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(第U編 絶対自由資本主義を原理原則とした社会あり得ない)




どんな制度も権利義務も出自は一つの超法規社会規範感覚
                           (写真は鹿児島県桜島)

第四部 

 
どんな制度も権利義務も
 
 出自は
  一つの超法規社会規範感覚

   ――社会(国家)は
     人権(そのもの)擁護目的に組織された
     制度組織だから





法(自然法)とは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という
超法規社会(国家)規範
のことだ。
勿論、それが存在するのは、人間社会(国家)が、
すべての人が生きていく目的を以て組織された制度組織だから、
に他ならない。
この超法規社会(国家)規範=法(自然法)の存在は、
他でもない、通説判例である概念法学に見て取れる。
法律(要件)に要件事実に該当する事実が加わると
ところてん式(三段論法的)に権利義務が発生消滅するのは、
法律(広義の)が人権(そのもの)擁護のための方策として
超法規社会(国家)規範性を持っているからだ。
逆に言えば、法律(広義の)は、
法律(広義の)故に法律(広義の)であるわけではない、
ということだ。
勿論、法律(広義の)は
法(自然法)=超法規社会(国家)規範そのものではない、
ということだ。
要するに
どんな制度も、権利義務も、
この超法規社会(国家)規範
規範的に意味のある行為事実とを基に、
超法規社会(国家)規範に適っている故の社会的な政策的な
妥当性(正しさ)として、超法規的に発生消滅する、
ということだ。
則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度組織、
すなわち人間社会(国家)そのものが、
この超法規社会(国家)規範
資本主義自由主義国家主義欠落才覚人天下人工市場社会・国家が
人権(そのもの)を侵害阻害する、という事実、
すなわち規範的に意味のある行為事実とを基に、
超法規社会(国家)規範に適っている故の社会的な政策的な
妥当性(正しさ)として、超法規的に発生し存在している、
と考えることだってできる。
どんな制度も、権利義務も、出自は、
この一つの超法規社会(国家)規範=法(自然法)なのだ。
したがって、則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度組織が
普遍的な人間社会(国家)だ、と言えてくる。
人間が自由に社会を設計創造しうるなど、正気の沙汰ではない。
だからと言って、似非自由(資本)主義国家主義欠落才覚人天下
似非社会・国家が先在して、
それを軍隊が付属した絶対万能権力国家や絶対法律(憲法)で守る、
という似非保守主義も、これまた正気の沙汰ではない。





                      


      目  次


第1章

 法(自然法)とは
 超法規社会(国家)規範のことである
 ――実在している超法規社会(国家)規範=自然法

 (法(自然法)とは何であるか)
1 (制度も権利義務も
  法(自然法)感覚人権(そのもの)感覚が創り出す

1−1 (人権(そのもの)相関図
2 (公共の福祉は制度・権利義務発生の原理
3 (単なる「人権の限界」原理と誤解している従来の法律学
4 (権利濫用法理の前提にも存在する
  超法規社会(国家)規範(法・自然法)

5 (権利義務は超法規社会(国家)規範(法・自然法)に
  適った妥当性・正しさ

5−1 (権利義務発生消滅原理図
6 (発生の原理である故に制約の原理だ


第2章

 法(自然法)感覚人権(そのもの)感覚が
 (本物の)神の見えざる手
 ―― (本物の)神の見えざる手は何を創り出すか

 ((本物の)神の見えざる手とは何か)
1 (誰もが持つ超法規社会(国家)規範(自然法)感覚が
  (本物の)神の見えざる手

2 (分業制度を前提とした交換経済制度は
   「個々人すべてが、社会(国家)の中で他者と共に、
  健康で文化的な生活を営んでいく」のに適った制度

3 ((本物の)神の見えざる手の発現を阻害しなければ
   うまくいく、というのがスミスの真意

4 (「国を富ます」という発想は間違い
5 ((本物の)神の見えざる手をすり替え抹殺して
  やってくるのは欠落才覚人天下人工市場似非社会

6 (自由は
   人が健康で文化的な生活を営んでいくための手段

7 (架空の見えざる手にすり替えて抹殺する手口は
   欠落才覚人らしい



第3章

 法律(広義の)制度を作り出したのも(本物の)神の見えざる手
 ――法律(広義の)は
    すべて人権(そのもの)擁護のための方策

 (法律とは何か)
1 (人権(そのもの)擁護を目的に講じられる方策が
  法律(広義の)

2 (合理性のある方策に
  超法規社会(国家)規範性がある

3 (それやらなかったら生きていけなくなる、という事実が持つ
  強制力・拘束力が超法規社会(国家)規範性の正体

4 (法律(広義の)を絶対(正義)化している故の
  実体法説ないし旧訴訟物理論の完全誤謬

5 (法律(広義の)を絶対(正義)化した
  民法の基本理論の完全誤謬

6 (権利義務は
  法律(広義の)によってはじめてストレートに
  それだけで発生するものではない

7 (法律(広義の)は二段構えで人権(そのもの)を擁護している
8 (法律(広義の)を「要件事実」を規定した
  「実体法」と考えるのは間違い

9 (法律(広義の)絶対(正義)化の誤りは
  刑法理論にも見て取れる






                   





第1章

 法(自然法)とは
 超法規社会(国家)規範のことである
 ――実在している超法規社会(国家)規範=自然法
 (法(自然法)とは何であるか)



1 (制度も権利義務も
  法(自然法)感覚人権(そのもの)感覚が創り出す


法(自然法)とは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範のこと、である。
人権(そのもの)とは、
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
超法規的権利のこと、である。
正義(公平)とは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きている
社会(国家)的状態にあること、である。
「人間は、
社会(国家)を組織して、みんなで生きていく以外に、
道はないのだから、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくしかない、」
という正義(公平)感・法(自然法)感覚・人権(そのもの)感覚が
(本物の)神の見えざる手だ。


制度も権利(人権)も、
その生みの親は、
法(自然法)感覚人権(そのもの)感覚、
つまりこの(本物の)神の見えざる手だ。
当然、超法規社会(国家)規範(法・自然法)に反した
権利(人権)も制度も発生し得ない、存在し得ない。
制度も権利(人権)も超法規社会(国家)規範(法・自然法)に
適っている範囲内ででしか存在しない。
要するに、法(自然法・超法規社会(国家)規範)は、
制度・権利義務発生の原理である故に、
制度・権利義務制約の原理なのだ。


経済学者たちは、
市場ないし市場メカニズムを神の見えざる手と擬制し、
神の見えざる手=市場メカニズムに任せればうまくいく、
と言いくるめることによって、
法(自然法)・正義(公平)・人権(そのもの)の拘束を
免れた・解かれた絶対自由をでっち上げた。
しかし、
アダム・スミスは、
「自分の利益を追求する方が・・・・社会の利益を高められことが多い」、
と言っているのであって、
「自分の利益を追求することによって社会の利益は高められる」
と言っているわけではない。
これは、アダム・スミス自身が、
見えざる手が存在するらしい、ということは分かった、
というだけで、
見えざる手が本当は何であるかは、分からなかった、
ということを意味している。


(本物の)神の見えざる手が創出したのは、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度だ。
それは、こうだ。
人びとの自由勝手とすることが
明らかに反正義(公平)・反法(自然法)であることが、
予め判然としている事柄については、事前にしっかりと規制をする。
人権(そのもの)を侵害阻害することが
予め判然としている事柄については
事前にきちんと規制する。
それ以外は取りあえず暫定的に自由とする。
(暫定)自由は、人が社会(国家)の中で、他者とともに、
健康で文化的な生活を営んでいくための手段として存在している。
それは、健康で文化的な生活の形は流動的発展的なものであり、
予めきちっと決められた形で存在しているものではないからだ。
暫定自由原則の結果もたらされる社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
「社会保障制度などの生活基盤保障制度と累進課税制度一体の
帰属所得再評価・不当利得返還・社会(国家)補修復元制度」を以て
是正ないし補修し社会(国家)を復元する。
これが、
(本物の)神の見えざる手が創出した
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度だ。


だから、こうなる。
たとえば、憲法29条1項は、
「財産権は、これを侵してはならない。」、と規定している。
そこに私有財産制の是認を見て取ることは、間違いではない。
しかし、私有財産制を法(自然法)に服さない絶対私有財産制を
見て取るのは、間違いだ。
そもそも、私有財産制が憲法に規定されて初めて是認される、
と考えるのは、妄想だ。
要するに、憲法29条1項に存在しているのは、
公共の福祉すなわち法(自然法)に制約された、服する、
暫定自由制度としての私有財産制だ。
所有権暫定自由・契約暫定自由の原則を規定しているのが、
憲法29条1項だ。


図17−人権(そのもの)相関図

人権(そのもの)相関図



2 (公共の福祉は制度・権利義務発生の原理

法律(憲法)によって、初めて、それだけで、
制度・権利義務が発生し存在する、
と考えてきた従来の法律学・経済学は、
法律(憲法)に規定され存在している制度・権利義務が、
法律(憲法)に規定されている制約原理、
つまり公共の福祉によって制約される、と発想してきた。
制約の原理つまり公共の福祉は、
超法規社会(国家)規範(法・自然法)であり、
それは、
制度・権利義務発生の原理であるからこそ、
制度・権利義務制約の原理なのである。
とすれば、
法律(憲法)によって、初めて、それだけで、
制度・権利義務が発生し存在する、と考えてきた
従来の法律学は、事実に反していて、間違いだ、
と言わざるを得ない。
ともあれ、この事実は、
事前での自由規制は必要最低限に止め、
その結果もたらされる社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に「社会保障制度などの生活基盤保障制度と
累進課税制度一体の
帰属所得再評価・不当利得返還・社会(国家)補修復元制度」を以て
是正ないし補修することによって、
すべての人の人権(そのもの)を守って行く、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度組織が、
戦後の日本社会(国家)であることを、
教えている。



3 (単なる「人権の限界」原理と誤解している従来の法律学

従来の法律学は、たとえば、こう言っている。
「日本国憲法の人権規定を見ると、
例えば『集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、
これを保障する』(21条1項)のように、
人権を無制限に保障するかのような規定の仕方になっていることに
気づくだろう。
・・・しかし、日本国憲法が保障する人権も、
共同の社会生活を前提とする以上、
文字通り無制約であるわけではない。
@ 僧侶が病人に対し、治療のためと称して加持祈祷を行い、
その後死亡させた場合、
信教の自由を理由として傷害致死罪(刑法205条)を免れることは
できない(最大判1963年5月15日刑集17巻4号302頁)。
A 売春防止法は、
反道徳的であることを理由の1つとして、
自由意思によるものであっても売春を禁止している
(職業選択の自由に対する規制)。
B 京都・祇園の街並み。
竹矢来に格子造りの茶屋等が並び風情を醸し出しているが、
ここでは各種法令や条例により、広告物(表現の自由)、
建築物の高さなど(財産権)について厳しい規制がある。
・・・
D 雇用に関しては、
労働基準法による労働者保護のための規制があり、
雇用者(労働者も)は自由な条件での労働契約の締結が制限されている。
以上の例のように、
憲法の保障する人権は様々な法令(地方自治体の条例を含む)によって
現に制約されており、
その多くは憲法に反するものではないと考えられている。」
「さて、人権の限界の問題に関しては、
冒頭に見たように、
日本国憲法の個別の人権規定のほとんどに
明文規定がないのであるが、
人権総則とでもいうべき12条、13条、
そして個別の人権規定でも
居住・移転・職業選択等の自由(以下「職業選択等の自由」という)を
保障する22条1項
および財産権を保障する29条2項に
それぞれ『公共の福祉』という文字が登場する。
そこで、人権の限界を考えるにあたっては、
この『公共の福祉』をどう解釈するかが重要となる。」
(曽我部真裕「U人権保障制約原理」法学セミナー
(日本評論社)2008年5月号18頁)、と。



4 (権利濫用法理の前提にも存在する
  超法規社会(国家)規範(法・自然法)


平成20年3月1日施行の
労働契約法(平成19年12月5日成立)第16条は、
「解雇は、
客観的に合理的な理由を欠き、
社会通念上相当であると認められない場合は、
その権利を濫用したものとして、無効とする。」、と規定している。
従来の法律学は、「解雇権濫用法理」として、
次のように説明している。
「解雇の有効要件をみると、
まず民法上は、
会社は期間の定めのない労働契約を締結している
従業員(正社員)について、
14日の予告期間をおけば自由に解雇をすることができます(民法627条)。
この点は辞職の場合と同じです・・。
労基法の制定後は、予告期間は30日にまで延長されましたが、
解雇自由の原則は修正されませんでした
(もちろん、労基法3条違反の解雇など
一定の差別的解雇は禁止されています。さらに19条も参照)。
しかしその後、
判例が、
『使用者の解雇権行使も、
それが客観的に合理的な理由を欠き
社会通念上相当として是認できない場合には、
権利の濫用として無効になる』と定式化された
解雇権濫用法理を構築しました
(日本食塩製造事件・最2小判昭和50年4月25日労集227号32頁)。
この判決とその後の最高裁判決・・により、
解雇には正当理由が必要であるというルールが
定着していくことになります。
もっとも、このような解雇権濫用法理は、
その根拠が、民法の一般条項である権利濫用禁止規定(1条3項)に
あったものでしたが、
ついに、平成15年改正で、
労基法18条の2が新たに追加され、
『解雇は、
客観的に合理的な理由を欠き、
社会通念上相当であると認められない場合は、
その権利を濫用したものとして、無効とする。』
という規定が設けられました。
これは、従来の解雇権濫用法理を、
法律の中でそのまま成文化したものでした
(現在では、労働契約法16条。
同条の制定により労基法18条の2は削除されました。)」
(大内伸哉「就業規則からみた労働法〔第二版〕」日本法令327頁以下)、と。



5 (権利義務は超法規社会(国家)規範(法・自然法)に
   適った妥当性・正しさ


権利義務の実体、
それが、そうすることが、そうあることが、
超法規社会(国家)規範(法・自然法)に適っている故の、
社会的な政策的な妥当性(正しさ)ないしその意識のことだ。
勿論、人権(そのもの)を守るための施策・政策である
法律を無視しては、
社会的な政策的な妥当性(正しさ)は考えられない。
とすれば、
すべての権利義務は、
それを守る法律が存在することを条件に、
ないしは、
それを守る法律を踏まえた上で、
規範的に意味のある行為事実と
超法規社会(国家)規範(法・自然法)とを基に、
超法規社会(国家)規範(法・自然法)に適っている故の、
社会的な政策的な妥当性(正しさ) ないしその意識として、
超法規的に発生消滅する、はずだ。
労働契約法16条は、解雇は、
「客観的に合理的な理由」があり、
それが「社会通念上相当であると認められ」る事実がある場合に、
はじめて、
解雇権が発生する、
という事実を
念のため確認している法律である、と考えられる。
「客観的に合理的な理由」があり、
それが「社会通念上相当であると認められ」る事実が、
解雇権を発生させるに足る、
「規範的に意味のある行為事実」である。
「『客観的に合理的な理由』があり、
それが『社会通念上相当であると認められ』る事実」というのは、
抽象化された規範的に意味のある行為事実のことだ、
と考えられる。
しかして、労働契約法16条は、
超法規社会(国家)規範(法・自然法)の実在を前提に、
抽象化された規範的に意味のある行為事実と
超法規的に発生する解雇権を
確認している法律である、と考えられてくる。
つまり、
権利義務や制度が、法律によって、
はじめて、ストレートに、発生消滅する、
という事実はない、ということだ。


図18−権利義務発生消滅原理図





6 (発生の原理である故に制約の原理だ

要するに、
法(自然法)は
個々人全てが、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営んで(生きて)いく社会(国家)たるべし、
という超法規社会(国家)規範で、
制度・権利義務発生の原理である故に、
制度・権利義務制約の原理だ。
したがって、
信教権も、職業選択権も、表現権も、財産権も、
労働契約締結権も、
超法規社会(国家)規範(法・自然法)に適っている範囲内
でしか存在し得ない、ということだ。
それは、初めから、そうなのであって、
法律(憲法)に規定されて、
抽象的な観念的な絶対的な権利義務が発生し存在し、
それが、法律(憲法)に規定されている制約原理、
つまり公共の福祉ないし超法規社会(国家)規範(法・自然法)に
よって制約される、というものではない。
実際、権利濫用の法理は、
戦後の日本社会(国家)が、
詐称資本主義社会・国家、
欠落才覚人天下人工市場社会(国家)主義社会・国家から
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会(国家)に
転換され、
その結果、権利義務概念がすべて
自然法(法・超法規社会(国家)規範)上の概念に転換された、
という事実に対応するための弥縫策でしかないのである。




第2章

 法(自然法)感覚人権(そのもの)感覚が
 (本物の)神の見えざる手

 ―― (本物の)神の見えざる手は何を創り出すか
 ((本物の)神の見えざる手とは何か)



1 (誰もが持つ超法規社会(国家)規範(自然法)感覚が
   (本物の)神の見えざる手

  
人間の頭脳は誰でも、生きていく、という目的を持っている。
生きていく、ということは、
単に糊口をしのぐ、ということではなく、
社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
ということだ。
これは、人間は誰でも、
個々人すべてが、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範(自然法)ないしその意識・感覚、
すなわち(本物の)神の見えざる手を備え持っている、
ということに他ならない。
人権(そのもの)とは、
人が社会(国家)の中で他者と共に
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
超法規的権利義務のことである。
自由は、
個々人全てが、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくための、
手段だ。
それ故、自由は暫定的にしか存在し得ない。
手段にして暫定的存在である自由は、
(本物の)神の見えざる手の発現を阻害するものから
解放されている社会(国家)的状態にしか存在し得ない。


2 (分業制度を前提とした交換経済制度は
   「個々人すべてが、社会(国家)の中で他者と共に、
  健康で文化的な生活を営んでいく」のに適った制度


では、この(本物の)神の見えざる手は、自由は、
一体何を現わし出す、創り出す、だろうか。
すべての人が健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護動的平衡システム社会(国家)
を現わし出す、創り出す、だろう。
個々人すべてが、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくのに
適った、
制度や権利義務を現わし出す、創り出す、だろう。
実際、たとえば、
「職人の熟練度や技能・技術を改善し、
仕事の工程間の移動時間を短縮し、
労働を単純化して機械の導入を容易にするといったことがある」
分業制度、
この分業制度を前提とした交換経済制度は、
「個々人すべてが、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営んでいく」のに
適っている制度だ。
分業制度を前提とした交換経済制度は、
ただそういうものであって、
「市場における自由な競争に委託する経済」制度、
「市場経済の資本主義」制度なのではない。
とすると、
分業制度を前提とした交換経済制度は、
(本物の)神の見えざる手が現わし出した、創り出した、
と考えられてくる。


3 ((本物の)神の見えざる手の発現を阻害しなければ
   うまくいく、というのがスミスの真意


とすれば、
(本物の)神の見えざる手の発現を阻害しなければ、
(本物の)神の見えざる手の自由に委託すれば、
経済は、社会(国家)は、うまくいく、というのが、
アダム・スミスの真意なのではないか、
と考えられてくる。
アダム・スミスの真意は、
「市場における自由な競争に委託する経済」制度、
「市場経済の資本主義」制度ではなく、
全ての人が健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護動的平衡システム社会(国家)を
説くにあった、と考えられてくる。


4 (「国を富ます」という発想は間違い

仮に、「国富」のためには、
「市場における自由な競争に委託する経済がもっとも
最適である」、というのが、
本当に、アダム・スミスの主張である、というのであるのなら、
それは、
(本物の)神の見えざる手抹殺論以外の何物でない、
ということになる。
アダム・スミスは、
(本物の)神の見えざる手を架空の見えざる手にすり替えて
抹殺することによって、
自由放任を導いた、
「市場における自由な競争に委託する経済」制度、
「市場経済の資本主義」制度を導いた、
ということになる。
実際、「国を富ます」ということなら、
おそらく、その通りだろう。
しかし、これは、「国を富ます」という発想そのものが、
間違いであることを意味している。
「国を富ます」という発想は正に全体主義だ。


5 ((本物の)神の見えざる手をすり替え抹殺して
  やってくるのは欠落才覚人天下人工市場似非社会


繰り返すが、
個々人すべてが、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範(自然法)ないしその意識・感覚が
(本物の)神の見えざる手だ。
自由は、
個々人全てが、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくための、
手段だ。
それ故、自由は暫定的にしか存在し得ない。
手段にして暫定的存在である自由は、
(本物の)神の見えざる手の発現を阻害するものから
解放されている社会(国家)的状態にしか存在し得ない。
だから、
超法規社会(国家)規範(自然法)ないしその意識・感覚
つまり(本物の)神の見えざる手を架空の見えざる手に
すり替えて抹殺しても、
すべての人が健康で文化的な生活を営んでいくための自由は、
やってはこない。
「市場における自由な競争に委託する経済」
「競争経済の資本主義」の下でやってくるのは、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の、
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家でしかない。
それは似非社会であって、
人間が住む・生きていく社会(国家)ではない。


6 (自由は
   人が健康で文化的な生活を営んでいくための手段


要するに、自由は、
個々人全てが、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくための、
手段だ。
それ故、自由は暫定的にしか存在し得ない。
手段にして暫定的存在である自由は、
(本物の)神の見えざる手の発現を阻害するものから
解放されている社会(国家)的状態にしか存在し得ない。
自由の存在理由は、
個々人すべてが、社会(国家)の中で他者と共に営む、
健康で文化的な生活の形なり有り様は、
予め、きちっときまっているものではない、という所にある。
要するに自由には絶対性はない。
自由(権)を生み出したのも、(本物の)神の見えざる手に
違いない。
結局、アダム・スミスは、
神の見えざる手が存在するらしい、ということが分かった、
というだけで、
神の見えざる手が本当は何であるかは、分からなかった、
というのが、本当のところだろう。
さもなくば、
架空の見えざる手と取り違えてしまった、
ということだろう。


7 (架空の見えざる手にすり替えて抹殺する手口は
   欠落才覚人らしい


要するに、
自由には、
個々人すべてが、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範(自然法)感覚、
すなわち(本物の)神の見えざる手を架空の見えざる手に
すり替えて抹殺することによって導かれる架空の絶対自由と
(本物の)神の見えざる手が創り出した
手段にして暫定的存在である自由がある。
とりあえずは、明らかに不都合・反自然法なことは規制をし、
それ以外は暫定自由を原則として、
結果として起こってきた不都合・反自然法は、
不都合・反自然法として、修復する。
手段にして暫定的存在である自由を事前原則とし、
事後的に判然としてきた行き過ぎを補修し
社会(国家)を復元する。
それ以外にいい方法はないだろう。
勿論、これは決して自由放任社会(国家)ではない。
架空の見えざる手と取り違えてしまったが、
自由放任ではなく、
(本物の)神の見えざる手の発現を阻害しなければ、
(本物の)神の見えざる手の自由に委せれば、
うまくいく、
というのが、おそらく、スミスの真意に違いない。
ともあれ、要するに、神の見えざる手が鍵を握っている、
ということだ。
(本物の)神の見えざる手を架空の見えざる手にすり替えて
抹殺する、という近代経済学者たちの手口は
いかにも欠落才覚人らしい。





第3章

 法律(広義の)を創り出したのも
  (本物の)神の見えざる手

  ――法律(広義の)は
     すべて人権(そのもの)擁護のための方策

  (法律とは何か)



1 (人権(そのもの)擁護を目的に講じられる方策が
   法律(広義の)


人間の頭脳は、生きていく、という目的を持っている。
だが、外界は、人間が一人で生きていくには、余りにも過酷である。
結局、一人で、ではなく、社会(国家)を組織して、みんなで、
生きていく以外に、人間にとって、道はなかった。
この事実が、生きていく、という目的を持った人間に、
人が、社会(国家)の中で、
社会(国家)的仕組みでの生活基盤(インフラ)の上で、
他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
超法規的権利義務すなわち人権(そのもの)と、
すべての人が、社会(国家)の中で、
社会(国家)的仕組みでの生活基盤(インフラ)の上で、
他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範(法・自然法)を
観念させた。


そして、
人権(そのもの)を、
從法(自然法)暫定自由制度を以て守っていく、
という仕組み(制度)、
すなわち從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度
社会(国家)制度を編み出した。
広義の国家とはこの社会の別称でしかない。
絶対権力を持った国家などというものは、
実在し得ない。


法律(広義の)は、
人権(そのもの)擁護を目的に講じられる(資する)、
人権(そのもの)を侵害阻害する不合理な拘束・規制・差別・行為を
阻止するための、方策のこと、である。
つまり、法律(広義の)は、
人権(そのもの)を侵害阻害する不合理な拘束・規制・差別・行為を
阻止するための方策を講ずることによって、
人権(そのもの)を擁護する、
という二段構えの構造をしている。



2 (合理性のある方策に
   超法規社会(国家)規範性がある


合理性のある方策には超法規社会(国家)規範性がある。
合理性のない方策は法律(広義の)ではない(無効)。
そういうものである限り、
民法や労働基準法などの狭義の法律だけではなく、
憲法だって、条約だって、約款だって、労働協約だって、
就業規則だって、契約だって、判例だって、通達だって、
法律(広義の)なのである。
ちなみに、契約は行為当事者間の合意で作られる法律である。
憲法は、
当該社会(国家)の全社(国)民間の合意で作られる
社会(国家)契約書で、
社会(国家)の基本法律である。


戦前の大日本帝国憲法は、
詐称資本(自由)主義社会・国家、
すなわち欠落才覚人天下人工市場社会・国家を約した
社会・国家更改契約書であった。
その特徴は、不合理な欠落才覚人天下人工市場社会化し、
それを、強力な軍隊を持った、絶対万能な権力を持った、
妄想国家で支えるところに、ある。
戦後の日本国憲法は、
その破綻と反省の上に、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会(国家)を
約した社会(国家)更改契約書である。


從法(自然法)人権(そのもの)擁護
暫定自由制度社会(国家)とは、
事前での自由規制は必要最低限に止め、
その結果もたらされる人権(そのもの)の侵害阻害、
その結果の社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に
「社会保障制度などの生活基盤保障制度と累進課税制度一体の
帰属所得再評価・不当利得返還・社会(国家)補修復元制度」
を以て是正ないし補修することによって、
すべての人の人権(そのもの)を守って行く、
動的平衡システム社会(国家)のこと、である。
つまり、
從法(自然法)人権(そのもの)擁護
暫定自由制度社会(国家)とは、
すべての人が、社会(国家)の中で、
社会(国家)的仕組みでの生活基盤(インフラ)の上で、
他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
社会(国家)のこと、だ。



3 (それやらなかったら生きていけなくなる、という事実が持つ
   強制力・拘束力が超法規社会(国家)規範性の正体


合理性のある方策に超法規社会(国家)規範性がある、
という事実を、
人を殺してはならない、という法律を例に、
簡単に考えておきたい。


人を殺してはならない、という法律が、
刑法199条の前提に存在していることは間違いない。
刑法199条は、「人を殺した者は、
死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」、
と規定しているのだから。
人を殺してはならない、という法律には、
超法規社会(国家)規範性があるだろう。
何故なのか、考えて見たい。
この法律の実体は、
人を殺さないことにする、させない、方策である。
では人を殺さない、させない、ということに、
どういう意味があるのだろうか。
人間は社会(国家)の外で、ジャングルの中で、
生きているのではなく、
社会(国家)の中で、生きている。
つまり、人はみな、社会(国家)的な仕組みでの、
「良好な自然環境、良好な公共財、十分な(狭義の)社会(国家)
保障制度、法(自然法・超法規社会規範)守る法律(広義の)制度・
狭義の国家(執行部)制度」、
という生活基盤(インフラ)の上で、
他者と共に、生きている。
人はみな、そういう社会(国家)的仕組みの上で生きている
と同時に、
社会(国家)的仕組みを構成している部分なのである。
したがって、人を殺す、ということは、
その人を殺すと同時に、社会(国家)の他の人のことも殺す、
という意味合いを持つことになる。
人を殺してはならない、という法律は、
個々人全てが、社会(国家)の中で、
つまり社会(国家)的仕組みでの生活基盤(インフラ)の上で、
他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範(法・自然法)に適っている、
ことを意味する。
しかも、その超法規社会(国家)規範(法・自然法)性は強い、
と考えられてくる。


この方策をやらなかったら、社会(国家)は立ち行かなくなる、
自分も他者も生きていけなくなる、
という事実が持つ強制力・拘束力が、
超法規社会(国家)規範(法・自然法)性の正体なのではないか。


4 (法律(広義の)を絶対(正義)化している故の
   実体法説ないし旧訴訟物理論の完全誤謬


訴訟物を「実体法上の請求権を基準にする考え方を実体法説、
あるいは旧訴訟物理論と言います。」
「甲という患者が乙という医師のところで手術を受けました。
ところが、乙の手術ミスによって甲に三百万円の損害が発生しました。」
この「事実関係から」、
「民法709条の不法行為に基づく損害賠償請求」権と
「治療契約」上の「債務の本旨に従った履行ではない。
つまり不完全履行であるとして、
民法415条に基づく債務不履行による損害賠償請求」権が
発生する。
「実体法説は、
素朴に実体法上の請求権毎に一個の訴訟物を認めますから、
この場合に甲には二個の訴訟物が成立しうる
というふうに考えます。」
(吉野正三郎「集中講義民事訴訟法[第4版]」成文堂103ページ)。
伊藤眞教授は、
「判例およびかっての通説はこれを採用し、
また現在の実務もこれにもとづいて運営されている。
本書もこの立場をとる。」
(伊藤眞「民事訴訟法」有斐閣163ページ)、
と言っている。


勿論、「甲には二個の訴訟物が成立する」というばかげた結論を
本気で主張する狂人はどこにもいない。
「甲には一個の訴訟物しか成立しない」、という結果は、
選択的併合という弥縫策によって導かれている。
要するに、「判例およびかっての通説」も、「現在の実務も」
本当に実体法説ないし旧訴訟物理論によっている、
という事実はないのである。



5 (法律(広義の)を絶対(正義)化した
   民法の基本理論の完全誤謬


実体法説ないし旧訴訟物理論の誤根・誤源は、
それが前提としている、
「・・・〈債権・債務〉が発生した場合の当事者の関係を
「債権関係」・・と呼び、
その〈債権・債務〉を発生させる原因関係が
4つ(契約・事務管理・不当利得・不法行為)ある・・・。
そのうち「契約」は、
当事者の意思(合意)によって
債権関係を発生させるものであるのに対し、
それ以外の「事務管理」、「不当利得」、「不法行為」は、
当事者の意思によらないで、
法律が一定の法政策的目的から債権関係を発生させるものである。
したがって、これらを「法定債権関係」と呼んでいる。」
(近江幸司「民法講義Y事務管理・不当利得・不法行為」成文堂1ページ)、
という民法の基本理論にある。


法律(広義の)を絶対(正義)化している従来の法律学は、
契約・法律には権利義務を発生させる
「要件事実」が書かれている、
それ故に、
権利義務は契約や法律によってはじめてストレートに
それだけで発生変動する、
と誤解しているのである。
しかし、それは間違いだ。
訴訟物理論の混迷は、
人間社会に普遍的価値(人権(そのもの))、
超法規社会(国家)規範(法・自然法)が実在しない、
という従来の法律学の間違に起因している。


6 (権利義務は
  法律(広義の)によってはじめてストレートに
  それだけで発生するものではない


しかし、人間社会(国家)には、
普遍的価値(人権(そのもの))、
超法規社会(国家)規範(法・自然法)が実在しているのである。
法律(広義の)は、
法(自然法・超法規社会(国家)規範)を敷衍・具体化したもので、
人権(そのもの)擁護を目的に講じられる(資する)、
人権(そのもの)を侵害阻害する不合理な拘束・規制・差別・行為を
阻止・防止するための、方策のこと、である。
だから、そういうものである限り、
誰が作っても法律(広義の)たりうるのであり、
就業規則や約款も法律(広義の)なのである。
判例だって通達だって法律(広義の)たり得るのである。
行為当事者間で作られる契約も、勿論、法律(広義の)である。
ただ、契約も法律(広義の)として、
法(自然法・超法規社会(国家)規範)に服するのであって、
絶対的なものではあり得ない。
したがって、「契約暫定自由の原則」とでもいった方が
いいのかもしれない。
「契約自由絶対の原則」というのは、実在していない。


権利義務の実体は、
超法規社会規範(自然法)に適っている故の
社会的な政策的な妥当性(正しさ)なのである。
損害賠償請求債権債務は、
民法709条、民法415条、道路交通法、
旅客運送契約、治療契約など
といった法律を踏まえた上で、
規範的に意味のある行為事実と
超法規社会(国家)規範(法・自然法)とを基に、
「法(自然法・超法規社会規範)上の損害賠償請求債権債務」として
一つ成立するのである。
この一つの「法(自然法・超法規社会(国家)規範)上の
損害賠償請求債権債務」が
表面上の訴訟物なのである。
それは確認訴訟だって同じことだ。
その被告は、反訴状を出さなくとも、潜在的に反訴原告であり、
それは給付訴訟なのである。



7 (法律(広義の)は二段構えで人権(そのもの)を擁護している

しかし、この損害賠償請求債権債務は、
人権(そのもの)を回復させる手段権利義務として存在している。
したがって、この場合の真の訴訟物は、
患者甲の人権(そのもの)である、と考えられてくる。
そもそも、法律(広義の)は、
人権(そのもの)擁護を目的に講じられる(資する)、
人権(そのもの)を侵害阻害する不合理な拘束・規制・差別・行為を
阻止・防止するための、方策である。
つまり、法律(広義の)は、
人権(そのもの)を侵害阻害する不合理な拘束・規制・差別・行為を
阻止・防止するための方策を講ずることによって、
人権(そのもの)を擁護する、
という二段構えの構造をしている。


不法行為を例に考えてみよう。
内田貴教授は、次のように言っている。
「・・・そもそも、なぜ不法行為によって債権が発生するのだろうか。
この問題は不法行為制度の目的をどのように考えるかにかかわる。
・・・しかし、今日の不法行為制度の主たる目的ないし機能は、
そのような報復や制裁にはないというべきだろう。
むしろ、実際の機能としては、
被害者の救済(損害の?補)と将来の不法行為の抑止にある
といってよいように思われる。」
(内田貴「民法U債権各論」東京大学出版会299ページ以下)、と。
要するに、
被害者に対し損害を賠償させることによって、
「被害者の救済(損害の?補)」をし、
「将来の不法行為を抑止」することが、
人権(そのもの)擁護に適っている、
ということだろう。
とすれば、そこで観念され、発生するのは
「法(自然法・超法規社会(国家)規範)上の損害賠償請求債権債務」
であり、
それは、
人権(そのもの)を回復させる、人権(そのもの)を擁護するための、
手段権利義務だ、ということだろう。



8 (法律(広義の)を「要件事実」を規定した
   「実体法」と考えるのは間違い


とすれば、
「(医療)契約に基づく債務の本旨に従った履行ではない」と同時に、
「故意又は過失によって
他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した」、
という規範的に意味のある行為事実と
超法規社会(国家)規範(法・自然法)とを基に、
超法規社会(国家)規範に適っている故の、
社会的な政策的な妥当性(正しさ)として、
「法(自然法・超法規社会規範)上の損害賠償請求債権債務」が
一つ成立する、
と考えられてくる。


とすれば、民法第415条を、民法第709条を、
損害賠償請求権を発生させる「要件事実」を規定した
「実体法」である、と考えるのは、
間違いだ、ということになる。
つまり、民法第415条、民法第709条に規定されているのは、
「法(自然法・超法規社会規範)上の
損害賠償請求債権債務」を発生させる、
抽象化された「規範的に意味のある行為事実」なのである。


法律(広義の)は、
人権(そのもの)擁護を目的に講じられる(資する)、
人権(そのもの)を侵害阻害する
不合理な拘束・規制・差別・行為を
阻止・防止するための、手段方策である。
抽象化されたものとはいえ、
「規範的に意味のある行為事実」を予め確認しておくことによって、
それによって発生変動する権利義務をめぐるトラブルを
防止し得るのである。
法律(広義の)がそういうものだとしたら、
権利義務が、
法律(民法第415条、民法第709条、医療契約など)によって、
はじめて、ストレートに、それだけで、発生消滅する、
ということはあり得ないことになる。


法律は法律故に法律であり、それ故に正しく守られるべきであり、
それによって、それだけで権利義務が発生する、
という従来の法律学は、
(完全なる)自由意思人」・「(完全なる)自由意思」という妄想を
土台にして作られた空中楼閣の如き代物なのである。


9 (法律(広義の)絶対(正義)化の誤りは
   刑法理論にも見て取れる


刑法学者たちも、
罪刑法定主義や構成要件論の下に、
犯罪が法律に規定されてはじめて犯罪になるが如きを
説いている。


しかし、
犯罪とは、
個々人の受忍し得ない、社会的にも放置し得ない
法(自然法・超法規社会(国家)規範)ないし人権(そのもの)の侵害・阻害、
すなわち危難を惹起せしめる行為のことである。
犯罪も法(自然法・超法規社会(国家)規範)上の概念なのである。
正当防衛(刑法第36条)や緊急避難(刑法第37条)が
許容されるのは、
それらが危難を惹起せしめる犯罪行為ではないからである。
法律に規定されてはじめて犯罪でなくなるのではない。
要するに、
法(自然法・超法規社会(国家)規範)は、
人権(そのもの)は、
法律(刑法第36条、第37条)の前提に顕在しているのである。
法(自然法・超法規社会(国家)規範)・人権(そのもの)が
実在している人間社会では、
同じ人殺しでも、
故意の殺人罪と過失致死罪と傷害致死罪と
業務上過失致死罪と危険運転致死罪と遺棄致死罪とでは、
自ずと刑罰の幅に違いがあるのである。
罪刑法定主義の意義はそこにあり、それ以上にはない。


人間が、人為法たる法律を作り、
そこで犯罪とされた故に犯罪となる、
と考える従来の法律学は、
刑罰を科すために、責任という概念をでっち上げざるをえなかった。
そのため、
「人間は自律的に意思決定する主体である。」、
人間は犯罪をするかしないかを自由に意思決定し得る
完全なる自由意思人である、と擬制せざるを得なくなった。
しかし、人間の頭脳は、生きていく、という目的を持っている。
人間は、
完全なる自由意思人でもなければ、非自由意思人でもない。
法(自然法・超法規社会(国家)規範)・人権(そのもの)は、
生きていく、という目的を持った人間が、
一人で生きていくのではなく、
社会を組織して、みんなで、生きていく道を選んだ故に、
人間社会に、論理必然的に、自然発生的に、生み出された
結果として、
実在するものである。


犯罪は、
人間社会の普遍的価値(人権(そのもの))
・超法規社会(国家)規範(法・自然法)を犯す・に違反する、
行為であり、
それ故に、応報と再犯の防止を目的に刑罰が科されるのである。
「現在、
犯罪防止目的を一切考えない
純粋の応報刑論(絶対的応報刑論)は見られない。」
(木村光江「刑法[第2版]」東京大学出版会11ページ)のは、
そのためである。
要するに、応報と再犯の防止を目的に刑罰を科すことが、
人権(そのもの)擁護に資する、ということだろう。