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(第U編 絶対自由資本主義を原理原則とした社会あり得ない)






資本主義詐術からの覚醒がもたらした則自然法暫定自由制度社会
                       (写真は千葉県いいおかみなと公園から臨む太平洋)



第三部

 資本主義詐術からの覚醒が
 もたらした

  則自然法暫定自由制度社会





      
目  次


第1章

資本主義幻覚からの覚醒がもたらした
 則自然法暫定自由制度社会
1 (資本主義幻覚からの覚醒が
  もたらした
   則自然法暫定自由制度社会
)
2 (人間社会での神は
   全ての人が生きていくべしとする自然法

3 (則人為法絶対自由資本主義妄想国家では
   法と法律が同一物
)


第2章

絶対自由制度資本主義化犯罪により
 歪められた現代則自然法社会
1 (絶対自由制度資本主義化犯罪により
   歪められた現代則自然法社会
)
2 (批判は
   絶対自由制度資本主義化に対するものでしか
   あり得ない
)
3 (資本主義=絶対自由か社会主義=絶対不自由か
   を問う犯罪手口
)


第3章

自由意思人に擬制しての
 絶対自由制度資本主義化犯罪
1 (絶対自由資本主義化は
  法(自然法)に抵触する完全犯罪

2 (絶対自由主義化犯罪の核心は
   資本主義と絶対権力国家のでっち上げ

3 (絶対自由資本主義を原理原則とした社会(国家)
  あり得ない

4 (修正資本主義の真意は
   人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会



第4章

絶対自由制度資本主義妄想似非社会の
 支配者は欠落才覚人
1 (「身分からの解放」が是なのは
   法(自然法)に適っているから

2 (絶対自由資本主義化による
   社会(国家)歪曲の顛末

3 (規制制度と社会(国家)補修復元制度の撤廃による
   絶対自由資本主義化)
4 (資本主義をでっち上げたのは
   法(自然法)否定する絶対自由主義








第1章


1 (資本主義幻覚からの覚醒が
  もたらした
   則自然法暫定自由制度社会
)


「年金、医療保険、介護保険、児童手当、雇用保険、労災保険など、
私たちの生活の中でしばしば聞かれ、また、現代の重要課題と位置
付けられているこれらの制度は「社会保障」と呼ばれている。」
この社会保障制度は帰属所得再評価不当利得返還制度である
累進課税制度と連結一体の社会(国家)補修復元制度である。
言うまでもなく、現代則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)は、絶対自由制度資本主義幻覚からの覚醒が
もたらしたものである。
したがって、社会保障制度は絶対自由制度資本主義幻覚からの
覚醒がもたらしたものに他ならない。
現代則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム社会(国家)
は絶対自由制度資本主義幻覚からの覚醒がもたらした、という事実
を社会保障制度誕生の経緯が教えているのである。


「社会保障制度の誕生」を厚生労働省編の平成24年版厚生白書は
こう記している。
曰く。

「第1節 社会保障の誕生

(現在に通じる社会保障制度は、近代社会・産業資本主義社会の形成
を前提として必要とされるようになった)
 現在に通じる本格的な社会保障制度は、18世紀以降の近代社会・
産業資本主義社会の形成と発展を前提として必要とされるようになった
社会的な仕組みであるといえる。
 近代以前の封建制や絶対君主制の社会においては、多くの人々は
農業などを営み、労働も生産も自給自足の性格が強かった。また、人々は、
生まれ育った土地を一生の生活基盤とし、家族、親族などの血縁や近隣
の人々との地縁をベースに支え合いながら生きてきた。こうした人々の
生活は、個人の自由を重視する観点から、血縁、地縁や同業者のつながり
(職縁)を単位とする中間団体による統治の機能を弱め、個人を国民として
国家と直接結びつける「国民国家」(国民の一体性に基づくとされる主権国
家)の成立や、後述する産業革命を契機に大きく変わっていくこととなる。
 近代社会は、国民国家の成立、科学技術の発達等と合わせ、産業資本主
義の社会であることがその特徴となっている。
 産業資本主義の社会の主な特徴としては、
◎ 機械や原材料などの生産手段の私有が認められている(私有財産制)
◎ 利潤の追求を目的とした自由競争が行われている(市場主義)
◎ 多くの財は、市場で売るための商品として生産され、労働力も商品と
  なっている(労働力の商品化)
という3つが挙げられる。
 18世紀後半の英国における産業革命を契機に始まった産業資本主義の
社会では、工業化が進展し、多くの人々が農業などの自給自足的に働いて
生計を維持する社会から、商品を生産する工場などに労働者として雇われ、
働いて得た所得で生計を維持する社会に変化した。
 このような社会では、労働者は、自己の労働力を自由に売買できる対象と
するために、家族、親族(血縁)や生まれ育った土地などの共同体(地縁)の
関係から一定程度独立している(縛られていない)ことが求められる。こうして、
近代社会の人間像は、おおむね16世紀以降から始まった人権思想の発展、
浸透に加え、産業資本主義の形成と発展のプロセスの中で、「自立した個人」
となっていった。一方、様々な事情により自立できない人々に対しては、救貧
施策が講じられた。

(工業化に伴う人々の労働者化により、血縁や地縁の機能は希薄化した)
産業資本主義の社会では、企業が潰れたり、解雇されれば失業してしまい、
また、けがや病気などで働けなくなった場合、労働者は所得を得られなく
なる。その一方で、労働者が血縁や地縁の関係から一定程度独立した結果、
それらの血縁や地縁で結ばれた人間関係を基礎とする支え合いの機能は、
近代以前の社会と比べて希薄化しているため、個人にとって、生活が立ち
ゆかなくなってしまうリスクは大きなものとなる面があった。
 また、産業資本主義の社会では、労働力の商品化の結果、モノやサービス
の生産が「使用者―労働者」の関係を軸に展開するようになる。近代以前の
社会と異なり、労働者は自己の労働力以外に機械や原材料などの生産手段
を持たない。生産手段は使用者(資本)によって所有され、労働者はそれを
借用しながら自己の労働力を提供する。この関係の下では、自ずと労使の
力の差が生じる。使用者に比べて力の弱い労働者は、低賃金、長時間労働
という劣悪な労働条件を強いられ、解雇のリスクにさらされるようになる。過酷
で貧困な生活を送る労働者は増え、労働問題が大きな社会問題になって
いった。
 労働者たちは、同業者の間で相互扶助的組織を設けるなどして生活上の
リスクに対応してきたが、これらの組織に加入できたのは、経済的に多少余裕
のある熟練労働者などに限られ、多数の非熟練労働者などは、それらの組織
に加入することができなかった。

(近代的な社会保障制度の創設はドイツに始まり、欧州各国に広がっていった)
 近代的な社会保障制度が世界で最初に創設されたのは、大陸ヨーロッパの
ドイツであった。ドイツでは、19世紀終盤に、帝国宰相の地位にあった
ビスマルク(Otto von Bismarck、1815−98)により、法律上の制度として
世界で始めての社会保険制度(疾病保険法(1883年)、労災保険法(1884年)、
老齢・障害保険法(1889年))が制定された。
社会保険制度は、事業主の負担と併せて被保険者(労働者等)自ら保険料を
負担(拠出)することにより給付の権利を獲得するという関係があるため市場
整合的であるとして、多くの工業国で社会保障の手法として第一義的に選好
される傾向が強いものとなっていった。そして社会保険による給付は、市場経済
的な権利関係の裏付けを欠くために、社会の負担、あるいは自助能力を欠く
者との差別や偏見から逃れられず、受給にスティグマ(汚名)が伴っていた恩恵
的・救済的福祉の給付とは異なっていた。また、あらかじめ生活リスクに備える
点で、それまでヨーロッパ各国で主流であった事後的な「救貧」施策から事前の
「防貧」施策への第一歩を踏み出した点でも大きく評価された。例えば、後述する
英国の国民保険法は、当時の首相であったロイド・ジョージ(David Lloyd 
George、1863−1945)が自らドイツに赴いて調査した結果として制定された
ものであるなど、他の国家に与えた影響も大きかった。20世紀に入ると、
ヴァイマル(ワイマール)憲法で「人間たるに値する生活」(社会権)の保障が明記
された。また、19世紀末から20世紀初めのフランスでは労災補償制度や退職
年金制度が導入されている。20世紀初めの英国では、貧困が広がり、労働運動
も高まる中、貧困は個人の責任というより社会的・経済的な要因によって引き起
こされるとの認識が影響力を持つようになり、リベラル・リフォームと呼ばれる
社会改革(老齢年金法・職業紹介法・国民保険法などの制定)が行われた。

(社会保障は、個人の生活上のリスクに社会的に対応する仕組みとして求められる
ようになり、産業資本主義の社会と国民国家の発展を支えていった)
 このように、産業資本主義が発展する中で、血縁、地縁がそれまで果たしてきた
人々の生活を保障する機能は限定的なものとなっていった。それらの機能を代替
するため、傷病、老齢、失業などのリスクに公助又は共助という形で社会的に対応
する仕組みが必要となり、現在に通じるような社会保障制度が求められるように
なったといえる。
 そして、社会保障が血縁や地縁の機能を代替することにより、人々は経済活動に
注力することができるようになったという意味で、社会保障は産業資本主義の社会、
国民国家の発展を支えていったともいえる。

(世界恐慌から第二次世界大戦までの間に、戦後社会保障制度の構想が練られて
いった)
 1929年には、アメリカのニューヨーク証券取引所での株価の大暴落をきっかけ
に世界恐慌が発生した。
その影響は大変大きなもので、1930年代には各国で多くの企業が倒産し、街は
大量の失業者で溢れ、社会不安はますます増大した。
 このような危機的状況に対応するため、アメリカではフランクリン・ルーズベルト
大統領の下でニューディール政策が始められ、この一環として、1935年に「社会
保障法」が制定された。英国では1934年に、保険料納付の有無を問わずに失業
給付を行う「失業法」が制定された。
 この時期、英国の経済学者であるジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard 
Keynes、1883−1946)は、世界恐慌が生み出した1930年代の大量失業の原因
は、社会全体の有効需要の不足にあるとし、民間投資が不足する場合には政府支出
を「呼び水」として増やし、それが国民所得の増加をもたらせば(乗数効果)、次いで
民間投資や消費が活発になっていくという有効需要論を中心とするマクロ経済学を
構築した。
 同じく英国の経済学者であるウィリアム・ヘンリー・ベヴァリッジ(William Henry 
Beveridge、1879−1963)は、市場経済を取り巻く社会環境、とりわけ貧困問題に
注目した。生活困窮者を極貧からどのように救うべきか考えた結果、ベヴァリッジが
出した答えは全国民に社会保障のネツトワークを張りめぐらすというプランであった。
 ケインズの理論によって完全雇用に近づけば、失業給付を激減させ、なお残る
失業者に手厚い給付ができ、また、社会保障によって全国民に最低限度の生活を
保障すれば、有効需要が増え、さらに失業者が減る。このように、ベヴァリッジと
ケインズの考えは互いに補強しあう関係にあった。これは「ケインズ・ベヴァリッジ
主義(体制)」、「福祉国家の合意」などと呼ばれる。
 その後、ベヴァリッジは、第二次世界大戦中の1942年に、いわゆるベヴァリッジ
報告(「社会保険および関連サービス」)を英国政府に提出し、「ゆりかごから墓場
まで(From the Cradle to the Grave)」のスローガンの下、新しい生活
保障の体系を打ち立てた。このベヴァリッジ報告の影響を大きく受け、第二次世界
大戦後には世界の多くの資本主義諸国で、経済の安定成長と完全雇用、国民福
祉の充実を目指す「福祉国家」の潮流が広がっていった。」
(厚生労働省編平成24年版厚生白書5頁以下)、と。


資本主義は所有権・契約絶対自由を原則とする。
当然、超法規社会(国家)規範=法(自然法)の概念も人権(そのもの)
の概念もない。
したがって、人権(そのもの)を守るための(自由の)規制という概念が
ない。
当然、社会保障制度という概念もない。
従来学者たちは、あり得ない「絶対自由の修正」をあり得るものとし、
修正資本主義と称し、それを資本主義と誤解してきた。
だか、絶対自由幻覚からの覚醒によってもたらされた暫定自由制度は、
人権(そのもの)擁護システムなのである。
暫定自由制度は、人権(そのもの)を守るための事前方策は
必要最低限にとどめ、取りあえずは自由(暫定自由)とする
ことによって、人々の健康で文化的な生活の進歩向上を促し、
その後の人権(そのもの)侵害阻害損傷による社会(国家)の
歪みは、裁判制度や公共事業制度や帰属所得再評価不当利得
返還制度としての累進課税制度と連結した社会保障制度などの
社会補修復元制度を以て事後的に補修復元することとした
人権(そのもの)擁護システムなのである。
ここでの産業形態は、当然、自然発生的な社会(国家)的分業だ。
人権(そのもの)を守るための事前の方策を規制と、社会(国家)
補修復元制度たる社会保障制度を所得再分配制度と、矮小化
している経済学は、絶対自由制度資本主義妄想似非社会化犯罪
を教唆する詐術なのである。
要するに、現代則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)は、絶対自由制度資本主義幻覚からの覚醒が
もたらしたものである。
したがって、社会保障制度は絶対自由制度資本主義幻覚からの
覚醒がもたらしたものに他ならない。
従来「福祉国家」「社会国家」と呼ばれてきたものは、則自然法
暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム社会(国家)のことなの
である。
現代則自然法暫定自由制度社会(国家)の資本主義化犯罪の危機は
その理論化可視化が懈怠されていることから起こるのに違いない。
現代則自然法暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム社会(国家)
は絶対自由制度資本主義幻覚からの覚醒がもたらした、という事実
を社会保障制度誕生の経緯が教えているのである。






2 (
人間社会での神は
    全ての人が生きていくべしとする自然法


人間が自由にしえないもの、してはならないもの、が
人間社会(国家)での神だ。
とすれば、全ての人が他者と共に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=法(自然法)ないしその感覚が、
人間社会(国家)での神だ、ということになる。
人間社会(国家)での神は、
すべての人が、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、とする
超法規社会(国家)規範=法(自然法)ないしその感覚のことだ。
それは、人間が、生きていく、という絶対的な目的を持った
生き物である故に、
人間が否定しえない神ないし神のごとき物なのである。
この超法規社会(国家)規範=法(自然法)ないし感覚を
否定ないし拒絶する似非絶対自由神は妄想だ、ということになる。
とすると、「神は妄想である」、と言うリチャード・ドーキンスの真意は、
この似非絶対自由神が妄想であることを立証することによって、
すべての人が他者と共に生きていくべし、とする
人間社会(国家)での神の存在を示唆するにある、
と考えられてくる。
それは、完全なる自由意思人として神格化された人間を
生きていくという目的を持った生き物へと回帰させることに
他ならない。


この人間社会(国家)の神を否定しうる似非絶対自由神は、
少なくとも人間社会(国家)では、実在しない。
少なくとも人間社会(国家)では、
似非絶対自由「神はいない」。
あの世のこととして、あるいは似非自由主義似非社会の
こととして、
神(もしくは人間を超越した何らかの存在)を観念するのは
自由だ。
しかし、生きていく、という絶対的な目的を持った生き物
である人間が、
一人では生きていけない故に組織された、
全ての人が他者と共に生きていくことを目的とした
人間社会(国家)のこととして、
全ての人が他者と共に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=法(自然法)ないしその感覚
=人間社会(国家)での神を
否定し得る似非絶対自由神の存在を想定する自由は
人間にはない。
とすれば、「神は妄想である」、と喝破したドーキンスの
真意が見えてくる。
彼が「神はいない」と言っている真意は、
人間が完全なる自由意思人と神格化された、
似非社会での、
似非絶対自由神・宗教を否定することによって、
生きていく、という絶対的な目的を持った
生き物である人間が生き.る、人間社会(国家)での、
全ての人が他者と共に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=法(自然法)ないしその感覚
=人間社会(国家)での神を示唆することにある、
と考えられてくる。
それは、完全なる自由意思人として神格化された人間を
生きていくという目的を持った生き物へと回帰させる作業に
他ならない。


実際、訳者の垂水雄二は、
「訳者あとがき」で、
リチャード・ドーキンス
「神は妄想である――宗教との決別」
(垂水雄二訳早川書房)を
次のように紹介している。
「本書はありきたりの創造論批判をはるかに通り越して、
宗教そのものの全否定へと突き進む。
そこには尋常ならざる決意がある。
そう仕向けるのは、
「悪魔に仕える牧師」に収録されている
「立ち上がるべきとき」に端的に示されているような、
現在の世界情勢に対する危機感である。
9・11事件それ自体もそうだが、
それ以後の米国政府の愚かな政治的決断は、
宗教的対立という構図を世界的規模に拡大してしまった。
ここ数十年の戦争は、表向きの理由はともかく、
すべて宗教戦争である――パレスチナ紛争、イラク戦争、
旧ユーゴスラビアの解体、
ドーキンスのお膝元ではアイルランド紛争、
ちょっと古いところではインド=パキスタン戦争などなど。
人を救うはずの宗教が、憎しみを煽り立て、
情け容赦ない殺戮をけしかけている。
そうしたことはみな、何の根拠もないのに、
自らの信じる宗教だけが絶対的に正しいと思い込む
原理主義者、
とりわけ、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教という
同根の宗教に巣くう原理主義が元凶ではないか。
宗教間の対立は沈静化するどころか、
ますますその度を増している。
いまこそ、原理主義者たちの迷妄を打ち破ることに
全力をつくさなければならない。
これが、ドーキンスの最大の動機であるはずだ。」
(552頁)、と。


「何の根拠もないのに、
自らの信じる宗教だけが絶対的に正しいと思い込む
原理主義者、
とりわけ、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教という
同根の宗教に巣くう原理主義」は、
すべての人が、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=法(自然法)を
否定・拒絶する似非絶対自由神を信ずる宗教を前提にして
成り立っている。
それは、
人間を完全なる自由意思人だと思い違いしての顛末だ。
したがって、ドーキンスの真意は、
超法規社会(国家)規範=法(自然法)ないしその感覚
=人間社会(国家)での神を示唆するために、
人間が完全なる自由意思人と神格化された顛末での、
似非絶対自由神・宗教を否定するにある、
と考えられてくる。


とりわけ、従人為法(似非法律)似非自由資本主義似非社会は、
人間が生きていくための社会(国家)ではない。
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の、
人工市場似非社会だ。
アダム・スミスの見えざる手だ、国富だ、トリクルダウンだ、
GDPだ、経済成長だ、
機会の平等だ、選択の自由だ、と
経済学者(政商?)たちが懸命になって喧伝している。
絶対自由資本主義・絶対国家・似非絶対自由神、
それは、すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
というだけでは満足できない
欠落才覚人たちが、
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家化のために、
駆使する三位一体の妄想詐術だ。
ドーキンスが「神はいない」と言っている真意は、
人間が完全なる自由意思人と神格化された、
似非社会での、
似非絶対自由神・宗教を否定することによって、
生きていく、という絶対的な目的を持った
生き物である人間が生き.る、人間社会(国家)での、
全ての人が他者と共に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=法(自然法)ないしその感覚
=人間社会(国家)での神を示唆することにある、
と考えられる。
実際、全ての人が他者と共に生きていくべしとする
人間社会(国家)での神を否定している節は
どこにも見当たらない。


従人為法(似非法律)似非自由資本主義は
こんな風に言われてきた。
とても正気とは思えないが、
曰く。
「近代初頭、資本主義が始動を始めた頃、
ヨーロッパ世俗界においてキリスト教の本格的宗教活動が
定着したことこそ刮目(注目)するべきである。
「被造物は、すべて神の私的所有物であり、
創造者はこれに対して自由になにごともなしうる」という
パウロの思想はキリスト教の本質である。
この決定的な思想は、従来、世俗の大衆には接近困難な
聖書の中にだけ存在した。
それが、世俗に開放され大衆にも理解できるようになり、
普遍化して社会通念となったのである。
その結果の一つが、
「タテの絶対所有権」が「ヨコの絶対所有権」
(人間たる所有者の所有権もまた絶対である)
を生んだことである。
ここから資本主義が発生し発展してゆくことになる・・・。
もう一つの結果は、
主権概念の発生である。
主権者は、宇宙における神のごとく、
領域では何事をもなしうるようになった。
主権から近代デモクラシー国家が生まれた。」
(小室直樹「小室直樹の資本主義原論」
東洋経済新報社128頁)、と。


とても正気の人の考えることだとは思えない。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
というのが、法(自然法)=超法規社会(国家)規範だ。
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
超法規的権利義務が人権(そのもの)だ。
暫定自由制度人権(そのもの)擁護動的平衡システム
社会(国家)に、
絶対万能権力国家も、絶対神(宗教)も存在し得ない。
けだし、
法(自然法)=超法規社会(国家)規範は、人権(そのもの)は、
国家の名を以てしても、神の名を以てしても、
否定し得ないものだから、だ。
そもそも、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という法(自然法)=超法規社会(国家)規範が
仏教の法でありキリスト教や神道など宗教の教義
のはずなのではないのか。
そこには、絶対自由も絶対国家も似非絶対自由神も
ないはずだ。
仏教もキリスト教も神道も、
すべての人が、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=法(自然法)を
説くべきだ。


2016年1月23日の東京新聞朝刊は、
「忍び寄る「国家神道」の足音」との
見出しで、こう報じている。
「安倍首相は22日の施政方針演説で、
改憲への意欲をあらためて示した。
夏の参院選も当然、意識していたはずだ。
そうした首相の改憲モードに呼応するように今年、
初詣ににぎわう神社の多くに
改憲の署名用紙が置かれていた。
包括する神社本庁は、いわば「安倍応援団」の中核だ。
戦前、神社が担った国家神道は敗戦により解体された。
しかし、ここに来て復活を期す空気が強まっている。」
「神道政治連盟の主張は東京裁判の否定、
教育勅語の賛美など復古色が濃い。
神社は神道の宗教施設だが、
戦前は「国家神道」の装置として機能した。
国家神道とは何か。
大阪大の子安宣邦名誉教授(日本思想史)は
「1889年(明治22年)に公布された
大日本帝国憲法で、
神道は祭祀体系として他の宗教とは区別され、
憲法を超越した存在とされた。
これが法制度としての国家神道の出発点だ」
と語る。
1900年には内務省に神社局が設置され、
神社の社格の体系化やまつり方の統一などが
実施された。
「それまでの神道は、
私生活の安寧などを願う素朴な信仰だったが、
国家神道は天皇への忠誠を核に日本を
神聖な国と規定し、
国教化により戦前の全体主義を支える
基盤となった」・・・
敗戦後、連合国総司令部(GHQ)は
国家神道が日本の全体主義の根源とみなし、
1945年12月の神道指令で国家神道を
廃止した。
さらに日本国憲法は戦前の反省から、
20条で政教分離を定めた。
戦後大半の神社は宗教法人・神社本庁の
包括下に置かれた。
靖国神社は独立した別の宗教法人として、
今日まで存続してきた。
形の上では政教分離が図られているように
見えるが、子安氏は
「GHQも、その元凶までは排除できなかった」
と語る。
「日本人は自ら戦争責任を追及しきれず、
国家神道を支えた
軍人や官僚、学者、神社関係者などは
戦争責任を免れた。
その後、彼らは再び国家とかかわりたいという
願望を持ち続けてきた」」
(2016・1・23東京新聞朝刊)、と。


似非絶対自由資本主義妄想と絶対万能権力国家妄想と
似非絶対自由神(宗教)妄想とは、
三位一体の
似非絶対自由資本主義
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家化のための
妄想・詐術に他ならない。
「全体主義の根源」は、
人工市場似非社会・国家化の根源は、
日本であれ、アメリカであれ、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=法(自然法)の存在を
否定ないし拒絶する似非絶対自由資本主義妄想・詐術だ。
それを支える似非絶対自由神ないし宗教妄想・詐術だ。
それを支える絶対万能権力国家妄想・詐術だ。
戦争は似非絶対自由資本主義妄想・詐術
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家化の
成れの果てだ。
したがって、
「戦争責任を追求しきれなかった」ということは、
「似非絶対自由資本主義妄想・詐術を
追放仕切れなかった」
ということを意味するのに他ならない。
似非絶対自由資本主義政治と宗教との癒着は、
政治の堕落であると同時に
宗教の堕落以外の何ものでもない。


政治の目的は
人が他者と共に健康で文化的な生活を営むべく自由
に生きていく超法規的権利義務である
人権(そのもの)の擁護だ。
それは、経済だけで括れるものではない。



3 (
則人為法絶対自由資本主義妄想国家では
   法と法律が同一物
)

似非絶対自由・資本主義似非社会は、
生きていくという絶対的な目的を持った生き物である人間を
完全なる自由意思人として神格化した似非社会だ。
人が人を支配する、嘘にまみれた似非社会だ。
そこでは、法律・契約が法だ。
法と法律・契約が同一物だ。
それは、従人為法(似非法律)絶対自由資本主義
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家化を
可能にするために不可欠な、そして、
口八丁手八丁で弁舌に長け詐欺的才覚に恵まれた
彼らにとって好都合な、
詐術だ。
だが、超法規社会(国家)規範=法(自然法)、
人権(そのもの)が実在していない、というのは、
事実に反している。


「法と法律はまったくの別物である。」
しかし、従人為法(似非法律)似非絶対自由資本主義
国家主義の最大の特徴は、
法と法律が同一物であり、区別がない、ということだ。



国際金融ジャーナリストの渡辺茂樹氏は、
法と法律の区別がつかない恐ろしさを
こう教えている。
曰く。
「法と法律の区別がつかないことが象徴的に表れていたのが、
2006年9月26日の安倍晋三首相の就任記者会見であった。
彼が法と法律の区別がついていないことを暴露してしまった。
外交に関する部分をみてみよう。
《外交について申し上げます。
(中略)アジアにおいて、同じ価値観を持つ国々、
自由、民主主義、基本的な人権、そして法律の支配、
こうした価値観を共有する国々、
インドやオーストラリアもそうでありますが、
そういう国々との関係を更に強化してまいりたいと思います》
ここに述べられている「法律の支配」を正しいものとすると、
法律さえ守っていれば、
何をしてもよいことになってしまう。
実は歴史的にこれをそのまま実践した男がいる。
あのヒトラーである。
1933年1月30日、世界で最も民主的といわれた憲法を
掲げるワイマール共和国の国会で、
ドイツ最大の政党であるナチス党の党首ヒトラーが首相に就任した。
国会で絶対多数を制するために連立政権を組むことは、
いたって簡単なことであった。
が、ヒトラーは意表をついた道を選んだ。
国会を即時解散し、3月5日の総選挙を公示したのである。
選挙妨害、テロ、そして国会炎上など暴力と恐怖に包まれた
中での選挙であったが、
ナチス党は単独過半数には届かなかったものの大躍進を果たす。
そして33年3月23日に開かれた国会で、
ヒトラー自身とその内閣のために独裁的全権を要求する
「全権委任法」が可決成立する。
壇上、ヒトラーは社会民主党員らのいる野党席に向かってこう叫ぶ。
「諸君たちはもうご用済みなんだ・・・
ドイツの星は今まさに昇りつつあるが、
諸君の星はすでに没した。
諸君の時代はもう終わったんだ」
このように、独裁者ヒトラーは法律の民主的な手続を経て生まれた。」
(渡辺茂樹「ビッグ・クランチ大収縮の時代」
KKベストブック38頁以下)、と。


人間は完全なる自由意思人などではない。
人間は、生きていく、
という絶対的な目的を持った生き物である。
だが、人間にとって、外界は一人で生きていくには、
余りにも厳しい。
となれば、すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくしかない。
したがって、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という規範には超法規社会(国家)規範性がある。
つまり、それは超法規社会(国家)規範=法である。
しかも、それは、自然発生的に人間社会に存在するものだ。
自然法(Natural Law)だ。
同様に、
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく権利義務
は超法規的権利義務であり、自然権だ。


法律は、形式としては、社会契約であり、
実質としては、法(自然法)に則った方策、
人権(そのもの)を守るための方策だ。
勿論、契約も、労働協約も、約款も就業規則も法律だ。
法律(契約)制度そのものが、
人権(そのもの)守るために存在している。
法律(契約)の強制力は、
法律(契約)そのものにあるのではない。
人権(そのもの)守る合理性のある方策に従わなかったら
人は生きていけないのである。
人間は、生きていく、という絶対的な目的を持っている。
生きていくという目的に適った合理性に
強制力の源がある。


従人為法(似非法律)似非絶対自由資本主義
国家主義人工市場似非社会は、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の、
人工市場似非社会・国家であって、
すべての人が生きていくことを目的とした
人間社会(国家)ではない。
従人為法(似非法律)似非絶対自由資本主義
国家主義人工市場似非社会化は、
紛れもなく犯罪だ。
それは、憲法を変えても同じことだ。


従人為法(似非法律)人工市場似非社会化企む、
欠落才覚人似非自由主義資本主義者たち
反動・抵抗勢力。
彼らの悲願は、
從法(自然法)
人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度組織人間社会(国家)を
破壊し、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした、
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家の建造だ。
そのために駆使するのは、
超法規社会(国家)規範=法(自然法)を否定することによって、
所有権と自由と契約と法律と国家を絶対(正義)化した、
絶対自由民意至上民主主義必殺トリックだ。
彼らは、
社会(国家)が、
すべての人がそこで生きていくために組織された、
という事実を、認めることができなくなった、
新種の狂人でしかない。


従人為法(似非法律)似非絶対自由資本主義
国家主義人工市場似非社会主義を
心底から原理原則とした社会(国家)など
世界中どこにもあり得ない。


要するに、
それは、従人為法(似非法律)絶対自由資本主義
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家化を
可能にするために不可欠な、そして、
口八丁手八丁で弁舌に長け詐欺的才覚に恵まれた
彼らにとって好都合な、
詐術だ。
だが、超法規社会(国家)規範=法(自然法)、
人権(そのもの)が実在していない、というのは、
事実に反している。


数多とある人権(そのもの)を守るための規制、
所得税相続税の超過累進課税制度、
社会(国家)補修復元制度たる社会保障制度は、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
ために存在している。
それは、すべての人が、
社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし
という超法規社会(国家)規範=法(自然法)に則った
社会(国家)だ。
人権(そのもの)を守るための規制もなければ、
税はフラットな均一課税制度で、
社会保障制度も存在しない人工市場似非社会・国家化
したら、社会(国家)は崩壊する。
従人為法(似非法律)絶対自由資本主義
欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家は、
人間社会(国家)ではない。
似非社会・国家でしかない。







第2章 

絶対自由制度資本主義化犯罪により
歪められた現代則自然法社会



1 (
絶対自由制度資本主義化犯罪により
   歪められた現代則自然法社会
)

佐伯啓思教授は、
「「拡張願望」や「自由への欲求」という近代を突き動かしてきた価値観を
見直すほかない」、という。
曰く。
「もはや成長第一型の政策をとることが不可能だ、
という認識をもつべきなのです。
言い換えれば、経済成長に代わるいっそう重要な価値を設定することこそ
が必要とされているのです。
もちろん、福祉主義的な平等化政策への舵取りがなければ
格差が社会を破壊する、ということもあるでしょう。
ピケティがいうように、成長率が下がれば、
ますます格差が開くかもしれません。
新自由主義から介入主義(社会民主主義)へのゆり戻しも
必要かもしれません。
しかし、新自由主義をとろうが社会民主主義をとろうが、
いずれにせよ、それは経済的な物質的な富の増加と配分を
めぐる綱引きなのです。
より本質的な問題は、
この種の「経済的議論」から抜け出ることです。
そうでないと、どこまでいっても「効率性」と「平等性」の間を
振れるだけのことで、
このどちらにもそれなりに言い分はあるのです。
低成長社会において過激な自由競争を行うと、
格差が耐え難いレベルまで拡大することは十分予想できることです。
全体のパイが増えないのですから、
どうしても弱肉強食になるでしょう。
このような社会では自由な競争そのものを抑制するほかないのです。
競争ではなく、共生を目指すべきなのです。
だから、問題は、市場競争がよいのか、
介入主義による所得分配が必要なのか、
といった点にあるのではない。
成長に基づいて、物的な富の蓄積をよしとする今日の価値観の
転換が必要だということなのです。
今日の自由競争の資本主義社会は基本的にふたつの価値観
によって支えられています。
ひとつは物的な富や利便性の追求は無条件で望ましいという
「拡張と利便性への願望」。
端的に「拡張願望」といっておきましょう。
もうひとつは、人間の活動の可能性を無限に広げる、
つまり自由の拡大を無条件でよしとする「自由への欲求」です。
こうした願望なり欲求にとらわれている限り、
いずれ「効率性」と「平等性」のスパイラルから
抜け出ることはできません。
このふたつの欲望が資本主義を牽引してきたのです。
そして、資本主義とは
あくなき利潤を求めて経済を拡張するものであり、
成長を追求するものなのです。
しかし、今日、経済成長は難しくなってきている。
ということは、確かに、「資本主義は終わった」
ということにもなるのです。
「資本主義の終焉」にもかかわらず、われわれが、
いつまでも「拡張願望」や「自由への欲求」にとらわれている限り、
フラストレーションや苛立ちから抜け出ることはできません。
この問題を解決の方向へ向けるものがあるとすれば、
それは「拡張願望」や「自由への欲求」という
近代を突き動かしてきた価値観を見直すほかないでしょう。
それは、決して新自由主義的競争でもなければ、
また、福祉的な社会民主主義でもないのです。」
(佐伯啓思「さらば、資本主義」新潮新書152ページ以下)、と。


しかし、現実の社会は、絶対自由資本主義によって歪められた
暫定自由・税・社会補修復元制度が連結一体となった、
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)だ。
絶対自由資本主義を本当に原理原則とした社会(国家)など、
少なくとも、現代先進社会では、人間社会(国家)では、あり得ない。
アメリカだって、
絶対自由資本主義色が極めて強く絶対自由資本主義
社会・国家といいきっても大過ない、というに過ぎない。
それも、レーガン政権後のことだ。
日本だって、小泉・竹中政権後だ。
したがって、絶対自由「資本主義の終焉」なのではなく、
「絶対自由資本主義化の終焉」なのだから・・・。
したがって、
要するに、政治家たちが経済学者たちや大企業人たちと
結託してやってきた
絶対自由資本主義化を、やめさせる以外に途はない。
そのためには、アダム・スミスを祖とする経済学は、
絶対自由資本主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家での
経済学であって、
すべての人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
暫定自由・税・社会補修復元制度が連結し一体となった、
人権(そのもの)擁護動的平衡システム社会(国家)の
経済学ではない、という事実を明確にするべきなのだ。
法律学も、戦後の日本社会は、絶対自由資本主義を原理とした
社会(国家)なのではなく、憲法も民法も絶対自由資本主義を
原理としてはしていない、という事実を明確にするべきなのだ。
政権の中に入り絶対自由資本主義化、構造改革を進めるなど
犯罪以外の何ものでもない。





2 (
批判は
   絶対自由制度資本主義化に対するものでしか
   あり得ない
)

所有権絶対自由、契約絶対自由を原則とした絶対自由資本主義
社会・国家は似非社会・国家であり、人間の社会(国家)ではない。
現実の社会は
絶対自由資本主義によって多かれ少なかれ歪められた
人権(そのもの)擁護動的平衡システム社会(国家)だ。
したがって、それへの批判は
絶対自由資本主義化に対するものでしかあり得ない。
水野和夫教授が批判するのも、
絶対自由「資本主義化の終焉」に違いないはずだ。
とすれば、「その先の世界」は、
その結果として顕現してくる人権(そのもの)擁護動的平衡
システム社会(国家)のはずだ。


水野和夫教授は、それを
「「よりゆっくり、より近く、より寛容に」の理念に基づいた社会」
と考えている、ということだろう。
曰く。
「「資本国家」に代わる選択は、
ヘドリー・ブルが1977年に著した『国際社会論』を参照することで
ヒントが得られます。
21世紀の行動原理は近代のそれとは正反対の
「よりゆっくり、より近く、より寛容に」の理念に基づいた社会を
構築することです。」
「「よりゆっくり」は、まず学生が社会に出るのを遅くすることです。
システムが機能不全に陥ったとき、
一つの学問を修めただけでは、不十分です。
法律学、経済学、文学など少なくとも三つの学問を修得する
必要があります。
政府がいうように大学の多くを職業訓練校にという発想は
これまでのシステムが盤石なときには有効なのですが、
システムが変わるとき、
従来の技術はまったく役に立たなくなるからです。
学生が22歳で社会に出るのではなく、26歳か28歳で
就職すればいいのです。
そうすれば、学生結婚が奨励され、子育ても女性に負担が
かからなくなります。
子どもが病気になれば、授業を休めばいいだけです。
子育て支援と子ども手当を一体化することが望まれます。
学生が就職する時期を遅らせれば、定年も延長すべきです。
健康年齢は2020年には71.7歳になると予想されていますので、
定年を70歳に延長すればいいのです。
その結果、年金支給額は減って、
予算は若い世代に手厚くすることが可能となります。
「より近く」は地方の時代です。
地方分権がこれまで成功しなかったのは、
近代の中央集権的システムを維持したまま、
地方分権を進めてきたからです。
両者は相反する概念によったシステムなのです。
全国展開の株式会社は、
会社分割して各地方の中核に本社を置くことになります。
株式会社の金銭配当はゼロにして、
サービスの配当券に置き換えます。
地球の裏側の株主はわざわざ日本にきてサービスを受けるのは
交通費に見合わないので、自然と離れていきます。
そのとき、ゼロ利潤で雇用者報酬を引き上げることで、
地域住民が株主になるか、
あるいは地域金融機関に預金が集まれば地域金融機関が
株主になればいいのです。
「より近い距離」で会社の監視をすることになります。
会社が配当するサービス券を地域住民が受け取らなければ、
その会社は不要だということになります。
会社の発行するサービス券が事実上の地域通貨になるのです。
「より寛容に」については、高額所得者は税金の支払いに寛容になる
ということです。
そうすれば、ピケティのいう年次累進資産課税が実現できます。
21世紀は
「よりゆっくり、より近く、より寛容に」の理念に基づいた社会を
構築しなければならないのです。
残された課題はシステムの中心に何を置くかです。
中世は神でした。近代は人間でした。
ただ、数十億の人は自分が中心だというと、秩序が維持できないので、
人間を貨幣で評価して、所得や資産の多い人が能力のある人で、
その人を見習うというのが近代でした。
その典型が「明日はビル・ゲイツ」でした。
しかし、ビケティのいうように
スーパーCEOが「レジに手を突っ込んでいる」のですから、
中心に置くわけにはいきません。
何を一番の価値に置くかを21世紀は皆で考えていく必要があります。
21世紀が「テロの時代」に向かっているとすれば、
「文明の衝突」をいかに防ぐかが最大の課題です。
その場合、中心に据えるのは「芸術」だと思います。
なぜなら、思想家の鈴木忠志がいうように、
異なる民族の間で共通のコミュニケーションを果たしてきた
唯一のものが「芸術」だからです。」
(水野和夫「資本主義の終焉、その先の世界」
詩想社123、125ページ以下)、と。


システムの中心におくべきなのは、
暫定自由と税と社会補修復元制度だ。
価値は人権(そのもの)だ。
すべての人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
超法規的権利義務だ。
人権(そのもの)に国境はない。
日本国憲法が、社会権を含めて基本的人権としていいたいことは、
人権(そのもの)のことだ。
断っておくが、国・国家をではなく、人権(そのもの)を守ることを
目的とした自衛隊であるのなら違憲だとは思わない。




3 (
資本主義=絶対自由か社会主義=絶対不自由か
   を問う犯罪手口
)

すべての人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
暫定自由・税・社会補修復元制度が連結され一体となった、
人権(そのもの)擁護動的平衡システム社会(国家)は、
人間社会(国家)の完成形だ。
生きていく、という絶対的な目的を持った生き物である人間にとって、
社会(国家)を組織してみんなして生きていく以外に選択肢はない。
資本主義=絶対自由か社会主義=絶対不自由かを
選択する自由はない。


エコノミストの中原圭介氏が
「日本型経営の良さを理解していない安倍政権」と
とがめているのも、
レーガン政権後絶対自由資本主義化を強めてきた
アメリカを、
小泉・竹中政権同様に、後追いする安倍政権を
とがめているのに違いないだろう。
曰く。
「株主最優先のアメリカ企業と異なり、
日本企業、特に大手企業の公共意識は高いものがあります。
経営者の多くは「企業は公共の存在」という自覚を持ち、
「株主の所有物」などとは思っていません。
トヨタ自動車などを筆頭に、「税金を払うことは企業の責任」
という意識も強いようです。
欧米企業の過度な節税は国際問題になっていますが、
いまのところ、日本の大手企業では同種の事件は耳にしません。
アベノミクスの一番の問題は、
こうした日本型資本主義の良さを理解しようとせず、
アメリカ型の株主資本主義を志向しようとしていることです。
アメリカの株主が重視するのが、
企業の株主資本利益率(ROE)です。
ROEは「純利益÷株主資本」で算出される数字で、
企業の収益性を測る指標です。
株主による資金が企業の利益にどれだけつながったのかを
示しています。
安倍政権の成長戦略において、上場企業のROE向上は、
今や日本の国策となっています。
政府の成長戦略にもROEの文言が躍り、
市場ではROEを銘柄採用の基準とした株価指数が
企業の選別を促しています。
それもあって、直近の株主総会では、ROEを議案賛否の
判断材料にする機関投資家が増えたといいます。
「企業にとって、
株主資本は返済の必要がない価値創造の原資であり、
ROEを高めることは、この経営資源をできる限り有効に活用
しようと努力することである。
資本コストを上回るROEは、
リスクマネーの出し手が企業に求める責務であり、
ROEが低すぎるのなら、
株主がその改善を求めるのは当然である」
株主資本主義を生み出した米欧では、こういう考え方が
根底にあります。
それでは、日本企業は今後、
IBM (ROE80%台)やボーイング(40%台)、
マクドナルド(30%台)など、
アメリカの高ROE企業をお手本にすべきなのでしょうか。
私はそうは思いません。
なぜなら、ROEの最大化を目指すアメリカ流の経営は、
それ以外の大きな犠牲の上に成り立っているからです。
現状のROEが高くなればなるほど、
新規投資でそのROEを維持するのは難しくなります。
つまりROEの向上を至上命題に据えれば、
現在の本業以上に儲かる新規分野を見つけ出さない限り、
企業は新事業へ投資しなくなってしまうのです。
実際にアメリカでは、
企業は投資よりも自社株買いや増配を優先したり、
事業の売却や人員削減を進めたりしています。
会社の持ち主であり、経営者の雇い主である株主が、
1株あたりの利益の増加とそれに伴うROEの向上を
望むからです。
経営学者やアナリストの間にも「経済全体で考えれば、
ROEの最大化はマクロ経済にとって最適とはいえない」という
声はあります。
「株主だけでなく、従業員や取引先など多様な利害関係者を見渡し、
雇用や税金、取引先の利益などを維持しながら成長してきた
日本型経営の方が、
国民の生活水準の向上やGDPへの貢献度は大きかった」
というのです。
過去の日本企業は株主への還元策を犠牲にして雇用を守り、
規模の拡大を続けてきました。
それがアメリカ型に変わっていくとしたら、それは企業のみならず
日本社会の変質をもたらすことになるでしょう。
たとえばアベノミクスでは、
企業が従業員の解雇をしやすくする方向で
法改正を行おうとしています。
解雇条件の緩和や株主重視など、
日本企業のガバナンスをアメリカ流に変えようとしているのです。
これはおおきな問題を含んでいると私は考えます。
確かにこれまで、日本の経営者の顔は、
あまり株主の方を向いてはいませんでした。
しかしそれを完全否定し、
企業が株主を重視し利益第一主義に走れば、
そのしわ寄せは確実に従業員に向かうことになります。
それは・・・アメリカの現状を見れば、誰の目にも明らかなことでしょう。
歴史上、繁栄を誇った国々において、
市民による軍隊が傭兵に切り替わると弱体化が始まってしまったように、
何かあるとすぐに解雇されてしまう非正規社員が正社員に代わって
組織の中心になっていけば、
会社を盛り立てていこうという従業員モチベーションはどうしても
下がってしまいます。
士気の低下は生産性にも影響を及ぼします。
いくらがんばっても出世の見込みもなく、
1ヶ月後に雇用を打ち切りになるかもしれない人が、
会社のために一生懸命働くものでしょうか。
今はまだ日本人全体に「自分が属する組織のためにがんばる」という、
フォア・ザ・チームの精神文化が残っています。
ですから正社員の多くは手抜きすることなく懸命に働いています。
しかし企業側がそれに甘えて、
がんばってくれた人たちをコスト削減のために
あっさり解雇するようなことを続けていれば、
早晩、日本人の勤労意識は大きく変質していってしまうでしょう。
それは企業だけではなく、
日本という国にとっても大きな損失なのです。
国や会社に対し高い忠誠心を発揮する日本人の気質こそ、
日本を今のような経済先進国に押し上げた原動力です。
それを支えてきたのが終身雇用という
日本独特のシステムなのです。」
(中原圭介「格差大国日本のゆくえ」
朝日新聞出版252ページ以下)、と。


絶対自由資本主義人工市場似非社会・国家化をやめれば、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
暫定自由と税と社会補修復元制度とが連結し一体となった
人権(そのもの)擁護動的平衡システム社会(国家)が
顕現してくる道理だ。
「株主だけでなく、従業員や取引先など多様な利害関係者を見渡し、
雇用や税金、取引先の利益などを維持しながら成長してきた
日本型経営」や「終身雇用日本独特のシステム」は
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくのに
適している。
中原氏がいう日本型資本主義は、
暫定自由と税と社会補修復元制度とが連結し一体となった
人権(そのもの)擁護動的平衡システム社会(国家)に、
アメリカ型株主資本主義は、
絶対自由資本主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家主義
に該当する、
と考えられてくる。
片や人権(そのもの)という概念を欠く、
絶対自由資本主義欠落才覚人天下人工市場似非社会・国家、
こなた人権(そのもの)という概念が存在する、
暫定自由と税と社会補修復元制度とが連結し一体となった
人権(そのもの)擁護動的平衡システム社会(国家)。
まったく違う自由があるのである。







第3章

自由意思人に擬制しての
 絶対自由制度資本主義化犯罪



1 (
絶対自由資本主義化は
  法(自然法)に抵触する完全犯罪


「新自由主義」と称されている
絶対自由資本主義人工市場似非社会主義は、
一体何が間違っているのか。
それは、
生きていく、という絶対的な目的を持った生き物である人間が、
社会(国家)を組織してみんなで生きていく以外に
生きていく術がない、という事実を、
人が生きていく、ということは、
単に糊口をしのぐ、食っていく、ということではなく、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
ということだ、という事実を、
看過してしまったからに違いない。
その結果として、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=法(自然法)が分からなくなって
しまった、と考えられてくる。


要するに、「新自由主義」と称されている
絶対自由資本主義人工市場似非社会主義化は
超法規社会(国家)規範=法(自然法)に抵触する犯罪なのである。


中世封建似非社会から近代則人為法絶対自由制度資本主義
似非社会へ、そして現代則自然法暫定自由制度人権(そのもの)
擁護システム社会(国家)へ、と進化してきた社会(国家)。
自由意思(志)人から生きていくという絶対的な目的持った
生き物へ、妄想から事実へ、と転換された人間認識。
人為法(絶対万能法律)から自然法(超法規社会(国家)規範)へ、
と転換された法・正義。
絶対自由権から人権(そのもの)へ、と転換された人権。
絶対自由制度から暫定自由制度に、目的から手段へ、
と転換された自由。
絶対万能法律から人権(そのもの)守るための方策へ、と
転換された法律。
絶対万能権力国家から人権(そのもの)守る社会(国家)の機関へ、
と転換された(狭義の)国家。
形式的名目的なものでしかなかったのが人権(そのもの)守る
ための政治として本物へ、と転換された民主主義。
近代則人為法似非社会と現代則自然法社会(国家)とでは
まるで違うのである。





2 (
絶対自由主義化犯罪の核心は
   資本主義と絶対権力国家のでっち上げ


では、絶対自由主義化完全犯罪の核心的トリックは
一体何なんだろうか。
白井聡は
「新自由主義」の本質と特徴をこう喝破している。
曰く。
「新自由主義が先進国で本格的に展開し始めるのは、
1980年代に入ってからだとよく言われます。
つまり、イギリスのサッチャー政権およびアメリカのレーガン
政権の成立によってスタートしたとされますが、
実はそれに先だって新自由主義の実験がチリで行われていた
というのが大方の定説です。
そして、このチリの事例がきわめて鮮やかに示しているのは、
新自由主義とは、単に民間企業の自由な活動余地を広げる
ことで経済活動を活性化しよう、などといった穏やかな代物
ではないということです。
すなわちそれは、まさに暴力によって始まったわけです。
新自由主義については、大きな政府から小さな政府への転換
であって、
経済に対する国家の不当な干渉を排除しようとするものだ、
といった説明をされることが多い。
しかしそれは一面的な見方であるということを、チリの事例が
証明しています。
ここからわかるのは、新自由主義の本質とは、
資本にとっての障害を力ずくで破壊し、
資本が自由に制約なしに活動できる空間を拓くということです。
その「力」というのは何でもいい。
チリの例のように軍事的な力でもいいし、天然災害でも戦争でも
いい。
言ってみれば、それまで営まれていた生活圏、生産、流通、消費
のエリアをぶち壊してくれるものだったら何でもいいわけです。
イラク戦争においても、このロジックは証明されました。
アメリカはフセインを倒して新生イラクをつくろうとしましたが、
「イラクに民主主義を」のスローガンの背後には、
いかなる資本規制も存在しない国をつくるという目論見があり
ました。
アメリカがそれを強制しているということになると体裁が悪いので、
イラクの新政府が自発的にそのような法律を制定したという形を
つくりましたが、
もちろんそれは茶番にすぎません。
チリの事例に見られるような新自由主義は、
80年代になってくると先進国でも本格的に導入されていきます。
日本でも80年代に、やはり中曽根康弘政権がレーガンや
サッチャーの新自由主義路線に追随したと評されます。
しかし、アメリカやイギリスで生じたことに比べると、
80年代の日本の新自由主義改革はまだ本格的なものでは
ありませんでした。
とはいえ、共通点も見出せます。
それは、強力な労働組合の解体でした。
強固に組織された労働者は、資本の動きに対する束縛として
機能するからです。
新自由主義の特徴としては、
公営事業の民営化、資本移動の自由化、福祉の削減、
こういったことが共通点として挙げられます。
さらには労働組合を筆頭とする再配分の削減に反対する勢力
を潰していく。
社会民主主義勢力を長年支えてきたのは労働組合ですから、
それは同時に政治における社民主義勢力に対して打撃を
与えることにもなるわけです。
この路線を実行するうえで中曽根首相は大きな仕事をしました。
すなわち国鉄解体、分割民営化です。
民営化の意図は何であったか。
国鉄の累積赤字問題もありましたが、
それ以上に国労という.国鉄の労働組合を解体するということが
非常に重要だった。
このように、先進国においては、80年代に
資本が自由に運動する際に邪魔になるものを次々に取り払って
いくための地ならしが行われました。」
「右に見たような動きは、
国家権力の根本的な変質をもたらしました。
国家権力に本来求められものとして、国民の安全があります。
例えば、天然災害などが起きた場合、被害にあった人を全力
を挙げて救出し、被害を最小化するということが国家に
要求されている。
ところが、これも新自由主義のレジームにおいては
異なった様相を呈してきます。
このレジームは、災害を資本が自由に動き回る世界をつくる
ための絶好のチャンスとしてとらえるわけです。
実際、アメリカにおけるハリケーン・カトリーナだったり、
スマトラの大津波といった事例で、
このことはすでに証明されています。
こういった話を聞いて、われわれが何を思い浮かべるかといったら、
東日本大震災でしょう。
大震災、大津波を奇貨として、大資本が自由に動ける空間を
つくろうという動きに対して、すでに批判が出てきています。
このような社会の動きは、
「包摂から排除へ」と表現できます。
生産力の盲目的な向上が志向され、
それについて行けない、行かない人びとは、居場所を失う。
それは階級社会化、正確には再階級社会化をもたらします。」
「再階級社会化の結果、国家に何が生じるのでしょうか。
まず、国民統合の破綻です。
極端な階級が生じ、それが固定化していく状況では、
トップの1%と残りの99%の間で意識上の乖離が
不可避的に生まれる。
国籍こそ一緒であっても、実質的には同胞意識を感じない
という状態になります。
要するに「同胞が飢えていようが凍えていようがどうでもよい。
そういうやつには努力が足りないんだろう。
だから福祉なんか与える必要はない。
怠け者に与えるカネは、われわれの税金から出るんだろう。
いくら頑張って稼いだって税金で持って行かれるんじゃやる気
が出ない」。
これが、新自由主義化した社会の勝ち組の身も蓋もない
理屈です。
この理屈に基づいて、レーガンは富裕層への累進課税を
大幅に引き下げたわけです。」
(白井聡「戦後政治を終わらせる」
NHK出版新書193頁以下)、と。


明らかに、絶対自由主義の核心的トリックは
「資本」ないし「資本主義」のでっち上げだ。
物権と債権が峻別された物権も債権も人間社会(国家)では
存在しえない。
所有権絶対自由の原則、契約絶対自由の原則、自己責任
絶対の原則を原則とした社会(国家)など、
人間社会(国家)ではあり得ない。
絶対万能権力国家の観念は、あり得ないものを
力ずくであり得ることにするトリックだ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
人権(そのもの)擁護暫定自由制度システム社会(国家)を
力ずくで破壊し、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にしたのが
絶対自由資本主義欠落才覚人天下人工市場似非社会だ。
要するに、人権(そのもの)を守るための規制の撤廃と
税のフラット化による絶対自由資本主義化の本当の目的は、
経済の活性化でもなければ、
利便性や効率化でもないのである。
ただ欠落才覚人たちが限りなく豊かになることだけにある。





3 (
絶対自由資本主義を原理原則とした社会(国家)
  あり得ない


人間は、生きていく、という絶対的な目的を持った生き物だ。
それ故、すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=法(自然法)感覚、
つまり神の見えざる手は、
普通の正常な人間なら、誰もが持ち合わせているものだ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
人権(そのもの)擁護暫定自由制度システム社会(国家)は、
この神の見えざる手が創るのだ。
したがって、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の、
自由放任・絶対自由資本主義欠落才覚人天下人工市場似非社会化
するには、まず、この神の見えざる手を偽物とすり替えて
抹殺することが必須だ、ということになる。
それがアダム・スミスの見えざる手、つまり市場メカニズムだ。


だが、重要なことは、
どんなに巧妙にだまして神の見えざる手を消してみても、消し得た
ように見えても、
本当に人間の心から消し去ることなど不可能だ、という事実だ。
人間は、生きていく、という絶対的な目的を持った生き物だ。
この事実は、誰にも消せないのだ。
自由放任・絶対自由資本主義欠落才覚人天下人工市場似非社会主義
を原理原則とした社会(国家)などあり得ない。
自由放任・絶対自由資本主義欠落才覚人天下人工市場似非社会化は、
だましたり、おどしたり、あるいは、暴力的に成し遂げる以外に方法のない
犯罪以外の何物でもないのである。
始末が悪いのは、
絶対国家主義、法律万能主義、民意至上民主主義を伴走した
完全犯罪の形で行われる、ということだ。


今、世界中で、この完全犯罪との.戦いが行われている。





4 (
修正資本主義の真意は
   人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会


修正資本主義は「資本主義の自己変革」と誤解されてきた。
しかし、それは違う。
白井聡は、
「自由市場をベースにするけれども、しかしながら再分配も重視
しなければいけないという思想」として、
次のように説明している。
曰く。
「古典的自由主義からは、
経済は自由放任であるべきという考え方のみならず、
社会ダーウィニズムというイデオロギーも出てきます。
社会ダーウィニズムとは、要するにチャールズ・ダーウィンの
進化論を社会に当てはめる考え方です。
自然淘汰説、つまり環境への適応能力が高いものだけが
進化を遂げて生き残っていくという理論を応用し、
適応できない個体が陶太される(社会から包摂されなくなる)の
は必然であるという結論に至ります。
資本主義が飛躍的に発展するにつれて、このように、
社会思想までもが、包摂や共生といった人間社会の基礎原理と
敵対するようになると、
それへの批判として資本主義を真っ向から否定する政治的潮流、
すなわち社会主義・共産主義が広汎な支持を集めるように
なってきます。
社会主義は20世紀に入ると、ソヴィエト連邦の誕生によって
政治的に具体的な形を取ることになります。
ソ連邦の成立と大国化は、自由主義を奉ずる資本主義体制の
国家に対しても甚大な影響を及ぼしました。
つまり、完全な平等の実現を標榜する巨大社会主義圏の出現
によって、資本主義体制の側も、
階級格差の解消や福祉の充実といった課題に取り組まざるを
えなくなったのです。
それをしなければ、自分たちの体制の方が優れていると主張
できなくなる状況が出現した。
こうして、自由な市場にすべてを委ねることが最善であるという
考えが修正されていきます。
その代表的な考え方が、例えば20世紀後半に現れる、
アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズに代表されるところの
「リベラリズム」です。
「リベラリズム」を日本語に直訳すると、「自由主義」になります。
ここで用語の混乱が起こりますので、整理しておきましょう。
古典的自由主義を修正しようという動きが、
社会主義を生んだと言いました。
その流れを受けて、ヨーロッパでは20世紀に入ると、
社会民主主義、ソーシャル・デモクラシーが確立されていきます。
これは、国家がすべての経済活動をコントロールする、
ソ連のような方法とは違う形で、社会主義を実現しようという
考え方です。
しかしアメリカでは、「ソーシャル」という言葉が入ると、
すぐにソーシャリズム(=社会主義)、さらにはソ連の共産主義
が連想されてしまうため、
この言葉は忌避される傾向がありました。
実際のところ、ロールズの理論の現実政治的含意は、
ヨーロッパの社会民主主義的なものです。
つまり、自由市場をベースにするけれども、
しかしながら再分配も重視しなければいけないという思想です。
しかし、アメリカの文脈では、「ソーシャル」を避けて
「これが本当の自由主義(=リベラリズム)なのだ」と説明するしか
なかったというわけです。
このようにしてロールズは公正、正義(justice)という視点から、
自由主義を再定義しようとしました。
こういったロールズ的リベラリズムあるいは西ヨーロッパの
社会民主主義は、修正資本主義とも言えます。」
(白井聡「戦後政治を終わらせる」
NHK出版新書186頁以下)、と。


確かに、絶対自由を修正しただけのように見える。
「資本主義の自己変革」のように見える。
しかし、所得再分配制度は、
「社会保障制度などの生活基盤保障制度と累進課税制度一体の
帰属所得再評価・不当利得返還・社会(国家)補修復元制度」だ。
したがって、そこにある自由は、人権(そのもの)を全うするための
手段としての暫定自由であり、絶対自由ではない。
結局、まず、
人権(そのもの)を侵害阻害することが予め判然としている事は
事前にきちんと規制する。
それ以外は取りあえず暫定的に自由とする。
所有権暫定自由の原則、契約暫定自由の原則、
暫定自己責任の原則だ。
その結果もたらされる社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
「社会保障制度などの生活基盤保障制度と累進課税制度一体の
帰属所得再評価・不当利得返還・社会(国家)補修復元制度」を以て
是正ないし補修復元する。
勿論、その執行の任に直接当たるのは、社会(国家)制度組織の
執行部(国会・内閣(政府))だ。
超法規社会(国家)規範=法(自然法)に則った、
暫定自由制度を以て人権(そのもの)を守る、
則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由動的平衡制度組織
人間社会(国家)が、
修正自由(資本)主義社会(国家)だ。
要するに、修正自由(資本)主義は絶対自由資本主義ではない。
修正資本主義の真意は
人権(そのもの)擁護暫定自由制度社会(国家)だ。







第4章

絶対自由制度資本主義妄想似非社会の
 支配者は欠落才覚人



1 (
「身分からの解放」が是なのは
   法(自然法)に適っているから


「身分からの解放」が是なのは法(自然法)に適っていたからだ。
絶対自由主義資本主義と何のかかわりもないことだ。


白井聡は「自由主義」をこう説明している。
曰く。
「自由主義がいつ頃から出てきたのかというと、
基本的には18世紀から19世紀にかけて、
イギリスで起きた産業革命と平行する形で
本格的に出現しています。
その代表的な思想家として、
18世紀の人であるアダム・スミスを挙げることができるでしょう。
スミスは『国富論』の著者ですが、その基本的な主張は、
経済の運動を市場に任せるべきであるということです。
つまり自由市場を唱えたわけです。
スミスは、何でわざわざ「自由な市場」を言わなければならなかった
のか。
それは当時「自由な市場」が存在しなかったからです。
スミスが直接的に対抗したのは重商主義の言説であり、
より具体的には特権商人を批判しました。
「特権」とは、言い換えれば「独占」です。
つまり、ある特定の商人たちが政治権力と結びつくことによって
市場を独占し(=新規参入を排除し)、巨大な利益をあげていた。
そういう状態では物の値段が下がらず、
生産量そのものも増えず、富の総量が増えていかないので
人々の生活も向上しない。
ゆえに、そのような特権を打ち払って、社会全体の生産力を向上
させるべきだとスミスは考えました。
自由な市場の不在という状態が当時のイギリスに存在し、
それに対してスミスは異を唱えた。
しかし、別にこれはもちろんイギリスに限った話ではありません。
前近代では、世界中で同じような状況がありました。
例えば、日本でいえば、東京の「銀座」の地名の由来は、
江戸時代にそこに銀の座があったことです。
「座」というのは、現代風にいえば、生産者の組合、生産者集団
のことで、同業者組合のようなものです。
銀製品を生産しようと思ったならば、これに入らないといけなかった。
銀のような貴金属だけにそういう決まりがあったのではなく、
日常生活に必要な細かい製品に至るまで、
座を通した生産の統制が細かく行われていました。
座に入らず勝手に生産販売をする人間は、厳しい罰を受けたのです。
現代の目線で見ると、こういう習慣、決まりは、きわめて不条理に
見えるかもしれません。
しかしそれは、過剰生産に陥らないための工夫であり、
生産の統制でした。
みんなが好き勝手に商品を生産し始めたら値段が暴落してしまう
からです。」
「身分制からの解放は、生産力の爆発的向上と不可分に結びついて
物質的な豊かさを人類にもたらしました。
しかし、現在生じているのは、
生産力の向上を至上命題にする社会の病理です。
それはエコロジー危機の問題や過剰生産による経済危機の問題だけ
ではありません。
今日、さらなる技術革新が進む中であらためて浮上しているのは、
生産性の向上に寄与しないと判定された人は、
社会に包摂されなくなるということ、
そしてそのことがもたらすプレッシャーによって
人々が追い込まれている、
という問題です。」
(白井聡「戦後政治を終わらせる」
NHK出版新書180頁以下)、と。


生きていく、という絶対的な生き物である人間が、
社会(国家)を組織してみんなで生きていく以外に
生きていく術はなかったのだ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範は、
その結果として自然発生的に存在することになった
法(自然法)だ。
人間を本当に動かしているのは
この超法規社会(国家)規範=法(自然法)感覚、
つまり神の見えざる手だ。
「身分からの解放」が是と思えたのは
この超法規社会(国家)規範=法(自然法)感覚に適っていた
からのはずだ。
絶対自由主義資本主義とは何のかかわりもないはずだ。


とすると、
「生産力の向上を至上命題にする社会の病理」は、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=法(自然法)感覚、
つまり神の見えざる手が欠落した欠落才覚人たちによって、
社会(国家)が歪められるにいたってしまっている結果だ、
と考えられてくる。
要するに、「身分からの解放」が是なのは
法(自然法)に適っていたからだ。
絶対自由主義資本主義と何のかかわりもないことだ。





2 (
絶対自由資本主義化による
   社会(国家)歪曲の顛末


作家・元外務省主任分析官の佐藤勝は、
こう言っている。
「予見される未来に資本主義に代わる新たなシステムが
到来するとは、とても考えられない・・・。私たちは、資本主義と
つきあっていくしかない・・・。」
(佐藤優「資本主義の極意」NHK出版新書13頁以下)、と。


これは大きな誤りだ。
少なくとも戦後の日本は、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
人権(そのもの)擁護暫定自由制度システム社会(国家)だ。
資本主義か、アナーキズム(無政府主義)か、共産主義か、
というのは、大きな誤りだ。
絶対自由資本主義似非社会・国家化が進めば進むほど
社会は人が生きずらいものになっていく。
それが絶対自由資本主義似非社会・国家化の顛末だ。


それはともあれ、
佐藤優は、
絶対自由資本主義化の顛末を見事に描き出している。
曰く。
「2015年の初頭、トマ・ピケティの『21世紀の資本主義』が
話題となりました。
700ページを超えるこの翻訳書が13万部突破のベストセラー
となったのも、資本主義のもたらす深刻な格差をどう捉え、
そこからいかに脱却するかというテーマに、多くの人が
切実な関心を持ったからでしょう。
格差だけではありません。
現在の日本社会は、閉塞感に覆われています。
競争社会に身を置くビジネスパーソンは、ノルマを達成する
ために、健康を犠牲にして残業し、ストレスが蓄積していく。
挙げ句の果てに、うつ病を発症し、出社出来なくなる人も
増えています。
骨身を削って働き、会社は利益を上げているのに、賃金は
さほど上がらない。
事実、アベノミクスで、大企業は次々と史上最高益を
記録しましたが、実質賃金は下がっているのですから、
人々の生活は苦しくなっているわけです。
成果主義の導入以降、一時期は「勝ち組」「負け組」などと
言われましたが、「自分は勝ち組だ」と思えるような正社員は
ほとんどいません。
いまや勝ち負けの区分は消失し、
ピケティが歴史的データで分析したとおり、
ごく一部のスーパーリッチと平均的ビジネスパーソンの間に、
深刻な格差が鋭く生じているのです。
非正規雇用の派遣社員や契約社員については、
言わずもがなでしょう。
労働者を使い捨てるブラック企業が横行し、
低賃金と長時間労働のために、
生きるだけで精一杯の環境に置かれています。
その結果、将来の収入の見通しはおろか、結婚して家族を
形成することすらおぼつかない状態です。
女性も疲弊しています。
「女性が輝く社会」というスローガンが叫ばれてはいますが、
いまなお女性労働者の5割以上は非正規雇用です。
また、正規雇用の女性にしても、結婚・出産によって職場復帰
が困難になり、非正規雇用しか受け皿がないという人が
少なくありません。
これではキャリア設計など、描きようがありません。
不安定な現状に加え、将来の出費がさらに不安をかきたてます。
最近では、以前にも増して、親の収入が子どもの学歴を左右する
ようになってしまいました。
給料は下がっているのに、学費や教育費は高くなる一方です。
はたして、自分の子どもにまともな教育環境を与えられるか
どうか――。
子どもの教育どころか、わが身の将来さえ不透明です。
公的年金の支給額は減り続け、貯蓄のないまま老後を迎える。
年老いて、働くことができなくなったとき、どのように生活を維持
していけばいいのか――。
将来に必要なカネのことを考えると、
明るい展望はまったく見えてこない。
生存や生活がすべてカネに換算され、カネのない人間は
社会から排除されてしまうような思いさえ頭をもたげてくる。
自由な社会のはずなのに、束縛しか感じられない日本人が
いまや多数派を占めています。」
「格差が拡大し、すべてがカネに換算される。
さまざまなレベルで社会を生きづらさが覆っていく。
このような状況を捉え、資本主義はもはや限界に達している
とする論も目につくようになりました。
事実、個々の生き方のレベルのみならず、
マクロな経済状況・国際情勢に目を転じても、資本主義には
いくつもの綻びが生じているように見えます。
アベノミクスで高騰を続けた株価も、
中国経済失速への懸念から、世界的な株安が起きました。
数年前には考えられないような株価の乱高下も日常化して
います。
財政出動や金融緩和政策によって、国の赤字は膨れ上がる
一方ですが、財政均衡のシナリオはまったく描けていません。
将来世代の福祉が、現役世代に比べて貧しくなっていくことは
誰の目にも明らかでしょう。
国際情勢はますますキナ臭くなり、世界の各地で小競り合い
のような戦争や紛争が続いています。
なかでも中東全域、ウクライナ、極東アジアは、
本格的な戦争に突入する危険性を秘めています。
そして、2015年11月13日金曜日の夜(日本時間14日未明)、
フランスの首都パリで「イスラム国」(IS)による同時多発テロ
事件が発生しました。
この事件では、130人超の死亡が確認されています。
さらに同月24日にはトルコ・シリア国境付近で、
シリアの反政府勢力への空爆作戦を展開していた
ロシア空軍機の、トルコによる撃墜事件も起きました。
そんな危機の時代を加速させるように、
日本は武器輸出三原則を緩和して、国家と企業が一体となって
武器油脂湯津や兵器の技術供与を推進しています。
ステルス戦闘機F35の部品輸出や、オーストラリアとの潜水艦
共同開発など、「経済の軍事化」は着々と進んでいます。
表立っては言えないでしょうが、武器輸出が安倍晋三政権の
成長戦略の一翼を担っていることは間違いありません。
経済の軍事化もまた、
資本主義の行き詰まりを象徴しているようです。」
(佐藤優「資本主義の極意」NHK出版新書9頁以下)、と。


少なくとも戦後の日本は、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
人権(そのもの)擁護暫定自由制度システム社会(国家)だ。
人権(そのもの)は、
最低限度の人権(そのもの)、すなわち生存権に姿を変えて
憲法25条に規定されている。
人権(そのもの)を守る方策がいわゆる規制(法律)であり、
自由はこの規制(法律)に抵触しない限りでの
取りあえずの自由、つまり暫定自由として存在している。
暫定自由は人権(そのもの)を全うするための手段なのである。
暫定自由の結果として惹起される人権(そのもの)の侵害損傷
による社会(国家)の補修復元は、
帰属所得再評価不当利得返還制度である税制度と連結した、
公共事業制度や所得再分配制度などの
社会(国家)補修復元制度が担っている。
そういう税制度が累進課税制度であるのは
言うまでもないことだ。
暫定自由制度の結果が分業社会であるのも
言うまでもないことだ。
社(国)民の人権(そのもの)を守るのが専守防衛だ。
国は社会の別称であって、
社会とは別個の国家は実在しない。
憲法9条が軍隊を否定しているのは、
絶対自由資本主義似非社会・国家を否定している結果に
他ならない。
国を守る軍隊の否定であり、それは、
絶対自由資本主義の成れの果てである戦争・敗戦の
反省の結果以外の何物でもない。
絶対自由資本主義似非社会・国家化が進めば進むほど
社会は人が生きづらいものになっていく。
絶対自由資本主義似非社会・国家化を本気で進めるように
なったら、その人たちは狂人なのである。





3 (規制制度と社会(国家)補修復元制度の撤廃による
  絶対自由資本主義化)





4 (
資本主義をでっち上げたのは
   法(自然法)否定する絶対自由主義


資本主義をでっち上げたのは
法(自然法)否定する絶対自由主義だ。
作家・元外務省主任分析官の佐藤勝は、
「資本主義の起源には「労働力の商品化」がある」
と、こう言っている。
曰く。
「では、これで資本主義システムは動き出すでしょうか。
そんなことはありません。
資本主義以前から商人はいて、〈貨幣――商品――貨幣’〉
という商売を続けています。
日本の江戸時代にも、豪商や両替商と呼ばれる金貸しが
いました。
ちなみに金貸しの場合は、〈G――W――G’〉ではなく、
〈G・・・・・・G’(G+g)〉と表します。
gは利子で、〈・・・・・・〉は時間が経過していることを意味します。
このことからもわかるように、貨幣が資本になっただけでは、
資本主義システムは作動しないのです。
いったい、何が起こると資本主義システムは動き出すのか。
つまり、資本主義システムの起源には何があるのでしょうか。
資本主義社会とは、商品経済が社会全体をすっぽりと覆って
いるような社会です。
ですから、古代や中世のように、ある地域では商品経済が
成立しているけれども、ある地域では自給自足経済を営んで
いるような社会は、資本主義社会とは言えません。
では、どうすれば資本主義社会が生まれるのか。
『経済政策論』のなかで宇野は次のように言います。

  〔資本主義社会とは〕自然に対して働きかけて生活資料
  ないし生産手段を獲得して経済生活を営むという、
  あらゆる社会に共通な、人間生活に絶対的な労働=生産
  過程自身をも商品形態を通して旧来のいかなる社会よりも
  より経済的に行う社会である。そしてそれは労働力自身を
  商品化することによってはじめて実現されたのである。
  (宇野弘蔵『経済政策論〔改訂版〕』弘文堂、7頁、傍点引用者)

経済という営みは、人類の誕生とともにありました。
物々交換や贈与だけでなく、貨幣と商品を交換する商品経済も、
古代にはすでにあったわけです。
ならば、資本主義社会は、それ以前の時代と何が違うのか。
それは「労働力の商品化」だと宇野は言います。
この「労働力の商品化」ということが起きてはじめて、資本主義
システムが回り始めるようになった。
これこそが資本主義の起源なのです。」
「「労働力の商品化」について、説明を続けます。
先ほど述べたように、資本主義以前の時代にも、
貨幣は資本として流通していましたが、社会全体が資本の
運動が覆っているわけではありません。
というのは、商人であれ、金貸しであれ、自分自身では商品を
生産していません。
中世のような社会では、生産は 〈貨幣――商品――貨幣’〉
の外部で行われています。
ところが、ある偶然によって「労働力の商品化」が起きると、
生産のプロセス自体が 〈貨幣――商品――貨幣’〉 に組み込
まれてしまうのです。
つまり、資本家が労働者の労働力を商品として買う。
そして労働者を働かせることで、商品をつくり、それを売って
儲けを出す。
社会は働く人々と、労働によって生産されたモノから成り立つ
空間です。
そこに「労働力の商品化」が起きるということは、
資本の運動が社会全体に張りめぐらされていくことを意味します。
そこで、次に考えなければならないのは、
どのような人々が労働力を商品化できるのか、ということです。
論理的に考えて、「労働力の商品化」は「二重の自由」がないと
起きません。
第一に、身分的な制約や土地への拘束から離れて自由に移動
できること。
これは契約を拒否できる自由を持っているということでもあります。
第二に、自分の土地と生産手段を持っていないこと。
生産手段とは、たとえば工場や機械設備のことです。
これを「生産手段からの自由」と呼びます。
この場合の「自由」とは、「持っていない」ということですから、
日本語のポジティブな意味合いとは異なることに注意しましょう。
土地に縛り付けられず、自由に移動できる。
でも、自分の土地や生産手段は持っていない。
これが「二重の自由」です。
正規、非正規にかかわらず、企業の社員は、みな「二重の自由」
の状態にあります。
だから、自分の労働力を商品化し、それを売って生活している
わけです。」
「「労働力の商品化」とは、文字どおり、働く能力を商品にする
ということです。」
(佐藤優「資本主義の極意」NHK出版新書45頁以下)、と。


しかし、「労働力の商品化」は、
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
生きていかなければならない超法規的権利義務である
人権(そのもの)を守るための規制制度と
人権(そのもの)の侵害損傷による社会(国家)の歪みを
補修し復元する社会(国家)補修復元制度を
撤廃しなかったら起きない。
勿論、規制制度と社会(国家)補修復元制度の撤廃は、
超法規社会(国家)規範=法(自然法)を否定する
絶対自由主義によって行われる。
要するに、資本主義をでっち上げたのは
超法規社会(国家)規範=法(自然法)否定する
絶対自由主義だ、ということになる。
したがって、絶対自由主義の自由(絶対自由)とは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きて行くべし、
という超法規社会(国家)規範=法(自然法)から解放された
社会的状態のことなのである。
そして、それが絶対自由主義での正義でもある。
絶対自由資本主義似非社会・国家とは、
所有権絶対自由の原則、契約絶対自由の原則を原則とした
人工市場似非社会・国家なのである。
それはすべての人が生きていくための社会(国家)ではない。
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした仕様の
人工市場似非社会・国家だ。
勿論、それは、絶対万能権力国家をでっち上げ、
その名の下に騙しと力ずくで実現される犯罪なのである。
そこでは、人間は、
生きていく、という絶対的な目的を持った生き物ではなく、
完全なる自由意思人として神格化・擬制されている。
当然、絶対自由資本主義を原理原則とした社会・国家は
あり得ない。
あり得るのは、絶対自由資本主義化によって社会(国家)を
歪める、ということだけだ。