)規範に照らし見ても、
測れない、判然としない事柄は、この世に、いくらでもある、
少なくない。
その時、そのような場合に、お出ましになるのが、
行為の当事者間の合意で作られる契約法律である。
ということは、当事者間の合意ないし契約法律の結果結末に、
少なくとも絶対的な、正当性ないし合理性はない、
ということである。
これは、
当事者間の合意ないし契約法律によって帰属した所得に
少なくとも絶対的な、合理性・絶対(正義)性はない、
ということを意味している。

高所得は、単に個人の能力や努力によって得られるものではなく、
「分業の恩恵、共通言語の恩恵、生活基盤(インフラ)の恩恵」、
利用なくしては、
そういう「社会(国家)の仕組みをうまく利用」することなしには、
あり得ない。
当事者間の合意ないし契約法律によって暫定的に帰属した帰属所得を、
そのまま、全部、自分のものとして所有するとしたら、
それは不当利得である。
法(自然法)に則った
人権(そのもの)擁護暫定自由制度一元社会(国家)での
税、特に累進課税制度は、
当事者間の合意ないし契約法律によって暫定的に帰属した所得を、
超法規社会(国家)規範=法(自然法)という物差しで、
社会(国家)的に再評価し、
超過(過多)帰属所得を、社会(国家)へ返還させ、
「良好な自然環境、良好な公共財、十分な(狭義の)社会保障制度、
人権(そのもの)守る法律制度、狭義の国家(執行部)制度」、という
生活基盤(インフラ)の構築・保守のための費用として充てる、
(広義の)社会(国家)保障制度である。
その法律的性格は、法(自然法)を理念とする不当利得返還制度である。



4 (
国家代替制度ない限り福祉国家は作動し続ける、
   という卓見


佐藤成基法政大学教授は、
「それに応えるような、
国家に代替する制度が確立されないかぎり、
福祉国家は作動し続けるだろう。」、と言っている。
案外卓見なのではないだろうか。
曰く。
「福祉国家の正当性
1950年代から60年代にかけて、
西欧北米の先進諸国の福祉国家は「黄金時代」を迎えることになる。
福祉国家の社会保障政策は、累進課税制度の導入とともに、
国民の所得・資産の「公正」な再配分を実行する体制を確立していく。
そのような再配分は、
所得や資産の多い人間から少ない人間に向けた
強制的な「社会移転」をともなう。
私的所有権を絶対とする立場に立てば、
このような強制的社会移転は、
国家による不当な「略奪」と見なされるかもしれない。
しかし福祉国家の「黄金時代」では、
このような社会移転を「正当」であると見なす考え方が、
所得資産の多寡にかかわらず、国民全体に広く共有されていった。
なぜだろうか。
その理由の1つはこの時代、
国民が自分たちを1つの共同体として理解する国民的連帯感が
共有されていたからだと考えられる。
このような「想像された」国民的な連帯感は、
見ず知らずの国民の間での社会移転を当然のものとして受け入れ、
福祉国家の再配分政策に正当性を付与する役割を果たした。
しかし第2次世界大戦後の福祉国家の正当性には、
国民的連帯感とは別の、より学問的な論理も寄与している。
それはイギリスの経済学者メイナード・ケインズの経済理論に基づく、
いわゆる「ケインズ主義」の思想である。
ケインズ理論は、「労働者対資本家」というマルクス主義的な階級対立
図式を否定し、
労働者の完全雇用が資本家の利益にも結び付くということを
経済学的に論証したものだった。
つまりこの経済理論は、国家の財政的出動を通じて、
労働者と資本家が1つの利益共同体を形成しうることを
示すものだった。
実際、戦後先進資本主義諸国の経済成長は
労働者にも資本家にも恩恵をもたらした。
それはケインズ主義理論の「正しさ」を実証するものと見なされた。

福祉国家の「危機」
しかし福祉国家の「黄金時代は長くは続かなかった。
1970年代のオイルショックによって戦後の経済成長に翳りが見え、
福祉国家を支える財源が逼迫してきた。
ケインズ理論に代って台頭した新自由主義の経済理論は、
国家の経済介入が市場の活力を失わせるものであり、
社会福祉政策は労働者の労働意欲をそぎ、
社会給付に依存する「怠惰な人間」を生み出しているとして、
市場の競争原理を重視した「小さな政府」を提唱したのである。
また80年代に始まるグローバル化は、
「国民」を社会経済的な単位とみなす考え方を時代遅れのものとする
グローバリズムの思想を台頭させた。
こうして福祉国家は財政面だけでなく、その正当性の面でも
危機にさらされることになった。
しかしこのような福祉国家の危機は、
オイルショックやグローバル化のような外在的な要因だけによって
もたらされたものではない。
そもそも福祉国家の制度それ自体に、
危機をもたらす仕組みが内在していた。
なぜなら福祉国家は、カバーする領域を増やせば増やすほど、
社会的給付に対する社会からの要求を生み出してしまう
ものだからである。
それをドイツの社会学者ニクラス・ルーマンは、
「自己駆動装置をつけた自動車」に例えた。
福祉国家は、
「保障」の対象の設定と、それに対する財政的給付によって、
不遇なものと優遇されたものとの不平等への感度を
高めることになった。
民主主義政治(政党や市民団体)が、その不平等を政治的要求へと
転化させる。
国家はその要求に応え、
「不遇」な人々に対して補填を迫られることになる。
ひとたび補填がおこなわれると、
補填への要求はとどまるところを知らない。
「なぜなら、問題設定しだいで、
すべての格差が補填の対象になりうるし、
それでも他に格差が残るか、あらたな欠損が生じるかして、
それがまた補填を要求するからである」。
こうして福祉国家には常に過剰な要求が向けられるようになる。
その結果、「福祉国家はあまりに高く付くようになる。
福祉国家はインフレーションの傾向を促進し、
それがこんどは福祉国家を破産させる」。
このように、福祉国家は現在、
外在的にも内在的にも「危機」に陥っている。
だが、だからといって
福祉国家が「衰退」に向かっているというわけでもない。
直面する困難にもかかわらず、
その困難を梃子にしながら福祉国家は作動し続けている。
財政的に逼迫した状況にありながら、
国民からの社会福祉への要求(ルーマン流に言うと
不遇への「補填」の要求)が消失することはなく
(少子高齢化はむしろ社会福祉への要求を高めている)、
しかもその多くが依然として国家に向けられている。
それに応えるような、国家に代替する制度が確立されないかぎり、
福祉国家は作動し続けるだろう。」
(佐藤成基「国家の社会学」青弓社224頁以下)、と。

では、何故「福祉国家は作動し続ける」のだろうか。
「国民からの社会福祉への要求(ルーマン流に言うと
不遇への「補填」の要求)が消失することはない」から、
と考えるのは、皮相だ。
言うまでもなく、それは、
福祉国家の真意が
自然法に則った人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会(国家)にあり、
すでに顕現しているから、である。
確かに、学問の世界においては、
「国家に代替する制度が確立されていない」のは、事実である。
しかし、現実には、
似非自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会
を支える絶対万能権力国家は、はじめから妄想でしかない。
則自然法暫定自由制度一元組織社会(国家)で、
人権(そのもの)を擁護する責任と権限を持っている国会と内閣は
暫定自由制度組織社会の執行部でしかない。
国家とは、
人権(そのもの)を擁護する責任と権限を持った執行部(国会と内閣)
を備え持った、
則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度システム社会の
別称でしかない。

それにしても、福祉国家論はなってない。
全ての人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度一元社会(国家)の
萌芽が、
似非自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家
二元論妄想に冒されている
学者たちによって、
摘まれてしまったのは、仕方のないことだろう。
だが、はっきりしていることは、
似非自由(資本)主義似非社会・国家主義を
心底から原理原則とした社会など
古今東西どこにもあり得ない、ということだ。



5 (
則自然法人権擁護暫定自由制度社会が
   現代型福祉国家論の真意


戦前の大日本帝国憲法下の日本の社会は、
則人為法資本主義似非自由国家だった、と言っても大過ない。
しかし、戦後の日本はそうではない。
戦後の日本は、
全ての人が健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則自然法人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度社会(国家)だ。
だが、福祉国家だとか、修正資本主義国家と誤解されてきた。
これは、学者も政治家もメディアも
則自然法人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会(国家)
というものを知らないから、に他ならない。
それだけだ。

原田尚彦は、現代型福祉国家をこう説明していた。
「18世紀、資本主義の勃興期においては、
市民各個の自主自立が尊重され、
行政による市民社会への干渉は極力回避すべきものとされた。
そこでは、「小さな政府」が標榜され、
行政の守備範囲を狭く限定して、
行政の任務はただ市民社会の自立的秩序を保持し、
秩序違反者を取り締まることのみに限られるべきであると考えられた。
こうした理想に立つ国家を通常「自由国家」という。
ときにはやや揶揄的意味をこめて「夜警国家」ということもある。
だが、夜警国家においても、市民社会の秩序の保持、国土の防衛、
公共施設の整備、そしてそのための財源の調達は、
国家ないし集団の存立にとって不可欠であった。
自由放任主義の主唱者であり「国富論」
(The wealth of the nations,1776)の著者であるアダム・スミス
(1723〜90)も、これらの作用が、社会の存立のためには欠かせない、
いわば必要悪ともいうべき作用であり、最小限、
国や公共団体の手で実施せざるをえないことを認めていた。
ところが、20世紀に入り、科学技術の長足の発展によって
高度産業社会が出現してくると、現代国家においては、
人びとの生活が高度化・複雑化したことにともない、
社会統合管理を目的とする行政作用の内容も複雑多岐になって
きたのである。
たとえば、密集した都市での市民生活の安全を守るには、
建築、消防、都市計画、衛生、公害などの規制をして
社会的な危険の管理をしなければならない。
過密化した都市においては、都市機能を維持し、
アメニティに富んだ生活環境を創造するために、
街路、公園、緑地、上下水道、交通・医療・文化等の施設を
整備する、いわゆる「基盤整序行政」が必要である。
また、福祉国家の理念のもとでは、
人びとの生存権を擁護して人間たるに値する生活を営ませる
ための社会保障・社会保険や、老人ホームなどの福祉施設を
整備する、いわゆる「給付行政」も欠かせない。
このように、かつての近代国家(自由主義国家)の行政は
「秩序維持行政」を中心とするものであったが、
現代の行政においては「基盤整序行政」や「給付行政」などが
重要性を増し、
現代国家における行政の守備範囲は、
好むと好まざるとにかかわらず、
広範化し政府機能は肥大化してきた。
市民と行政との関係は多面的かつ継続的なものとなり、
市民は「揺り駕籠から墓場まで」文字どおりその生涯を通じて
行政と係わりながら日常生活を送ることになった。
行政の国民生活に占める比重は、
近代型の自由国家から現代型の福祉国家への移行にともない、
かつて見られなかったほど増大し、
国民が行政を意識しないで生活していくことは、
もはや困難となっている。」
(原田尚彦「プレップ行政法第二版」弘文堂プレップ法学32頁以下)、と。

人間にとって一番大切なことは、生きていくこと、生存だ。
だが、人間が生きていく、ということは、
単に糊口をしのぐ、ということではなく、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、ということだ。
取りあえずの自由・暫定自由なのは、
契約暫定自由原則なのは、
健康で文化的な生活の形は、
流動的で発展的なものであり、予めきちっと決められた形で
存在しているものではないからだ。

結局、まず、
人権(そのもの)を侵害阻害することが
経験則的に予め判然としている事は事前にきちんと規制する。
それ以外は取りあえず暫定的に自由とする。
所有権暫定自由の原則、契約暫定自由の原則、
暫定自己責任の原則だ。
その結果もたらされる社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
「狭義の社会保障制度などの生活基盤保障制度と累進課税制度
一体の帰属所得再評価・不当利得返還・社会(国家)補修復元制度」
を以て是正ないし補修復元する。
勿論、その執行の任に直接当たるのは、暫定自由制度社会の、
人権(そのもの)擁護の責任と権限を持った、
執行部(国会・内閣(政府))だ。
この則自然法人権(そのもの)擁護暫定自由制度一元社会(国家)が、
福祉国家だとか、修正資本(自由)主義社会だと
誤解されてきたのである。
人権侵害規制と税と(広義の)社会保障制度とが連結一体でなり、
当然、均衡がとれた動的平衡をなす一元社会(国家)だ。





第2章

社会とは別次元の国家が存在する
  という妄想の起源は錯覚

  (社会国家二元論妄想起源錯覚)



1 (
人が糊口をしのぐための所有権の保護
   を供与する国家という詐術


人間の頭脳は、生きていく、という絶対的な目的を持っている。
だが、人間は、社会(国家)を組織して、
みんなで生きていく以外に、生きていく道はない、
というのは、厳然たる事実だ。
勿論、生きていく、ということは、
単に糊口をしのぐ、ということではなく、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
ということだ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範=法(自然法)は、
その結果として実在するものだ。
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きてい超法規的権利、
即ち人権(そのもの)が実在するのは、
社会(国家)がそういうものである故だ。

社会とは別次元の国家が存在するという妄想の起源は
何なんであろうか。
前近代という時代は、大半の民衆にとっては、
生きていくことがままならないほど厳しかったろう。
人が糊口をしのぐための所有権の保護を供与する国家
という触れ込みは、詐術として十分だったのではないだろうか。

猪口孝は、
近代になって、
「所有権の保護を供与する国家」、
「なにをおいても私有権を擁護する国家」が唱えられたことに、
「国家と社会と明確に分けて考えていく思考の始まりがあった」、
と言っててる。
曰く。
「市民の自由を護り、意思を尊重するためには厳然と遵守される
法と秩序が存在しなければならない。
そのような法と秩序はどのようにして可能になるか。
ホッブスは人民によって与えられた絶対主権をもつ国家があればこそ
可能であるといい、
ロックは国家に全権を委ねるのではなく、人民の安全と自由と所有を
守るかぎりにおいてであるとした。
二人の到達点は大きく異なるが、
ここで注意しなければならないのは、両者とも国内の無法状態を避け、
外からの侵略を防ぐこと――つまり個人の安全と自由を保つことを
国家の重要な任務と考えたことであり、
人民の同意が国家運営に不可欠としていることである。
「法が絶えるところはどこでも暴政がはじまる」(ロック)のである。
ホッブスもロックも個人の所有権の保護を強調した。
ホッブスはそのような保護を国家がすべての人に供与するかぎりに
おいて、国家の権威が維持されるとした。
ロックにとっても同様で、
国家はなにをおいても私有権を擁護すべきであるとした。
したがって、ホッブスやロックの思想は「保護の民主主義」といわれる。
ここに、国家と社会と明確に分けて考えていく思考の始まりがあった
といえる。」
(猪口孝「国家と社会」東京大学出版会25頁以下)、と。



2 (
アダム・スミスの見えざる手という
   社会国家二元化のための大詐術


人間の頭脳は、生きていく、という絶対的な目的を持っている。
だが、人間は、社会(国家)を組織して、
みんなで生きていく以外に、生きていく道はない、
というのは、厳然たる事実だ。
勿論、生きていく、ということは、
単に糊口をしのぐ、ということではなく、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
ということだ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範=法(自然法)は、
その結果として実在するものだ。
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きてい超法規的権利、
即ち人権(そのもの)が実在するのは、
社会(国家)がそういうものである故だ。
とすれば、自由の本義は、
人為法からの解放、
即ちこの超法規社会(国家)規範=法(自然法)に則ること
にあるはずだ。
勿論、すべての人が、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則法(自然法)人権擁護暫定自由動的平衡制度社会は、
人権侵害規制と税と(広義の)社会保障制度とが連結一体と
なった、一元社会(国家)だ。

だが、(本物の)神の見えざる手が欠落している
欠落才覚人たちには、
そうは考えられなかった。
竹中平蔵慶応大学教授は、
こう言っている。
「しかし、徐々に「自由」という考え方が入ってくる。
たとえば、八百屋の息子が八百屋にならずに職人になる、
という自由である。
仮にそのような自由が実現できる社会になると、
きわめて大きな問題が生ずることになる。
たとえば、その社会から八百屋が一人もいなくなるかもしれない。
そんなことになれば、社会が大混乱するという心配が生じるのだ。
そういう時代にアダム・スミスが登場し、
そのような心配には及ばないことを証明した。
八百屋の数が少なくなれば、八百屋の儲けが増える。
そうすれば、儲かる八百屋になりたいという人が必ず出てきて、
八百屋の数は増える。
そのようにして八百屋の数は一定に保たれる。
つまり、市場メカニズムという見えざる手≠ェ働いて、
社会の秩序は維持されると、
アダム・スミスは主張したのである。
つまり、前例や慣習あるいは絶対君主の命令が社会秩序を維持する
という時代が終わりつつあり、
新しい自由な生き方が世の中を支配しはじめていた。
そして、自由な生き方で世の中の秩序が保たれることを解説する
役割を担う経済学者が、必要になってきたのである。
アダム・スミスはまさにそのような時代の要請を受けて、『国富論』を
書き上げたと言ってもいいかもしれない。」
(竹中平蔵「経済古典は役に立つ」光文社新書25頁)、と。

欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の
似非自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家は、
欠落才覚人たちが、限りなく豊かになることを夢見た
幻覚でしかない。
暫定自由は、健康で文化的な生活が流動的発展的なものであり、
決して予めきちっと決められた形で存在している、
というものではないからだ。
絶対自由など存在し得ない。
八百屋の息子は八百屋にしかなり得ない
封建社会(国家)が誤りなのは、
それが超法規社会(国家)規範=法(自然法)に抵触するからだ。

要するに、アダム・スミスの見えざる手というのは、
社会国家二元化のための大詐術なのである。
勿論、その目的は、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の
似非自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家
の築造だ。



3 (
契約法律絶対化という
   社会国家二元化のための大詐術


富や所得の再分配制度は、
行為の当事者間で作られた契約法律によって帰属したに過ぎない
富や所得を、
法(自然法)=超法規社会(国家)規範に照らして再評価し、
超過不当利得分を社会(国家)に返還させ、
社会(国家)の補修復元の費用に充てる制度である。
したがって、再分配制度は、社会(国家)補修復元制度を
所得の分配という視点からとらえた言葉だ。
すべての人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という法(自然法)=超法規社会(国家)規範に則った社会(国家)
では、契約は、自由は、取りあえずの自由として、
暫定自由として存在している。
それは、健康で文化的な生活は、流動的発展的なもので、
決して、きちっと予め決められた形で存在しているものではない
から、だ。
また、富や所得は、
分業の恩恵、共通言語の恩恵、インフラ(生活基盤)の恩恵
あってのもの、だからである。
そもそも、社会(国家)そのものが、
すべての人が、健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
ことを目的とした、
人権(そのもの)擁護暫定自由制度動的平衡組織体だからだ。

資本主義に富や所得の再分配制度がないのは、
資本主義が、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした、
人工市場似非社会・国家を是とする妄想だから、に他ならない。
欠落才覚人たちが最大限報われるような仕様に人為的に
作られるのが、資本主義人工市場似非社会・国家だ。

週刊東洋経済は、
「経済学は「分配」をどう考えてきたのか」、こうリポートしている。
「これまで過去1世紀近くにわたり、
経済学は分配について多くを語ってこなかった。
18世紀に重農主義の経済学者フランソワ・ケネーらが
現在の国民所得に相当する概念を開拓したあたりから、
分配問題は経済学の主要な部分を占めてきた。
最初の重要人物が古典派のディビッド・リカードだ。
アダム・スミスの考え方を精緻な経済学へと昇華させた
リカードだが、その目的意識は明確だった。
友人で『人口論』の著書でもあるロバート・マルサスに
次のような手紙を書いている。
「経済学は富の性質と原因に関する研究だと
あなたはお考えですが、
私に言わせれば経済学は、
産業の生産物がその生産にともに当たった諸階級の間に
いかに分配されるか、
その分配を決定する法則に関する研究にほかなりません」。
リカードの念頭にあったのは、
資本主義が自らの分配の法則を推し進めることにより、
社会が最終的にどのようになるのかという問題意識だ。
その結論は、
当時世間から「憂鬱な科学」と呼ばれる理由になった。
すなわち「最終的な定常状態では、資本家も労働者も貧しくなり、
ただ地主だけが豊かになる」。
その裏付けとなった理論モデルは現在でも応用されるほど
精巧だったが、
工業化と技術革新の進展によって、
予言≠ェ実現することはなかった。
限界革命の登場とピグーの挑戦
その後、労働者の困窮化が進む中で社会主義運動が広がりを
見せる。
自由主義の哲学者J・S・ミルは、
リカードの考え方を踏襲した経済学の大著を記すが、
「物理的真理に規定される生産法則は効率性に逆らえないが、
分配の法則は人為的制度の問題でもあり、
われわれが望ましいと思う方向に変えることができる」と論じた。
ほぼ同時期にカール・マルクスが、
より強烈な共産主義への扇動≠行なったのは周知のとおり。
だが、この時期をもって分配問題を主要部分とする「政治経済学」の
時代は終わりを告げたのだった。
代って中心に躍り出たのが、「限界革命」呼ばれる経済理論だ。
人間の主観的な満足度(効用)を拠り所としながら、
それを最大化するにはどうしたらよいのかを微分積分学の活用で
追求する限界効用理論は、
経済学の世界にたちどころに行き渡った。
現在も経済学界を支配する新古典派の誕生である。
限界革命から約半世紀後。
一人の男が民主的な再分配政策を限界効用理論によって推進しようと
試みた。
英ケンブリッジ学派のアーサー・ピグーである。・・・・
マーシャルの後継者ピグーは1920年『厚生経済学』を公刊し、
「国民所得を一定とすると、貧者の所得を増やせば国民全体の効用は
増大する」という命題を打ち立てた。
これは、1万円を分配するとしても、そこから生まれる満足度は富者より
貧者のほうが大きいという至極当然の発想から出発している。
「分配は科学たりえず」
ロビンズ説が主流に
ところが、ピグーの命題に大きな批判が巻き起こる。
ケンブリッジに対抗するロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの経済学者
ライオネル・ロビンズは、
「異なった人の満足度を比較する方法はない。
経済学に価値判断を伴う分配問題を持ち込むべきではない」と論難。
経済学界はロビンズのほうに軍配を上げる。・・・
これ以後、経済学は効率性を追求する「科学」へと変容した。
経済黄金時代の50年代、
サイモン・クズネッツが打ち立てた「逆U字仮説」によって
「資本主義は自動的に格差を縮小させる」という認識が
定着したこともあり、
経済学の主流から分配問題は完全に脱落した。
不平等が自然になくなるなら、なぜ分配問題を考える必要があるのか。
経済全体のパイを増やすことこそが結局、
すべての人にとっての幸福となるのではないか――。
そうした中で、ロバート・ソローらの経済成長理論が開花、
経済の潜在成長力拡大が経済学の不動の中心テーマとなる。
アベノミクスでもよく話題に上る
「富者が富めば、貧者にも自然と富が滴り落ちる」という
トリクルダウンもこの流れから出てきた枝葉末節の理論だ。」
(「経済学は「分配」をどう考えてきたのか」
週刊東洋経済2015年11月31日号62頁以下)、と。

どんな理屈を取り付けようが、
似非自由主義資本主義人工市場似非社会・国家は、
所有権と契約法律が絶対(正義)化された、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになり得る仕様の
人工の社会・国家だ。
効用や経済成長と何の関係も無い。
それは、詐術の一種でしかない。
契約法律によって帰属した富や所得を
自然法=超法規社会(国家)規範に照らして再評価し、
超過不当利得分を社会(国家)に返還させ、
社会(国家)の補修復元の費用に充てる
社会(国家)補修復元制度・所得再分配制度は存在し得ない。



4 (
「国民共同体としての国家」という
   社会国家二元化のための大詐術


先述のように、
人間の頭脳は、生きていく、という絶対的な目的を持っている。
だが、人間は、社会(国家)を組織して、
みんなで生きていく以外に、生きていく道はない、
というのは、厳然たる事実だ。
勿論、生きていく、ということは、
単に糊口をしのぐ、ということではなく、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
ということだ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範=法(自然法)は、
その結果として実在するものだ。
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きてい超法規的権利、
即ち人権(そのもの)が実在するのは、
社会(国家)がそういうものである故だ。
とすれば、自由の本義は、
人為法からの解放、
即ちこの超法規社会(国家)規範=法(自然法)に則ること
にあるはずだ。
勿論、すべての人が、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則法(自然法)人権擁護暫定自由動的平衡制度社会は、
人権侵害規制と税と(広義の)社会保障制度とが連結一体と
なった、一元社会(国家)だ。
暫定自由は、健康で文化的な生活が流動的発展的なものであり、
決して予めきちっと決められた形で存在している、
というものではないからだ。
つまり、暫定自由は、生きていく、つまり健康で文化的な生活を
営むべく自由に生きていくための手段として存在している。

欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の
似非自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家
主義と
似非保守主義ないし国家主義とは、
皮相での大きな違いにもかかわらず、
超法規社会(国家)規範=法(自然法)ないし人権(そのもの)が
欠落していることにおいては、全く同じだ。

百地章日本大学教授は、
「国民共同体としての国家」を
次のように説いている。
曰く。
「社会契約説は、抽象的な個人というものを出発点とし、
国家を個人の合意によってつくられたものと見た。・・・
これとは対照的に、この国家有機体説の特徴は、
国家を個々の国民が生まれ落ちる以前から存在するもの、
つまり歴史的・伝統的な存在とみるところにある。
そして国家とは、合理性だけでなく非合理性をあわせもった
精神的存在と考える。
つまり国家とは、単なる抽象的な個人の集合体ではなく、
歴史、文化、伝統を背景にもった具体的な国民の共同体
つまり有機的共同体であるとする。」
「しかしながら、この両説については次のように考えるのが
妥当ではなかろうか。
つまり、政府と国家を区別し、
社会契約説的国家論にいうところの「国家」とは、
実は「政府」のことであり、
国家有機体説のいう「国家」こそがまさに「国家の本質」を
いい当てたものにほかならないというように考えるわけである。
もちろんその場合にも、両説の主張がそのまま無条件で妥当
するわけではない。
しかし「政府」の説明としてであれば、
それこそ社会契約説のいうように、
国民の意思を基に、国民の合意によって作られたのが政府であり、
国民あっての政府であるといいうる。
それゆえ政府のためではなく、国民のためにこそ政府が存在する
ということになる。
他方、そのような政府をも含む国民共同体としての国家、
つまりステイト(state)ではなくネイション(nation)としての国家
についていえば、
「国家」とはまさに国家有機体説の主張するように、
歴史的に形成されてきた国民の共同体であり、
一種の生命体と見るべきではないだろうか。」
「このことは、これを「家族」にたとえてみると良くわかる。
家族とは、決して単なる個人の集合体ではない。
夫婦、親子の愛情や信頼関係、家族としての一体感や共通の思い出、
さらには家族の歴史、その他もろもろの有機的な関係が存在してこそ
本当の家族といいうるはずである。
それと同様に、国家もまた単なる個人の集合体にとどまらず、
共通の歴史、文化、伝統を有する国民の共同体、
つまり有機体(生命体)と見るべきである。」
(百地章「憲法の常識 常識の憲法」文春新書25頁以下)、と。

要するに、似非保守主義・国家主義も
超法規社会(国家)規範=法(自然法)ないし
人権(そのもの)が欠落している故に、誤りなのである。
勿論、それは、生きていくために社会(国家)は組織された、
という事実が理解できなくなってしまっているから、だろう。
社会(国家)は、
歴史や文化や伝統を持った単なる有機的共同体なのではなく、
すべての人が、生きていく、
つまり健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
という目的を持った、
人権侵害規制と税と(広義の)社会保障制度とが連結一体の
暫定自由動的平衡制度システム社会(国家)だ。



5 (
「国による所得再分配」という
   社会国家二元化のための大詐術


所有権自由契約法律国家絶対(正義)化した
似非自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会に
所得再分配制度はない道理だ。
とすると、「市場競争の結果、格差が生まれてしまうのは事実である。
経済学者の多くは、市場競争で豊かさを達成し、
その成果を分配し直すことで格差に対処するべきだと考えている。」、
という
「国による所得再分配」制度とはどういうことだろうか。
考えられることは、
「国による所得再分配」というのは、
社会国家二元化のための大詐術ではないか、ということだ。
社会(国家)を、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能な仕様の
欠落才覚人天下人工市場似非社会化し、
それを絶対万能妄想国家が支える、ための大詐術だ、
と考えられてくる。
当然、本音では、「成果を分配し直す」気などない、ということだ。

まず、大竹文雄大阪大学教授は、
「国による所得再分配」大詐術を
次のように説いている。
曰く。
「1 市場経済にも国の役割にも期待しない?
市場競争と所得再分配
「市場による自由競争によって効率性を高め、
貧困問題はセーフティネットによる所得再分配で解決すること
が望ましい」。
これは、どんな経済学の教科書にも書いてあることだ。
実際、ほとんどの経済学者は
この市場競争とセーフティネットの組み合わせによって
私たちが豊かさと格差解消を達成できると考えている。
ところが、この組み合わせは日本人の常識ではないようだ。
日本では、格差解消は規制緩和によって発生した
と考えている人が多い。
格差を解消するためには、
行きすぎた規制緩和をもとに戻すべきだというのが
標準的な議論になっているのではないだろうか。
しかし、こうした考え方は、経済学者からみると
とても違和感がある。
市場競争で格差が発生したら、
それに対する対策は基本的には二つである。
第一に、政府による社会保障を通じた再分配政策によって
格差を解消することであり、
第二に、低所得の人たちに技能を身につけさせて高い所得を
得られるよう教育・訓練を充実することである。
では、なぜこういう議論が日本で主流にならないのだろうか。
これは、世界各国共通のことなのだろうか。
格差より市場競争?
「貧富の格差が生じるとしても、
自由な市場競争経済で多くの人びとはより良くなる」
という考え方にあなたは賛成するだろうか。
アメリカの調査機関であるピュー研究所は、
2007年のピュー・グローバル意識調査で、
世界各国でこの質問を行なっている。
この結果を示しているのが図T―1である。
この図からわかるように、
主要国のなかで日本の市場経済への信頼は最も低く、
49パーセントの人しかこの考え方に賛成していない。
これに対してアメリカでは70パーセントの人が賛成している。」
(大竹文雄「競争と公平感」中公新書5頁以下)、と。

そして、実際、竹中平蔵慶応大学教授は、
正直に、こう説いている。
「所得税は、所得の高い人にたくさん負担させる応能負担です。
程度の差はありますが、多くの国で所得が高ければ税率も高くなる
累進税率を設けています。
ところが、これに対しては強烈な反論があります。
スティーブン・ランズバーグという人が『フェアプレーの経済学』
(ダイヤモンド社刊)というおもしろい本を書いています。
子どもに説明できないことはごまかしだとして、
経済のさまざまな仕組みについて、
小学生の子どもにも説明しようとする内容ですが、
税金に関してだけはどうしても説明できないというのです。
たとえば、子どもたちが砂場でおもちゃで遊んでいます。
A君はおもちゃを1個しか持っていません。
B君はおもちゃを4個持っている。
そのときA君のお母さんがやつてきて、
「A君、B君は4個持っているから、2個とってらっしゃい」と、
そんなことをいうだろうかというのです。
ところが、税金の世界ではそれが堂々と行なわれています。
ソフトバンクの孫正義社長のようにたくさんお金を稼いでいる人
から徴収したお金が、
そうでない人たちになにがしかの形で分配されています。
所得の移転が行なわれているわけです。
所得の移転というと聞こえはよいのですが、
これは子どもには簡単に説明ができないような行為です。」
(竹中平蔵「竹中教授のみんなの経済学」幻冬舎60頁以下)、と。

とても正常な人間とは思われない。
欠落才覚人とは、
(本物の)神の見えざる手が欠落した、
強欲で戦略的で、口八丁手八丁で、弁舌に長け、
詐欺的才覚がある人たちのことである。
この欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にすることを
目的にして、
所有権と自由と契約法律と国家を絶対(正義)化した、
似非自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会に
所得再分配制度はあり得ない。
「ネオ・リベラリズムも新自由主義と呼ばれることがあります。
その代表的な論者として、アメリカの哲学者ロバート・ノージック
(1938〜2002)を挙げることができるでしょう。
ノージックは、
所得の再配分は自己所有権の侵害であるとまでいいます。」
(小川仁志「はじめての政治哲学」講談社現代新書32頁)。
所得の再配分の否定は、
所有権と自由と契約法律と国家を絶対(正義)化した、
似非自由(資本)主義社会・国家の論理的帰結なのである。

欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の、
欠落才覚人天下人工市場似非社会では、
「国による所得再分配」というのはあり得ないことなのである。
社会(国家)を似非社会とそれを支える国家に二元化するための
大詐術なのである。
だが、社会(国家)は、
全ての人が生きていくために、
全ての人が健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくために、
組織されたものだ。
狭義の社会保障制度を含めた広義の社会保障制度は、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則自然法人権(そのもの)擁護暫定自由制度
動的平衡組織社会(国家)の骨格の一部をなす、
税特に累進課税制度と一体となった、
帰属所得再評価・社会(国家)補修復元制度なのである。
所得再分配制度という呼称自体が詐術なのである。
所有権と自由と契約法律と国家が絶対(正義)化された、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の、
欠落才覚人天下人工市場似非社会国家二元社会では、
原理的に存在し得ない制度である。





第3章

社会国家二元妄想覚醒で
 人権擁護暫定自由制度社会顕現

  (妄想覚醒で暫定自由制度社会顕現)



1 (
市民法行政法二元妄想覚醒で
   人権擁護暫定自由制度社会顕現


人間を完全なる自由意思人として擬制し、
その自由意思妄想を根拠にして権利義務発生消滅する、
と考えさせる似非自由(資本)主義が妄想であることは、
火を見るより明らかなことだ。
暫定自由をアダム・スミスの見えざる手に、
詭弁を使ってすり替え、
似非自由(資本)主義人工市場似非社会・国家論をでっち上げた
経済学は、
妄想というより、犯罪だ。

人間は生きていく、という絶対的な目的を持った生き物だ。
その生き物が一人では生きていけないと悟り、
社会(国家)を組織して、みんなで、生きていくことになった。
社会(国家)がそういうものだからこそ、
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
超法規的権利義務、即ち人権(そのもの)が観念され存在している。
法律は、すべてこの人権(そのもの)を守ることを目的とした方策だ。
それ故、市民法(私法)と行政法(公法)に二元化されて
別個の原理のもとに存在している、
と考えるのは妄想以外の何物でもない。
似非自由(資本)主義市民法(私法)などその理論は空理空論だ。
当然、市民法行政法に二元化された形で存在しているということが、
妄想でしかないことが、理解されてくれば、判然としてくれば、
自然法に則った人権(そのもの)擁護暫定自由制度一元社会(国家)が
顕現してくる道理だ。

この事実に、行政法学者が気付くべきなのである。
実際、気付きはじめているのかもしれない。
原田尚彦は、
こう言っている。
「現代国家の役割は、いうまでもなく、
人びとの共同生活の秩序と調和を保ち、
健康で文化的な生活基盤を形成することである。
そのために、国や公共団体は、
社会的危険の発生を予防したり鎮圧するために、
一方的に権力を行使して
危険発生のおそれのある市民の自由活動を制限したり
義務を強制したりしている。
警察や消防、公害や薬害の取締り、公共施設づくりのための
土地の収用などは、こうした作用である。
他方、国や公共団体は、
国民が健康で快適な生活ができるよう、
環境の整備、必須の生活物資やサービスの提供、
ライフ・ラインの確保、生活困窮者の保護助成などにも
取り組んでいる。
これらのいわゆる基盤整序行政や給付行政の作用は、
国民全体の利益の実現をそのもっぱらの目的とし、
営利や採算を度外視してでも実施されるのであって、
市民法(私法)とは異なった法原理に即して営まれている
といってよい。
取締行政であれ給付行政であれ、
私法原理のみによっていたのでは、
行政目的を実現することは困難なのである。
そこで、かっての行政法学は、先にみたように、行政には、
国家の主権――君主国では君主のもつ統治権――の
属性として、
権力的に活動する権能が当然に随伴するとみなし、
行政法は、
君主のこうした権力の行使が恣意にわたらないよう、
市民を代表する議会がこれを制約するために制定する法
であると解してきた。
おそらく立憲君主型の憲法構造の論理に適合した見方で
あったのであろう。
しかし、国民主権に立脚した国会中心主義に立つ現行憲法
のもとでは、
行政にはその固有の性質として当然に権力性が随伴し、
国民に優越した立場に立って命令強制することができる
とみることはできない。
民主的法秩序のもとでは、権力の淵源は、
もっぱら国民の意思を代表する議会に求められるべきであるから、
行政権の主体である国や地方公共団体といえども、
当然に権力の行使ができるとは認めがたい。
むしろ国や地方公共団体も、基本的には国民と対等の立場に
おかれており、
法律による特段の授権がないかぎり、
市民法の原理に服するとみるのが、
国民主権・国会中心の論理に適合すると考えられる。
そこで、民主国家においては国や地方公共団体が行政目的を
実現するために、
どうしても命令強制その他の権力的機能を必要とする場合には、
国会が法律を制定して個別具体に
そうした権能を行政権に授権するという建前がとられる。
行政権はそうした法律の規定に基づいてはじめて権力の行使に
あたることが許されるのである。
そうだとすると、今日の行政法は、
もはや行政権力の存在を前提として制定された規範ではなく、
行政権に権力の行使その他特別の権能を創設ないし付与する
規範であるとみなければならない。
したがって、行政法学の課題は、行政法規を実証的に考察し、
そこで認められている権力性その他私法とは異なる行政特有の
諸原理を類型的に把握することにつきる。」
(原田尚彦「プレップ行政法第二版」弘文堂プレップ法学50頁以下)、と。

確かに、「国家の主権の属性として、
権力的に活動する権能が当然に随伴するとみなす」のは誤りだ。
しかし、だからと言って、
国民ないし人間の意思を神格化するのも誤りだ。
手がかりは、
「警察や消防、公害や薬害の取締り、公共施設づくりのための
土地の収用など」や
「環境の整備、必須の生活物資やサービスの提供、
ライフ・ラインの確保、生活困窮者の保護助成など」にある。
要するに、これらは、みな人権(そのもの)を守る方策だ。
勿論、人権(そのもの)とは、
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
超法規的権利義務だ。
法律(広義の)はどんな法律も、
国会法律だけでなく、契約法律も含めて、
人権(そのもの)を守るための方策だ。
国会法律を制定すれば「行政権に権力を創設ないし付与」できる、
と考えるのは妄想だ。

そもそも、似非自由(資本)主義市民法(私法)などその理論は
空理空論だ。
法律行為理論など現実には機能していない。
実際、少なくとも戦後の民法は、契約法律にまつわる法律だ。
全ての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範が法(自然法)だ。
この法(自然法)=超法規社会(国家)規範に照らし見ても、
測れない、判然としない事柄は、この世に、いくらでもある、
少なくない。
その時、そのような場合に、お出ましになるのが、
合意ないし契約法律である。
ということは、合意ないし契約法律の結果結末に、
少なくとも絶対的な、正当性ないし合理性はない、
ということである。
行為の当事者間で作る契約法律はそういうものだ。
民法90条にいう公序良俗とは、
法(自然法)=超法規社会(国家)規範のことだ。
契約法律も法(自然法)に反すれば無効だ。
民法90条はその事実を念のため規定しているに過ぎない。
要素の錯誤があれば、無効になるのは、
そういうのを認めたら、有効としたら、
全ての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
上で不都合だから、だ。
詐欺によって作成された契約法律が取消しうるのは、
そう考えるのが、法(自然法)に照らして合理的だからだ。

契約法律が存在しないケースをフォローしたのが、
事務管理、不当利得、不法行為の規定だ。
勿論、契約法律の場合も、契約法律フォロー法律の場合も、
「要件事実」と誤解されてきたものは、
権利義務を発生消滅させるに足る
「規範的に意味のある行為事実」のことだ。
権利義務は、
契約法律の場合も、契約法律フォロー法律の場合も、
法律(広義の)を踏まえた上で、
法(自然法)=超法規社会(国家)規範と「規範的に意味のある
行為事実」とを基に、
超法規社会(国家)規範に適っている故の、
社会的な政策的な妥当性(正しさ)として、
超法規的に発生消滅する。
そういう原理に、市民法原理も行政法原理もない。
市民法と行政法との間に原理的な違いはない、と断言できる。

国会と内閣は人権(そのもの)を守る責任と権限を持った
自然法に則った人権擁護暫定自由制度一元社会(国家)の
執行部なのである。
「公権力」の実体は、
この執行部が持つ人権(そのもの)を守る権限のことだ。
合理性のある方策に従わなかったら生きていけない以上、
人権(そのもの)は本人も放棄し得ないものである以上、
人権(そのもの)を守る合理性のある方策を、
少なくとも、人権(そのもの)を守る責任を負っている執行部が
強制することができるのは、道理だ。
人権(そのもの)を守る責任と権限を持った
自然法に則った人権擁護暫定自由制度一元社会(国家)の
執行部を監視し任務を全うさせるための方策法律が
行政法だ、と考えられてくる。

ともあれ、
市民法行政法に二元化された形で存在しているということが、
妄想でしかないことが、
理解されてくれば、判然としてくれば、おのずと
自然法に則った人権(そのもの)擁護暫定自由制度一元社会(国家)が
顕現してくる道理だ。



2 (
公法私法二元妄想覚醒で
   人権擁護暫定自由制度社会顕現


人間は完全なる自由意思人などではない。
人間は、生きていく、という目的を持った、生き物である。
それが、一人では生きていけない、ということで、
社会(国家)を組織して、みんで、生きていくことになったのである。
すべての人が、社会(国家)の中で他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、という
超法規社会(国家)規範=法(自然法)は、
その結果として実在するものだ。
人間は社会(国家)を自由に設計樹立することなどできない。
法(自然法)=超法規社会(国家)規範を否定できない。
なぜなら、そんなことをしたら、生きていけないからだ。
実際、民法90条の公序良俗とは、
この法(自然法)=超法規社会(国家)規範のことだ。
「権利の濫用は、これを許さない。」(民法1条3項)という
権利濫用法理の前提にも、
この法(自然法)=超法規社会(国家)規範が存在している。
人権(そのもの)とは、人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
超法規的権利義務のことだ。

公私という場合の、私とは、
人が健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく行為
のことである。
つまり人権(そのもの)享受行為のことである。
公とは、
人権(そのもの)を守る行為のことである。
したがって、私法というのは、
人権(そのもの)を守るための方策を定めた法律を
広く言う言葉に違いない。
公法とは、
人権(そのもの)を守る責任と権限を持った
自然法に則った人権擁護暫定自由制度一元社会(国家)の
執行部(国会・内閣(政府))を監視し全うさせるための方策法律を
広く言う言葉に違いない。
したがって、法律は、
すべて、人権(そのもの)を守ることを目的とした方策だ。

それ故、私法と公法に二元化されて
別個の原理のもとに存在している、と考えるのは
妄想以外の何物でもない。
似非自由(資本)主義私法(市民法)などその理論は空理空論だ。
当然、私法と公法に二元化された形で存在しているということが、
妄想でしかないことが、理解されてくれば、判然としてくれば、
自然法に則った人権(そのもの)擁護暫定自由制度一元社会(国家)が
顕現してくる道理だ。

かって、似非自由(資本)主義法律学は、
別個の原理から成る私法公法を観念してきた。
しかし、実際は、我妻榮でさえ、
「人類としての生活関係(簡単にいえば身分と財産の関係)は、
今日においては、決して自由平等の原理によって貫かれている
のではない。」
と言っていた。
法律学は、似非自由(資本)主義を超えられないで悩んでいた、
というのが、真相なのだ。

我妻榮はこう言っていたのだ。
曰く。
「公法に対する私法の特色は、
公法が命令服従を指導原理とするのに対し、
私法が自由平等を指導原理とする点にある、
と一応いいうるであろう。
しかし、前段で私法の規律する生活関係の範囲といった
人類としての生活関係(簡単にいえば身分と財産の関係)は、
今日においては、決して自由平等の原理によって貫かれている
のではない。
このことは、右の説明を不適当なものとする。
近世の自由主義的法思想の下においては、
個人の身分と財産関係は、悉く、平等な個人の自由な契約によって
規律すべきものとされ、
国家の命令強制は、
各個人のこの自由と平等とを保障するためにだけ
是認されたのだから、
公法と私法についての、右に述べた、生活関係を標準とする区別と、
指導原理を標準とする区別とは、
少なくとも原理的には、符合した。
しかるに、第19世紀の末葉から著しくなった富の不平等という現象
に当面し、国家は、
各個人に最小限度の文化的生存を保障するために、
個人の財産関係にも積極的に関与し、
命令強制を加えるようになった。
その最も顕著なものは、
大企業における労働者の雇用関係であるが、
さらに、近代企業の経営、ないしは、それから生ずる災害に
対しても、監督・命令・強制を加えるようになったので、
個人の財産関係の重要な部分は、
もはや自由平等をもって指導原理とするとは、
いいえないようになった。のみならず、
身分の関係においてさえ、
生まれてくるすべての児童をして心身ともに健全に育成される
ようにするために、
夫婦の結合や親権の行使に干渉を試みるようになった。
従って、今日において、個人の身分と財産の関係を規律する法を
もって私法とするときに、
私法は次第に公法原理を摂取すると考えなければならない。
もしまた、自由と平等の原理に指導される法律関係をもって
私法関係とするときは、
公法は次第に私法の領域を蚕食しているといわなければならない。
もっとも、今日多くの学者は、労働関係は、
これを公私法の中間に位する特別の法域となし、
財産関係についてのその他の国家的干渉及び身分関係における
国家的関与は、
これを特殊の公法関係として、私法の領域からはずす。
そして、私法は、なお自由と平等の原理によって支配される
身分と財産の関係だとなし、
ただその指導原理は、
近世初頭の個人主義的な自由ではなく、
公共の福祉という理念によって浄化されたものだ、と考えている。
この民法講義の態度もそうである。
しかし、そこになお、根本的な問題が残されていることを
意識すべきである。」
(我妻榮「新訂民法總則(民法講義T)」岩波書店2頁以下)、と。

「公共の福祉という理念によって浄化された自由」を
言う我妻榮の論は、間違いなく、核心を突いていた。
「「公共の福祉」は、
英訳ではパブリック・ウェルフェア(public welfare)となっているが、
この言葉は、もともと「社会生活をともにする、
万人共通の共存共栄の利益」を指すものといわれている。」
(百地章「憲法の常識 常識の憲法」文春新書139頁)。
公共の福祉public welfareとは、
「すべての人が社会(国家)の中で他者と共に
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくことの幸せ」
をいうものと考えるべきだ。
とすれば、自由とは、
法(自然法)の拘束から解放された似非自由ではなく、
暫定自由(制度)だ。
予め経験則的に、人権(そのもの)を侵害阻害することが、
判然としている事柄は、事前にきちんと規制する。
それ以外は取りあえず自由、即ち暫定自由とし、
事後的に、結果として、人権(そのもの)侵害阻害により歪曲・綻び
してきた社会(国家)を、
累進課税制度とも連結一体の広義の社会保障制度によって
補修復元するのが、
暫定自由制度社会だ。
そこに実質的に原理を異にする私法公法というものは存在しない。



3 (
似非自由資本主義妄想覚醒で
   人権擁護暫定自由制度社会顕現


戦後の日本は、
すべての人が、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度動的平衡
組織社会(国家)だ。
決して、欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした
仕様の則人為法似非自由(資本)主義人工市場似非社会・国家
ではない。
だからこそ「構造改革」が叫ばれてきたのである。それは、
則人為法似非自由(資本)主義人工市場似非社会・国家化し、
社会(国家)を乗っ取る、企て以外の何物でもないのである。
その結果は、社会(国家)を歪める、悪くするのが落ちなのである。
実際、「厚生労働省が4日発表した
2014年の「就業形態の多様化に関する総合実態調査」で、
パートや派遣などの非正社員が労働者に占める割合が初めて
4割に達した。」(2015.11.5朝日新聞朝刊)。
似非自由(資本)主義政権によって歪められてきたのである。
そもそも、規制は、人権(そのもの)を守るための方策なのである。
自由の規制なのではない。
欠落才覚人たちは、似非自由(資本)主義たちは、
そういうことが分からなくなっているのである。
勿論、人権(そのもの)とは、
人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
超法規的権利義務のことだ。
レーガン政権後のアメリカは、
似非自由(資本)主義色が極めて強い似非社会・国家化して
しまっている。
見本としてはいけないのである。
勿論、共産主義も社会主義も似非自由主義だ。
アメリカも中国もまねてはいけないのだ。
だが、まともな法学者でさえ、非自由(資本)主義社会・国家だと
思い込んできた。

たとえば、こう言っている。
「近代の資本主義国家においては、このように、
市民相互の権利義務関係の決定は、
それぞれの自由意思に任されている。
国家は市民の私生活への干渉をできるだけ回避し、
その自由を大幅に許容するのが、近代の自由国家の理想
である。近代国家は、
刑事法を定めて社会秩序の保持にあたっているが、
民事関係つまり市民の私生活は市民の自由に任せ
「契約の自由」を基本として、
市民がそれぞれの自由な意思に基づいて適正に契約を締結し、
かつその確実な履行を確保できるよう、
基本的な法システムを準備しているにすぎない。
国家が行政権力を用いて国民生活に干渉することは極力
回避してきたのである。
近代国家の法秩序は、
基本的には刑事法システムのほか、
自由意思を尊重する民事法体系により成り立ってきた
といってよいであろう。
わが国の民法も、こうした原則に立っている。
まず、各市民にはそれぞれの自由な意思に基づき契約を結ぶ
自由を認めるとともに、
いったん結んだ契約を義務者側が履行しない場合には、
権利者は、その契約が、
「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反」しないかぎり、
国家の司法制度を利用してその履行を義務者に強制できる
仕組みを整えている(民法90条)。
市民がお互いに契約を結んで権利・義務を自由に定めること
ができ、
いったん契約を定めた以上、権利者は、
義務者が自発的に負担した義務を履行しない場合には、
その履行を、
国家の司法制度を通じて強制することができるものとしている
のである。
だが、何人も、契約などによって自らの意思で義務を負担した
のでなければ、
自己の意思に反して、
他人から義務を押しつけられたり自己の支配している権利や
利益を侵害されることはない。
こうした侵害を受けたときには、
これまた国家の司法制度を利用して侵害の排除を求めることが
できる(民法197―200条)。
また、「故意又ハ過失ニ因リ」権利を侵害された者は、
不法な侵害者に対して、よって生じた損害の賠償を求めることが
できる(民法709条)。
わが国の民法は、このように、
私的自治ないし契約自由の原則を広く承認し、
契約の履行を裁判制度を通じて強制できることとしている。
しかし、われわれは、自らの意思で義務を負担しなければ、
法や裁判による強制を受けることはない。
われわれが、今日、犯罪に走ることなく、
また自らの意思で締結した契約を守っていさえすれば、
法的強制を意識することなく、自由に私生活を送ることができるのは、
こうした自由主義的な民刑事法のシステムが存在し、
私生活上の権利が司法制度を通じて守られているからである。」
(原田尚彦「プレップ行政法第二版」弘文堂プレップ法学28頁以下)、と。

人間は完全なる自由意思人などではない。
人間は、生きていく、という目的を持った、生き物である。
それが、一人では生きていけない、ということで、
社会(国家)を組織して、みんで、生きていくことになったのである。
すべての人が、社会(国家)の中で他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、という
超法規社会(国家)規範=法(自然法)は、
その結果として実在するものだ。
人間は社会(国家)を自由に設計樹立することなどできない。
法(自然法)=超法規社会(国家)規範を否定できない。
なぜなら、そんなことをしたら、生きていけないからだ。
実際、民法90条の公序良俗とは、
この法(自然法)=超法規社会(国家)規範のことだ。
「権利の濫用は、これを許さない。」(民法1条3項)という
権利濫用法理の前提にも、
この法(自然法)=超法規社会(国家)規範が存在している。
学者たちが誤解している「自由」とは、暫定自由のことだ。
暫定自由が存在しているのは、
健康で文化的な生活が流動的発展的なものであり、
決してきちっと決められた形で存在しているものではないからだ。
契約は当事者間で作られる法律であり、
存在しているのは、契約法律暫定自由の原則であって、
契約絶対の原則は実在していない。
実際、税特に累進課税制度は、
契約によって帰属した所得を、法(自然法)に照らして再評価し、
超過不当利得分を社会(国家)に返還させ、
暫定自由がもたらした社会(国家)の歪み綻びの補修復元費用に
充てる制度である。

昼食に何をたべようか、どんなヘアスタイルにしようか、
テレビは何をみようか、どんな本を読もうか、
新聞は何新聞にするか、何時に寝ようか、
宗教を信ずるか信じないか、どの宗教を信ずるか、
どこの会社に就職しようか、どんな職業につこうか、
結婚するかしないか、誰と結婚するか、いつまで働くか、
可能な限り個人の自由だ。
だが、このような暫定自由は人権(そのもの)の枠内の事柄だ。
したがって、暫定自由は人権(そのもの)の属性だ。
人権(そのもの)は、
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
超法規的権利義務だ。
勿論、人権(そのもの)が実在しているのは、
人が生きていくために、
全ての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくために、
社会(国家)が組織された、
という事実があるからだ。

要するに、資本主義自由国家法律理論は
現実には機能していない空理空論なのである。
民法も刑法も人権(そのもの)を守ることを目的とした方策
として存在しているのである。
つまり、そこでの結論は、資本主義自由国家法律理論とは関係なく、
法律家たちの直感から導き出されているに過ぎない、ということだ。
したがって、似非自由(資本)主義が妄想でしかないことに
気付きさえすれは、
自ずと、目の前に、則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度
動的平衡一元社会(国家)が
顕現してくるのである。



4 (
似非自由資本国家主義三位一体妄想覚醒で
    暫定自由制度社会顕現


繰り返すが、
すべての人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範が法(自然法)だ。
人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
超法規的な権利義務が人権(そのもの)だ。
基本的人権は人権(そのもの)ではない。
基本的人権は、人権(そのもの)を守るための方策権利義務だ。
法(自然法)に則った、
人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度一元社会が
戦後の日本社会であり、普遍的な人間社会(国家)だ。
人権(そのもの)擁護の執行の任に直接当たるのは、
この社会(国家)制度組織の執行部(国会・内閣(政府))だ。
そのために有する権限は「権力」と称すべきものではない。
強制力は、人権(そのもの)擁護方策として合理性のあるものを
守らなかったら、人は生きていけない、
という事実に由来する。
それは狭義の社会保障制度を見ても分かる。
社会保障制度を崩壊させたら、社会(国家)は崩壊し、
人は生きていけなくなる。
国家が国家故に「権力」を持っている、
そういう国家が実在するというのは、妄想でしかない。

この超法規社会(国家)規範すなわち法(自然法)の存在を
否定するのが似非自由主義だ。
所有権と自由と契約法律を絶対(正義)化した、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした、
資本主義人工市場似非社会は、
この似非自由主義を前提にして成り立つ。
この資本主義人工市場似非社会を力尽くで支えるのが、
絶対万能権力妄想国家だ。
似非自由主義と資本主義と国家主義は三位一体の妄想だ。
社会主義も共産主義も似非自由主義を前提にして成り立つ。
資本主義と社会主義と共産主義は仲間なのである。

似非自由資本国家主義三位一体妄想から覚醒さえすれば、
自ずと人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度一元社会は
顕現してくる、
と考えられてくる。

似非自由資本国家主義三位一体の妄想に
取り憑かれているのが、似非保守主義者たちだ。
百地章日本大学教授は、
「国家あっての人権」をこう説いている。
曰く。
「国家あっての人権
宮沢教授によれば、
人権制約の根拠たり得るのは他人の人権だけであって、
たとえ国家や国民全体のためであっても、
人権を制約することはできないとされる。
たしかに、基本的人権は国家権力をもってしてもその本質を
侵害することできないし、
近代立憲主義も、国家権力の濫用を防止し、
国民の人権を保障するべく、憲法を制定することにあった。
その意味で理念的に、人権が国家以前の権利であると
説明されることには理由がある。
しかしながら国家以前の権利とされる人権も、
それが現実に保障されるためには、
平和で秩序ある独立した国家の存在と、
裁判所等による人権救済制度が必要である。
このことは、たとえば国家の庇護を離れた難民や亡命者たち
のことを想起すればすぐ分かることである。
したがって、国家あっての人権ということも忘れてはならない。」
「国家と政府とは別であり、
「国を守る」という場合の「国」つまり「国家」とは、
政府を含む「国民共同体としての国家」(ネイション)であった。
さしてこのような「国民共同体」としての国家を前提にして、
はじめて個人を超える価値つまり「国家の存立の維持」といった
価値を認めることも可能となる。
それゆえ、武力攻撃事態のような緊急事態において、
国家の存立を維持することは最大の公共の福祉にほかならず、
そのために一時的に人権が制約を受けることはやむを得ない
ことであって、当然であると考えられる。」
(百地章「憲法の常識 常識の憲法」文春新書146頁以下)、と。

しかし、国家と別称される社会は、
決して単なる「国民共同体」などではない。
人間の頭脳は、生きていく、という目的を持っている。
だが、外界は、人間が一人で生きて行くには、余りにも過酷である。
結局、一人で、ではなく、社会(国家)を組織して、みんなで、
生きていく以外に、人間にとって、道はなかった。
勿論、人が生きていく、ということは、
単に糊口をしのぐ、ということではなく、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、ということだ。
その自由が暫定自由なのは、
健康で文化的な生活の形は、流動的発展的なものであり、
決して予めきちっと決められた形ではじめから存在している、
というものではないからだ。

法(自然法)に則った、
人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度一元社会が
戦後の日本社会であり、普遍的な人間社会(国家)だ。
人権(そのもの)擁護の執行の任に直接当たるのは、
この社会(国家)制度組織の執行部(国会・内閣(政府))だ。
宮沢教授の理論的欠陥は、
法(自然法)=超法規社会(国家)規範や人権(そのもの)の概念を
知らなかったことから来ている。
基本的人権は人権(そのもの)ではない。
社会とは別個の国家など実在しない。
国家は、人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度一元社会の
別称でしかない。
公共の福祉とは、法(自然法)=超法規社会(国家)規範のことだ。
宮沢憲法学は、人権を人権(そのもの)に、
公共の福祉を法(自然法)=超法規社会(国家)規範に、
国家を人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度一元社会の
別称として、
置き換えて読み直すべきものだ。



5 (
国家社会二元妄想覚醒で
   人権擁護暫定自由制度社会顕現


人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
超法規的権利義務が人権(そのもの)だ。
人権(そのもの)に国境はない。
人権(そのもの)は基本的人権の前提に厳然として
実在している。
基本的人権は、人権(そのもの)を守るための方策権利義務だ。
自由は、すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく生きていくための手段として
存在しているものだ。
私たちは、本当のところは、
国境のない普遍的社会(国家)に生きている。
それは、
社会(国家)を組織して、みんなで生きていく以外に、
人間が生きていく道はないし、なかった、
という厳然たる事実の、結果だ。
人為法(絶対法律)・絶対国家から解放(自由)され、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範=法(自然法)に則って
生きているのが、本当のところだ。
とすると、
似非自由(資本)主義・似非保守主義・国家主義が
何故の妄想・詐術なのか、
自ずと見えてくる。

「地に足がつかない。
どこに所属しているのかもわからない。
「市民」などというものは、
しょせん「抽象的な幽霊」にしかすぎない。
20年近く前、「市民が主役」を掲げて登場した旧民主党を
そう批判したのは、
中曽根康弘元首相だった。
地縁血縁や会社、組織のしがらみに埋没せず、
自立して公共的なことがらに関わる個人。
そうしたイメージは、
「国家統治」の観点を重んじる保守派には、
反権力的で青白いインテリの発想と見えたのだろう。」
(2015・11・5朝日新聞「天声人語」)

加藤哲郎は、「中曽根元首相の「国家」観」をこう書いていた。
曰く。
「中曽根元首相の「国家」観
1985年7月のことです。
当時の日本の首相中曽根康弘が、
自由民主党のサマーセミナーでおこなった一つの発言が、
話題になりました。
中曽根発言は、こうです。
「国家というものは、日本のような場合、
自然的共同体として発生しており、契約国家ではない。
勝っても国家、負けても国家である。
栄光と汚辱を一緒に浴びるのが国民。
汚辱を捨て、栄光を求めて進むのが国家であり国民の姿である。」
ちょうど第二次世界大戦が終わり40周年でした。
同じく敗戦国であった西ドイツの大統領ヴァイッゼッカーは、
五月の連邦議会演説で過去のナチスの犯罪と戦争による犠牲にふれ、
自国の歴史を反省し二度とあやまちをおかさない決意を述べました。
それとは対照的に「日本国家の栄光」を強調した中曽根発言は、
世界から注目されました。
この首相は、翌月、歴代首相として初めて戦争犯罪人をまつった
靖国神社に公式参拝し、
中国や韓国の新聞から批判されました。
翌86年9月の同じセミナーでは、今度は
「民族的統一をもつ日本国民の知的水準はブラック、プエルトリコ、
スペイン系などのマイノリティをかかえたアメリカ合衆国より高い」
と発言して、
人種差別ではないかとアメリカから批判されました。
右の中曽根発言は、
日本の保守政治家の国家観を率直に示したものです。
おそらくこのようにはっきり言わなくとも、そのように考えている
日本人は多いでしょう。つまり、
日本は「単一民族」であり、日本の国家は「自然的共同体」で、
西欧型の「契約国家」ではない、と。」
(加藤哲郎「社会と国家」岩波書店192頁以下)、と。

「サッチャリズムやレーガノミクス、中曽根政権の手法は、
まだ社会主義諸国が崩壊する前のことでしたが、
資本主義内部に取り入れられた「社会主義」の要素を
取り除いていこうという試みでした。
その後、社会主義諸国が崩壊に追い込まれると、
「社会主義」の要素のない純粋な資本主義こそ
強い経済をもたらす、という考え方が広がるようになりました。
これを「新自由主義」といいます。」
(池上彰「「見えざる手」が経済を動かす」ちくまプリマー新書105頁)

しかし、
所有権と自由と契約法律と国家が絶対(正義)化された、
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
超法規的権利義務である人権(そのもの)という観念が
完全に欠落した、
似非自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会には、
全ての人が健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
ための手段としての暫定自由が存在しない。
人権(そのもの)を守るための人権侵害規制も存在しない。
暫定自由の結果もたらされる社会(国家)の歪み・綻びを
「(広義の)社会保障制度と累進課税制度が連結一体となった
帰属所得再評価・不当利得・社会補修復元制度」を以て
是正ないし補修復元される、ということもない。

要するに、純粋な資本主義つまり似非自由(資本)主義
欠落才覚人天下人工市場似非社会は、
超法規社会(国家)規範=法(自然法)に抵触する犯罪社会だ。
当然、そんな社会を心底から原理原則とした社会(国家)は
あり得ない、ということになる。
つまり、要するに、似非自由(資本)主義
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家は妄想でしかない。
似非自由(資本)主義
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家を説く法律学理論も、
経済学理論も、政治学理論も、社会学理論も、
現実には、空理空論でしかないのである。
政治家や経済学者たちに振り回されることはない。

とすれば、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした、
似非自由(資本)主義欠落才覚人天下人工市場似非社会が妄想
でしかないことに、
それを支える絶対万能権力国家が妄想でしかないことに、
気が付きさいすれば、それだけで、
すべての人が、健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
自然法に則った
人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度一元社会は
顕現してくるのである。
国家とはこの社会の別称でしかない。
勿論、人権(そのもの)擁護の執行の任に直接当たるのは、
この社会(国家)制度組織の執行部(国会・内閣(政府))だ。
当然責任だけでなく、そのための権限を持っている。
人権(そのもの)を守る自衛隊であれば、
違憲ではないはずだ。
物理的形状に着眼して軍隊と同視するのは誤りだ。