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糊口しのぐ嘘方便、近代絶対自由制度資本主義似非社会
                             (千葉県九十九里浜の浜昼顔)



はじめに

 
糊口しのぐ嘘方便
  近代
絶対自由制度資本主義
   似非社会





1 (糊口しのぐ嘘方便たる
   所有権絶対自由中核とした基本的人権
)
2 (自由が先にあってそれが規制される、
   という関係にはない
)
3 (社会保障制度は社会補修復元制度の一つ)
4 (暫定自由線の引き直し・修正が
   修正資本主義の真意
)
5 (人権(そのもの)は基本的人権の前提に存在している)
6 (行政の目的は人権(そのもの)擁護)





1 (
糊口しのぐ嘘方便たる
   所有権絶対自由中核とした基本的人権
)

こんな風に言われてきた。
「近代的人権は、
およそ人たるものが生まれながらに当然にもつ権利、
国家以前に存在する自然権として構成された。
それは、人間が人間として生きていくために不可欠の権利であり、
そういうものとして、基本的人権とされたのである。
しかし、そこで、
人間が人間として生きていくために不可欠のものとされた
具体的な権利は何であったかといえば、
それは、なによりもまず、所有権の自由であった。
なぜ、所有権の自由が
基本的人権の中核にすえられることになったのであろうか。」
「要するに、ロックは、
所有物というものを、生命や身体的自由と同列にならぶ、
各個人に固有のものとして位置づけたのである。
そして、そのような位置づけが可能であったのは、
私的所有を、あくまでも、
《各人の生命を維持するのに必要な限度で、
自分自身の身体を自然に対して
働きかけて得たものに対する所有》
としてとらえたからであった。
私的所有というものがこのように正当化されることによって、
所有権の自由は、
「人間が人間として生きていくために不可欠の権利」として
位置づけられうるものとなったのである。」
(浦部法穂「全訂憲法学教室」日本評論社15ページ)、と。


要するに、「各人の生命を維持するのに必要な限度で」
つまり、糊口をしのぐための嘘方便として
所有権絶対自由(似非自由)を中核とした基本的人権は
でっち上げられたもの
に他ならない。
しかし、人が生きていく、ということは、
単に糊口をしのぐ、ということではなく、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
ということに違いない。
そして、それは、
社会(国家)を組織して、社会(国家)の中で、他者と共に、
ということでなかったら、不可能だ。
社会(国家)が、
暫定自由・税・社会補修復元制度が連結一体となった
人権(そのもの)擁護システム社会として完成していなかったら、
不可能だ。
「国家以前に存在する自然権」というのは、
所有権絶対自由、契約絶対自由を原則とした似非自由・資本主義、
それを支える絶対万能権力国家というのは、
近代という過渡期の、糊口をしのぐための嘘方便だ、
と考えられてくる。



2 (
自由が先にあってそれが規制される、
   という関係にはない
)

こんな風に理解されてきた。
「近代国家の憲法は、営業の自由を保障しているが、
もちろん、公共の安全や公衆衛生などに
リスクをもたらす営業活動については、
許認可を要するとされるなど、一定の制約が課されることになる。」
(山田洋「行政手続法総論」
《「行政書士のための行政法」日本評論社》50ページ)、と。


しかし、似非自由が先にあって、
それが、
「公共の安全や公衆衛生などにリスクをもすたらす」場合には、
規制される、というのは、
少なくとも、現代社会のこととしては、
事実に反している。
人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
超法規的権利義務が人権(そのもの)だ。
教授の真意は、
この人権(そのもの)を侵害阻害するリスクが
予め知れていることについては
「許認可を要するとされるなど、一定の規制が課されことになる」、
ということだろう。
とすると、規制は人権(そのもの)を守る方策としてある、
と考えられてくる。
何ものにも拘束されない似非自由が先にあって、
それが規制される、
それ故、本来あってはならないものだ、
という関係にはない。
事実は、人権(そのもの)が先にあって、
それを守るための規制がある、
という関係にある。
営業の自由とは、営業の暫定自由のことだ。
暫定自由は、
健康で文化的な生活の形は流動的発展的なものであり、
予めきちっと決められた形であるものではない故に、
存在している。



3 (社会保障制度は社会補修復元制度の一つ)

こんな風に言われてきた。
「現在、人は、
法律に違反したり公の秩序(公序)に反しないかぎり、
自己と家族の生活をその責任において自由に営むことができる。
しかし、この生活自己責任の原則を貫いて、
生活の過程で人がこうむる
病気、災害、失業などのさまざまの事故を、
自らの力と責任だけで克服することは難しい。
現代社会で、たいていの人は、
病気、災害、失業などによって生じる経済的コストを
すべて自ら独力で
負担できるほどの資力を持っていないからである。
ここに社会保障法によって生活自己責任原則を修正する必要性が
存在するのであり、
国家による個々の国民の生活に対する積極的な配慮が要請される
理由がある。」
「社会保障とは、一言でいうと、
国民の「人たるに値する生活」の確保を目的として、
一定の所得ないし医療、生活に係わる福祉サービス等を
公的に提供する制度をいう。
このような制度は、とくに第二次大戦末期から戦後にかけて
急速に世界の国々に普及した。
その直接のきっかけとなったのは、
1930年代の大恐慌がもたらした
大規模な失業と深刻な生活危機であった。
世界の各国は、このような深刻な生活の危機に直面して、
国民的規模での生活保障制度を
国の責任において確立することで
対処しようとしたのである。」
(西村健一郎「社会保障法入門」有斐閣1ページ以下)、と。


「社会保障とは、
「生涯のうちに遭遇する可能性のある、
さまざまな生活上の危機や困難を回避、軽減するための仕組み」
であるということができます。
長い人生には、
それまでの生活を維持していくことが困難になってしまうような、
生活上の危機に遭遇する可能性があります。
例えば、病気になって働けなくなる、膨大な医療費がかかる、
高齢になって働けなくなり収入の途が途絶える、
寝たきりになって介護を受けることが必要になる、
などです。」
「社会保障というのは、
生活上の危機を社会全体で分散して確実に危険を避け、
しかも個人の負担を軽くする
合理的な仕組みということができます。」
(植村尚史「これからはじめる社会保障[第4版]」
日本加除出版株式会社2ページ以下)。
社会保障制度は社会補修復元制度の一つなのである。
当然、社会保障制度がなかったら、
社会(国家)は崩壊するのである。
社会(国家)は、すべての人が生きていくために、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくために、
組織されたものだから、だ。
社会保障制度を欠く、
所有権絶対自由、契約絶対自由を原則とした
似非自由・資本主義・国家主義社会・国家は、
擬似社会・擬似国家であって、人間社会(国家)ではない。
大恐慌や戦争は擬似社会・擬似国家の成れの果てだ。
社会保障制度が「とくに第二次大戦末期から戦後にかけて
急速に世界の国々に普及した。」のは、故なしとはしない。
戦後は、近代似非自由・資本主義・国家主義の時代ではない。
近代似非自由・資本主義・国家主義にしがみついている
経済学者や政治家たちは壊れた人間に違いないのである。



4 (
暫定自由線の引き直し・修正が
   修正資本主義の真意
)

こんな風に説かれてきた。
「憲法は、経済活動の自由を保障するために、
とくに職業選択の自由(第22条1項)と財産権の不可侵(第29条1項)を
保障しています。
(1)  職業選択の自由
人間は、職業をもちながら生きていきます。
一生の間どうにも意にそわない職業を強制されてはたまりません。
職業を選択する自由の保障が必要です。
憲法が保障する職業選択の自由は、
どのような職業をえらんでもよいというだけでなく、
自分の選んだ職業をおこなうことの自由、
つまり営業の自由までふくんでいます。
しかし、大きな営業活動は、一般の国民の生活に大きな影響をおよぼします。
たとえば、大資本の大きなスーパーマーケットや百貨店が
自由に開業できるということになると、
中小の小売店はひとたまりもありません。
また、経営者を野放しにしておくと、
雇われている労働者は低賃金・長時間労働をよぎなくされるなどして、
人間らしい生活をうばわれてしまうおそれがあります。
大きな営業活動や経営者の活動には、積極的な制限を設けることが必要です。
このために、職業選択の自由を認めている第22条1項は、
ほかの条文の場合とちがって、
とくに「公共の福祉に反しない限り」という条件をつけています。
(2)  財産権の不可侵
人間が生活をしていくためには、なんらかの財産が不可欠です。
そのために、第29条は、第1項で
「財産権は、これを侵してはならない」としています。
「侵してはならない」ということは「保障する」ということです。
生産手段(土地、生産用具や原材料)についての権利も
除外されていないから、
これによって資本主義が保障されることになります。
資本主義は、
個人に生産手段についての私有が認められることを基本としています
(社会主義は個人に生産手段についての私有を認めないことを
基本としています)。
財産権が保障されているから、個人の財産を、学校や道路をつくるなど
「公共のために用ひる」場合には、
その人に「正当な補償」をしなければなりません(第29条3項)。
しかし、財産権、とくに生産手段の私有については、
営業の自由の場合と同じ問題があります。
営業は、財産、とくに生産活動をつかっての活動にほかなりません。
生産手段の私有を野放しにしておくことは、
労働者から人間らしい生活をうばってしまったり、
中小企業にひどい打撃をあたえるおそれがあります。
一部の資本が、独占資本とよばれ、
国民生活に大きな影響力をもっている現代では、
そのおそれが一段と大きくなっています。
とくに「大きな財産」のあり方や使い方を、
社会的経済的弱者の利益のために積極的に規制することが必要です。
憲法は、それゆえ、財産についても、
「公共の福祉」による制限を認めています。」
(杉原泰雄「新版憲法読本」岩波ジュニア新書134ページ以下)、と。


しかし、人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく超法規的権利義務が
人権(そのもの)だ。
この人権(そのもの)を侵害阻害することが予め判然としている事柄は
きちっと規制され、野放しにされることはあり得ない。
しからざるものである限り、取りあえず暫定自由とし、
その結果としてもたらされる社会(国家)の歪み綻びは、
社会保障制度などの社会補修復元制度を以て補修し復元する。
それが暫定自由・税・社会補修復元制度が一体となった
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)だ。
職業選択権も財産権も暫定自由として保障されている。
それによって生産手段の私有が認められていたとしても、
それは所有権絶対自由契約絶対自由を原則とした
似非自由・資本主義が保障されている、ということでは決してない。
実際、修正資本主義の真意は、
暫定自由線の引き直し・修正に他ならない。
「経営者を野放しにしておいても、
雇っている労働者に低賃金・長時間労働をよぎなくしない」としたら、
別に規制はされないはずだ。
野放しにしておいても経営者たちが自然環境の悪化に
気を付けているとしたら、別に規制など問題にならない。
人権(そのもの)侵害阻害の形の変化に対応する形で
暫定自由線は引き直されるのだ。
所有権絶対自由契約絶対自由を原則とした似非自由・資本主義は、
人間社会(国家)ではあり得ない。
公共の福祉とは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範、すなわち法のことだ。
どんな制度も権利義務もこの超法規社会(国家)規範、すなわち法
ないしその感覚から生まれ、当然それによって制限される、道理だ。



5 (
人権(そのもの)は基本的人権の前提に存在している)

「日本国憲法は、社会権も保障しています。」
では、社会権とはどんな権利なのか。
杉原泰雄教授はこう説いていた。
「日本国憲法は、社会権も保障しています。
自由権の保障だけでは、
すべての国民に人間らしい生活を保障することができないからです。
学問の自由が保障されていても、
貧しい人は本を買うことも学校へかようこともできず、
学問をすることも教育を受けることもできません。
職業選択の自由が保障されていていても、
失業者、老齢者、疾病者などは、
それだけでは食べていくことも生きていくことも保障されません。
人間らしい生活を営むために必要な権利(社会権)を
保障しなければなりません。
(1) 生存権 
憲法は、第25条の第1項で
「すべて国民は、
健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と
定めています。
「健康で文化的な最低限度の生活」とは、
時代や社会的条件によって変化するけれども、
人間らしい生活の最低限のものということです。
第25条1項は、そのような生活を営めない国民に、
そのような生活の保障を要求する権利をみとめ、
国にはそれを保障する義務があるとしているのです。」
「生活保護法という法律で、この権利の保障はいちおう
具体化されています。」
「(2) 教育を受ける権利
第26条1項は、すべての国民に、
「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」を保障しています。
この保障は、国民がひとしく教育を受けることを
国から妨害されないよう保障しているだけでかく、
経済的条件や社会的条件や身体的条件などのゆえに
教育を受けることができない国民のために、
ひとしく教育を受けられるよう経済的な援助をし、
施設などの条件を整備すべきことを国に義務づけたものです。
・・・この権利も、すべての人間に人間らしい生活を保障するために
不可欠なものです。」
「(3) 勤労の権利と労働基準の法定
第27条は、1項で勤労の権利を保障しています。
勤労(労働)の権利とは、
労働の機会を国から妨害されないよう保障するだけでなく、
労働の能力がありながら労働の機会をえられないでいる失業者に
労働の機会を保障するよう国に義務づけるものです。
国に職業の保障を求める権利といってもいいでしょう。
日本は社会主義国ではなく、
国が労働の機会のすべてをにぎっているわけではないので、
失業者に適当な職を紹介できないことが当然におこります。
そのばあい、国は失業保険やその他の方法によって失業対策を
しなければなりません。
職業安定法や雇用保険法などは第27条1項にもとづくものです。
第27条は、そのほかに、「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件
に関する基準は、法律で定める」(第2項)としています。
勤労条件(労働条件)に関する基準を法律で定めることにしたのは、
労働者に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するためです。」
「(4) 労働三権(第28条)
ひとりひとりの労働者が使用者と交渉して労働条件をきめる
ということになると、
雇われる立場にある労働者は、どうしても低賃金・長時間労働などの
つらい労働条件を押しつけられることになりがちであり、
「健康で文化的な最低限度の生活」を営むことがむずかしくなります。
そこで、憲法は、そうならないように、
一方で労働条件の基準を法律で定めることとし(第27条2項)、
他方で「勤労者」に団結権、団体交渉権、その他の団体行動権の
いわゆる労働三権を保障しています。」
(杉原泰雄「新版憲法読本」岩波ジュニア新書134ページ以下)、と。


社会(国家)のすべての人が「人間らしい生活を営むために必要な
権利(社会権)」とは、
すべての人が、
社会(国家)の中で他者と共に健康で文化的な生活を営むべく自由に
生きていくために必要な権利、と考えられるだろう。
とすれば、
すべての人が、
社会(国家)の中で他者と共に健康で文化的な生活を営むべく自由に
生きていく、
暫定自由・税・社会補修復元制度が一体となった
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)であっての権利義務、
それが社会権だ、と考えられてくる。
したがって、
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく超法規的権利義務、
すなわち人権(そのもの)は、この社会権の前提に存在している、
と考えられてくる。
また、職業選択や財産権などの暫定自由権や参政権も
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)であっての権利義務、
すなわち社会権だ、と考えられてくる。
とすると、人権(そのもの)は、基本的人権の前提に存在している、
といえてくる。



6 (
行政の目的は人権(そのもの)擁護)

すべての人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=法(自然法)感覚が欠落した、
強欲で、戦略的で、口八丁手八丁で、弁舌に長け、
詐欺的才覚がある欠落才覚人たち。
この欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした
仕様の、
人工市場似非社会・国家が、
所有権絶対自由、契約絶対自由を原則とした
近代似非自由・資本主義国家主義の正体だ。
もちろん、似非自由・資本主義国家主義化によって
社会(国家)は歪められ、破壊されてくるのが落ちで、
人間社会(国家)が完全に人工市場似非社会・国家化する、
というようなことは、あり得ない。
始末が悪いのは、
所有権絶対自由、契約絶対自由を原則とした
近代似非自由・資本主義国家主義化が
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)として完成前の、
過渡期の
近代似非社会・国家への回帰であり、
自分たちこそ抵抗勢力であることが、分かり得なくなっている
壊れた人間たちだ、ということだ。


「小泉政権時、内閣府で構造改革の立案に従事」した
大田弘子政策研究大学院教授は、
こう言っている。
「個人の選択の自由を広げ、企業の創意工夫を最大限に生かす。
政府は公正な競争を担保する環境整備に徹する。
これが新自由主義の考える「経済的な自由」です。
小泉政権の構造改革は、こうした考えに基づいていました。
格差を招き、むしろ選べない社会をつくった諸悪の根源との
批判を受けていますが、
それは「市場原理主義」という誤解に基づくものです。
改革の方向性は間違っていないと、今も考えています。
格差の拡大や中間層の衰退は1990年代に起きた
グローバル化やIT(情報技術)革命による競争激化、
高齢化や世帯構造の変化によるところが大きい。
非正規雇用の増加も90年代後半からです。
こうした変化への対応が構造改革であり、
多様な人材を最大限に生かす仕組みをつくるのが目的です。」
「高度経済成長期の日本型雇用システムのみを是とする人が
いますが、
年功序列や中途採用の抑制を柱としたこのシステムは、
中にいる人は守られますが、
外の人には冷たい硬直的な制度です。
必要なのは、従来型の制度への回帰ではなく、
多様な人材が、どんな働き方をしても著しく不利にならないよう
改めることです。」
「規制改革も、考え方は同じです。
民間の自由な発想や新規参入を妨げる規制を取り除く。
政府が口を出す事前規制は最小限にし、
事後的な監視強化に切り替える。
そうして新しい産業、雇用が生まれる土壌を整えるのです。」
(大田弘子「選択肢を広げる構造改革」
2016.1.6朝日新聞)、と。


「個人の選択の自由を広げ」ればいい、という問題ではない。
「選択の自由」はトリックだ。
欠落才覚人天下人工市場似非社会化するためのトリックだ。
すべての人が、社会(国家)の中で他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
人間社会(国家)に実在する自由は、暫定自由だ。
それは、人権(そのもの)を侵害阻害することが
予め判然としていない限りで、
かつ、健康で文化的な生活を営むために存在している。
この暫定自由を「選択の自由」にすり替えたのが、
新自由主義だ。
新自由主義は絶対自由資本主義妄想の別称に他ならない。


そもそも、人間社会(国家)はマーケット(市場)ではない。
生きていく、という絶対的な目的を持った生き物である人間が
一人では生きていけない故に組織されたのが社会(国家)だ。
生きていく、ということは、
単に糊口をしのぐ、ということではなく、
社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、ということだ。
それ故、すべての人が、
社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
暫定自由・税・社会補修復元制度が連結一体になった、
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)は
人間社会(国家)の完成形だ。
当然、行政・政治の目的は、
人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
超法規的権利義務、すなわち人権(そのもの)の擁護だ、
ということになる。
人権(そのもの)を否定する自由は人間にはない。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
という超法規社会(国家)規範=法(自然法)が
人間社会(国家)には実在している。
行政・政治に
この超法規社会(国家)規範=法(自然法)を否定する
自由はない。
自由に社会(国家)を設計築造し得る、というのは、
妄想でしかない。