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分業制度重視していたスミスの真意は自由放任ではあり得ない
                                (写真は月下美人)





分業制度重視していた
 スミスの真意

  自由放任ではあり得ない





自由は解放しか意味を持っていない。
絶対自由資本主義は、
解放ないし破壊するだけの、
社会(国家)を歪曲・悪化させるだけの、妄想でしかない。
勿論、人間社会(国家)は、単なる人の集まりでもなければ、
マーケット(市場)でもない。
たとえ未熟・幼稚ではあっても、すべての人が生きていくための
有機的組織体なのだ。
すべての人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という法(自然法・超法規社会(国家)規範)感覚が
(本物の)神の見えざる手だ。
すべての人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会(国家)を
創るのは、創ったのは、
この(本物の)神の見えざる手だ。


いずれにしろ、
絶対自由資本主義を原理原則とした人間社会(国家)は、
あり得ない。
欠落才覚人たちが想い描く絶対自由資本主義社会は、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の、
人工市場似非社会でしかない。
アダム・スミスの見えざる手は、
この人工市場似非社会・国家での市場メカニズムのことであり、
人間社会(国家)での神の見えざる手とは全くの別物だ。
人間社会(国家)では、
どんな制度も権利義務も
その生みの親は(本物の)神の見えざる手だ。
言い換えれば、どんな問題も、
当該の場合に、
すべての人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくには、
どうしたらいいのか、という観点から考えればいい、ということだ。
例えば、分業制度も、すべての人が、社会(国家)の中で、
他者と共に、健康で文化的な生活を営むべく
自由に生きていくのに、最も合理的な制度であって、
絶対自由資本主義と何のかかわりもない、と。


したがって、所有権暫定自由の原則、契約暫定自由の原則は、
人権(そのもの)擁護社会(国家)の分業制度を
基礎付ける原則であって、
絶対自由資本主義とは何のかかわりもないことだ、
ということになる。
とすると、人権(そのもの)擁護社会(国家)は
暫定自由制度と分業制度によって成り立っている、
と考えられてくる。


この事実は、私たちに、重要な事実を教えている。
つまり、分業制度を重視していた
アダム・スミスの真意は
自由放任、つまり絶対自由資本主義ではあり得ない、
ということを教えている。





1 (結論 アダム・スミスの見えざる手は詭弁使ったすり替え手品)
2 (真逆の二義持つ自由主義)
3 (正常な人間の直感から出てきた修正自由(資本)主義)
4 (戦前が似非自由(資本)主義社会・国家だったからこそ)
5 (暫定自由を絶対自由(資本)にすり替える手品)
6 (単に糊口をしのぐことではない、生きていくということ)
7 (則自然法人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度組織人間社会)
8 (諸悪の根源アダム・スミスを祖とする経済学)
9 (欠落才覚人たちが限りなく豊かになる則人為法社会)
10 (すべての人が生きていく則自然法社会)


1 (結論 アダム・スミスの見えざる手は詭弁使ったすり替え手品)

「飛んでいる矢は止まっている」というのは、
勿論、詭弁だ。
アダム・スミスの見えざる手は、
飛んでいる、生きている矢(暫定自由)を
止まっている、死んでいる矢(絶対似非自由(資本))に、
詭弁を使ってすり替える手品だ。
諸悪の根源はアダム・スミスを祖とする経済学にある。
経済学が、人工市場似非社会の「科学」たり得ているのは、
それが人間社会(国家)学ではないからだ。


2 (真逆の二義持つ自由主義)

憲法25条1項にこうある。
「すべて国民は、
健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」、と。
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく超法規的権利義務、
すなわち人権(そのもの)は、基本的人権の前提に存在している。
基本的人権は人権(そのもの)ではない。
人権(そのもの)に国境はない。
私たちは自由(資本)主義という言葉で騙され続けてきた。
私たちは一体何を見抜けないで騙されてきたのだろうか。


3 (正常な人間の直感から出てきた修正自由(資本)主義)

我妻榮はこう言っていた。
「それなら、近世法は、この自主独立の人格者をして、
いかなる手段によってその生存を維持させようとしているのであろうか。
一言にいえば、私有財産権の絶対を認め、契約自由の原則によって
これを活用させようとしているのである。
権利能力は、その文化的意義においては、
人類文化の発展に自主独立の一主体として参与しうる能力を意味する
ことは疑いないが、
その経済的意義においては、
所有権能力を意味し、自由契約能力を意味することもまた、
何等の疑いないところである。
しかるに、近時における貧富の懸絶は、社会の多くの個人から現実に
生活資料を所有する能力を奪い、その契約をして事実上不自由なもの
となし、人々の間の事実上の支配関係を顕著ならしめるにいたった。
ここにおいて、現代法は、
個人を抽象的な「人格」とみることから一歩を進め、これを具体的な「人間」
とみて、これに「人間らしい生存能力」を保障しようと努めるようになった
(ワイマール憲法151条)。
わが新憲法第25条もこの思想を表明するものである。
しかし、この理想をいかにして実現すべきかについては、
現代法は今や悩みの最中にあるともいうべく、その傾向さえ、
これを明瞭に把握することは困難である。
ただ僅かに憶測しうることは、
個人の自由競争に基づく経済的無政府状態に対して
何等かの意味における合理的な規律を加えてゆくことが
その途なのではなかろうかということである。」
(我妻榮「新訂民法總則」(民法講義T)岩波書店46頁以下)、と。
いわゆる修正自由(資本)主義だ。
要するに、修正自由(資本)主義は、
正常な人間の直感から出てきたものだ、ということだ。


4 (戦前が似非自由(資本)主義社会・国家だったからこそ)

取りあえず自由とする。
そして、その結果として出現してきた不都合な結果を
修正是正する、
という発想・手法が修正自由(資本)主義だ。
民法1条3項は、「権利の濫用は、これを許さない。」、と規定している。
戦後の民法自身がそういう発想・手法に則った規定になっている、
ということだ。
逆に言えば、戦前の民法は似非自由(資本)主義法だった、
ということだ。
戦争は似非自由(資本)主義の成れの果てだ。
植民地主義、帝国主義といい、
それは所詮似非自由(資本)主義以外の何物でもない。
その反省の上に成り立っているはずの戦後の日本が
似非自由(資本)主義社会(国家)のはずなどない。
学者も政治家も、勿論メディアも、
超法規社会(国家)規範=法(自然法)から解放された
絶対似非自由など、人間が生きていくための社会(国家)では、
あり得ないことを分からないでいる。
要するに、戦前が似非自由(資本)主義社会・国家だったからこそ
の修正自由(資本)主義、ということだ。


5 (暫定自由を絶対自由(資本)にすり替える手品)

私たちは一体何を見抜けないで騙され続けてきたのだろうか。
ヒントは、修正自由(資本)主義に存在している。
権利濫用法理の前提にあるのは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範、すなわち法(自然法)なのだから。
修正自由(資本)主義を似非自由(資本)主義だ、と考えるのは、
飛んでいる矢(暫定自由)も止まっている(絶対似非自由(資本))、
と言いくるめる詐術に完全に引っ掛かっている証拠だ。
アダム・スミスの見えざる手、というのは、正に、
飛んでいる、生きている矢(暫定自由)を
止まっている、死んでいる矢(絶対似非自由(資本))に、
詭弁を使ってすり替える、手品に他ならない。


6 (単に糊口をしのぐことではない、生きていくということ)

では、何故、取りあえずの自由・暫定自由なのか。
それは、似非自由を規制している理由、原理を考えれば
分かるはずだ。
取りあえずの自由は、
不都合が予めはっきりしていることは禁止、規制されての、
取りあえずの自由だからだ。
それは、医師が免許制になっているのを見れば分かる。
「医師になろうとする者は、医師国家試験に合格し、
厚生労働大臣の免許を受けなければならない。」(医師法2条)
誰もが医師になれる、とするのは、人命にかかるリスクだ。
人権(そのもの)を守ることを目的に規制はある。
似非自由を規制・否定させているのは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範、すなわち法(自然法)だ。
人間にとって一番大切なことは、生きていくこと、生存だ。
だが、人間が生きていく、ということは、
単に糊口をしのぐ、ということではなく、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、ということだ。
取りあえずの自由・暫定自由なのは、
契約暫定自由原則なのは、
そう、健康で文化的な生活の形は、
流動的で発展的なものであり、予めきちっと決められた形で
存在しているものではないからだ。
要するに、生きていくということは、
単に糊口をしのぐということではない、ということだ。


7 (則自然法人権(そのもの)擁護
   暫定自由動的平衡制度組織人間社会
)

結局、まず、
人権(そのもの)を侵害阻害することが予め判然としている事は
事前にきちんと規制する。
それ以外は取りあえず暫定的に自由とする。
所有権暫定自由の原則、契約暫定自由の原則、暫定自己責任の原則だ。
その結果もたらされる社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
「狭義の社会保障制度などの生活基盤(インフラ)保障制度と
累進課税制度とが連結一体の
帰属所得再評価・不当利得返還・社会(国家)補修復元制度」を以て
是正ないし補修復元する。
勿論、その執行の任に直接当たるのは、社会(国家)制度組織の
執行部(国会・内閣(政府))だ。
超法規社会(国家)規範=法(自然法)に則った、
暫定自由制度を以て人権(そのもの)を守る、
則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度組織
人間社会(国家)が、
修正自由(資本)主義社会(国家)だ。
要するに、修正自由(資本)主義は似非自由(資本)主義ではない。
言い換えれば、則法(自然法)人権擁護暫定自由制度社会(国家)を
修正自由(資本)主義としてしか認識し得ないところに学問的未熟が
ある、ということだ。


8 (諸悪の根源アダム・スミスを祖とする経済学)

私たちは、ずっと、
飛んでいる、生きている矢(暫定自由)を
止まっている、死んでいる矢(絶対似非自由(資本))に
詭弁を使ってすり替える、アダム・スミスの見えざる手という、
経済学者たちが繰りひろげてきた手品を
見抜くことができないできた、ということだ。
戦後の日本は、絶対似非自由(資本)主義でやってきたのではない。
諸悪の根源はアダム・スミスを祖とする経済学にある、
と断言できる。


9 (欠落才覚人たちが限りなく豊かになる則人為法社会)

本物見えざる手が欠落している非正常人故に、
超法規社会(国家)規範=自然法を感得し得ない故に、
人為法すなわち契約・法律(憲法)を観念し、
それを絶対(正義)化したのが、絶対似非自由(資本)主義だ。
絶対似非自由(資本)主義社会は、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした、
人工市場似非社会だ。
反法(自然法)故に暴力で解決するための軍隊を備え持った
絶対万能な権力国家が支える仕組みになっている。
また、反法(自然法)故に完全犯罪化のために
民意至上民主主義が必備になっている。
「自由民主主義が普遍的価値だ」というのが
そこでの騙しのスローガンだ。
そこでの自由は人為法上の自由でしかない。
人間を生かすも殺すも人為法次第だ、などというのは、
正気の沙汰ではない。
絶対似非自由(資本)主義を最もロジカルに展開してきたのは、
竹中平蔵慶応大学教授だ。


10 (すべての人が生きていく則自然法社会)

本物見えざる手を備え持った正常人故に、
超法規社会(国家)規範=自然法を感得し得た故に、
自然法上の人権(そのもの)が分かり、
それを守る方策として契約・法律(広義の)制度を創ったのが、
則法(自然法)人権擁護暫定自由制度組織社会だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
社会(国家)だ。
すべての人が生きていく社会(国家)だ。
経済的に豊かになりさえすればすべてが解決する、
というものではない。
修正自由(資本)主義社会として誤称されてきた
戦後の日本がそうだ。
だが、則法(自然法)人権擁護暫定自由制度組織社会を、
修正自由(資本)主義社会としてしか、
認識しえないできたのは、いかにもまずかった。
中曽根政権後の自民党政権によって、
とりわけ小泉純一郎竹中平蔵内閣によって大きく、
歪められてきているのは、そのためだからだ。