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(第U編 絶対自由資本主義を原理原則とした社会あり得ない)






人間認識転換により則自然法社会(国家)顕在化した現代
                             (写真は三重県鳥羽)

第二部

 人間認識転換により
 
 則自然法社会(国家)
    顕在化した現代

 ――自由意思人擬制し
   人為法強制した近代絶対自由制度似非社会





      目   次


第1章

人間認識転換により
則自然法社会(国家)顕在化した現代
1 (自由主義妄想の顛末の
  価値相対主義
)
2 (則自然法社会(国家)制度論が
   社会契約論の真意

3 (則自然法社会(国家)制度論が
   自然法論の真意

4 (則自然法社会化し
   人権(そのもの)が顕在化した現代
)
5 (絶対権力国家は
  絶対自由後ろ楯人為法
  でっち上げるための虚構
)


第2章

自由意思人擬制し
人為法強制した近代絶対自由制度似非社会
1 (人間を自由意思人と思い込む
   思い上がりが原因
)
2 (市場メカニズムで秩序維持される社会は
  絶対自由制度似非社会
)
3 (自然法が分からず
  人為法から解放されなかった近代
)


第3章 

 所有権も人権(そのもの)を支える手段権利義務
 として存在している
1 (資本主義似非社会は
  人工市場似非社会であり社会ではない
)
2 (所有権も人権(そのもの)を支える手段権利義務として
   存在している
)
3 (峻別の論理は
  人権(そのもの)とのかかわりを切断するための詐術
)
4 (「自由」、或いは「意思」の支配は
  人間を自由意思(志)人と擬制した結果
)
5 (修正資本主義は暫定自由制度の誤解)





第1章

人間認識転換により
則自然法社会(国家)顕在化した現代



1 (
自由主義妄想の顛末の
   価値相対主義
)

すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で
文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、とする
超法規社会(国家)規範が自然法だ。
したがって、自然法は似非社会・国家が則自然法社会(国家)化
しなかったら顕在化しない。現実のものとはならない。
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な生活を
営むべく自由に生きていく、いかなければならない、超法規的
権利義務が人権(そのもの)だ。
したがって、人権(そのもの)も人が生まれながらに持っている
自然権ではあるが、則自然法社会(国家)化しなかったら顕在
しない。現実のものとはならない。
似非社会・国家の則自然法社会(国家)化は、自由意思(志)人
から生きていくという絶対的な目的を持った生き物へ、妄想から
事実へ、と人間認識を転換しなかったら不可能だ。
逆に言えば、自由意思(志)人から生きていくという絶対的な目的
を持った生き物へ、と人間認識を転換しさえすれば、則自然法社会
(国家)化は現実のものとなり、人権(そのもの)は自然権であると同時
に社会(国家)権として、自然法は自然法であると同時に社会(国家)法
として、現実のものとなる。


中世封建似非社会から近代則人為法絶対自由制度資本主義
似非社会へ、そして現代則自然法暫定自由制度人権擁護
システム社会(国家)へ、と進化してきた社会(国家)。
人為法(絶対万能法律)から自然法(超法規社会(国家)規範)へ、
と転換された法・正義。
絶対自由権から人権(そのもの)へ、と転換された人権。
絶対自由制度から暫定自由制度に、目的から手段へ、
と転換された自由。
絶対万能法律から人権(そのもの)守るための方策へ、と
転換された法律。
絶対万能権力国家から人権(そのもの)守る社会(国家)の機関へ、
と転換された(狭義の)国家。
形式的名目的なものでしかなかったのが人権(そのもの)守る
ための政治として本物へ、と転換された民主主義。
近代則人為法似非社会と現代則自然法社会(国家)とでは
まるで違うのである。


人権(そのもの)は絶対的価値である。
人権(そのもの)を否定する自由はない。
この人権(そのもの)を否定するのが自由主義妄想だ。
自由主義妄想の前提にあるのは、人間を自由意思(志)人と擬制する
妄想・詐術だ。
「人それぞれの主観を尊重し、多様性を認める」、という場合の
人も自由意思(志)人としての人のことなのである。
自由主義妄想を是とするのは、超法規社会(国家)規範=自然法
感覚が欠落した、麻痺した、欠落才覚人たちなのである。
強欲で、戦略的で、口八丁手八丁で、弁舌に長け、詐欺的才覚に
恵まれた人たちなのである。


自由主義妄想の顛末の価値相対主義を、
言い当てているのは、
佐伯啓思教授だ。
曰く。
「生命・自由・平等、そして幸福追求の権利を
絶対的なものとして無条件で
肯定してしまうと、
われわれの傲慢に歯止めがきかなくなってしまう。
おまけにそうなると、人によって「自由」の内容も異なり、
「欲望」も競合し、衝突するでしょう。
私の求める自由とあなたの求める自由は違っている。
時には衝突しかねない。
そうするとどうすればよいのか。
そこでやむを得ず、「価値相対主義」が持ち出される。
自由というけれど、では自由を実現して何をしたいかというと、
その内容はみんなそれぞれ人によって違うわけです。
だから、人それぞれの主観を尊重し、
多様性を認めようというわけです。
それは価値相対主義です。
もっともといえばもっともなことです。
しかし、ひとたび、価値相対主義から出発すると、
そこからは、人間が自分の命を懸けてもいい、
あるいは人間がそれに対して奉仕しようとする、
そういう「高い価値」はもう生まれてこないでしょう。
「神」であれ、「イディア」であれ、
絶対的なものを持ち出すこともできなくなる。
「絶対的なもの」は危険だ、ということになるでしょう。
ところが、その実、ここでは、・・・自由自体が絶対的な価値に
なってしまっているのです。
そして、その場合、
すべての人の多様な自由を平等に尊重しなければなりません。
それはすべての人の自由の平等を要求します。
だから、ここで平等性という理念もまた絶対化されることになる。
さらにいえば、平等を政治制度にする民主主義も
絶対化されるのです。
こうして、「神」や「イディア」という「絶対的なもの」の否定から
始まったはずの近代において、
「人間」そのものを絶対化することになる。
そして変奏として、「自由」や「平等」や「民主主義」といった
理念が絶対化されてしまうのです。
それを正面から批判することはできなくなります。」
(佐伯啓思「従属国家論」PHP新書19ページ以下)、と。


自然法を、人権(そのもの)を、則自然法暫定自由制度人権
(そのもの)擁護システム社会(国家)を否定する自由は
人間にはない。
自由主義妄想が宗教と癒着しているのは、その為かもしれない。





2 (
則自然法社会(国家)制度論が
   社会契約論の真意


すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で
文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、とする
超法規社会(国家)規範が自然法だ。
したがって、自然法は似非社会・国家が則自然法社会(国家)化
しなかったら顕在化しない。現実のものとはならない。
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な生活を
営むべく自由に生きていく、いかなければならない、超法規的
権利義務が人権(そのもの)だ。
したがって、人権(そのもの)も人が生まれながらに持っている
自然権ではあるが、則自然法社会(国家)化しなかったら顕在
しない。現実のものとはならない。
似非社会・国家の則自然法社会(国家)化は、自由意思(志)人
から生きていくという絶対的な目的を持った生き物へ、妄想から
事実へ、と人間認識を転換しなかったら不可能だ。
逆に言えば、自由意思(志)人から生きていくという絶対的な目的
を持った生き物へ、と人間認識を転換しさえすれば、則自然法社会
(国家)化は現実のものとなり、人権(そのもの)は自然権であると同時
に社会(国家)権として、自然法は自然法であると同時に社会(国家)法
として、現実のものとなる。


とすると、人権(そのもの)が顕在する則自然法社会(国家)制度論が
ホッブズの社会契約論の真意だ、と考えられてくる。
ホッブズの社会契約論を
岩田温はこう紹介している。
曰く。
「人はなぜ国家を創るのか
こうした自然状態をホッブズは「万人の万人による闘争」が繰り広げ
られる世界だと述べましたが、実に正確な指摘でしょう。
自然状態においては、人は何かを一致団結してすることはできず、
常に他人の自由の行使に怯えていなければならないのです。
ホッブズは自然状態を次のように描写しています。

自然状態においては、勤労のための余地はない。なぜなら、勤労の
果実が確実ではないからであって、したがって土地の耕作はない。
航海も、海路で輸入されうる諸財貨の使用もなく、便利な建築もなく、
移動の道具およびおおくの力を必要とするものを動かす道具もなく、
地表についての知識もなく、時間の計算もなく、学芸もなく文字もなく
社会もなく、そしてもっとわるいことに、継続的な恐怖と暴力による
死の危険があり、それで人間の生活は、孤独でまずしく、つらく残忍で
みじかい。

恐らく、これほど以上に不幸な状態はないであろうということを確信
させるに足る表現です。
ホッブズは人間にとっての幸せとは、人々が自然状態から脱出した
状態にほかならないことに気づいたのです。
では、一体どうすれば、この悲惨な自然状態から抜け出すことができる
のでしょうか。
まず、自然状態が問題なのは、全ての自由が認められている点です。
我々がパラダイスの条件であるかのように思い込む「全ての自由」こそが、
人をして自然状態という名の地獄に住まわす最大の原因だったのです。
そこでホッブズが考えたのは、全員が納得できるような契約を結び、
各人が持つ「全ての権利」に歯止めをかけることです。
「人を殺す自由」あるいは「人の物を盗む自由」といった自由を、自分を
含めた全員が一斉に捨て去ります。
しかし、この捨てたはずの自由を行使しようとする不心得者がいるかも
しれません。
そこで、こうした人間を処罰する機関が必要になってきます。
違反して罰せられないのならば、その契約は契約と呼ぶに値しないとも
ホッブズは述べています。
自分も完全なる自由を捨てるかわりに相手もそうした権利を捨てる。
仮に自分も相手も捨てたはずの自由を行使した者がいたら、それを処罰
する。
その処分を粛々と行うのが国家である。
ホッブズの国家論は明快なもので、こうした各個人が契約によって国家を
形成するという考え方を社会契約論と呼びます。
ホッブズは個人の自由を捨てろと叫んだのだから、危険な全体主義者では
ないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは誤解です。
自分がされて嫌なことは、他人にしてはならない、という消極的な道徳論が
ホッブズの政治思想の根底に存在しているのです。
これは別の言い方をすれば、人に迷惑をかけないかぎり、いかなる自由を
行使しても構わないということになります。
ホッブズは、自らの身を守る法律の範囲内において、個人は自己の自由を
追求してよいと説いた自由主義者でもあったのです。」
(岩田温「逆説の政治哲学」ベスト新書237頁以下)、と。


人間は自由意思(志)人ではない。
絶対万能権力国家も絶対万能法律も実在しえない。
人間を自由意思(志)人と擬制しての立論など論外だ。
「人はなぜ社会(国家)を創るのか。」
人間は生きていくという絶対的な目的を持った生き物だ。
だが、一人で生きていくには、外界は余りにも厳しい。
「自然状態においては、・・・・継続的な恐怖と暴力による死の危険が
あり、それで人間の生活は、孤独でまずしく、つらく残忍でみじかい。」
社会(国家)を組織してみんなで生きていく以外には生きていく道は
ない。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な生活
を営むべく自由に生きていくべし、とする超法規社会(国家)規範=
自然法に則った則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム
社会(国家)制度論が、ホッブズの社会契約論の真意だ、
と考えられてくる。





3 (
則自然法社会(国家)制度論が
   自然法論の真意


すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で
文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、とする
超法規社会(国家)規範が自然法だ。
したがって、自然法は似非社会・国家が則自然法社会(国家)化
しなかったら顕在化しない。現実のものとはならない。
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な生活を
営むべく自由に生きていく、いかなければならない、超法規的
権利義務が人権(そのもの)だ。
したがって、人権(そのもの)も人が生まれながらに持っている
自然権ではあるが、則自然法社会(国家)化しなかったら顕在
しない。現実のものとはならない。
似非社会・国家の則自然法社会(国家)化は、自由意思(志)人
から生きていくという絶対的な目的を持った生き物へ、妄想から
事実へ、と人間認識を転換しなかったら不可能だ。
逆に言えば、自由意思(志)人から生きていくという絶対的な目的
を持った生き物へ、と人間認識を転換しさえすれば、則自然法社会
(国家)化は現実のものとなり、人権(そのもの)は自然権であると同時
に社会(国家)権として、自然法は自然法であると同時に社会(国家)法
として、現実のものとなる。


とすると、人権(そのもの)が顕在する則自然法社会(国家)制度論が
キケロの自然法論の真意だ、と考えられてくる。
キケロの自然法論を
岩田温はこう紹介している。
曰く。
「然らば、正しいこととは何なのか
さて、こうしたナチスの蛮行を知った後、我々は無力感に襲われます。
果たして、「正しい」こととは何なのでしょうか。
それは法律に従うことなのでしょうか。
正しいことが法律に従うことであるならば、この大量虐殺を実行した人々
は合法的な行為をしたに過ぎません。
彼らは全権委任されたヒトラーの命令によって虐殺をしたのですから、
法律に違反していたわけではありません。
しかしながら、彼らの大量虐殺を正しい行為であったということは
できません。
少なくとも、私は彼らの罪をこれ以上のない不正義であると断じます。
国家が定める法律以前に、人として犯してはならぬ法を犯していると
考えるからです。
ここで、冒頭のキケロの言葉を振り返ってみましょう。

無知で無経験な者が治療薬のかわりに人を殺す毒を処方するなら、
それを医者の処方ということができないのは当然であるし、また、国民
の場合も、たとえ彼らがなんらかの有害な規則を受け入れたとしても、
それを法律――それがどのような形のものであれ――と呼ぶことは
できない。

キケロの主張は極めて明快です。
医者が患者に薬を施すのであれば、その医者は紛れもなく医者です。
しかし、医者が死に至る猛毒を薬だといって患者に手渡した場合、
彼を医者と呼ぶことはできません。
同様に、法律で定められたことを行っていれば、全てが正しいというわけ
ではありません。
なぜなら、誤った法律というものが想定されるからです。
合法的でありながら、不正義な行為というものがこの世には存在します。
合法的でありながら、不正義な行為が存在するということを我々に嫌と
いうほど思いしらせるのが、ナチス・ドイツやソ連のような全体主義国家の
存在です。
彼らの合法的でありながら、余りに凄惨な蛮行の数々は、我々に法を
超えた正しさの基準が存在することを教えてくれています。
それでは、個々の国家における法律が正しいのか、不正義なのかを
調べる「法を超えた正しさ基準」とは何なのでしょうか。
キケロはこれを「自然法」と名づけました。
神ならぬ人が作る法には誤りがある。
このように考えることは、人間の合理性によって捉えられる認識を超えた
正しさが存在することを認めることでもあります。
人間の合理性の限界を知っていた謙虚な古代人キケロの叡智は、近代
科学者の愚かな合理性と比較できないほど優れたものだったといえる
でしょう。」
(岩田温「逆説の政治哲学」ベスト新書245頁以下)、と。


法(自然法)は、人間が生きていくという絶対的な目的を持った生き物で
ある、という自然事実に由来する超法規社会(国家)規範であり、正義だ。
人間社会(国家)での正しいこととは、この法(自然法)に適っていることだ。
法律は人権(そのもの)を守る方策だ。
法(自然法)と法律は別物だ。
広義の国家は則自然法社会(国家)の別称だ。
国会内閣といった狭義の国家は人権(そのもの)擁護を専務とした社会
(国家)の機関だ。
人権(そのもの)が顕在する則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)制度論が、キケロの自然法論の真意だ、
と考えられてくる。





4 (
則自然法社会化し
   人権(そのもの)が顕在化した現代
)

人権(そのもの)が社会(国家)権として顕在化したのが現代だ。
人権(そのもの)は自然法上の権利=自然権であると同時に、
社会(国家)が則自然法社会(国家)故の社会(国家)権だから、
に他ならない。
奥平康弘が「新しい権利の登場」というのは、人権(そのもの)の
顕在化のことに違いないのである。
自由権(絶対自由権)が、暫定自由権へと転換され、人権としての
化けの皮がはがされると同時に、人権(そのもの)が社会(国家)権
として顕在化したのが現代という時代だ。


奥平康弘は、
「新しい権利の登場」だ、として
こう説いている。
曰く。
「自由権のもつ意味は大きい。
けれども他方、自由権だけを保障すればそれでいいという
世の中でなくなったこともたしかである。
自由権は、近代のはじめ、その当時想定された社会的な需要
に合わせて基本的人権と観念された。
けれどもその後、欧米諸国を典型例として社会の変動をみて
みればわかるように、爛熟し、やがて独占化する資本主義社会
の到来とともに、近代初期には想定できなかった新しい社会問題
に当面するようになった。
近代的な自由権だけが、基本的人権とはいえなくなる。
資本主義の高度の展開の結果、社会のなかでいちばんはげしい
矛盾が生じたのは、経済の領域においてであった。
近代的な考え方によれば、契約の自由、財産権の保障など、国家
が介入せずに自由放任策をとれば、諸個人はおのずから自分たち
の生存を確保することができるようになるはずであった。
けれども自由権が保障されただけでは、自力で生存を確保できない
層が、いわば構造的に生ずるようになった。
労資関係が典型例であるように、契約の自由は、労働者に不利で
資本家に有利な労働条件を締結する効果をもつようになった。
要するに、19世紀末から欧米諸国で生じた社会問題、労働問題
などは、政府が社会過程、労働関係に積極的に介入して、ある種
の階層の既得権を削りとり、他の階層にはこれまでなかったような
新しい権利を付与することを要請するようになったのである。
既得権の削りとりというのは、財産権や契約の自由を「公共の福祉」
(=社会成員全体の生き残り)の観点から制限することを意味した。
これと裏腹に成立する新しい権利とは、国家による生活保障を受ける
権利(=生存権)、教育を受ける権利、労働者の団結権・団体交渉権・
団体行動権といったようなものである。
20世紀中葉に制定された日本国憲法は、現代社会が構造上その
保障を必要とするようになった、これらの新しい権利を、現代的な
基本的人権として承認することとした。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を
有する」(25条1項)とする生存権の規定をはじめ、いわゆる労働三権
の保障規定(28条)などがこれである。
現代的な人権とひとくちでいっても、その性質・内容は少しずつちがう。
したがっていちがいにいえないが、政府が諸個人に対してある種の
実体的なサービスを供給することを内容とするのが、一つの特徴で
ある。
つまり個人のほうからみれば、サービスを請求する権利である。
生存権の場合は、生活保護というサービスが内容となるが、
これを広く解すれば、各種の福祉、社会保障、公衆衛生などの諸措置
が内容となる。
こうしたなかに、憲法26条の教育を受ける権利も位置づけられる。」
(奥平康弘「憲法」弘文堂入門双書44頁以下)、と。


勿論、自由国家と社会国家・福祉国家とは両立しえない。
しかし、社会国家・福祉国家というのは、すべての人が、
社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な生活を営むべく
自由に生きていく、則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)の誤解・誤称なのだ。
自由権(絶対自由権)、自由国家というのは妄想でしかない。
今、自由権(絶対自由権)として説かれているのは、暫定自由権
の誤解だ。
勿論暫定自由権は人権(そのもの)ではない。
暫定自由権は人権(そのもの)擁護システムの一環としてある。


社会(国家)そのものが、人権(そのもの)を擁護するための
システムになっている社会(国家)。
人権(そのもの)擁護システムである暫定自由制度社会(国家)。
人権(そのもの)を守るための事前規制は必要最低限にとどめ、
取りあえずは自由(暫定自由)とすることによって、人々の健康で
文化的な生活の進歩向上を促すこととした。
当然、産業形態は自然発生的な社会(国家)的分業制度だ。
そして、超法規社会(国家)規範=自然法感覚、すなわち
神の見えざる手は、遂に、
(暫定)自由の結果もたらされる
人権(そのもの)の侵害阻害損傷ないし社会(国家)の歪み綻び
を、事後的に、裁判所制度や公共事業制度や
帰属所得再評価不当利得返還制度である累進課税制度と
一体になった社会(国家)保障制度などの
社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)を以て、
補修復元することとし、
人権(そのもの)擁護システム暫定自由制度を完成させた。


則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム一元社会(国家)は、人間が生きていくという
絶対的な目的を持った生き物であるという自然事実に
由来する普遍的な人間社会(国家)だ。
(広義の)国家は社会の別称でしかない。
国会・内閣という(狭義の)国は人権(そのもの)擁護を
専務とした社会(国家)の機関でしかない。





5 (
絶対権力国家は
  絶対自由後ろ楯人為法
  でっち上げるための虚構
)

人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な生活を営む
べく自由に生きていく、いかなければならない超法規的権利義務、
すなわち人権(そのもの)は、人間が生きていくという絶対的な目的
を持った生き物である、という自然事実に由来する自然法上の
権利=自然権だ。
したがって、人権(そのもの)は人為法(似非法律)からの解放=自由
があって、則自然法社会(国家)になってはじめて顕在化する道理だ。
確かに、近代は人為法(似非法律)からの解放=自由からはじまった。
したがって、当然則自然法社会(国家)になって、人権(そのもの)が
顕在化するはずだった。
しかし、しなかった。
則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム社会(国家)には
ならなかった。
何故か。
人間を自由意思(志)人と誤解してしまったからだ。
人為法(似非法律)からの解放=自由があっても、自由意思(志)人が
作る人為法(似非法律)に則った自由主義資本主義欠落才覚人天下
人工市場似非社会・国家になってしまった。
絶対万能権力国家妄想は、この人為法(似非法律)をでっち上げる
ための虚構でしかない。
自由権(絶対自由権)、自由主義は、「国家からの自由」として、絶対
万能権力国家妄想と対を成して浮かび上がってくる妄想だ。
自由権(絶対自由権)、自由主義というのは、絶対万能権力国家妄想
を後ろ楯にして存在する人為法妄想に基づく妄想だ。
要するに、絶対万能権力国家というのも、自由権(絶対自由権)、自由
主義というのも、自由の本義を履き違え、自由それ自体を価値と錯覚
した結果の妄想だ。


大石眞教授は、
絶対万能権力国家という虚構を、
次のように説明している。
「一 国家と社会
アリストテレスのひそみに倣っていえば、人は野獣でもなければ神にもなれ
ない「社会的動物」である。
だから、古来、人は他の人との間に何らかの相互作用をもちながら生きて
いる。
人と人との間にみられるこうした相互作用の関係は、本来、機能的なもので
あるが、一般に、それは「社会」という実体的なことばで表現される。
こういう意味での社会は、ある男女や数人のグループの関係から、広く数千人・
数万人の関係に至るまで、さまざまな規模と形をとって無数に成り立ちうる。
しかし、これらの一定の範囲の人々の間で、相互作用が継続的に起こり、
その関係が緊密になってくると、それらの人々は一つの統一された集団・
統一的団体を形づくるものとみなされ、そこに何らかの共同体が存在している
という意識が生まれるようになる。
このような共同体は、いろいろな形をとる。
つまり、血縁を基礎とした家族や地縁を基盤とした村落・都市といった、
いわば自主的な生活共同体の形をとることもあれば、教会・企業・組合・
政党などのように、特定の目的を絆とする人為的共同体(利益共同体)の
形をとることもある。
いずれの形をとるにせよ、こうした相互作用は、それが共同体の中で営
まれる以上、一定の秩序と規律をもって行われることが必要である。
もともと、それを欠けば、そうした共同体は成り立たないが、共同体を構成
する人々の数が多くなればなるほど、その必要性は増してくる。
その秩序と規律は、ふつう、ある共同体における道徳・習慣・宗教などの
さまざまな要素によって維持されるが、人々にとって最も拘束力をもつのは、
「法」というものである。

二 政治権力
しかし、この「法」というものも、最終的に何らかの強制的な力によって担保
されなければ、その機能を十分にはたすことはできないだろう。
この力は、生のままのそれ(暴力)の形で用いられることもあるが、ある程度
の規模をもつ共同体では、その構成員によって必要なものとして承認され、
制度化される。
この制度化された強制力こそ、とくに「政治権力」と呼ばれるものである。
恒久的な共同体では、通例、この「政治権力」によって、その中の秩序と
規律の維持が図られる。
ここに、政治的共同体における統治作用、すなわち人々の間における命令・
服従という、法的な――その意味で正当な――支配関係が.生まれることに
なる。
この権力は、ある人物がもつ資質・能力などの個人的な要素によって、その
特定の人格に認められることがある。
しかし、こうした特定の人格と結びついた政治権力は、恒久的な共同体の場合、
支配者側にも被支配者側にも、いろいろ不都合をもたらすであろう。
というのは、支配者側にとっては、つねに権力の保持者の資質・能力などが問題
とされるので、その権威は不安定であり(その後継者も必ずその点を問われる)、
被支配者にとっても、つねに権力をめぐる争いの犠牲になる可能性があって、
その政治的共同体にとどまる意味を失わせるからである。
こうした不都合をなくすために、別の形の政治権力のあり方が考えられることに
なる。
つまり、支配者側の個々の人格からまったく独立した、ある一つの政治権力の
担い手を想定するということである。
そうすると、どのような支配者であっても、その資格は、ある特別の主体が本来
もつところの政治権力を一時的に行使する代理人にすぎず、決して、その個人的
な資質・能力などのゆえに権力の行使を認められているわけではない、ということ
になる。
こういう意味での政治権力の本来的な主体、抽象的で永続的なその担い手とされる
もの、これが一般的に「国家」の名で観念されているものである。
もっとも、この「国家」ということばは、そうした強制的な政治権力をそなえた共同体
(政治社会)そのものを指して用いられることも多い。
「国家」の概念とか「国家の三要素」とかいう場合の用法が、それである。」
(大石眞「立憲民主制」信山社3頁以下)、と。


人間は生きていくという絶対的な目的を持った生き物だ。
法(自然法)や人権(そのもの)を守る方策である法律の強制力の
実体は、それを守らなかったら生きていけない、という事実の持つ
拘束力・強制力だ。
国会や内閣などの狭義の国家は人権(そのもの)を守ることを専務
とした則法(自然法)社会(国家)の機関だ。
「制度化された強制力」「政治権力」など妄想だ、と考える。







第2章 

自由意思人擬制し
人為法強制した近代絶対自由制度似非社会




1 (
人間を自由意思人と思い込む
   思い上がりが原因
)

要するに、「何が自然法であるかは、それを主張する人の
主観によってまちまちで」分からない。
だが、「人権が社会生活をする上で欠くことのできないもの
である」から、「何が人権であるかを、誰にでもわかるように
実定法で定めておかなければならない」ということで定められた、
憲法上の人権が人権だ。
ずっと、そう考えられてきた。
これは、法(自然法)と人権(そのもの)がきちんと認知されて
こなかったことを意味している。


たとえば中村義孝教授は、こう説明してきた。
曰く。
「1 社会生活のルール=社会規範
人間は一人だけでは生活していけないのであって、社会を構成して
その中で生活している。
社会といっても夫婦や家族、隣近所、サークルのような小さなもの
から、国家や国際社会のような大規模なものまでさまざまである。
人々が複数集まって生活するところには必ずなんらかの決まりが
あり、人はその決まりに従って行動しているからその集団の秩序が
保たれているのである。
人々が集団の決まりに従わないで自分勝手に行動したら、その集団
は混乱に陥り、安心してその集団にいることはできない。
このように社会の秩序を維持するためのルールのことを社会規範と
呼ぶ。
社会規範にはさまざまなものがあり、社会の大きさやその種類により
規範(ルール)の内容や厳しさにも差異がある。
古くからの法諺に「社会あるところに法あり」というのは、そのことを
表している。
・・・・
2 法と道徳の違い
法も道徳も社会規範であって、どちらも「人の物を盗んではならない」
とか「人を傷つけてはならない」と命じている。
・・・・
結局、法と道徳の違いは、それぞれがもっている強制力は何による
強制力なのか、ということで明らかにするのが最も妥当なのでは
ないだろうか。
法は国家権力が作る(制定する)ものであるから、法を守らせるのは
最終的に国家権力であることになる。
つまり法がもっている強制力は、国家権力による強制力だということ
になる。
道徳も一定の強制力をもってはいるが、それは国家権力による強制力
ではない。
この基準で法と道徳の違いを明らかにするのが、最も無理がないのでは
なかろうか。
・・・・
4 実定法と自然法
・・・・
制定者が作った文章になっている法のことを実定法という。
実定法は文字で表されているから、その内容を確認することは比較的
容易である。
そして実定法は、それが制定され適用される時代と範囲が限定されて
いる。
日本国憲法は1946年に制定され、翌1947年5月3日から施行され、
今でも日本の国内で効力をもっている。
ところが大日本帝国憲法(明治憲法・旧憲法)は、1889年(明治22年)
に制定され、1890年から施行されたが、第二次大戦の敗戦により
その効力を失った。
その他の法律も同様に一度制定されたら永遠に効力をもち続けるという
ものではない。
社会の事情が変化すれば、それに応じて改正されることがある。
そのように実定法は、時と所を限って存在し効力をもつのである。
これに反して自然法と呼ばれる法は、文字で書かれた法ではなく、
時と場所を超越していついかなる場合にも効力をもち続ける普遍的な
法であるといわれる。
自然法を主張する人々(自然法論者)にいわせると、自然法こそが
法であって、自然法に反する実定法には法としての効力がないとされる。
自然法は文章になっていないので、何が自然法なのかということは実定法
のように明瞭ではない。
自然法といっても、中世の西欧におけるように神の意思こそが自然法で
あるとする者もあれば、近代においては人間の理性こそが自然法である
とする考え方もある。
神といってもキリスト教の神もいればその他の神もいるし、また人間の理性
といっても何が理性であるかは人によって異なることが多い。
結局何が自然法であるかは、それを主張する人の主観によってまちまちで
ある。
自然法論に対して、実定法こそが法であるとする考え方がもう一方にある。
この主張によれば、内容が確定されない自然法によって実定法が無効に
されることは不合理であって、法学の対象は実定法に限定されなければ
ならないことになる。
このような考え方は、実定法主義または法実証主義と呼ばれる。
しかしこの考え方を徹底すると、ひとたび実定法として制定されてしまうと
どんなに悪い法であってもその法を守らなければならないことになり、
「悪法もまた法なり」という結論にいたる。
このような主張は正しいといえるだろうか。
私たちは、法に従い法を守る側に立って、法の目的と内容について
改めて考え直さなければならないのではないだろうか。」
「1 自然権
自然権は、人が人として生まれながらにもっている権利である、
といわれる。
したがって、憲法によって保障されていなくても、人は当然に自然権を
もっていることになる。
そういう意味で、自然権は前国家的権利であるといえる。
封建的身分制度に縛られ、絶対王政の支配下で、人としての権利が
無視されていた時代に、不可侵の自然権を主張することには重要な
意味があったといえよう。
しかし、自然法によって認められたと考えられている自然権の内容は、
・・・それを主張する人によって異なってくる可能性がある。
そうだとすると、たとえば平等や所有権が自然権であったりそうで
なかったりすることが起こり、非常に不都合である。
人権が社会生活をする上で欠くことのできないものであるならば、
何が人権であるかを、誰にでもわかるように実定法で定めて
おかなければならないことになるのではないか。
フランスの1789年人権宣言が第1条で「人は生まれながらに自由で
権利において平等である」と定めていたのは、自然権を人権宣言で
確認したものだといえる。
近代憲法が自然権も含めて社会生活上不可欠な多くの人権保障規定を
おいているのは、上のような理由からである。
2 憲法上の権利
近代憲法も現代憲法もともに、人が人たるに値する生活をする上で
必要な多くの基本的な人権を明文で保障しているのが通例である。
わが国の憲法も、・・・多様な基本的人権を保障している。
憲法で人権を保障することの第一の意味は、内容が不明確な自然権を
実定法で定めることにより、その内容を確定することである。
第二の意味は、実定法の中で最上位に位置している憲法が人権を
保障することにより、立法権、行政権および司法権の国家権力による
人権侵害を排除することである。
憲法97条は、この憲法が国民に保障する人権は侵すことのできない
永久の権利であると定めている。
さらに、憲法98条は、「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に
反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は
一部は、その効力を有しない」ことを明記している。
この規定を人権に則して解釈するならば、最高法規である憲法が国民に
保障している基本的人権を侵害したり無視したりする法令や行政行為など
は、憲法違反としてその効力が否定されることになる。
このようにして、国家権力による人権の無視や侵害から国民の人権を守る
態度を、憲法は明確に表している。
・・・・
3 法の下の平等
1776年のアメリカ独立宣言はその中で、「すべての人は平等に作られ、
創造者によって不可譲の権利を与えられていること」が自明の真理である
ことを認める、と宣言している。
1789年のフランス人権宣言の「平等」については、すでに見たとおりである。
18世紀の末にこれらの宣言を行った人々にとっては、封建制社会における
身分差別に苦しんだ思いが強く残っていたので、絶対主義と封建制を倒した
直後に自然権としての「平等」と「自由」を高らかに宣言に記し、これらの権利
が踏みにじられることのないようにしておく必要があったのであろう。
その後制定されたほとんどの憲法では、国民の自由と平等を保障している。
日本国憲法は第14条で「法の下の平等」を保障し、国家権力が国民を法的に
差別してはならないことを定めている。
これは、人が生まれながらに平等であるという自然権を明文で確認したものだ
ということができる。」
(中村義孝「テキストブック 法と人権」
法律文化社3頁以下、37頁以下)、と。


要するに、「何が自然法であるかは、それを主張する人の
主観によってまちまちで」分からない。
だが、「人権が社会生活をする上で欠くことのできないもの
である」から、「何が人権であるかを、誰にでもわかるように
実定法で定めておかなければならない」ということで定められた、
憲法上の人権が人権だ、と言っているのだ。
要するに、何が自然法で、何が自然権で、人権であるか、は
分からなかった、ということだ。
それは、要するに人間が自由に法や人権や法律を作り得る、と
思い込んでしまっている結果だ。
この思い込みは、人間を自由意思人と思い込む思い上がりから
来ている。


人間が自由にし得ないことは、人間が自然の一部である、人間は、
生きていく、という絶対的な目的を持った生き物である、という
事実である。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な
生活を営むべく自由に生きていくべし、という法=自然法は、
この自然事実に由来する超法規社会(国家)規範だ。
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、健康で文化的な
生活を営むべく自由に生きていく、いかなければならない超法規的
権利義務、すなわち人権(そのもの)は自然法上の権利=自然権だ。
法律はこの人権(そのもの)を守るための方策だ。
合理性のある法律を守らなかったら、人は生きていけないのだ。
この拘束力が法律の強制力の実体だ。
暫定自由制度は人権(そのもの)擁護システムだ。
戦後の日本社会(国家)は、自然法に則った、暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)なのだ。
人権(そのもの)は社会(国家)権でもある。





2 (
市場メカニズムで秩序維持される社会は
   絶対自由人工市場似非社会
)

竹中平蔵慶応大学名誉教授パソナ取締役会長
曰く。
「人間は社会のなかで生きている。
いや、人間は社会の中でしか生きることができない
と言ったほうがいいかもしれない。
しかし、人間が社会の中で生きているということは、
人間の強みであると同時に、
きわめて厄介な問題を内包している。
それは、いったい社会の秩序はどのように保たれるのか、
という問題である。
たとえば、「昨日と同じように生きる。
そうすれば安全と生命は守られている」とすれば、
ある意味で、これはとても楽な生き方かもしれない。
つまり、慣習や前例に則って日々を生きるということであり、
伝統のなかで生きるという生き方である。
事実、古代以前の多くの人間社会では、
それが当然の生き方だった。
もう少し時代が下がって専制国家や封建制のもとでは、
絶対的な君主や主人の命令のままに生きるというやり方が
あった。
絶対的な権力者の言いなりに生きる、その代わりとして
最低限の生命と安全は守られる、という社会である。・・・
しかし、徐々に「自由」という考え方が入ってくる。
たとえば、八百屋の息子が八百屋にならずに職人になる、
という自由である。
仮にそのような自由が実現できる社会になると、
きわめて大きな問題が生ずることになる。
たとえば、その社会から八百屋が一人もいなくなるかもしれない。
そんなことになれば、社会が大混乱する心配が生じるのだ。
そういう時代にアダム・スミスが登場し、
そのような心配には及ばないことを証明した。
八百屋の数が少なくなれば、八百屋の儲けが増える。
そうすれば、儲かる八百屋になりたいという人が必ず出てきて、
八百屋の数は増える。
そのようにして八百屋の数は一定に保たれる。
つまり、市場メカニズムという見えざる手≠ェ働いて、
社会の秩序は維持されると、アダム・スミスは主張したのである。
つまり、前例や慣習あるいは絶対君主の命令が社会秩序を
維持するという時代が終わりつつあり、
新しい自由な生き方が世の中を支配しはじめていた。
そして、自由な生き方で世の中の秩序が保たれることを解説する
役割を担う経済学者が、必要になってきたのである。」
(竹中平蔵「経済古典は役に立つ」光文社新書24頁以下)、と。


しかし、「市場メカニズムという見えざる手=vで
秩序維持される社会は、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした、
絶対自由制度資本主義妄想人工市場似非社会でしかない。


中世封建似非社会から近代絶対自由制度資本主義似非社会へ
そして現代暫定自由制度人権擁護システム社会(国家)へと
進化してきた社会(国家)。
自由意思(志)人から生きていくという絶対的な目的持った
生き物へ、と変わった人間認識。
人為法(絶対万能法律)から自然法へ、と変わった法。
絶対万能法律から人権(そのもの)守るための方策へ、と
変わった法律。
近代似非社会と現代社会(国家)とではまるで違うのである。
当然、「専制国家や封建制」と比べること自体がナンセンスなのだ。


本当に、無意識下で、人を動かしているもの、つまり神の見えざる手
が近代似非社会と現代社会(国家)とでは全く違う。
現代社会(国家)での神の見えざる手は、すべての人が、社会(国家)の
中で、他者と共に、健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
べし、とする超法規社会(国家)規範=法(自然法)感覚だ。
人権(そのもの)を守るため自由を規制させているのも、規制を守る限り
取りあえず自由、すなわち暫定自由とし、すべての人の健康で文化的な
生活の進歩向上を促し、暫定自由の結果として人権(そのもの)の侵害
阻害損傷が惹起されたとしたら、その修復を社会保障制度などの
社会(国家)補修復元制度を以てさせるのも、この神の見えざる手だ。
日本国憲法を本当に作ったのも、この神の見えざる手だ。
この憲法には、絶対自由権=資本という概念は存在しない。
この憲法を受けて修正された民法にも絶対自由権=資本という概念は
存在しない。
修正資本主義という言葉は暫定自由制度の誤解でしかなく、資本主義
のことではない。


近代絶対自由制度資本主義妄想似非社会での神の見えざる手は、
全く違う。
そこでの支配者は、神の見えざる手が欠落した欠落才覚人たちだ。
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能になるように設計された
人工市場似非社会が近代絶対自由制度資本主義妄想似非社会だ。
人、つまり欠落才覚人たちが、絶対万能法律だの、絶対万能権力国家
だの、絶対自由権=資本だの、と詐術を駆使して、人を動かしてきたので
あって、そこに神の見えざる手など存在し得ない。
市場メカニズムというのは、あくまで人工市場似非社会でのメカニズム
でしかなく、神の見えざる手ではない。
欠落才覚人たちが神なのであって、近代という時代は、人の支配から抜け
出せなかったのである。
とすれば、アダム・スミスは神の見えざる手が存在することを示唆した
だけであって、神の見えざる手が何であるかは、本当は分からなかった、
と考えられてくる。





3 
(自然法が分からず
   人為法から解放されなかった近代
)

先述のように、欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能になるよう
に設計された人工市場似非社会が近代絶対自由制度資本主義妄想
似非社会だ。
人、つまり欠落才覚人たちが、絶対万能法律だの、絶対万能権力国家
だの、絶対自由権=資本だの、と詐術を駆使して、人を動かしてきたので
あって、そこに神の見えざる手など存在し得ない。
欠落才覚人たちが神なのであって、近代という時代は、人の支配から抜け
出せなかったのである。
こういう近代絶対自由制度資本主義妄想似非社会・絶対万能権力国家を
是とする経済学者(革命政治家?)が未だに跋扈している。


「小泉政権時、内閣府で構造改革の立案に従事」した
大田弘子政策研究大学院教授は、
こう言っている。
「個人の選択の自由を広げ、企業の創意工夫を最大限に生かす。
政府は公正な競争を担保する環境整備に徹する。
これが新自由主義の考える「経済的な自由」です。
小泉政権の構造改革は、こうした考えに基づいていました。
格差を招き、むしろ選べない社会をつくった諸悪の根源との
批判を受けていますが、
それは「市場原理主義」という誤解に基づくものです。
改革の方向性は間違っていないと、今も考えています。
格差の拡大や中間層の衰退は1990年代に起きた
グローバル化やIT(情報技術)革命による競争激化、
高齢化や世帯構造の変化によるところが大きい。
非正規雇用の増加も90年代後半からです。
こうした変化への対応が構造改革であり、
多様な人材を最大限に生かす仕組みをつくるのが目的です。」
(大田弘子「選択肢を広げる構造改革」2016.1.6朝日新聞)、と。


勿論批判もある。
たとえば、水野和夫教授は、こう批判する。
「より速く、より遠く、より合理的に」を行動原理とする
近代システムが機能不全に陥っているにもかかわらず、
これまでのシステムを維持しようとするから、
「資本」国家へ変わっていくのです。
21世紀に入って、
小泉政権や第二次安倍政権はこの路線を追求しています。
「骨太の方針」であり、「アベノミクス」がそうです。
さらにTPPなどによって「実物投資空間」・・・を広げ、
かつミリ単位の株式取引で売買を高速回転させることで
「電子・金融空間」・・・の膨張をはかります。」
(水野和夫「資本主義の終焉、その先の世界」詩想社123ページ)、と。


絶対自由制度「資本主義の終焉」ではなく、
絶対自由制度資本主義化の終焉だ。
その結果として、
暫定自由・税・社会補修復元制度一体の
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)は顕現する。


「市場機能を最大限に活かし、
人々の生活を豊かにする政府の役割と一体的な思想として
「新自由主義」を捉えている」という八代尚宏教授は抵抗する。
曰く。
「これまでどの国も経験したことのない急速な高齢化に
直面する日本では、
「公的年金制度はなぜ必要か」という原点に返って考える
必要がある。
老後の生活保障の手段として、
個人が貯蓄し、それを取り崩す方式では、
貯蓄がなくなった後も生存している「長生きのリスク」に
対応できない。
他方、民間の年金保険では、
長期にわたる経営の安定性に不安がある。
また、老後は生活保護制度に依存する前提で自助努力を怠る者へ
の対応も必要となる。
こうした観点で、政府が全国民を対象とした保険制度を運営し、
その加入を強制することには一定の意義があるものの、
以下のような視点も必要である。
第一に、老後の最低生活保障の柱としての公的年金水準は、
老後の生活費をすべてカバーするほど大きなものではなく、
現行の基礎年金ブラスアルファで十分である。
勤労時の生活水準の格差を老後にも持ち込む「報酬比例年金」は、
民間保険に委ねればよく、
政府の役割は税制上の支援にとどめればよい。
ニーズの異なる自営業と会社員の年金を無理やり一元化する
「大きな年金制度」を作るのではなく、
すでに一元化されている基礎年金を活用し、
それと各々の選択肢を組み合わせるべきである。
第二に、政府による保険料の徴収や給付額は、簡素で、
個人の多様なライフスタイルに中立的なものとして、
「年金目的消費税の活用と国内居住期間に応じた給付額」への
時間をかけた移行が望ましい。
年金受給者に所得制限をつけるよりも、
一律に給付した年金とその他の所得の合計に累進課税するほうが、
より公平で簡素な制度となる。
第三に、人口の年齢構成の変化にかかわらず、
年金の給付と負担を自動的に維持する仕組みが必要である。
年金制度の負担者と受給者との比率を一定に維持するよう
年金の開始年齢を調整すれば、
世代間の格差問題は生じず、
年金制度の安定性が保障される。
国民皆年金制度は不可欠であるが、それは簡素で必要最低限
なものにとどめることが、
新自由主義の発想である。
これは、以下の医療保険制度についても同様である。」
(八代尚宏「新自由主義の復権」中公新書174ページ以下)、と。


規制は、人権(そのもの)を侵害阻害することが
予め判然としている事柄に対して、その予防策として存在する。
暫定自由は人権(そのもの)を侵害阻害することが
予め判然としていない限りで、
すべての人が、健康で文化的な生活を営んでいくために
存在している。
社会保障制度は、
この暫定自由制度によってもたらされた社会(国家)の歪み綻びを
補修し復元する制度の一つだ。
そのようなものとして、
「国民皆年金制度は不可欠であるが、それは簡素で必要最低限
なものにとどめる」という発想は、
おそらく、合っている。
八代教授の思い描いている自由は間違いなく絶対自由ではない。
そもそも、社会保障制度は社会補修復元制度の一つとして
存在している。


先述のように、本当に、無意識下で、人を動かしているもの、つまり神の
見えざる手が近代似非社会と現代社会(国家)とでは全く違う。
現代社会(国家)での神の見えざる手は、すべての人が、社会(国家)の
中で、他者と共に、健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
べし、とする超法規社会(国家)規範=法(自然法)感覚だ。
人権(そのもの)を守るため自由を規制させているのも、規制を守る限り
取りあえず自由、すなわち暫定自由とし、すべての人の健康で文化的な
生活の進歩向上を促し、暫定自由の結果として人権(そのもの)の侵害
阻害損傷が惹起されたとしたら、その修復を社会保障制度などの
社会(国家)補修復元制度を以てさせるのも、この神の見えざる手だ。
日本国憲法を本当に作ったのも、この神の見えざる手だ。
この憲法には、絶対自由権=資本という概念は存在しない。
この憲法を受けて修正された民法にも絶対自由権=資本という概念は
存在しない。
修正資本主義という言葉は暫定自由制度の誤解でしかなく、絶対自由制度
資本主義妄想のことではない。


要するに、絶対君主制封建社会での人為法から解放されたが、代わって
欠落才覚人という人たちが人為法に取って代わり、結局、人為法からは
解放されず、法(自然法)は顕在化しなかったのが、近代という時代だった。
そういう近代絶対自由制度資本主義妄想似非社会・絶対万能権力国家を
是とする経済学者(革命政治家?)や政治家(革命政治家?)が未だに
跋扈している。
これは、経済学者(革命政治家?)や政治家(革命政治家?)たちが
欠落才覚人たちの提灯持ち以外の何物でもないから、だろう。







第3章 

所有権も人権(そのもの)を支える手段権利義務
として存在している
 ――自由主義資本主義妄想が命脈を保ってきたのは
    暫定自由制度が修正資本主義と誤解されてきたからだ




1 (
資本主義似非社会は
  人工市場似非社会であり社会ではない
)

曰く。
「資本主義は私的所有権からはじまる。
・・・
この資本主義における私的所有であるが、それは左の
特徴をもつ。
(1) 絶対性
(2) 抽象性」
「所有権は絶対であるとは、資本主義的所有権の特徴で
あるが、その背後には、キリスト教的神観がある。
キリスト教的神観を前提にして、近代において、所有権の
絶対性は発生したのであった。」
「資本主義において所有権は絶対自由である。
それが絶対でないことには、経済主体(企業と消費者)は、
目的合理的生産計画、消費計画をたてることができない
からである。
また、商品(資本をも含む)は、支障なく流通することが
できないからでもある。
このように、所有の絶対性こそ、資本主義の生命である。」
(小室直樹「資本主義原論」東洋経済新報社56頁以下)、と。


とても正気とは思えない。
自由主義資本主義似非社会は
人工市場似非社会であって人間社会(国家)ではない。
心は国家主義自由主義資本主義一体の絶対国家人工市場
似非社会にある人からすれば、
「アメリカは資本主義であるが日本はそうではない。
封建制と資本主義と社会主義とが、何とも奇妙にからまり
あった混淆経済である。
スーパー鵺経済と呼ぶべきか。」
(前掲小室直樹「資本主義原論」A頁)、ということになる。
要するに、封建制と資本主義と社会主義しか知らないのである。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)というのは想像も付かないのである。


曰く。
「「資本主義」は何よりも一定の支配構造を基礎とする体制
およびそのイデオロギーである。
そして、その内容はその構造的な支配の基礎を生産手段の
私的「所有」に置く体制およびイデオロギーであり、資本主義
社会はそのような体制とイデオロギーを骨組として成立する
社会である。」
「資本主義の社会においては、生産手段―資本を所有する
資本家階級―ブルジヨアジーと、それを所有しないために
労働力を商品として資本家に売渡すことによって生活する
(すなわち労働力の商品化)労働者階級―プロレタリアート
のいわゆる.階級的対立が存在する。
このような階級とその対立が存在しない社会は資本主義社会
ではない。
資本主義社会における企業はこのような資本家によって
支配され、それが株式会社の形態をとる場合には、資本は
株式の形をとり、資本家は株主として現れる。
そして、そこでの企業の目的は剰余価値すなわちその現象
形態としての「利潤」の追求である。」
(西山忠範「日本は資本主義ではない」三笠書房16頁以下)、と。


だが、絶対的な抽象的な観念的な所有権などそもそも
存在しえない。
そもそも、自由主義資本主義似非社会は人工市場似非社会
であって人間社会(国家)ではない。





2 (
所有権も人権(そのもの)を支える手段権利義務として
   存在している
)

すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範が自然法だ。
目的物返還請求債権債務、目的物妨害排除請求債権債務、
目的物予防請求債権債務は、
法律を踏まえた上で、
この超法規社会(国家)規範=自然法と
目的物が奪取された、妨害された、その危険が迫っている、
(その結果として人権(そのもの)の侵害阻害損傷が
惹起されている、)という
規範的に意味のある行為事実とを基に、
超法規社会(国家)規範=自然法に適っている故の
社会(国家)的な妥当性ないしその意識として
超法規的に発生する。
所有権とは、
目的物が奪取された、妨害された、その危険が迫っている、
(その結果として人権(そのもの)の侵害阻害損傷が
惹起されている、)場合には、
そういう目的物返還請求債権債務、目的物妨害排除請求
債権債務、目的物予防請求債権債務を以て対抗できる
権能を持った、
所有者が有する、法令の制限内において、取りあえず自由に
その所有物の使用、収益及び処分をする超法規的権利義務
(民法206条、憲法29条1項)だ。
したがって、所有権とは、人権(そのもの)を支えるための、
法令の制限内において、取りあえず自由にその所有物の使用、
収益及び処分をする超法規的権利義務である、
と考えられてくる。


したがって、所有権は、「排他的な支配権」であり、その当然の
結果として「物権的請求権」を持っている、と考えさせるのは
詐術に他ならない。
物権と債権が峻別された物権も債権も妄想でしかない。





3 (
峻別の論理は
  人権(そのもの)とのかかわりを切断するための詐術
)

学者たちはこう説いてきた。
曰く。
「外界の事物は、人間(自分)を主体として考えると、「物」と、
意思をもった「人」(他人)とに分けることができよう。
そして、人間が社会的存在として生活していく場合、この外界
には否応なしにかかわらなければならない。
すなわち、「物」に対するかかわりと、「人」に対するかかわりで
あって、この社会的なかかわりは、必須の社会的な接触関係
なのである。この社会的なかかわり(=接触関係)が、法律学上、
「法律関係」(権利・義務の発生)となって現われるのである。・・・
では、これらの2つの関係において、人は、どのようなかかわり
方をするのであろうか。
まず、人の「物」に対する関係である。
人は、「物」を使ったり、所有したり、処分したりするのであって、
そのかかわり方は、「支配」という構造をとる。
すなわち、ここにおいて、人が「物」を〈支配〉するという権利構造
が存在するのである。
これに対し、人の「人」に対する関係はどうであろうか。
「人」に対しては、人間は、〈支配〉するという関係構造を、
少なくとも近代社会においては有しない。
近代法では、経済外的支配関係は否定されているからである・・・。
人は、取引や不法行為など諸々の社会的な接触のなかで、
「人」(他人)に或ることを〈要求〉(〈請求〉)するということのみが認め
られ、これが法律的な権利構造となって現れるのである。」
(近江幸治「民法講義U物権法〔第2版〕」成文堂1頁以下)、と。


しかし、手元の辞書には、支配とは、
「或る者の意思が相手の行為に対して規定・束縛を加えること。」
(新村出編「広辞苑第二版補訂版」岩波書店)とある。
「人が、「物」を使ったり、所有したり、処分したりする」というのは
分かる。
だか、「人が「物」を〈支配〉する」というのは変だ。
「物」は人ではないのだから・・・。
国家と社会、官と民、私法と公法、債権と物権、権利と義務、
実体法と訴訟法、支配権と請求権、財産法と家族法、
権利の取得と喪失、契約の有効と無効、等々
峻別・分断され、遮断され、
いつの間にか欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを
可能にした仕様の、
国家主義自由主義資本主義絶対国家人工市場似非社会化
の道具立てがすべて揃えられる。
だが、いくら道具立てが揃っても、所詮、それは人工市場
似非社会化のための道具立てにしか過ぎない。


川島武宜は「近代私法における峻別の論理」を
こう喝破していた。
曰く。
「近代私法においては、Aと非Aとを峻別してその中間を排除する
論理が貫徹している。
これを峻別の論理と呼ぶことにする。
公法と私法、債権と物権、財産法と家族法、権利の取得と喪失
(漸次的取得ではなく、或る時点における・無権利者より権利者
への転換)、契約の有効と無効等は峻別されている。
封建制社会では、これらの対立は近代私法におけるように峻別
されてはいなかった。
おそらく、このような峻別の論理の原型は、近代法の基礎をなす
私的所有に内在している。
それは、客体に対する完全且つ排他的な独占権であって、或る物
に対する所有は、完全な有か、そうでなければ完全な無か、の
厳格な二者択一の関係である(ヨーロッパ古代や中世のゲヴェーレ
の体系・・では、二重の所有、無から有への中間の段階、があり得た)。
近代私法では、一般に権利はこのような私的所有の原型にならって
いるのであり、諸の峻別は、これに由来しているように思われる。
近代私法における峻別の論理は、しばしば法的思惟における
論理主義の「誤り」として非難されるが、右のような基礎そのものが
有るかぎり、原理的には維持されざるを得ないであろう。」
(川島武宜「民法T総論・物権」有斐閣9頁)、と。


峻別の論理は、峻別することによって人権(そのもの)とのかかわりを
切断するための詐術なのである。
それは、すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム社会(国家)が、
人間が生きていくという絶対的な目的を持った生き物である、という
自然事実に由来する普遍的な人間社会(国家)である、という証拠
でさえある。
勿論、その目的は、則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)を、国家主義自由主義資本主義一体の則人為法
絶対国家人工市場似非社会化するためである。
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にするためである。





4 (
「自由」、或いは「意思」の支配は
  人間を自由意思(志)人と擬制した結果
)

川島武宜は、また、「「自由」、或いは「意思」の支配」を
こう喝破していた。
曰く。
「近代私法には、諸の「自由」の原則が支配する(所有権の自由、
契約の自由、法的人格の自由)。
これは、所有の私的性質(独占排他性)およびこれに由来する権利
=法律関係の特質を、政治権力からの拘束(特に封建的な)への
対抗関係において観念したことば――拘束の否定――である。
また、近代私法には、諸の権利や法律関係を「意思」の観念に
もとづいて構成する法思想や法技術が存在する(権利は「意思の力」
として、契約は「意思或いは意思表示の合致」として)。
これまた同じものを、別のことばで表現したものにすぎない。
しかし、ことばは、しばしば本来もっている意味からはなれて、
相対的に独立化し、人々に幻想を与えることがある。
商品交換を表現しまた保障するところの「自由」は、現実には、
商品交換をとおして行われる経済的「価値法則」の必然性の一つの
側面を言いあらわしているにすぎない。
また、「意思」の支配をとおして実現される社会過程は、現実には
「競争」という自然淘汰の過程(たとえば企業の集中・独占、失業、
価格の変動等)である。」
(川島武宜「民法T総論・物権」有斐閣10頁)、と。


国家主義自由主義資本主義一体の則人為法絶対国家人工市場
似非社会化は、人間を自由意思(志)人と擬制しなかったら
不可能だ。
「自由」、或いは「意思」の支配は人間を自由意思(志)人と擬制
した結果なのだ。
自由意思(志)人は、法(自然法)や人権(そのもの)や正義の拘束を
受けない、妄想・幻覚だ。
国家主義自由主義資本主義一体の絶対国家人工市場似非
社会は、似非社会であり、妄想・幻覚だ。
当然、絶対万能権力国家をでっち上げ、その名を以て腕尽くで
現実化する他はない。


欠落才覚人たちは図ったのである。

人間を自由意思(志)人と擬制した。
その上で、

人権(そのもの)から「健康で文化的な生活のための暫定自由」
を抽出し、
抽象的な観念的な「絶対自由(権)」として転換し変質させた。
と同時に、
自由意思(志)人の自由主義をでっち上げた。
更に資本主義をでっち上げた。
自由意思(志)人の社会契約による絶対国家をでっち上げた。
自由意思(志)人の合意による民主主義をでっち上げた。
勿論、その目的は、

国家主義自由主義資本主義一体の絶対国家人工市場似非
社会をでっち上げるためである。
勿論、その目的は、

欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にするため
である。


要するに、国家主義自由主義資本主義一体の絶対国家人工市場
似非社会は妄想でしかないのである。
人権(そのもの)を侵害損傷された損傷し、
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム暫定自由制度
社会(国家)を歪める以外に能のない妄想でしかないのである。





5 (
修正資本主義は暫定自由制度の誤解)

では、戦後の日本社会(国家)を自由主義資本主義だ、と考える
妄想が命脈を保っているのは、何故なのだろうか。
それは、暫定自由制度を修正資本主義と誤解されてきたからだ。


勿論、人権(そのもの)を否定する自由は人間にはない。
人間は自由意思(志)人ではないのだから。
人間は生きていくという絶対的な目的を持った生き物だ。
人権(そのもの)は、
この自然事実に由来する自然権であり、
同時に、社会が則法(自然法)人権(そのもの)擁護
システム社会故に存在する社会(国家)権だ。
第二次大戦後の日本社会(国家)は、
すべての人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)なのだ。
それは、国家主義自由主義資本主義絶対国家人工市場
似非社会が行き詰まった結果の戦争犯罪の反省の上に
ある。
だか、それは修正資本主義と誤解されてきた。
確かに、暫定自由制度は修正資本主義に一見似ている。
しかし、絶対自由の修正は論理的にあり得ない。
そもそも、暫定自由制度は人権(そのもの)擁護システム
としてある。
それは、「健康で文化的な生活」は流動的で発展的な
もの、進歩するもの、だからだ。
結局、誤解されたまま、
それは理論化し可視化されることはなかった。


ともあれ、戦後の日本社会(国家)を自由主義資本主義だ、
と考える妄想が命脈を保ってきたのは、暫定自由制度が
修正資本主義と誤解されてきたからに他ならない。
修正資本主義社会とは、すべての人が、社会(国家)の中で、
他者と共に、健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム
社会(国家)の誤解なのだ。
る。