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(第U編 絶対自由資本主義を原理原則とした社会あり得ない)





全て神の見えざる手が創らしめる制度権利義務で成り立っている
                       (写真は千葉県屏風ヶ浦の地層)


第四部−2

全て
神の見えざる手が創らしめる
 制度権利義務で
成り立っている


ーー思想・イデオロギー・価値観から法(自然法)へ
   グローバル化は
   世界の
   則法(自然法)暫定自由制度
   人権(そのもの)擁護システム社会(国家)化





神の見えざる手は、
存在しないのではなく、存在する。
それは、全ての人が、他者と共に、健康で文化的な
生活を営むべく自由に生きていくべし、とする、
唯一絶対社会規範=自然法感覚のことだ。
法(自然法)は個々人にとっては人権(そのもの)として
存在するものだから、
それは、人権(そのもの)感覚のことでもある。
法(自然法)人権(そのもの)感覚=神の見えざる手は、
人間を、自らを、自由意思人として、神の子として、
神格化し、合意(意思)を絶対視するようになること
によって、失われる。
法(自然法)人権(そのもの)が欠落した絶対自由は、
法(自然法)人権(そのもの)感覚(神の見えざる手)を
喪失した喪失才覚人たちが抱く妄想だ。
絶対自由資本主義人工市場似非社会化犯罪は、
喪失才覚人たちの仕業だ、と考えられてくる。
グローバル化は、
世界の絶対自由資本主義人工市場似非社会化ではなく、
世界の則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護シス
テム社会(国家)化だ。
これは、思想・イデオロギー・価値観から法(自然法)へ、
世界が
則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)へ収斂していく
現象に他ならない。






        
 目  次


第1章
  唯一絶対社会規範=自然法に則る
   重畳する部分社会で成る社会


第2章
  則自然法社会の所有形式は
    合有(物)の暫定所有権(持分権)

 1 (私的所有権妄想に基づく支配が
     資本主義妄想の本質
)
 2 (資本主義妄想の要諦は私的所有権妄想)
 3 (喪失才覚人が人民を支配するためのシステムが
    資本主義似非社会
)
 4 (第一次全人合有物の第一次暫定所有権が
    則自然法社会の所有権
)
 5 (社会(国家)目的による制約は
    所有物によって違ってくる
)

第3章
  会社は社会(国家)の部分社会で
    
所有形式は合有の暫定所有権

 1 (会社は社会のものであると同時に
    会社を構成するみんなのもの
)
 2 (会社は株主のものであるという
    資本主義は妄想でしかない
)
 3 (社会(国家)目的により制約された
    合有物の暫定所有権
)
 4 (会社も人が生きていく目的のシステムで
     所有形式は合有
)
 5 (法人制度は代表制度の別名で
    法人という人はいず法人論争無意味
)
 6 (所有形式は第二次会社全構成人合有物の
    第二次暫定所有権
)

第4章
  世界は則自然法人権擁護システム社会へ
   収斂していく
 1 (アダム・スミスの見えざる手は偽物)
 2 (法(自然法)人権感覚が本物の神の見えざる手)
 3 (グローバル化は
    世界の則自然法人権擁護システム社会化)
 4 (世界の絶対自由制度人工市場似非社会化是とする
    グローバリズム)
 5 (世界は
    則自然法人権擁護システム社会へ
    収斂していく)







第1章

  
唯一絶対社会規範=自然法に則る
   重畳する部分社会で成る社会




神の見えざる手は、全ての人が、他者と共に、健康で文化的な
生活を営むべく自由に生きていくべし、とする、
唯一絶対社会規範=自然法感覚のことだ。
法(自然法)は個々人にとっては人権(そのもの)として存在する
ものだから、それは、人権(そのもの)感覚のことでもある。
とすると、法(自然法)人権(そのもの)欠く絶対自由は
神の見えざる手を取り違えた結果に違いない、と考えられてくる。
喪失才覚人たちが説く神の見えざる手は似非なのである。
したがって、絶対自由を自由の名の下に説いて来たのは、
本物の神の見えざる手を喪失した喪失才覚人たちなのである。
要するに、人間を神格化し、法(自然法)人権(そのもの)感覚
喪失故の絶対自由信奉だ。
とすると、諸悪の根源は、人間を、自由意思人として、神の子と
して、神格化し、合意(意思)を絶対視するにある、と考えられて
くる。
人間が自由に合意(意思)によって社会を、法を、作り得る、という
妄想はそこから来ているに違いない。
絶対自由資本主義人工市場似非社会は、喪失才覚人たちが
限りなく豊かになることを可能にした人工社会・似非社会なのである。
そこでは、(似非)社会は、
人工市場、つまり単なるマーケットなのである。


だが、全ての人が生きていくためにある人間社会は、
マーケットではない。
人間社会(国家)は、全ての人が、他者と共に、健康で文化的な生活
を営むべく自由に生きていくべし、とする、
唯一絶対社会規範=自然法に則る
重畳する家族、会社、社会(国家)たる部分社会で成っている。
そこに社境あっても国境はなく、グローバル化はその故だ
絶対自由資本主義グローバリズムが破壊するのは
無い国家ではなく、有る社会だ。
社会破壊して乗っ取るのが
絶対自由資本主義グローバリズムだ。
諸悪の根源は神の見えざる手を取り違えた経済学にある。
本物の神の見えざる手が欠落した自由放任、法(自然法)人権
(そのもの)が欠落した絶対自由主義資本主義は、
神の見えざる手を取り違えた結果の顛末に他ならないからだ。


 社会イメージ図

  A・・・世界という全体社会
  B・・・社会(国家)という部分社会
  C・・・会社という部分社会
  D・・・家族という部分社会

 唯一絶対社会規範=自然法に則る重層なす家族、会社、社会(国家)たる部分社会で成る世界イメージ図







第2章

 
 則自然法社会の所有形式は
   合有(物)の暫定所有権(持分権)




1 (私的所有権妄想に基づく支配が
    資本主義妄想の本質)
2 (資本主義妄想の要諦は私的所有権妄想)
3 (喪失才覚人が人民を支配するためのシステムが
   資本主義似非社会)
4 (第一次全人合有物の第一次暫定所有権が
    則自然法社会の所有権)
5 (社会(国家)目的による制約は
    所有物によって違ってくる)


1 (
私的所有権妄想に基づく支配が
    資本主義妄想の本質
)

支配権・「所有に基づく支配」こそ、資本主義の本質だと
西山忠範はこう言っていた。
曰く。
「「資本主義」は何よりも一定の支配構造を基礎とする体制
およびそのイデオロギーである。
そして、その内容はその構造的な支配の基礎を生産手段の
私的「所有」に置く体制およびイデオロギーであり、資本主義
社会はそのような体制とイデオロギーを骨組みとして成立する
社会である。
資本主義の定義としてはこのほか労働力の商品化、商業経済、
生産の無政府性などが内容とされているが、それらはいずれも
副次的な要素であって、「所有に基づく支配」という前述の属性
こそ資本主義の本質であり、したがってこの属性を欠く場合には
資本主義ではない。」
(西山忠範「日本は資本主義ではない」
三笠書房16頁以下)、と。


要するに、私的所有権妄想に基づく支配が資本主義妄想の
本質なのである。



2 (
資本主義妄想の要諦は私的所有権妄想)

「資本主義の要諦は私的所有権である」と、
小室直樹は、こう言っていた。
曰く。
「川島博士は、資本主義的所有を、私的所有権として把握する。
所有とは、財の私的所有権なのである。
資本主義の要諦は、この私的所有権である。
一言でいえば、財(商品)とは所有権である。
資本主義の富は商品(財)である。
各商品の使用価値は交換価値の前提であるが、交換価値こそ
商品であることの本質である。
この交換価値(いまの経済学用語でいうと、価格×数量)の所有権
だけが市場において意味をもっている。
このさい、当該商品の具体的諸特性(どんな色をしている、目方は・・・
などは)は、まったく捨象してしまっていいのである。
いかにも、「資本制的生産が支配的である社会」つまり資本主義の
富は、「膨大な商品の集積としてあらわれる」・・・が、商品(財)とは
私的所有権なのである。
資本主義は私的所有権からはじまる。・・・
さて、この資本主義における私的所有権であるが、それは左の特徴
をもつ。
(1) 絶対性
(2) 抽象性」
(小室直樹「小室直樹の資本主義原論」
東洋経済新報社56頁以下)、と。


「所有権は私有財産制の法形式である」と
倉沢康一郎は、こう言っていた。
曰く。
「一九世紀初頭のナポレオン法典があきらかにした近代市民法の
基本原則は、「所有権絶対の原則」、「契約自由の原則」および
「過失責任の原則」の三つである。
「所有権絶対の原則」とは、一面では、国家と国民との関係で、
国家は個人の所有権を侵すことができないということである。
日本国憲法29条1項でも、「財産権は、これを侵してはならない。」
という形で、国民の基本的人権の一つとしてこの原則を定めている。
これに対して、国民相互の関係では、個人は自分の所有物を排他的
に、自由に利用し、あるいは処分することができるということである。
所有権は私有財産制度の法形式であるといえるが、これが絶対的に
保障されることによって、人は自分の経済的な活動の結果を自分の
ものとすることができるし、さらに、それを投資することによって、
あらたな経済活動を開始することができる。
前近代社会においては、人は領主と領民、君主と家臣といったように、
共同体における一定の身分関係によって結びつけられていたが、
その身分関係の基礎となっていたものは、土地・農具・農産物といった
物の領有関係および利用関係である。
つまり、そこでは、物を支配することと、人を支配することが、直接に
結びついていたのである。」
(倉沢康一郎「プレップ法と法学」
弘文堂プレップ法学112頁)、と。


要するに、絶対自由制度資本主義妄想の要諦は私的所有権妄想
なのである。
絶対自由資本主義妄想人工市場似非社会は、喪失才覚人たちが
限りなく豊かになることを可能にした人工社会・似非社会なのである。
そこでは、(似非)社会は、
人工市場、つまりマーケットなのである。



3 (
喪失才覚人が人民を支配するためのシステムが
    資本主義似非社会
)

物を支配することは、その限りで、人を支配することを意味する。
けだし、物の所有とは、物をめぐる人と人の関係に他ならないから、だ。
近代絶対自由資本主義人工市場似非社会での支配者(領主)は
喪失才覚人だ。
資本家ではない。
支配権など実在しない。
では、抽象的な観念的な絶対的な所有権はどのようにして観念された
のだろうか。


権利義務はすべて超法規規範=法に適っている故の妥当性として観念
される。
絶対自由資本主義人工市場似非社会での超法規似非社会規範=法は、
喪失才覚人たちが限りなく豊かになることを可能とするべし、
というものに違いないだろう。
とすれば、抽象的な観念的な絶対的な所有権は、
この超法規似非社会規範=法を基に、
喪失才覚人たちによって、法=超法規似非社会規範に適っている故の
妥当性として、考え出された、と考えられる。


勿論、現実には抽象的な観念的な絶対的な所有権など実在し得ない。
実在し得ないものを可能とするための詐術が絶対権力詐術国家だ。
勿論、それは似非社会とは別個に観念されているものである。
しかし、詐術で存在が偽装されているものであり、「合理的かつ理論的に
説明する」ことは不可能なものだ。


要するに、絶対自由資本主義人工市場似非社会は喪失才覚人たちが
人民を支配するシステムなのである。
一種の階級社会なのである。



4 (
第一次全人合有物の第一次暫定所有権が
    則自然法社会の所有権
)

則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム社会(国家)での
所有権は、こうだろう。
生産手段を含めて全ての物が、
全ての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な生活を営む
べく自由に生きていく、という目的の下に、
全社(国)民によって合有されている。
これが第一次全人合有物だ。
この第一次全人合有物の第一次暫定所有権が則自然法社会(国家)の
所有権だ、と考える。


民法162条1項は、「20年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と
他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。」、と規定している。
このことから推定すると、所有権とは、
「所有の意思」を持ってする平穏公然たる占有の総量である。
所有の意思とは、
全ての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な生活を営む
べく自由に生きていくべし、とする法(自然法)に則って、自由にその物を
使用、収益及び処分せんとする意思である。
法(自然法)=超法規社会(国家)規範と
当該目的物の占有を奪われた、妨害された、妨害されるおそれがある、
という規範的に意味のある行為事実とを基に、
目的物返還請求債権債務、目的物妨害排除請求債権債務、目的物妨害
予防請求債権債務が、
法(自然法)=超法規社会(国家)規範に適っている故の社会的な妥当性として
超法規的に発生する。


したがって、所有権とは、
目的物返還請求債権債務、目的物妨害排除請求債権債務、目的物妨害
予防請求債権債務を潜在的に持った、所有の意思を持ってする平穏公然
たる占有の総量である、ということになる。
したがって、「所有に基づく支配」を可能とする、所有権・支配権というのは
実在しない。
これが、則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム社会(国家)の
第一次暫定所有権だ。


要するに、生産手段を含めて全ての物が、
全ての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な生活を営む
べく自由に生きていく、という目的の下に、
全社(国)民によって合有されている。
これが第一次全人合有物だ。
この第一次全人合有物の第一次暫定所有権が則自然法社会(国家)の
所有権だ、と考える。



5 (
社会(国家)目的による制約は
    所有物によって違ってくる
)

したがって、こう言えてくる。
人は確かに所有物を自由に使用し収益し処分することができる。
しかし、もともとその所有物は全社(国)民の合有物だ。
全ての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な生活を営む
べく自由に生きていく、という目的による制約から免れることはできない。
勿論、その制約は所有物によって大小違ってくる。
生産手段、インフラであったらその制約は極めて大きいだろう。
日用品であったら制約は無いに等しいだろう。
と。








第3章

 
 会社は社会(国家)の部分社会で
    所有形式は合有の暫定所有権




 1 (会社は社会のものであると同時に
     会社を構成するみんなのもの)
 2 (会社は株主のものであるという
     資本主義は妄想でしかない)
 3 (社会(国家)目的により制約された
     合有物の暫定所有権)
 4 (会社も人が生きていく目的のシステムで
     所有形式は合有)
 5 (法人制度は代表制度の別名で
     法人という人はいず法人論争無意味)
 6 (所有形式は第二次会社全構成人合有物の
    第二次暫定所有権)




1 (
会社は社会のものであると同時に
    会社を構成するみんなのもの
)

社会(国家)は、
全ての人が、他者と共に、健康で文化的な生活を営むべく自由に
生きていくため(目的)に組織されたシステム(組織)、
つまり則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム(組織)だ。
そこでは、一次的には、生産手段を含めて全ての物は、
全ての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な生活を
営むべく自由に生きていく、という目的の下に、
全社(国)民によって合有されている全人合有物だ。


会社はこの社会(国家)の部分社会だ。
だが、部分)社会は単なる「人々が仕事をする場」ではない。
会社も人が生きていくため(目的)のシステム(組織)だ。
会社は社会(国家)の部分社会として実体がある。
とすると、要するに、会社は、社会(国家)の部分社会故、
1次的には社会(国家)の、
2次的には会社を構成する全人の、合有物だ、と考えられてくる。
それ故、会社は、
「社会(国家)のもの」であると同時に「会社を構成するみんなの
もの」と言えてくるだろう。




2 (
会社は株主のものであるという
    資本主義は妄想でしかない
)

「会社は誰のものか」問題は解決困難に見えるが・・・、と
大畑伊知郎は、こう言っている。
曰く。
「解決困難な「会社は誰のものか」問題
このように、会社が営利目的を忘れ、株主以外の利害関係者の
利益のために行動するようになると、会社は存続できなくなります。
つまり、会社は多くの利害関係者のものである、という定義もまた、
矛盾を孕んでいると言えます。
結局、「会社は株主のものである」という考え方にも、「会社は幅
広い利害関係者のものである」という考え方にも、突き詰めていくと
問題があると言えます。
「会社は株主のものである」と定義し、株主の利益に忠実な経営を
行うと、会社の将来の利益が犠牲にされ、事業の先細りにつながり
かねません。
また、「会社は幅広い利害関係者のものである」と定義すると、
今度は利益の追求がおろそかになり、結局会社は長続きしない
という結果となります。
こうして考えると、「会社は誰のものか」という問題を、論理的に
すっきりと解決することは困難に見えます。

安定成長を目指す日本的経営
しかし、こうした、「会社は誰のものか」という問題を巧妙に解決して
いたのが、いわゆる日本的経営です。
日本的経営とは、株式の持ち合い、系列取引、終身雇用、年功序列
賃金などを特徴とする経営のことです。
一言で表現すると、安定成長を目指す経営と言えます。
日本的経営においては、目先の利益を確保することよりも、組織の
持続的な成長が重要であると捉えます。
そして、こうした組織目標と整合的な雇用形態として、安定雇用が
選択されます。
従業員の生活を保障することで組織への自発的な献身を促し、
従業員の自発的な献身が企業の成長につながるからです。
つまり、日本的経営は、安定成長を組織目標として掲げ、その組織
目標に整合的な雇用形態として、安定雇用を採用してきたと言えます。」
「しかし、こうした日本的経営は、会計ビッグバンを契機として幕を
下ろすことになりました。
・・・時価会計の導入により株式持ち合いは解消に向かいました。
近年、一部の企業間で株式持ち合いが見直されているのも事実で
すが、安定株主による会社支配という構図は完全に崩壊したと
言えます。
株式持ち合いの解消によって、安定株主がいなくなり、その代わり
に台頭したのが、株式を純粋に金融商品と捉える投機的株主です。
投機的株主として挙げられるのは、外国人投資家、機関投資家、
いわゆるデイトレーダーと呼ばれる個人投資家です。
こうした投機的株主は、投資対象である株式が、一定の期間に
どれだけのキャッシュ・インフロー、つまり値上がり益と配当をもたらす
のかにのみ、関心を持ちます。
つまり、投機的株主にとっては、会社が成長しようが、潰れようが
どうでもよく、ただ、彼らが株式を保有している間に値上がり益や
多額の配当をもたらしてくれれば良いということになります。」
(大畑伊知郎「日本経済を壊す会計の呪縛」
新潮新書91頁以下、98頁以下)、と。


「会社は株主のものである」というのが間違いなのは、絶対自由
制度資本主義所有権、つまり人対人の関係が捨象された抽象的な
観念的な絶対的な所有権というものは、実在し得ないものだからだ。
人が生きていく、という目的を持たない絶対自由資本主義人工市場
似非社会は、社会ではない。
全ての人が、他者と共に、健康で文化的な生活を営むべく自由に
生きていくため(目的)に組織されたシステム(組織)である社会(国家)
の部分社会として会社は存在している。
日本的経営は、全ての人が、他者と共に、健康で文化的な生活を
営むべく自由に生きていくという社会(国家)目的に適っていたのに
違いない。




3 (
社会(国家)目的により制約された
   合有物の暫定所有権
)

合有は、こう説明されている。
曰く。
「合有 
1意義 共同所有の1形態。
合手的共有ともいう。
各共同所有者は持分権を有するが、共同目的のために
複数人が結合していることから、一定の制約が加えられている。
合有の目的物について各共同所有者が有する権利を、
持分又は持分権と呼ぶ。
合有において、持分の処分は制約され、また、各共同所有者は
持分権の分割を請求することができない。
この2点で共有と異なる。」
(有斐閣法律学小辞典第4版)、と。


「合有
合手的共有ともいわれ、共有と総有との中間的共同所有の形態
であるとされる。
各共有者は、「共同の目的」という団体的拘束に服するけれども、
各人は、共有財産につき持分権を有し、「共同の目的」が終了すれば、
持分の譲渡や分割請求もできる。
また、団体的地位と共にする持分の譲渡も一般に認められる。
わが民法の共有はこれに当たるとされている。
また、信託法は、「受益者数人あるときは信託財産は其の合有とす」と
規定する(24条)。」
(近江幸治「民法講義U物権法第2版」成文堂228頁)、と。


社会(国家)は、正に「全ての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、という目的」を持って
組織されたシステム(組織)だ。
社会(国家)とは正に合有形態のことに他ならない、と考えられてくる。
会社はその社会(国家)の部分社会だ。
とすると、
一次的には、生産手段を含めて全ての物は、
全ての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な
生活を営むべく自由に生きていく、という目的の下に、
全社(国)民によって合有されている全人合有物だ。
二次的には、この社会(国家)の全人合有物の、
会社を構成する全人の合有物だ。
会社を構成するみんなが、会社に対して持つのは、
この二次全構成人合有物の暫定所有権(持分権)だ。
そう考えてみたい。




4 (
会社も人が生きていく目的のシステムで
    所有形式は合有
)

会社は社会(国家)の部分社会だ。
したがって、「ヒトやカネのような実体ではなく、」「会社は誰のもの
でもない」(奥村宏)というのは正しいだろう。
部分社会が人の所有の対象にならないことは言うまでもないことだ。
だか、人が生きていくため(目的)のシステム(組織)として実体がある
のも、また、事実だろう。
それを、「広く社会のものと考えるべき」(坂本光司)、というのも、
正しいだろう。
社会(国家)の部分社会として、全ての人が、他者と共に、健康で
文化的な生活を営むべく自由に生きていくという社会(国家)の目的
の制約下にあるのも、自明なことだ。


奥村宏はこう言っていたのである。
曰く。
「会社には姿も形もなく、誰もそれを目で見ることはできない。
見ることができるのは会社の建物であり、工場であって、それは
会社ではない。
本来、会社はヒトやモノのような実体ではなく、それは人々が働く場
である。
にもかかわらず株式会社を実体としてとらえ、それがマンモスのような
巨大な怪獣となって人々の生活を支配している。
この怪獣に恐れおののいているのが現代人だが、それから脱却する
には人々の会社観を変える以外にはない。
私の結論はこうである。
『会社は誰のものでもない。それは人々が仕事をする場である』」
(奥村宏「ライブドア騒動が甦らせた19世紀ドイツの「法人論争」」
エコノミスト2005.9.27号81頁)、と。


奥村も、会社は社会(国家)の部分社会として、人が生きていくため
(目的)のシステム(組織)として実体がある、という事実を失念している。




5 (
法人制度は代表制度の別名で
    法人という人はいず法人論争無意味
)

法人制度は、代表者制度の別名であって、法人という人は実在
しない。
これは、「法人論争」が無意味であることを物語っている。


法人論争については、奥村宏は、こう説明している。
曰く。
「株式会社、そして法人とは何か、という議論は19世紀のドイツで
3人の法哲学者を中心に盛んに展開された「法人論争」に遡る。
歴史法学に基づき、ローマ法の近代化に努めたフリードリヒ・カール・
フォン・サヴィニー(1779〜1861)は、法人は、法律によって人格を
与えられただけで、それは擬制(フィクション)にすぎず、実在している
のは株主だけだと主張した。
いわゆる「法人擬制説」である。
そして、ルドルフ・イエーリング(1818〜1892)は、法人は取引社会
における実質的な機能から人格を与えられているという「法人否認説」
を唱えた。
法人が実在しないという考え方では両者は共通している。
これに対して、団体法論で名高いオットー・フォン・ギールケ(1841〜
1921)は、法人は単なる擬制ではなく実在するという「法人実在説」
を掲げた。」
(奥村宏「ライブドア騒動が甦らせた19世紀ドイツの「法人論争」」
エコノミスト2005.9.27号79頁)、と。


法人制度が代表者制度の別名である、という事実は、奥村宏の
次の文章からも読み取れる。
曰く。
「法人=会社は影も形もないものですが、しかし法律によって法人格
を与えられています。
それは取引上の都合からで、それがなければ人々が会社と取引でき
ないからです。
もし皆さんがコンビニでアルバイトをしていたとして、約束の賃金を払って
くれなかったらどうしますか。
あなたは雇ったコンビニの店長を訴えますか。
その店長は会社の仕事としてあなたを雇っただけで、自分にはあなたに
お金を払う義務はないというでしょう。
そこであなたは○○コンビニという会社を訴え、その会社から払わせる
ようにしなければなりません。
もちろんコンビニ会社の株主にそれを請求することはできません。
そこでヒトという実体ではない会社に、あたかもヒトと同じように人格が
あるように法律で決めたのです。」
(奥村宏「会社は誰のものでもない」ビジネス社197頁以下)、と。


会社は合有組織なのである。
権利義務は全員に合有的に帰属するのである。
不払賃金請求債権債務は会社を構成する全人に合有的に帰属
するのである。
とても手に負えない。
その不都合を回避するための制度が代理制度ないし代表者
制度だ。
合有組織と取引をするには、代理制度ないし代表者制度が
欠かせないのだ。
代表者制度を成り立たせるには不特定多数人で成り立って
いる会社をひとりの人として擬制するしかない。
その擬制された人(法人)から代表権が代表者に授権されるわけ
だろう。
とすると、法人制度はこの代理制度ないし代表者制度の別名だ、
と考えられてくる。。
つまり、代表者制度と法人制度は不即不離の一体のものだ。
法律は人権(そのもの)を守るための方策なのである。
代理制度ないし代表者制度はそのようなものとして合理性がある
のである。




6 (
所有形式は第二次会社全構成人合有物の
    第二次暫定所有権
)

会社は則法(自然法)社会(国家)の部分社会だ。
だが、部分)社会は単なる「人々が仕事をする場」でもない。
会社は則法(自然法)社会(国家)の部分社会として実体がある。
それ故、会社は「社会(国家)のもの」とも言えるかもしれない。
したがって、会社は、全ての人が生きていくために組織された
システムだ、という全体社会(国家)の目的による制約下にある、
と考えられてくる。
要するに、会社は、則法(自然法)社会(国家)の部分社会故、
1次的には社会(国家)の、
2次的には会社を構成する全人の、合有物だ。
会社を構成するみんなが、会社に対して持つのは、
この二次全構成人合有物の暫定所有権(持分権)だ。
そう考えられてくる。













   社会保険労務士
   特定行政書士
   
則自然法暫定自由制度人権擁護システム社会学研究家
     岩崎 秀政