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実在しているのは則自然法一元社会:国家も法人も社会の別称



 【第三部


 実在しているのは
  則自然法一元社会
   :国家も法人も社会の別称
 ――社会(国家)とは別個の国(国家)・法人は
   則人為法絶対自由資本主義似非社会の
   後ろ盾として不可欠故に措定された
   幻覚であり詐術
 (則自然法一元社会)







従人為法絶対自由資本主義似非社会を信じて疑わない
学者たちは、こう説いてきた。
曰く。
「法は国家権力によって組織的・強制的に保障される規範
であると前に指摘したように、法は、国家ないし国家権力と
密接な関わりあいをもっている。すなわち、国家があって
はじめて法が存在するのであり、法があって国家が存在
しないということはあり得ない。」
(佐藤篤士「法学の基礎理論」敬文堂15頁)、と。


しかし、現代則法(自然法)社会(国家)は、人間が他者と共に
生きていくことを目的に組織されたシステムだ。
則自然法人権(そのもの)擁護システム一元社会(国家)。
単なる共同体・有機体ではない。
そこには超法規社会規範=法(自然法)と人権(そのもの)が
存在する。
法規(法律)は人権(そのもの)を擁する、に資する方策・制度
約する社会的契約だ。
法規(法律)は社会規範ではない。
国家も法人も社会(国家)の別称。
社会(国家)とは別個の国(国家)も法人も実在しない。
会社はその部分社会。
そもそも社会(国家)も世界的に見れば部分社会だ。


社会(国家)とは別個の国(国家)・法人は従人為法絶対自由
資本主義似非社会の後ろ盾として不可欠故に措定された
幻覚であり詐術だ。
資本主義人工市場似非社会化(完全犯罪)は、
個人主義絶対自由主義幻覚を旗印に、人為法によって
でっち上げられる。
社会的合意(法規(法律))と当事者間合意(契約)の絶対化
による人為法のでっち上げは、人間を自由意思人とみなす
擬制と絶対権力幻覚国家の後ろ盾の措定なくしては不可能
だ。
とすると、
従人為法絶対自由資本主義人工市場似非社会化犯罪の
最大のトリックは、
人間を自由意思人と擬制すると同時に社会(国家)を社会と
国家に分解破壊した上で、国家を絶対権力幻覚国家として
措定することだ、と考えられてくる。








    第三部
      目 次



第1章
 実在するのは
  国家ではなく則自然法社会(国家)




第2章
 実在するのは法人ではなく則自然法社会
   ――法人実在説が示唆するもの




第3章
 国家は
  従人為法絶対自由主義似非社会の
  後ろ盾として措定された幻覚




第4章
  自然法と人権否定する絶対自由主義が
  幻覚国家抱かせる
  ――自由は人権ではない




第5章
 人権の享有は出生に始まる、
  というのが民法3条1項の意味




第6章
 法人擬制できる絶対万能法律実在するとなす
  詐術法人擬制説




第7章
 法人幻覚を奇貨とした犯罪
  ――所謂法人格否認の法理問題




第8章
 法人格制度は
  合有社会の複雑さに対応した
  委託者(代表者)制度の誤解・誤称




第9章
 当該部分社会の役割は
  基本的約款上に目的として公示される




第10章
 会社は社会(国家)の部分社会であり
  誰の所有の対象にもならない










第1章
 
実在するのは
  国家ではなく則自然法社会(国家)



実在するのは、国家(これは幻覚でしかない)ではなく、
全ての人が他者と共に幸福を追い求めて生きていく
(健康で文化的な生活を営んでいく)ためのシステム、
すなわち則自然法人権擁護システム社会(国家)だ。
国家はこの社会の別称でしかない。
この問題に保守主義故にアクセスしてしまったのが
百地章だ。
何故、保守主義たちがこの問題にアクセスしてしまうのか。
それは、則自然法人権擁護システム社会(国家)が普遍的な
人間社会(国家)であり、それ故、この則自然法社会(国家)を
保守していくのが、真正保守主義者のはずだから、だ。


ともあれ、百地章は言うのである。
曰く。
「国家三要素説によれば、国家とは、一定の領土を基礎とし、
主権つまり固有の統治権によって支配される国民の共同体
であるといった説明がなされる。
これは社会学的国家論と呼ばれるものであって、もちろん誤り
ではない。
しかしながら、これだけでは国家の本質は理解できないで
あろう。
そこで、この国家三要素説に代えて、国家とは法的人格をもった
団体つまり法人であるとする国家法人説が持ち出されることも
ある。
これは、先の社会学的国家論に対して法学的国家論と呼ばれる。
この法学的国家論は、国家をもって個々の人間(自然人)と同様に
意思をもった法的主体(法人)であると考える。
たとえば国家が外国と条約をむすんだり、民間の企業と取引を
行ったりすることができるのは、国家が法的な意思をもった主体
つまり法人だからである。
この国家法人説は、戦前のドイツやわが国でひろく支持されていた
説であるが、このような考え方そのものは妥当であり、今日でも
支持できよう。
しかしながら、これだけではまだ国家とは何か、おそらく納得が
いかないであろう。
なぜならば、ある人は国家と聞いただけで拒絶反応を示し、逆に、
またある人は愛国心の必要性を訴えたりするわけだが、このような
国家に対する拒絶反応や愛国心などというものは、国家三要素説や
国家法人説だけでは説明しきれないからである。
それに愛国心という場合の「国」をもって、単なる権力機構と考える
人は少ないと思われる。」
「家族とは、決して単なる個人の集合体ではない。
夫婦、親子の愛情や信頼関係、家族としての一体感や共通の想い出、
さらには家族の歴史、その他もろもろの有機的な関係が存在してこそ
本当の家族といいうるはずである。
それと同様に、国家もまた単なる個人の集合体にとどまらず、共通の
歴史、文化、伝統を有する国民の共同体、つまり有機体(生命体)と
見るべきである。」
「このような有機的共同体としての国家は、時間的には過去から現在
そして未来へと続く国民の共同体であり、空間的には、家族、地域社会
さらにはその延長である共同体としての国家として把握することができ
よう。
そしてこのような国家においてこそ、国家と国民との一体感もわいて
くることになる。」
(百地章「憲法の常識 常識の憲法」
文春新書17頁以下、28頁)、と。


しかし、「共通の歴史、文化、伝統を有する国民の共同体、
つまり有機体(生命体)と見るべき」ものは、国家(これは幻覚
でしかない)のことではなく、社会(国家)のことだろう。
社会(国家)は、全ての人が他者と共に幸福を追い求めて
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)ためのシステム
として在り、「共通の歴史、文化、伝統を有する国民の共同体」
として姿を現している、と考えるべきだ。








第2章
 
実在するのは法人ではなく則自然法社会
   ――法人実在説が示唆するもの



従来の法律学は、「法人」を次のように定義している。
「『法人』とは、自然人以外で、『法人格』を付与されたものをいう。
『法人格』が認められるということは、独立して権利・義務の帰属の
主体となり得ることを意味する。
それゆえ、『法人』は、いわば自然人と同じく、法律的には独立した
行為単位として存在できるのである。」
(近江幸治「民法講義T民法総則〔第6版〕」成文堂91頁)、と。


近江幸治教授は、法人学説について、次のように説いている。
 「(A) 法人実在説 法人の社会的活動の実態にかんがみ、
法人は、社会的現象としても独立した社会的実体として存在
(社会的存在)しているのだとする。
この考え方を総称して法人実在説というが、理論的な構成は
異なる。
 a 有機体説 
法人が社会的に実在するという根拠を、自然人が『意思』の下に
『行為』をする自然的有機体(・・生体・有機的組織)であると
同じく、法人も、独自の『意思』(団体意思)を有する実在的有機体
であり、その意思の下に独自に行動するのだとする(ギールケ)。
 b 組織体説 
特にフランスで主張された理論で、法人は、権利主体たるに適する
法律的組織体として実在するのだ、と説く(ミシュー、サレイユ)。
すなわち、一定の利益を有する集団が、法秩序の価値づけによって
法的組織体として認められるのだという。
しかし、この説は、一定の集団は権利の主体たりうるとするのみで、
それがなぜに実在するのかという実在の本質については何ら
答えていない。
 c 社会的作用説 
法人が社会的に実在するという根拠は、個人以外で、個人と同様に、
一個独立の社会的作用を担当するために、権利主体たるに適する
社会的価値を有するからである、とする(我妻126頁)。
 (B) 法人擬制説 
権利・義務の主体となり得るのは、自由な意思を持つところの自然人
のみであるから、法人は法律が特に財産権の主体として擬制したもの
にすぎない、とする。
したがって、法人には、意思も行為・不法行為もなく、純粋に法律的
存在にすぎない(サヴィニー)。
ここでは、法人(団体)は――法律が擬制したにせよ――、取引に
おいては、個人(構成員)から超越した独立個人として認識されている
のである。
しかし、この理論は、自然人といえども法律がその法人格を認めたのだ
ということを忘れた理論であり、その意味では、法人の社会的実体を
無視しているとの批判がある。
 (C) 法人否認説 法人が独立の社会的実体を持って存在するという
考え方を否定するものであるが、その根拠を、法人をして、
あるいは単に多数主体者の法律関係を単一化するための技術だ
とし(イェーリング)、
あるいは法律関係の形式的な帰属点にすぎないとし(リュメリン)、
あるいは一定の目的に捧げられた財産であるとし(ブリンツ)、
あるいは構成員に対する関係で財産管理者となる(ヘルダー)、
などと理論化する。
しかし、法人の実体を否認する非現実的なものだとの批判は
免れない。」
(前掲近江幸治「民法講義T民法総則〔第6版〕」92頁以下)、と。


「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉がある。
法人実在説、法人擬制説、法人否認説と、ありとあらゆる
ものが存在しているということは、法人というものが、
幽霊でしかないことを教えている。
では、本当に実在しているのは何なのか。
これを知る手掛かりを提供しているのが、法人実在説だ。
我妻榮は、こう言っていたのだ。
「一個独立の社会的作用を担当することのできるためには、
その団体は、これを統一する一定の組織を有し、その財産は
これを管理する組織を備えねばなるまい。また、その結合の
いかんによっては、これを社会的有機体と呼ぶことが適切
であるかも知れない。しかし、これらのものが法人となりうる
のは、あくまでも、その組織によって社会的作用を担当する
ために社会的価値があるとされることに基づく。」
(我妻榮「新訂民法總則(民法講義T)」岩波書店126頁)、と。


本当に実在しているのは、法人ではなく、則自然法社会
(国家)だ。
会社はその部分社会だ。


現代則法(自然法)社会(国家)は、人間が他者と共に
生きていくことを目的に組織されたシステムだ。
則自然法人権(そのもの)擁護システム一元社会(国家)。
単なる共同体・有機体ではない。
そこには超法規社会規範=法(自然法)と人権(そのもの)が
存在する。
法規(法律)は人権(そのもの)を擁する、に資する方策・制度
約する社会的契約だ。
法規(法律)は社会規範ではない。
国家も法人も社会(国家)の別称。
社会(国家)とは別個の国(国家)も法人も実在しない。
会社はその部分社会。
そもそも社会(国家)も世界的に見れば部分社会だ。


社会(国家)には人権(そのもの)擁護を専務とする
機関が常設されている。
天皇国会内閣裁判所ないし国家公務員がそれだ。
法規・広義の法律は人権(そのもの)擁する、資する
方策・制度約する社会的契約だ。
そもそも社会規範ではない。
憲法41条は、「国会は、国権の最高機関であって、
国の唯一の立法機関である。」と規定している。
日本国憲法は、
全ての人が他者と共に幸福を追い求めて生きていく
(健康で文化的な生活を営んでいく)、
則法(自然法)人権(そのもの)擁護システム社会(国家)
約した社会契約だ。
最高法規だ。
そこには「天皇国会内閣裁判所ないし国家公務員」という
人権(そのもの)擁護を専務とする機関が常設されている。
当然、人権(そのもの)を擁護するに必要な権限(責任)を
備え持っている。
狭義の国家とはこの機関の別称なのである。
「国権」とは、
「人権(そのもの)擁護するこの社会(国家)の機関ないし
その権限(責任)のこと」だ、と考えられてくる。
「立法」の法とは、超法規社会規範=法(自然法)のことで
はなく、法規(法律)即ち「人権(そのもの)擁する、資する
方策・制度」のことだ、と考えられてくる。
人権(そのもの)擁護を専務とする機関のうちでは、国会は
唯一の立法機関なのである。
立法行政司法とは、三権分立ではなく、人権(そのもの)擁護
行為即ち政治の分業・分担のことだ。








第3章
 
国家は
  従人為法絶対自由主義似非社会の
  後ろ盾として措定された幻覚



資本主義人工市場似非社会化(完全犯罪)は、
個人主義絶対自由主義幻覚を旗印に、人為法によって
でっち上げられる。
社会的合意(法規(法律))と当事者間合意(契約)の絶対化
による人為法のでっち上げは、人間を自由意思人とみなす
擬制と絶対権力幻覚国家の後ろ盾の措定なくしては不可能
だ。


人間を自由意思人と擬制し、予め、「その土地および人びとに
支配権をもつ統治権力」を持つ幻覚国家を予め措定した上で、
絶対万能法律(法規)をでっち上げる、というのは手品でしかない。
学者や政治家たちがこういう手品を繰り出してきたのは、
要するに、従人為法絶対自由資本主義人工市場似非社会を
是とする妄想から抜け出せないからに違いない。
それは、要するに、未だに、人間が決して自由意思人ではなく、
生きていくという絶対的な目的を持った、それでいて社会(国家)
を組織してみんなで生きていく以外に生きていく術のない生き物
である、という厳然たる事実を分かろうとしないから、に違いない。


ともあれ、言うのである。
たとえば、樋口陽一は、こう言っている。
曰く。
「法律学は、「国家」を、領土、人民、統治権の三要素から
成る、というぐあいに説明してきた。
・・・この定義は、すでにはっきりした歴史認識を含んでいる。
「近代」――くりかえすが、この画期をどこまで遡るかはひとに
よってさまざまだが――がはじめて、一定の土地領域と人民を
排他的に支配する権力のあり方をつくり出した、ということだけ
をとっても、そうである。
そこでは、国家が独占する強制力だけが正統な権力と目される。
フランス革命によってえがき出された構図によれば、その国家は、
身分制を否定することによって、社会諸集団を解体する。
諸個人と国家のあいだに介在するという意味での「中間集団」の
正統性を否定する法理が、強調される。
こうして、一方では、権力を集中することになった国家の「主権」が
成立し、他方で、身分制から解放された個人が、まさに「人権」
――身分制に由来する権利でなく――の主体となる。
そしてそのことはまた、身分制という楯を失った個人が、「解放」され
たと同時に、国家の前に放り出されることを意味する。」
(樋口陽一「憲法と国家」岩波新書68頁)、と。


たとえば、浦部法穂は、こう言っている。
「   (2) 「国家」の実体は「権力」である。
そもそも国を国たらしめる要素は何なのか、ということでは、伝統的に
領土、国民、統治権、これが国家の三要素だ、といわれてきた。
つまり、一定の土地とそこに住む人々、そしてその土地および人々に
支配権をもつ統治権力、この三つがそろってはじめて国家というものが
成り立つ、というわけである。
たしかに、このうちのどれ一つが欠けても国家は成り立たないから、
そのかぎりでは、これが国家の三要素だというのは、まちがいではない。
しかし、一定の土地とそこに住む人々というのは、国家というものがなく
ても存在する。
いわば国家以前の存在である。
そこに国家が成立するのは、その土地および人々を支配する統治権力が
現われることによって、である。
つまり、国家の三要素とされるもののなかでは、統治権こそが、国家を
国家たらしめる本質的な要素なのである。
国家の本質は「権力」にあり、「権力」こそが国家の実体だ、ということである。
「権力」とは、他者を支配できる力、あるいは他者に対して服従を強制しうる
力であり、国家は、そのための装置、つまり強制装置なのである。」
(浦部法穂「前訂憲法学教室」日本評論社9頁以下)、と。


たとえば、芦部信喜は、こう言っていた。
曰く。
「   一 国家と法
一定の限定された地域(領土)を基礎として、その地域に定住
する人間が、強制力をもつ統治権のもとに法的に組織される
ようになった社会を国家と呼ぶ。
したがって、領土と人と権力は、古くから国家の三要素と言わ
れてきた。
この国家という統治団体の存在を基礎づける基本法、それが
通常、憲法と呼ばれてきた法である。
※国家概念
国家の考え方は、立場の違いによっても、社会学的
にみるか、法学的にみるか、政治学的にみるかによっても、
著しく異なる。
三要素から成り立つと言われる場合は、社会学的国家論である。
これを法学的にみた国家論として著名なものが、国家法人説で
ある・・・・。
もっとも、国家三要素説には有力な批判もある。
なお、憲法学では、たとえば人権を「国家からの自由」と言う場合
のように、国家権力ないし権力の組織体を国家と呼ぶことも多い。」
「※天皇機関説
国家は法的に考えると一つの法人、したがって意思を有し、
権利(具体的には統治権)の主体である、と説く国家法人説が、
19世紀ドイツでイェリネク(Georg Jellinek,1851-1911)によって
体系化され、支配的な学説となった。
この理論は、君主、議会、裁判所は、国家という法人の「機関」
であること、国家はその機関を通じて活動し、機関の行為が
国家の行為とみなされること、君主に主権が存するとは、
君主が国家の最高の意思決定機関の地位を占めるということ
にほかならないこと、などを内容とする(もっとも、国会、内閣、
裁判所ないし天皇を「国家機関」と呼ぶことは、ただちに国家
法人説を前提にしていることを意味しない)。
これを日本にあてはめたのが、天皇機関説である。・・・・」
「1 主権の意味
主権は多義的であるが、一般に、@国家権力そのもの(国家の
統治権)、A国家権力の属性としての最高独立性(内にあっては
最高、外に対しては独立ということ)、B国政についての最高の
決定権、という三つの異なる意味に用いられる。・・・・
(一)統治権
@の国家権力そのものを意味する主権とは、国家が有する支配権
を包括的に示すことばである。
立法権・行政権・司法権を総称する統治権(・・・governmental powers)
とほぼ同じ意味で、日本国憲法(41条)に言う「国権」がそれにあたる。
・・・・」
(芦部信喜「憲法新版補訂版」
  岩波書店3頁、21頁、40頁)、と。








第4章
  自然法と人権否定する絶対自由主義が
  幻覚国家抱かせる
  ――自由は人権ではない



社会(国家)とは別個の国(国家)・法人は従人為法絶対自由
資本主義似非社会の後ろ盾として不可欠故に措定された
幻覚であり詐術だ。
資本主義人工市場似非社会化(完全犯罪)は、
個人主義絶対自由主義幻覚を旗印に、人為法によって
でっち上げられる。
社会的合意(法規(法律))と当事者間合意(契約)の絶対化
による人為法のでっち上げは、人間を自由意思人とみなす
擬制と絶対権力幻覚国家の後ろ盾の措定なくしては不可能
だ。
従人為法絶対自由資本主義人工市場似非社会化犯罪の
最大のトリックは、
人間を自由意思人と擬制すると同時に社会(国家)を社会と
国家に分解破壊した上で、国家を絶対権力幻覚国家として
措定することだ、と考えられてくる。


要するに、自然法と人権否定する絶対自由主義が幻覚国家
を抱かせる、ということだ。
それは、結局は自由を人権と思い込む幻覚から来ている。
人権とは、人が社会(国家)の中で他者と共に、幸福を追い求
めて生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)超法規的
権利義務のことだ。
とても自由という言葉で括りきれるようなものではない。
社会(国家)は社(国)民が、他者と共に、幸福を追い求めて
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)ためのシステム
として出来ている。
「政府」はこの人権を守ることを専務とした社会(国家)の機関
でしかない。
法規(法律)は、人権を擁する、に資する方策・制度を約した
社会的契約だ。
法規(法律)は、それ故に規範性があるのではなく、超法規社会
(国家)規範=法(自然法)に適った合理性のあるそれを守らな
かったら人は生きていけない、という事実に由来する拘束力・
強制力が規範性の実体だ。
絶対権力幻覚国家の存在を信じて疑わない政治家や学者
たちは、人間が、生きていくという絶対的な目的を持った、
それでいて社会(国家)を組織してみんなででしか生きていく
術のない生き物である、という厳然たる事実に向き合って
こなかったのだ。


たとえば、人権を守るための自衛隊なら間違いなく合憲だ。
しかし、絶対権力幻覚国家の存在を信じて疑わない人たちは、
「国(国家)」を守る自衛隊、と考える訳だ。
となれば、お「国(国家)」を守るために命を捧げる、戦争をやる、
ということも起きてくるわけだ。


幻覚国家の実在を信じて疑わない八木秀次は、
こう言っている。
曰く。
「日本国憲法は、言うまでもなく、わが国の第二次世界大戦の
敗戦とその後の占領の所産です。
日本が敗れた戦争は連合国と枢軸国との戦いでした。
勝った連合国は、戦後の国際秩序をつくりました。
「ポツダム体制」です。
それを固定するために創設されたのが国際連合で、安全保障
理事国には連合国の主要国がその座に就きました。
そのポツダム体制の下では日本は「旧敵国」であり、そのことは
国連憲章にまで明記されました。
連合国共通の敵という扱いで、日本の旧体制を壊すのが占領
目的であり、また、それを中長期にわたって担保するのが日本
国憲法制定の狙いであったわけです。
いわば「ポツダム体制」の維持装置、それが日本国憲法で
あったのです。
しかし、この「ポツダム体制」は長くは続きませんでした。
すぐにアメリカとソ連が対立し、東西冷戦に突入しました。
東アジアにおける現れが朝鮮戦争です。
その朝鮮戦争の勃発によって、日本国憲法の規定に背く形で、
日本はアメリカから再軍備を求められます。
そして、その後、サンフランシスコ講和条約を締結しますが、
同時に結ばれたのが日米安全保障条約でした。
講和条約の発効によって、日本が主権を回復し、国際社会に
復帰したときには、日本はアメリカを盟主とする自由主義陣営の
「サンフランシスコ体制」の一員になり、アメリカの同盟国となり
ました。
日本はアメリカの敵国ではなくなったのです。
サンフランシスコ体制は、自由・民主主義・基本的人権・法の支配
市場経済という普遍的価値を重んずる体制です。
日本はこの体制の優等生≠ニして、その役割を果たして来ました。
・・・・・
しかし、憲法だけは現在、我が国が属している「サンフランシスコ
体制」の価値観とは異なる、時代が一つ前の「ポツダム体制」の
維持装置であるのです。
それゆえ、「サンフランシスコ体制」の一員に相応しい憲法に変えて
いくことが求められます。
本来であれば、主権を回復し、「サンフランシスコ体制」の一員に
なった時点で憲法は改正されるべきでした。
今日まで改正されなかったことの方が問題なのです。
自民党が考えている憲法改正とは、戦前に回帰しようというものでは
ありません。
あくまでも「サンフランシスコ体制」の一員としての体制を整えるため
の装置にすぎません。
日本国憲法の第9条2項を改正して自衛隊を「国防軍」に名称変更
するのも、集団的自衛権の行使を可能にするのも、そのためのもの
です。」
(八木秀次「憲法改正がなぜ必要か」
PHPパブリッシング320頁以下)、と。








第5章
 人権の享有は出生に始まる、
  というのが民法3条1項の意味



民法3条は、「私権の享有は、出生に始まる。」(1項)
「外国人は、法令又は条約の規定により禁止される場合を
除き、私権を享有する。」(2項)、と規定している。
人権(そのもの)とは、人が社会(国家)の中で他者と共に、
幸福を追い求めて生きていく(健康で文化的な生活を営んで
いく)超法規的権利義務である。
憲法13条後段の「生命、自由及び幸福追求に対する権利」
とはこの人権(そのもの)のことだ。
人権(そのもの)は自然法上の権利義務(自然権)であると同時
に、則法(自然法)人権(そのもの)擁護システム社会(国家)権
だ。
従来、「社会権」として理解されてきた生存権(憲法25条)、
教育を受ける権利(憲法26条)、勤労(労働)の権利(憲法27条)
は、人権(そのもの)のバージョンである。
民法3条1項の意味は、この人権(そのもの)の享有は出生に
始まる、という意味だ。
つまり、人権(そのもの)は人がこの則自然法社会(国家)に
生まれながらにして持っている超法規的権利義務だ、という
意味だ。
何故、人権(そのもの)の享有は出生に始まるのか。
それは、人権(そのもの)の享有主体は、生きていくという
絶対的な目的を持った、それでいて社会(国家)を組織して
みんなで生きていく以外に生きていく術のない生き物である
自然人間だからだ。
人権(そのもの)に国境も人種もないから、外国人も原則的に
人権(そのもの)を享有する、という事実を確認しているのが、
2項だ。


だが、戦後の日本社会(国家)を基本的には従人為法絶対自由
資本主義人工市場似非社会だ、と信じて疑わない学者たちは、
この民法3条1項を「権利能力(法的人格)の取得は出生に始まる、
と理解されなければならない」と、
こう説いてきた。


曰く。
「人(自然人)は、生まれながらにして、権利・義務の帰属主体となりうる地位
にある。近代市民革命が、人を封建的な身分の拘束から解放し、自由かつ
平等な人間として措定したことの成果である・・・。
・・・近代法は、この理念を基本としている。わが民法が、「私権の享有は、
出生に始まる」(3条1項)というのは、そのことを表現している。それゆえ、
これは具体的な特定の権利を享有することを意味するのではないから、
「私権の享有」という用語は適当ではない(我妻43頁参照)。そこで、一般に、
上記の「権利・義務の帰属主体となりうる地位(ないし資格)」を「権利能力」
・・・または「法的人格」・・・と呼んでいる。
したがって、民法3条1項は、権利能力(法的人格)の取得は出生に始まる、
と理解されなければならない。
「権利・義務の帰属主体となりうる地位」、すなわち「権利能力」は、人間で
ある以上、生まれながらにして誰もが平等に有するものである。したがって、
すべての人間は、完全な権利能力を有していることになる。」
(近江幸治「民法講義T民法総則〔第6版〕」成文堂35頁以下)、と。


「わが民法の条文には、私権の主体となりうる資格ないし能力、という観念を
示す言葉がない。
第2章人の第1節は、「権利能力」と題し、3条1項は「私権の享有は、出生に
始まる」といっている。この「私権の享有」という語は、具体的な権利を取得する
ことのように聞こえて、面白くない。むろん嬰児は、生まれると同時に、生命権
や相続権という具体的な権利を取得する。しかし、民法がここでいおうとして
いるのは、具体的な権利を取得するというのではなくて、およそ権利の主体
となりうる能力を取得する、ということなのである。したがって、学者は、この
権利の主体となりうる能力を、「権利能力」と呼び、3条は、人は出生に
よって権利能力を取得するという意味の規定だ、と解している。
・・・・「権利能力」という語とともに、「人格」ないしは「法人格」という語をも
用いる。」
(我妻榮(幾代・川井補訂)「民法案内2民法総則」勁草書房62頁)、と。








第6章
 
法人擬制できる絶対万能法律実在するとなす
  詐術法人擬制説



曰く。
「日本では、会社の法人格を重視する「法人実在説」が主流な
考え方だ。
一方で、米国などの法人擬制説では、「会社は契約の束」に
過ぎないというドライな考え方になる。
必然的に、法人擬制説では「会社は株主のもの」との考え方に
立ち、例えて言うと、株主はオーナー、経営者は番頭、従業員は
使用人という考えとなる。
・・・・・
法人擬制説、法人実在説のどちらが間違っている、という議論
自体あまり意味がないと考える。
要は「会社は資本家(株主)のもの」と考える資本主義か、
あるいは私企業が利潤を追求することを否定する社会主義か、
という基本哲学の問題なのである。」
(藤田勉「会社は株主のもの」
週刊エコノミスト2005.9.27号78頁)、と。


曰く。
「■「所有」と「占有」の区別がつかない日本人
「企業は誰のものか」――これは日本では何度も繰り返されて
いる議論である。
この議論は既に100年前に決着がつているはずなのだ。
少なくとも冷戦の終結で答えが出ていると、筆者は思っている。
ロシア革命から冷戦の終結に至る人類の歴史は、ある意味、
企業の所有をめぐる争いの歴史だった。
その結果、欧米においては現時点での答えは争う余地もなく出て
いるのだが、日本だけは何度も飽きずに議論している。
冷戦が終わって議論が決着した頃になってから議論している
日本人の問題意識は100年は遅れている。
「会社が株主のものでは嫌というのなら、戦争で決着をつけよう」
というのが欧米の歴史である。
いまだにこんな議論をしているのは、法と法律の区別がつか
ないのと同様、日本人が「所有」と「占有」の区別がつかないこと
からきている。
そのため、「会社は従業員のもの」などという愚かなことをいう
人間まで出てくる。
欧米では「会社は株主のもの」という答えしか返ってこない。
所有は「持つことを法的に認められた権利として、国が保証した
こと」と定義できる。
哲学の用語でいうと「ゾルレン」(当為)で、「〜とあるべし」という
意味合いになる。
一方の占有は「事実として持っていること」となり、同じく哲学用語
では「ザイン」(存在)で、「事実」を表す。」
(渡辺茂樹「ビッグ・クランチ」KKベストブック58頁以下)、と。


曰く。
「企業(会社)の所有者は誰か。
資本主義なら勿論、自明。
株主である。
株主(stockholder)は、持ち株数に比例して企業の全資産を
所有する。
・・・資本主義における所有(権)は絶対である(株主は企業を
任意にどのようにしてもよい。例。使用、収益、処分は、いつでも
全く自由である)。
また、それは、抽象的である(企業の支配とは全く関係なしに、
株主が、そして株主だけが企業の所有者である・・・)。
資本家即株主である。
株主は、経営者を兼ねていることもあり、両者は分離していること
もある。
が、いずれであっても株主(資本家)が企業の所有者であることに
かわりはない。」
(小室直樹「小室直樹の資本主義原論」
東洋経済新報社242頁以下)、と。


奥村宏は、こう言っていた。
曰く。
「新古典派に限らず経済学者の多くは法人擬制説の立場に立って
いるが、その典型が新自由主義の経済学者、ミルトンフリードマン
であることはよく知られている。
株式会社は株主の利益追求が目的であり、社会的責任などない、
ということを明言している。
カナダの法律学者ジョエル・ベイカンによれば、経営学者のピーター・
ドラッカーも同じようなことを言っているし、フリードマンとは全く逆の
立場に立つ米左派の言語学者ノーム・チョムスキーも同じことを
言っているという(『ザ・コーポレーション』早川書房)。
株式会社の原理は、株主はすべて有限責任であるというところ
にある。
そこで、もし会社が倒産した場合、誰が責任をとるのか、日本では
バブル崩壊以後、多くの大企業や銀行、証券会社が事実上の倒産を
したが、最後の責任をとる者がいないので、公的責任という名で
国民が負担した。」
(奥村宏「ライブドア騒動が甦らせた19世紀ドイツの「法人論争」」
週刊エコノミスト2005.9.27号80頁)、と。


奥島孝康は、法人擬制説をこう説明していた。
曰く。
「法人擬制説によれば、法人は法によって自然人に擬制された
ものにすぎない。
つまり法が否応なくある団体を人(権利の主体)と考えなさいと
命じたから、仕方なくそれに従っているだけのことであり、権利の
主体たりうる地位は本来的には自然人に限定されるべきもので
ある。
ただ、現実に団体を権利の主体として取り扱う必要があるから、
技術的にそうした取扱いを法が認めることにした、と説くのである。
したがって、この説によれば、法人は本質的には人ではないが、
法律上、人として取り扱う便宜を認めたにすぎないことになろう。」
(奥島孝康「プレップ会社法第三版」弘文堂24頁)、と。


我妻榮は、法人擬制説をこう説明していた。
曰く。
「サヴィニー(Savigny)を代表者とする。
権利義務の主体は、自然人たる個人に限るべきものであるから、
自然人以外に権利義務の主体となりうるものは、法律の力によって
自然人に擬せられたものに限る。
すなわち、法人は、法律の擬制したものだ、と説く。」
(我妻榮「新訂民法総則(民法講義T)岩波書店122頁)、と。


現代則法(自然法)社会(国家)は、人間が他者と共に
生きていくことを目的に組織されたシステムだ。
則自然法人権(そのもの)擁護システム一元社会(国家)。
単なる共同体・有機体ではない。
そこには超法規社会規範=法(自然法)と人権(そのもの)が
存在する。
法規(法律)は人権(そのもの)を擁する、に資する方策・制度
約する社会的契約だ。
法規(法律)は社会規範ではない。
国家も法人も社会(国家)の別称。
社会(国家)とは別個の国(国家)も法人も実在しない。
会社はその部分社会。
そもそも社会(国家)も世界的に見れば部分社会だ。


社会(国家)とは別個の国(国家)・法人は従人為法絶対自由
資本主義似非社会の後ろ盾として不可欠故に措定された
幻覚であり詐術だ。
資本主義人工市場似非社会化(完全犯罪)は、
個人主義絶対自由主義幻覚を旗印に、人為法によって
でっち上げられる。
社会的合意(法規(法律))と当事者間合意(契約)の絶対化
による人為法のでっち上げは、人間を自由意思人とみなす
擬制と絶対権力幻覚国家の後ろ盾の措定なくしては不可能
だ。
従人為法絶対自由資本主義人工市場似非社会化犯罪の
最大のトリックは、
人間を自由意思人と擬制すると同時に社会(国家)を社会と
国家に分解破壊した上で、国家を絶対権力幻覚国家として
措定することだ、と考えられてくる。








第7章
 
法人幻覚を奇貨とした犯罪
  ―― 所謂法人格否認の法理問題



曰く。
 「法人格否認の法理 
会社法上明文の規定はないが、判例法上、特定の事案かぎりに
おいて法人に認められる属性を否定する法理が認められており、
『法人格否認の法理』と呼ばれている(最判昭和44・2・27・・)。
最高裁の判例理論によれば、一般的には、法人格の濫用又は
法人格の形骸化が認められるような場合に、当該事案かぎりで
法人格が否認される。」
(神田秀樹「会社法第七版」弘文堂4頁)。


 石井逸郎弁護士がやさしく次のように説明している。
「会社は、それ自体、一つの法人格をもつものです。
出資者(株主)とも、役員1人ひとりとも、法人格は異なります。
会社そのものが1法人として、権利義務の主体になれることは
14ページで述べたとおりです。
そのため、このことを悪用して、不当に責任を免れようとする
ケースがあります。
しかし、会社制度を悪用して不当に責任を免れようとすることが
許されてよいはずはありません。
『法人格否認の法理』とは、会社制度を悪用して設立された会社の
法人格を否定するための理論です。
たとえば、設立された会社が、まったく実体のないペーパー
カンパニーにすぎなかったり、個人や別の会社のあやつり人形に
すぎなかったりして、一つの法人として評価することが妥当で
ない場合(形骸化の場合)や、会社や個人の責任を不当に免れる
ために会社を設立するというような、いわば会社制度を濫用して
設立された会社である場合(濫用の場合)について、その会社の
法人格を否認し、その会社とこれを支配している、あるいは悪用
している会社や個人とを同一視して、その会社や個人に責任を
追及していくという法理論です。
形骸化の例としては、先ほど述べたとおり、実体はペーパー
カンパニーにすぎず、会計もその会社を支配している別会社や
個人と混同されているというケースがあげられます。
これでは、健全な会社運営のために法律が各種の規制を設けて
いる意味が失われ、不健全な会社運営が横行してしまいます。
濫用の例としては、たとえば、債務の返済を怠っている会社や
個人が債権者からの強制執行(裁判所が債権者の権利を強制的
に実現してくれる手続き)を免れようとして別会社を設立し、
その会社に財産を現物出資・・したり、譲渡したりするケースを
あげることができます。
 『法人格否認の法理』は、このように、会社制度の悪用(形骸化・
濫用)がある場合に、そのケース限りで、その会社の財産と、
他の会社あるいは個人の財産とを別にするというメリットを否定し、
会社制度を悪用している会社あるいは個人の責任を追及して
いくというものなのです。」
(石井逸郎「図説会社法のしくみと実務知識」
同文館出版60頁以下)、と。


川井健は、こう言っていた。
曰く。
「このように法律上は法人となりえないものも、ある程度法人と
同じように扱う余地があるが、逆に法人ではあっても、つねに法人
としてしかこれを扱えないのであろうか。
たとえば、ある個人商店が税金対策のうえで株式会社となり、
取引をして債務を負担したときに、相手方の債権者は個人商店の
個人に債権を有するものと信じて、会社の社長に対して請求を
したところ、請求を受けた社長は、自分が借りたのではなく、
会社の借金だから、自分に対する請求は筋違いだという主張を
する。
会社は倒産して財産を有していないが、その社長個人は財産を
有するときに、右のような主張は許されるであろうか。
むしろ債権者の信頼を保護して、会社形態という形のうえのもの
にしかすぎず、実質は社長個人の債務といえる場合には、債権者
は、会社を通り越して、実質的な責任者である社長個人の責任を
追求することができる(最判昭和44年2月27日民集23巻2号
511頁)。
これを法人格の否認の法理と称する。
つまり、形のうえだけのものにしかすぎない法人格を否認して、
実質的な責任者の責任を追及できるというのであり、その基礎には、
1条の権利の濫用の禁止あるいは信義則・・がひかえている。」
(川井健「民法入門[第4版]」有斐閣29頁)、と。


戦後、
幻覚国家従人為法絶対自由資本主義人工市場
似非社会から、
全ての人が他者と共に幸福を追い求めて生きていく
(健康で文化的な生活を営んでいく)、則自然法人権(その
もの)擁護システム一元社会(国家)へと、
コペルニクス的転換をした。
だが、この大転換を可視化する理論は、当時も、現在も、
ない。
民法1条の権利の濫用の禁止あるいは信義則は、自然法に
則って、抜本的改正を出来なかった部分の読み替えを指示した
原則規定のはずだ。
則自然法人権(そのもの)擁護システム一元社会(国家)で
国・国家とは何か。
社会の別称だ。
社会(国家)とは何か。
全ての人が他者と共に生きていくためのシステムだ。
会社とは何か。
社会(国家)の部分社会だ。
勿論、所有の対象になんかならない。
とすれば、「法人格否認の法理」で問題になっているのは、
要するに、法人が社会の別称でしかなく、法人それ自体は幻覚
でしかない、という事実を奇貨とした犯罪が、「法人格否認の
法理」の名の下に語られているのである。


「建物の賃借人A会社(実質的にはBの個人企業)と賃貸人C
との賃貸借期間満了につき、Cと会社経営者Bとの間で建物を
明け渡す合意・和解がなされたにもかかわらず、
Bは契約の賃借人はA会社であるとして明け渡さなかった
ことにつき、判例は
、上記の法人格を否定し、和解の効力はAに及ぶとした
(最判昭44.2.27民集23巻2号511頁)。
会社法の規定により会社の設立が容易になったため
(資本金1円で設立可能)、このケースも増えよう。」
(近江幸治「民法講義T民法総則〔第6版〕」成文堂95頁)


A会社もB個人企業も社会(部分社会)の実体は同じなのである。
法人はその社会(部分社会)の別称でしかない。
「和解の効力がAに及ぶ」のはそのためだろう。


「賃借居室の明渡し・延滞賃料などの債務を負った会社が、
その債務の逸脱(→債権者詐害)を目的として新会社を設立し、
旧会社の営業財産を流用するなどの場合には、信義則上、
旧・新会社が別人格であると主張できない(最判昭48.10.26
民集27巻9号1240頁)。」
(近江幸治「民法講義T民法総則〔第6版〕」成文堂95頁)


旧会社も新会社も社会(部分社会)の実体は同じなのである。
法人はその社会(部分社会)の別称でしかないのである。
「旧・新会社が別人格であると主張できない」のはそめため
だろう。








第8章
 
法人格制度は
   合有社会の複雑さに対応した
   委託者(代表者)制度の誤解・誤称



(1)
法人は
人権(そのもの)擁護一元社会(国家)とその部分社会の別称だ。
法人それ自体は幻覚である故に社会の別称となり得ている。
独立して権利義務の主体となり得る法人という人は
存在しない。
したがって、法人が権利義務を取得する、ということは
あり得ない。
権利義務の帰属主体は、則自然法人権(そのもの)擁護システム
一元社会(国家)に生きる、生きていくという絶対的な目的を持った、
それでいて社会(国家)を組織してみんなででしか生きていく術の
ない、生き物である自然人間だ。
人権(そのもの)擁護システム一元社会(国家)は、全ての人が
社会(国家)の中で他者と共に、幸福を追い求めて生きていく
(健康で文化的な生活を営んでいく)、という目的の下に合有
される合有社会だ。
共有社会でもなければ総有社会でもない。
そこでは、すべての権利義務は、原初的には、第一次的には、
すべての人が社会(国家)の中で他者と共に、幸福を追い求めて
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)べし、という超法規
社会規範=法(自然法)と、当該社会の中で生きている、という
規範的に意味のある行為事実とを基に、
全構成社員に合有的に帰属する。
国(社)有財産というのは、
すべての人が社会(国家)の中で他者と共に、幸福を追い求めて
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)、という目的の下に、
全国(社)民によって合有されている財産のことだ。
「法人格」制度は、則自然法人権(そのもの)擁護システム一元社会
(国家)=合有社会(国家)の複雑さに対処した委託者(代表者)制度の
誤解・誤称だ。
委託者(代表者)に委託されている財産は、全構成員によって合有
される合有財産であって、全構成員個人とは「別個独立の、社会
(全体社会(国家)・部分社会)のみに帰属する財産」ではない。
独立して権利義務の主体となり得る法人という人は実在しない
のである。


(2)
法人は社会の別称だ。
したがって、法人であるか否かは社会として実在しているか否か、
という問題だ、ということになる。
法人格制度は、社会が合有社会故の複雑さに対処した
委託者(代表者)制度の誤解・誤称だ。
したがって、法人格がないいわゆる「権利能力なき社団」も
社会(部分社会)としての実体を備えている限り「法人」=社会
(部分社会)だ、ということになる。
これがいわゆる「権利能力なき社団」の問題である。


いわゆる「権利能力なき社団」とは、「人格なき社団」ともいわれ、
社団の実体を有するにもかかわらず、法人格を持たない社団をいう、
とされている。
内田貴教授曰く。
 最判昭和39・10・15は、「権利能力なき社団といいうるためには、
団体としての組織をそろえ、そこには多数決の原理が行なわれ、
構成員の変更にもかかわらず団体そのものが存続し、しかして
その組織によって代表の方法、総会の運営、財産の管理その他
団体としての主要な点が確定しているものでなければならない」
と説示した上、問題となっている支部Aは、
「これを組織する構成員やその行なう事業もおおむね本部のそれとは
別個のものであって、独自の存在と活動をしていたものである」との
事実認定を前提として、
「本部とは異なる独自の存在を有する権利能力なき社団としての実態を
そなえていたものと認められる」と判示している。
「最高裁での争点は、
Aが賃借した土地の賃借権が、団体に帰属しているのか、それとも、
建物の一部を所有する各構成員に分属しているのかであった。」
右のごとく判決は、Aが「権利能力なき社団であることを認めた。
そのうえで、『権利能力なき社団の資産は構成員に総有的に帰属
する』と述べて、
個々の構成員に借地権が分属することはないとの結論を導いた。
仮にAがはじめから法人であれば、構成員とは別の人格であるから、
借地権は団体のみに帰属する。
判決は、実質的にはこれと同じ結論を『権利能力なき社団』理論を
援用して導こうとしたということができる。」
(内田貴「民法T第2版総則・物権総論」
東京大学出版会208頁)、と。


「B1らは、Aは法人ではないから、本件土地の賃借人はAではなく、
Aの会員である自分たちだと主張した。
判決は、・・・・・・
A団体は「権利能力のない社団」の実質を有しており、本件土地
賃借権を有効に取得したとして、B1らの主張を排斥した。」
(近江幸治「民法講義T民法総則〔第6版〕成文堂120頁)


要するに、「法人」は社会(部分社会)の別称なのである。
したがって、社会(部分社会)の実体がある限り、「法人」なのである。
そして、社会(部分社会)の財産ないし権利義務は、全ての人が
他者と共に生きていくという目的の下に、全構成員によって合有されて
いるのである。
各構成員に分属してはいないのである。
したがって、構成員が所属する社会(部分社会)から脱退すれば、
当該社会(部分社会)の構成員である故に有していた合有持分権は
失うはずだ。
Aは、社会(部分社会)の実体を備えている故に、「法人」=社会
(部分社会)であり、
「賃借した土地の賃借権」は、「建物の一部を所有する各構成員」に
合有的に帰属する。
したがって、当該社会(部分社会)から脱退すれば、この当該構成員で
ある故に有していた「賃借した土地の賃借権」は失うはずだ。


(3)
要するに、法人は、則自然法人権(そのもの)擁護システム一元社会
(国家)とその部分社会の別称なのであり、社会とは別個の独立の
権利義務の主体となり得る法人という人は実在しない。
法人それ自体は幻覚でしかない。
幻覚でしかない故に社会の別称になり得ているのである。
法人格制度は、合有社会の複雑さに対応した委託者(代表者)制度の
誤解・誤称だ。
権利義務の主体となり得るのは、
則自然法人権(そのもの)擁護システム一元社会(国家)に生きる
生きていくという絶対的な目的を持った、それでいて社会(国家)を
組織してみんなででしか生きていく術のない、生き物である自然人間
のみである。








第9章
 
当該部分社会の役割は
   基本的約款上に目的として公示される



たとえば、トヨタ自動車株式会社の定款には「目的」が
こう書かれている。
「(目 的)
第 2 条 当会社は、次の事業を営むことを目的とする。
(1) 自動車、産業車両、船舶、航空機、その他の輸送用機器および
  宇宙機器ならびにその部分品の製造・販売・賃貸・修理
(2) 産業機械器具その他の一般機械器具およびその部分品の
  製造・販売・賃貸・修理
(3) 電気機械器具およびその部分品の製造・販売・賃貸・修理
(4) 計測機械器具および医療機械器具ならびにその部分品の
  製造・販売・賃貸・修理
(5) セラミックス、合成樹脂製品およびその材料の製造・販売
(6) 建築用部材および住宅関連機器の製造・販売・修理
(7) 建設工事・土木工事・土地開発・都市開発・地域開発に関する
  企画・設計・監理・施工・請負
(8) 不動産の売買・賃貸借・仲介・管理
(9) 情報処理・情報通信・情報提供に関するサービスおよび
  ソフトウェアの開発・販売・賃貸
(10) インターネット等のネットワークを利用した商品売買
  システムの設計、開発およびそのシステムを搭載した
  コンピューターの販売、賃貸、修理ならびにそのシステムを
  利用した通信販売業
(11) 陸上運送業、海上運送業、航空運送業、荷役業、倉庫業
  および旅行業
(12) 印刷業、出版業、広告宣伝業、総合リース業、警備業
   および労働者派遣業
(13) クレジットカード業、証券業、投資顧問業、投資信託委託業
  その他の金融業
(14) 駐車場・ショールーム・教育・医療・スポーツ・マリーナ・
  飛行場・飲食・宿泊・売店等の施設の運営・管理
(15) 損害保険代理業および生命保険募集業
(16) バイオテクノロジーによる農産物・樹木の生産・加工・販売
(17) 前各号に関連する用品および礦油の販売
(18) 前各号に関するエンジニアリング・コンサルティング・
  発明研究およびその利用
(19) 前各号に付帯関連するいっさいの業務」、と。


社会とは別個独立の法人という人が実在していると考える
従来の法律学は、「法人の権利能力」なり「法人の行為(行為
能力)」の問題がある、として、たとえば、こう言っている。
曰く。
「34条は、「法人は、法令の規定に従い、定款その他の基本的
定款で定められた目的の範囲内において、権利を有し、義務を
負う」と定める。
この規定は、法人は法律によって創設されたものだから、その
権利義務も目的の範囲内においてのみ存在し(目的による制限。
・・・)、したがって、ウルトラ・ヴァイレス(ultra viles 権限外行為)
は無効である、とする考え方(英米法)に依拠している(多分に擬制
的思考が強い。・・・)。
それ故、法人は、「目的の範囲」外の行為を行うことができない。」
(近江幸治「民法講義T民法総則〔第6版〕」
成文堂127頁)、と。


しかし、法人は
全ての人が他者と共に健康で文化的な生活を営むべく自由に
生きていく、人権(そのもの)擁護制度社会(国家)の部分社会の
別称である。
部分社会としての一応の役割・役目を表現・公示したのが、
「定款その他の基本的定款で定められた目的」である。
結果として、法人と別称されている当該部分社会は「定款その他
の基本的定款で定められた目的の範囲内において、」超法規的
「権利を有し、義務を負う」、ということになる。
定められた目的は、人権(そのもの)擁護制度社会(国家)の部分
社会としての一応の役割・役目の表現・公示でしかないから、
「定款に定められた「目的」自体とは同一でなく、その「目的」を
達成するに相当なすべての行為を意味するものと解すべきで
あろう(我妻156−157頁)。」
(前掲近江幸治「民法講義T民法総則〔第6版〕」
129頁)、ということになる。


しかし、それは「法人の権利能力」なり「法人の行為(行為能力)」の
問題などではないはずだ。
則自然法暫定自由制度人権そのもの擁護制度社会(国家)の
部分社会として妥当であるかどうかが、問題になっているはずだ。


たとえば、川井健は、こう言っていた。
曰く。
「株式会社の場合はどうであろうか。
かつて八幡製鉄株式会社が政党に寄付を行ったところ、それが
法人の目的の範囲に入るかどうかが問題になった。
そのような寄付が目的の範囲に入っていないとすると、取締役が
行うべき義務に違反したという理由で、一株主が取締役の責任を
追及する訴訟を起こした。
最高裁判所は、株式会社の能力がきわめて広く、しかも、政党への
寄付は議会制民主主義に必要な行為だと述べた(最大判昭和45年
6月24日民集24巻6号625頁)。
これに対しては異論もなくはないが、株式会社の能力はきわめて広い
と解釈されている。
これに対し、民法上の公益法人や特別法による中間法人の能力は、
厳格に解されている。
たとえば、農業協同組合が法令の規定や定款に違反して非組合員に
金銭を貸し付けたときには、その貸し付けは無効と解されている(最判
昭和41年4月26日民集20巻4号849頁ほか)。
ただし、貸し付けを受けた者は不当利得(703条)に基づく利得の返還
義務を負う。
税理士会の政治献金のための特別会費徴収の総会決議は目的の
範囲外で無効とされる(最判平成8年3月19日民集50巻3号615頁)。
しかし、阪神・淡路大震災により被災した兵庫県司法書士会に復興
支援金3000万円を寄付するために特別に負担金を徴収する旨の
群馬司法書士会の総会決議の効力は同会の会員に対して及ぶとする
判例がある(最判平成14年4月25日判時1785号31頁)。」
(川井健「民法入門〔第4版〕」有斐閣32頁)、と。


具体的な結論は、
則自然法暫定自由制度人権そのもの擁護制度社会(国家)の
部分社会として妥当であるかどうか、という観点から判断されて
いるのではないだろうか。
八幡製鉄株式会社だとか、農業協同組合だとか、税理士会だとか、
群馬司法書士会だとかいう部分社会の、当該行為が、
則自然法暫定自由制度人権そのもの擁護制度社会(国家)の
部分社会として妥当であったかどうか、という問題だった、
のではないだろうか。
要するに、法人と別称されている部分社会の、全ての人が他者
と共に健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく社会(国家)
での役割なり役目を表現・公示したのが、「目的」なのではないか。
だからである。








第10章
 
会社は社会(国家)の部分社会であり
    誰の所有の対象にもならない



喪失才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の
幻覚国家従人為法絶対自由資本主義喪失才覚人天下人工
市場似非社会にあっては、会社は株主のものだ。
明治以降の戦前の日本社会はそういう似非社会だった。
しかし、戦後の日本社会(国家)は、そういう似非社会ではない。
会社・企業・事業は、
全ての人が他者と共に健康で文化的な生活を営むべく自由に
生きていく、
則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護制度一元社会(国家)の
部分社会であり、
経常的インフラである。
当然、誰の所有の対象にもならない。
そもそも、国家も法人も社会の別称であり、それ自体は幻覚・詐術
でしかない。
実在しているのは、則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護制度
一元社会(国家)とその部分社会だ。


奥村宏は、2005年に出した本で、こう言っていた。
曰く。
「ライブドアによるニッポン放送株の買い占め事件から日本の
ビジネス界では敵対的買収が大きな問題になり、そこから「会社は
誰のものか」ということが盛んに議論されるようになりました。
それまで「会社は株主のものだ」という株主資本主義論が流行して
いましたが、これでは敵対的買収を説明できません。
株主のなかには買収を賛成する人もいれば反対する人もおり、
株主といっても一様ではないからです。
そのような状況のなかで、岩井克人東大教授は「会社はヒトである
と同時にモノである」という説を唱え、これで19世紀以来の法人論争
に最終決着をつけたといいます。
同氏の『会社はこれからどうなるのか』(平凡社)という本でそのことを
主張しているのですが、ライブドア騒動のあと出した『会社はだれの
ものか』(同)でその主張を繰り返すと同時に、「会社は社会のものだ」
と宣言するに至りました。
「会社はヒトであり、モノである」という岩井さんの主張は、会社をヒト
やモノと同じように実体と考えているからです。
これに対して私は会社は実体ではなく、人間が働く場であると考えて
います。
会社を実体概念ではなく、機能概念でとらえることが必要なのです。」
(奥村宏「会社は誰のものでもない」ビジネス社
204頁以下)、と。


確かに、会社は、則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護制度
一元社会(国家)の部分社会なのだから、「人間が働く場である」と
言っても大過はないのかもしれない。
「モノやヒトでない」のは確かだ。


会社の本質に肉薄できているのは、
公認会計士の大畑伊知郎だ。
曰く。
「 解決困難な「会社は誰のものか」問題
このように、会社が営利目的を忘れ、株主以外の利害関係者の利益の
ために行動するようになると、会社は存続できなくなります。
つまり、会社は多くの利害関係者のものである、という定義もまた、
矛盾を孕んでいると言えます。
結局、「会社は株主のものである」という考え方にも、「会社は幅広い利害
関係者のものである」という考え方にも、突き詰めていくと問題があると
言えます。
「会社は株主のものである」と定義し、株主の利益に忠実な経営を行うと、
会社の将来の利益が犠牲にされ、事業の先細りにつながりかねません。
また、「会社は幅広い利害関係者のものである」と定義すると、今度は
利益の追求がおろそかになり、結局会社は長続きしないという結果と
なります。
こう考えると、「会社は誰のものか」という問題を、論理的にすっきり
解決することは困難に見えます。

 安定成長目指す日本的経営
しかし、こうした、「会社は誰のものか」という問題を巧妙に解決していた
のが、いわゆる日本的経営です。
日本的経営とは、株式の持ち合い、系列取引、終身雇用、年功序列
賃金などを特徴とする経営のことです。
一言で表現すると、安定成長を目指す経営と言えます。
日本的経営においては、目先の利益を確保することよりも、組織の
持続的な成長が重要であると捉えます。
そして、こうした組織目的と整合的な雇用形態として、安定雇用が選択
されます。
従業員の生活を保障することで組織への自発的な献身を促し、従業員
の自発的な献身が企業の成長につながるからです。
つまり、日本的経営は、安定成長を組織目標として掲げ、
その組織目標に整合的な雇用形態として、安定雇用を採用してきたと
言えます。
その起源については諸説あるようですが、日本的経営が確立される
契機となった出来事として、第二次世界大戦直後にアメリカ占領軍が
行った財閥解体が挙げられます。」
(大畑伊知郎「日本経済を壊す会計の呪縛」
新潮新書91頁以下)、と。


喪失才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の
幻覚国家従人為法絶対自由資本主義喪失才覚人天下人工
市場似非社会にあっては、会社は株主のものだ。
明治以降の戦前の日本社会はそういう似非社会だった。
しかし、戦後の日本社会(国家)は、そういう似非社会ではない。
会社・企業・事業は、
全ての人が他者と共に健康で文化的な生活を営むべく自由に
生きていく、
則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護制度一元社会(国家)の
部分社会であり、
経常的インフラである。
当然、誰の所有の対象にもならない。
そもそも、国家も法人も社会の別称であり、それ自体は幻覚・詐術
でしかない。
実在しているのは、則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護制度
一元社会(国家)とその部分社会だ。