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(第U編 絶対自由資本主義を原理原則とした社会あり得ない)









懈怠されてきた則法人権擁護暫定自由制度社会の理論化可視化懈怠されてきた則法人権擁護暫定自由制度社会の理論化可視化





第一部−2

懈怠されてきた
 則法
人権擁護暫定自由制度社会の
  理論化可視化


――それは修正資本主義と誤解され
  その理論化可視化はされてこなかった。






           目   次


1 (懈怠されてきた
   則法人権擁護暫定自由制度社会の
   理論化可視化

2 (人権擁護システム社会は
   成熟し経済の比重は下がるのに

3 (社会主義も資本主義も
   人権(そのもの)の観念が欠落した妄想なのに

4 (人権(そのもの)擁護システム社会故の
   成熟社会なのに

5 (ケインジアンが資本(絶対自由)主義妄想から
   抜け出せなかったのも

6 (人間社会を人工市場似非社会化する
   犯罪思想が新自由主義なのに

7 (人間社会(国家)の見えざる手は
   法(自然法)感覚のことなのに

8 (再分配の事実ではなく
   再分配理論の罠なのに

9 (絶対自由(資本)主義という
   妄想・詐術の決定的終焉なのに






1 (懈怠されてきた
   則法人権擁護暫定自由制度社会の
   理論化可視化



資本(絶対自由)主義によって豊かになった、と
誰もが信じてきた。
勿論、これは誤解だ。
絶対自由(資本)主義妄想を原理原則とした人間社会(国家)など
あり得ないのだから。

当然、絶対自由(資本)主義化によって社会(国家)は
逆に悪くなる道理だ。
誰も則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度
システム社会(国家)と
絶対自由(資本)主義人工市場似非社会・国家を
区別してはこなかった。
そのため、人権(そのもの)を守る規制も少なくないのに、
税もかなりの累進課税制度なのに、
社会保障制度もそれなりに存在しているのに、
修正資本主義と誤解し、誤称し、
資本(絶対自由)主義と決め込んでしまった。
則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度システム社会(国家)
の理論化可視化が懈怠されてきた付けだ。


すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
いかなければならない、超法規的権利義務が
人権(そのもの)だ。
法律は、形式的には社会(国家)契約であり、
実質的にはこの人権(そのもの)を守るための方策だ。
人権(そのもの)を守るための規制が法律だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範が法(自然法)だ。
法律は必要に迫られてこの法(自然法)を具体化したもの、
と言っていいのかもしれない。
この法律に抵触しない限り、
なにをしようが取りあえずは自由だ。
この取りあえずの自由が暫定自由だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくには
社会(国家)的分業が最も合理的だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範感覚、つまり神の見えざる手が
実在する結果として、暫定自由(制度)の下での産業形態は
社会(国家)的分業が必然だ。
分業で人々の健康で文化的な生活は向上していく。
勿論、(暫定)自由はいいことばかりではない。
(暫定)自由の結果として、
人権(そのもの)の侵害阻害・損傷、
その結果としての社会(国家)の歪み・綻びの惹起は避けえない。
この(暫定)自由の結果もたらされる
人権(そのもの)の侵害阻害・損傷ないし社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
帰属所得再評価不当利得返還制度である累進課税制度と
一体になった(狭義の)国家制度や公共事業制度や
社会(国家)保障制度などの
社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)を以て、
補修され、復元される。
必要最小限度の事前規制と
暫定自由と
事後の社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)
で構成された全体が暫定自由制度だ。
法(自然法)に則った、人権(そのもの)擁護システム社会(国家)、
制度としては、暫定自由制度、
それが普遍的人間社会(国家)だ。


暫定自由制度を否定した絶対自由を是とする絶対自由主義が
自由主義であり資本主義だ。
自由主義というのは、人間を自由意思人と擬制し、
この人権(そのもの)と法(自然法)の拘束から解放し自由にした
絶対自由主義妄想のことだ。
資本主義というのは、
この絶対自由主義妄想を前提に
所有権と契約を絶対自由とした絶対私有財産制度を
人工的に措置する妄想だ。
絶対万能国家によって担保された絶対万能法律を以て
絶対所有権と人々の自由意思による合意(契約)を担保する
のが、自由主義資本主義だ。
当然、絶対万能国家幻覚は創造主として絶対に欠かせない、
ということになる。
絶対自由と絶対万能法律とそれを支える絶対万能国家で
構成された人工市場似非社会主義が絶対自由(資本)主義だ。
つまり、自由主義資本主義社会とは、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした
人工市場似非社会なのである。
欠落才覚人たちが限りなく豊かになるためには、
人間社会(国家)の破壊は厭わない、
という犯罪思想が絶対自由(資本)主義妄想なのである。
当然、絶対自由(資本)主義妄想を原理原則とした人間社会(国家)
というものはあり得ない、ということになる。
人権(そのもの)を守るための規制がなく、かつ税率がフラットである
絶対自由(資本)主義人工市場似非社会はあり得ても、
それは生身の人間が生きていくための社会(国家)ではない。


要するに、自由とは、人権(そのもの)と法(自然法)を否定した
絶対自由のことなのである。
しかし、私たちが、自由でありたい、自由でいたい、と考える
ときの自由は、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
その自由のことに違いないのである。
その自由は絶対自由のことではない。
それは、必要最小限度の事前規制と
暫定自由と
事後の社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)
で構成された全体である暫定自由制度下の
暫定自由に違いないのである。
とすると、則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度下の
私有財産制度も、絶対自由私有財産制度ではあり得ない、
ということになる。
則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度下の
私有財産制度は、暫定自由私有財産制度に違いないのである。
絶対自由私有財産制度・絶対自由(資本)主義を原理原則として
人工市場似非社会・国家はあり得ないのである。
当然、資本(絶対自由)主義妄想によって豊かになった、
という認識は妄想であり詐術でしかない、ということになる。
それは、則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度
システム社会(国家)と絶対自由(資本)主義人工市場似非社会・国家を
混同した誤謬からきた誤解だ。
それは、則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度
システム社会(国家)が理論化可視化されてこなかったことの結果に
違いない。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
その社会(国家)は、修正資本主義と誤解・誤称され、
理論化可視化されてこなかったのだ。
そのため、その認識を、誰も、持ち得ないできたのである。


したがって、日本の憲法も、こう考えられてきた。
憲法29条1項は、「財産権は、これを侵してはならない。」と
規定している。
2項は、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、
法律でこれを定める。」、と規定している。
3項は、「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために
用ひることができる。」、と規定している。
「憲法29条1項は、自由権としての財産権の保障と、私有財産制度の
保障という二つの意味をもつ、とするのが、通説的見解である・・・。」
(浦部法穂「全訂憲法教室206頁)、と。
したがって、この29条は、例えば、次のように解説されてきた。
「大切な人権の一つで、資本主義の基本ともいえる私有財産制を保障した
条文です。財産権には、土地やモノの所有権だけでなく、債権や著作権、
特許権なども含まれます。
29条は3項に分かれています。1項で「侵してはならない」と無条件で
財産権を認めているのに、2項と3項では「公共の福祉」と衝突したときに
財産権を制限する可能性を示しているのは、一見、矛盾しているように
見えます。
実は2項と3項は、生活に必要な道路や空港の建設など、国民の幸福
のために個人の土地を収用することがある、ということを示しています。
財産権を侵される側に対しては、当然、国などが保障することになります。」
(2016.8.28東京新聞朝刊)、と。
要するに、誰も則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度
システム社会(国家)と
絶対自由(資本)主義人工市場似非社会・国家を
区別してはこなかった。
そのため、人権(そのもの)を守る規制も少なくないのに、
税もかなりの累進課税制度なのに、
社会保障制度もそれなりに存在しているのに、
修正資本主義と誤解し、誤称し、
資本(絶対自由)主義と決め込んでしまった。
則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度システム社会(国家)
の理論化可視化が懈怠されてきた付けだ。


そもそも、基本的人権は人権(そのもの)ではない。
人権(そのもの)は最低限度の人権(そのもの)、すなわち生存権に姿を
変えて25条に規定されている。
13条の幸福追求権は、この人権(そのもの)を文学的に表現したもの、
とでも考えればいいのではないか。
基本的人権とは人権(そのもの)とそれを守るための権利義務が
一緒くたになった概念だ。
人権(そのもの)に国境はないから、戦争の観念がない。
絶対万能国家幻覚もないから、軍隊の観念がない。
9条がある所以だ。
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)だから、
天皇は、則法(自然法)人権(そのもの)擁護システム社会(国家)の
象徴であって、元首ではない。
1条がある所以だ。
人権(そのもの)と法(自然法)を否定する自由は人間にはないから、
憲法に規定されている自由権も絶対自由ではなく、暫定自由権だ、
ということになる。
したがって、29条1項は、暫定自由権としての財産権の保障と、
絶対自由私有財産制度ではなく、暫定自由私有財産制度の保障という
二つの意味を持つ、と考えられてくる。
権利義務の生みの親であり、それ故制限原理は、
超法規社会(国家)規範である法(自然法)だ。
公共の福祉とは、則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度
システム社会(国家)であることの恵沢だ、と考えられてくる。
財産権の内容は、超法規社会(国家)規範である法(自然法)に則って、
人権(そのもの)を守る法律で定めることにする、というのが、
2項の趣旨だ、と考えられてくる。
ちなみに、人権(そのもの)を侵害阻害損傷する法律は、
超法規社会(国家)規範である法(自然法)に反するものとして、
法律としての効力はない、法律ではない、というのが、
98条1項の違憲法令審査制度の趣旨だと考えられる。
正確には、違法(自然法)法令審査制度だ、ということになる。
国会内閣裁判所という(狭義の)国家は、社会(国家)の機関であり、
その任務は人権(そのもの)擁護だ。
(広義の)国家は、則法(自然法)人権(そのもの)擁護システム社会の
別称だ。
お国のため、とは、社会のため、人のため、になることだ。
社会とは別個の絶対万能国家など妄想・幻覚だ。
日本の憲法は、
則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)を約した
社会(国家)契約書だ。
その社会(国家)の理論化可視化が懈怠されてきた。





2 (人権擁護システム社会は
   成熟し経済の比重は下がるのに



佐伯啓思教授は、
40年前の、「カネをばらまくことで経済の成長と拡張を
追求」した「角栄の時代は成長の終期」だったとして、
成長を望めない今日において
「ポスト田中」を改めて模索しなければならない、
と説いている。
「『角栄的なもの』の終わりの時代」とは、
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)が未熟であり、
相対的に経済・カネの比重が大きかった時代の終わり
の時代ことだ。
したがって、「ポスト田中」とは、
社会(国家)が成熟し経済・カネの比重が相対的に下がった

時代の、則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)のことに違いない。
重要なことは、戦後の日本の社会(国家)が
則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)であって、
資本(絶対自由)主義人工市場似非社会・国家ではない、
ということだ。
とすると、「ポスト田中」がわからないのは、
則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)の理論化可視化が
懈怠されてきたからだ、と考えられてくる。


佐伯啓思教授は、こう言っているのだ。
曰く。
「ちょうどロッキード事件の発覚から40年。
1976年に田中は逮捕された。
「角栄の時代」のあまりに劇的な終焉であった。
「角栄の時代」とはいうものの、実際の田中の首相在籍期間
は72年からの2年あまりであり、決して長くはない。
しかも、最後は、いわゆる「田中金脈問題」を追求され、
「今太閤」ともいわれた首相就任時の栄光は、またたく間に
地に落ちてしまった。
にもかかわらず、田中政治がいまだに強く人々の記憶に残って
いるのは、日本全土を高速道路と高速鉄道でつなぐという
「日本列島改造論」をぶちあげ、また、いっきに日中国交回復を
断行するといったとてつもない行動力を見せつけたからだろう。
・・・・
だが、実際には「角栄の時代」とは、実は「角栄的なもの」の終わり
の時代だったのである。
「列島改造」によって日本全土を結びダイナミックな成長を実現し、
カネを国土の隅々までばらまくという田中の野望は、もはや時代の
要請するものではなかった。
大きな社会転換の時代だったのである。
田中が首相になったころ、71年には米国でニクソン・ショックが起き、
ドルを基軸とする国際経済はいっきに崩壊へと向かう。
73年には変動相場制へ移行し、米国の経済力によって支えられて
いた戦後のブレトン・ウッズ体制は終わる。
またこの年には石油ショックも起き、世界中でエネルギーの確保が
重要課題となる。
そしてこの時期、公害問題、環境問題が大きな社会問題となっていた。
すなわち、製造業の大量生産・大量消費によってモノを
あふれんばかりに作り出し、経済成長によって国民総生産(GDP)
を増大させ、そのことがわれわれの幸福になる、という成長路線は
もはやもたない、という時代でもあった。
72年にはローマクラブの『成長の限界』が出版される。
資源の有限性と環境問題が経済成長の限界を画する、とする
この書物の主張は当然のものとして受けとめられ、日本を含めた
先進国で大きな評判となった。
だから、錬金術のようにカネを生み出し、カネの力で人々を動かす
という田中政治は、まさにその栄光の頂点で奈落へ落ちる運命に
あった。
経済成長が生み出すカネの配分に人々は群がったが、成長そのもの
がもはや可能ではなくなっていたのである。
田中金脈問題とロッキード事件は、経済成長路線の終わりをも
意味していた。
続く70年代の後半は、「ポスト田中政治」の模索の時代である。
いいかえれば、高度成長も列島改造もついえ去った後の模索の
時代であった。
では、この数年にわたる模索は何を生み出したかというと、何も
生み出しはしなかった。
そして、そのうちに、レーガン大統領の登場とともに、米国は徹底
した市場競争主義をうちだし、グローバル化と情報革命を遂行する
ことになる。
日本はただただそれにつき従っただけであった。
そして今日、米国主導の市場競争主義もグローバル化もほとんど
行きづまっている。
世界経済全体が停滞の方向へ向かっている。
こうした世界状況のなかで、日本ではあいかわらず、さらなる
グローバル競争や情報系の技術革新が叫ばれ、超金融緩和で
カネをばらまいている。
すべては「成長」のためなのである。
しかし、今日の日本は、そして世界全体が、ダイナミックに成長できる
経済ではない。
それは限界まできている。
どうやら、われわれは、再び、40年前の状況へと戻ってきているのでは
なかろうか。
カネをばらまくことで経済成長を追求することそのものが問われている
のではなかろうか。」
(「ポスト田中 今度こそ」2016.9.8東京新聞夕刊)、と。


すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
生きていく場合の最も合理的な社会(国家)は、
則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)だ。
法律に抵触しない限り、
なにをしようが取りあえずは自由だ。
この取りあえずの自由が暫定自由だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくには
社会(国家)的分業が最も合理的だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範感覚、つまり神の見えざる手が
実在する結果として、暫定自由(制度)の下での産業形態は
社会(国家)的分業が必然だ。
社会(国家)的分業で人々の健康で文化的な生活は向上していく。
当然、則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)の下で、
人々の健康で文化的な生活は向上し、成熟していくはずだ。
そして、社会(国家)の成熟と共に経済・カネの比重は相対的に
下がっていくはずだ。
「『角栄的なもの』の終わりの時代」とは、
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)が未熟であり、
相対的に経済・カネの比重が大きかった時代の終わり、のこと
なのではないだろうか、と考えられてくる。
社会(国家)が成熟し経済・カネの比重は相対的に下がった
にもかかわらず、経済だ、景気だ、といって、
経済・カネにしがみついているのが、今日の問題だ、
ということになる。
それは、時代は、もはや経済成長が望めないところまで
来ている、という問題とは関係のないことだ。
ともあれ、則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)の理論化可視化が
懈怠されてきた付けが回ってきているのに違いない。
資本(絶対自由)主義化はこの懈怠に乗じた犯罪なのだ。


要するに、「ポスト田中」とは、
社会(国家)が成熟し経済・カネの比重は相対的に下がった
時代の、則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)のことだ、
と考えられてくる。
「ポスト田中」がわからないのは、
戦後の日本の社会(国家)を修正資本(絶対自由)主義と
誤解・誤称し、則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)の理論化可視化が
懈怠されてきたからに違いない。





3 (
社会主義も資本主義も
   人権(そのもの)の観念が欠落した妄想なのに



人間は、生きていく、という絶対的な目的を持った、生き物だ。
人権(そのもの)と法(自然法)が存在しているのは、
社会(国家)が、すべての人が生きていくことを目的に組織された、
目的を持った有機的組織体だから、だ。
自由主義資本主義妄想が、人権(そのもの)と法(自然法)を
否定しているのは、
人間を自由意思人と思い込んでいるからだ。
社会は自由意思人という個人の集合体でしかないからだ。
しかし、自由意思人という個人はそもそも実在しない。
この思い込みは、共産主義・全体主義・社会主義・集産主義の
誤りとは何の関係もない。
一種の人間崩壊でしかない。


ミルトン・フリードマンは、こう言っている。
曰く。
「本書で主張する政治・経済観を一括りにする呼称を決めておくと、
何かと便利ではないかと思う。
適切なのは「自由主義(liberalism)である。
ところがきわめて遺憾なことに、この言葉はアメリカでは、19世紀の
大陸欧州における意味とはかなり違ってしまっている。
・・・・・
18世紀後半から19世紀初めにかけて自由主義の名の下に
展開された運動は、社会における自由を究極の目標に掲げ、
社会の主体は個人であると主張した。
経済に関しては、国内では自由放任を支持し、経済への国の関与
を減らして個人の役割を拡大しようとした。
国外では自由貿易を支持し、世界の国々を武力に依らず民主的に
結びつけようとした。
また政治に関しては、代議制と議会制度の確立、国家の裁量権の
縮小、市民権の保護を訴えた。
しかし、アメリカでは、19世紀末から、とくに1930年以降、
自由主義あるいはリベラルという言葉は、ずいぶん違った意味合いを
帯びるようになった。
とりわけ経済政策について、それが言える。
自由よりも福祉や平等が重視されるようになり、めざす目標を
達成するのに、民間の自主的な取り組みよりも国家に頼ろうとする
ようになった。
19世紀の自由主義者は、自由の拡大こそ福祉と平等を実現する
効率的な手段だと考えたが、20世紀の自由主義者は福祉と平等が
自由の前提条件であり、自由に代わり得るとさえ考えている。
そして福祉と平等の名の下に、国家の干渉と温情主義(paternalism)
の復活を支持するようになった。
しかしこれは、19世紀の古典的自由主義者が適ししたものに
ほかならない。」
(ミルトン・フリードマン「資本主義と自由」村井章子訳
日経BP社29頁以下)、と。


社会主義も資本主義も
人権(そのもの)と法(自然法)の観念が欠落した妄想だ。
それは、人間を自由意思人と錯覚した結果であり、
その意味で、社会主義も資本主義も自由主義妄想だ。
人間が社会(国家)を自由に作り得る、というのは妄想だ。
人間を自由意思人に作り変えられる、というのは妄想だ。


松尾匡教授は、
「大きな政府」か「小さな政府」か、ということではダメだ、
と言っているが・・・。
曰く。
「1970年代までは、先進資本主義国でも「大きな政府」が
当然と思われていました。
例えば、北欧の高度福祉国家体制や、日本のインフラ建設
公共事業中心の、いわゆる「土建国家」体制などのように、
公金を大きくつぎ込んで、政府がさまざまな事業を行い、
民間企業の活動を規制・管理する体制がとられていました。
当時先進資本主義国に対抗していたソ連型の国々では、
国家主導がもっと徹底していて、産業をほぼ国有にして政府が
指令で運営する経済を目指していました。
これが「行き詰まった」とされて、1980年代から、世界中で
解体する動きが始まりました。
西側資本主義国では、民営化や規制緩和、財政支出の削減
など、いわゆる「新自由主義」政策が遂行されていきます。
ソ連側の国々では、市場メカニズムを導入する改革が進められ
た末に、そもそも体制自体が崩壊するに至ります。
この転換は、「大きな政府」をやめて、「小さな政府」にして、
できるかぎりのことを民間営利企業が取引する市場にまかせる
のがいいという理解で遂行されてきました。
のちに、新自由主義(大きな企業が自由におカネもうけできる
ようにしよう、もっと競争を激しくしようとする考え方)による格差
や地域社会の崩壊などのマイナスの影響が問題になると、
90年代にはイギリス労働党ブレア政権の唱える「第三の道」
(新自由主義でも、これまでの福祉国家でもないと称した路線)
のように、新自由主義の行き過ぎを補正するような路線が
打ち出されましたが、やはり極力「小さな政府」を維持しようとする
点では変りませんでした。
結局この路線も、格差や貧困を解決できず、世界中で
行き詰まっています。
その典型例だったのが2009年から3年続いて崩壊した日本の
民主党政権だったと言えるでしょう。
前著では、70年代までの国家主導体制が生き詰まって余儀なく
された転換の本質のことを「転換X」と呼び、新自由主義や
「第三の道」のような「小さな政府」への転換という理解は、この
「転換X」を誤解したものだったと論じました。
ではその「転換X」の正体は何だったのでしょうか。
「リスク・決定・責任は一致しなければならない」ということだ
というのが前著の主題になりました。
70年代までの国家主導体制は、この三者が一致していなかった。
それがこの体制の行き詰まりの原因だったのだというわけです。
リスクのある決定をする人が、その責任を負わず、もっぱら
他人にリスクを負わせるシステムになっているなら、過剰に
リスクの高い決定が行われて、責任のない人々に損失を与えて
しまうからです。
例えば、ソ連型の国営企業の体制では、企業長が資材の在庫投資
などの投資決定をする権限を持っていながら、その結果について
自腹で責任をとる必要がありません。
だから、急なノルマが上から降りてきたときに対応できるように、
倉庫一杯に資材を積み上げるなどの過剰投資が起こります。
そのために、生産手段の生産に生産資源が過剰に割かれてしまい、
慢性的な消費財不足が起こったというのが体制崩壊の基本的な
原因です。
新自由主義はここを誤解して、何でも営利企業にまかせて市場競争
する体制がいいと考えたわけですが、その結果かえってソ連体制崩壊
の教訓をふまえないことをしてきました。
例えば、金融規制を緩和した結果、自腹で損失の責任をかぶらない
ディーラーが、もっぱら顧客にリスクのある金融商品の運用決定を
行ったために、過剰にリスクの高い取引が膨らんで経済を危機に
陥れました。
また、学校法人では、株主総会も株主代表訴訟も乗っ取りもありません。
つまり経営者が自腹で責任をとるシステムが存在しません。
それなのにこのかん政府は、大学に民間企業の真似をしたトップダウン
を導入しようとしてきました。
そんなことをしたら、過剰にリスクの高い投資決定が際限なくされて
しまいます。
また、80年代以降、何でも営利会社形態でやらせようという動きが
続いていますが、リスクが現場の消費者や従業者にかかり、出資が
もどらない市場リスクよりも重大ならば、出資者に主権のある会社形態
よりも、リスクをかぶる消費者や従業者が決定権をにぎる協同組合に
した方が合理的です。
有名な自由主義思想の雄フリードリッヒ・ハイエクが、ソ連邦体制を
根底的に批判した論点は何だったかというと、民間人の情報を把握
しきることのできない中央当局が、恣意的な意思決定をすると、
民間人に予想できないリスクをかぶせることになるということです。
やはり、リスクのあることは、リスクとそれにかかわる情報が一番
ある現場に意思決定を任せるべきだということになります。
政府は、リスクのある決定から手を引いて、民間人のリスクを極力
なくすために、人々の予想を確定する役割に徹するべきだということ
になります。
それゆえ、新自由主義者はしばしば、役所が民間企業のようになる
のがハイエク的な市場自由主義に照らしていいことのようにみなす
改革を進めてきたわけですが、全く正反対の誤解だったわけです。
これをふまえて、前著では「転換X」にのっとった経済政策体系を
提示しました。
それは、財政規模が小さいとか、規制が少ないという意味での
「小さな政府」では必ずしもないということです。
ただ、政府による恣意的な判断の余地が少ない、人々の予想を
確定する「ルール」を実現する政府、いわば「基準政府」だという
ことです。」
(松尾匡「自由のジレンマを解く」PHP新書3頁以下)、と。


要するに、「大きな政府」か「小さな政府」か、ということでは、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくことは
適わない、ということだろう。


人間社会がすべての人が生きていくためにあるのは、
自明だ。
となれば、その執行部である(狭義の)国が
社(国)民の面倒を見る、見てくれる、べきだ、
というのは、ある意味、当然の発想だろう。
「大きな政府」はその当然の帰結だろう。


だが、すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
生きていく場合の最も合理的な社会(国家)は、
則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)だ。
法律に抵触しない限り、
なにをしようが取りあえずは自由だ。
この取りあえずの自由が暫定自由だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくには
社会的分業が最も合理的だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範感覚、つまり神の見えざる手が
実在する結果として、暫定自由(制度)の下での産業形態は
社会的分業が必然だ。
社会的分業で人々の健康で文化的な生活は向上していく。
勿論、(暫定)自由はいいことばかりではない。
(暫定)自由の結果として、
人権(そのもの)の侵害阻害・損傷、
その結果としての社会(国家)の歪み・綻びの惹起は避けえない。
この(暫定)自由の結果もたらされる
人権(そのもの)の侵害阻害・損傷ないし社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
帰属所得再評価不当利得返還制度たる累進課税制度と
一体になった
(狭義の)国家制度や公共事業制度や社会(国家)保障制度などの
社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)を以て、
補修され、復元される。
必要最小限度の事前規制と
暫定自由と
事後の社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)
で構成された全体が暫定自由制度だ。
法(自然法)に則った、人権(そのもの)擁護システム社会(国家)、
制度としては、暫定自由制度、
それが普遍的人間社会(国家)だ。
「大きな政府」ないし社会主義も
「小さな政府」ないし資本主義も、
この普遍的人間社会(国家)に照らして見たとき、
致命的な欠陥がある、ということだ。


「大きな政府か小さな政府か」「社会主義か資本主義か」という
二者罠中の必殺罠が効いてしまうのは、
普遍的人間社会(国家)である則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)を
修正資本主義と誤解・誤称し、
その理論化可視化が懈怠されてきた、ということの結果に
違いないだろう。





4 (
人権(そのもの)擁護システム社会故の
   成熟社会なのに



小野善康教授は、
日本経済は、1980年代から90年代を境に
「発展途上社会」から「成熟社会」へと大きく変貌を
遂げている、と指摘している。
勿論、資本(絶対自由)主義人工市場似非社会・国家
に「成熟社会」という観念はあり得ないことだ。
とすると、すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)の成熟だろう、
と考えられてくる。


すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
生きていく場合の最も合理的な社会(国家)は、
則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)だ。
法律に抵触しない限り、
なにをしようが取りあえずは自由だ。
この取りあえずの自由が暫定自由だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくには
分業が最も合理的だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範感覚、つまり神の見えざる手が
実在する結果として、暫定自由(制度)の下での産業形態は
分業が必然だ。
分業で人々の健康で文化的な生活は向上していく。
当然、則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)の下で、
人々の健康で文化的な生活は向上し、成熟していくはずだ。
則法(自然法)暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)故の成熟社会(国家)だ、
と考えられてくる。


小野善康教授は、こう言っているのだ。
曰く。
「日本経済は、1980年代から90年代を境に大きな変貌を
遂げています。
それは「発展途上社会」から「成熟社会」への変貌です。
発展途上社会では貧しいけれども、皆で一緒にがんばって
働けば豊かになれました。
ところが、がんばり続けて大きな生産力を手に入れ、欲しい物や
サービスのほとんどが手に入った結果ゆき着いた先は、
こんなはずではなかったという状態でした。
そこでは、がんばって働こうとしても働く場が足りず、他人を
蹴落とさなければ、自分の生活が危うくなるようです。
実は、成熟社会になると、これまでとおなじように遊ぶのを
我慢して一生懸命働いても、経済を成長させることはできません。
それどころか、かえって不況を激化させてしまいます。
不況の克服には生活をいかに楽しみ快適にするかを考える力が
必要で、それこそが日本を豊かにします。
しかし、このことは一般にはあまり理解されていないように
思われます。
それはなぜでしょうか。
これまで論壇やマスコミで行われた政策論議は、伝統的な二つの
経済学、いわゆる市場主義と称される新古典派経済学と、景気
重視と言われるケインズ経済学の立場からしか見ていませんでした。
それらは、経済の動きについて、次のような共通の考え方を持って
います。
すなわち、物・サービスや雇用などの需給に関する情報が不足して
いたり、企業や労働組合の独占力などがあったりすると、賃金や
物価の調整に歪みや遅れが生じる。
そのとき、一時的に需要と供給のアンバランスが生じて失業や
売れ残りが発生する。
でもそれらの欠陥や問題点が解消され賃金や物価の調整が進めば、
長期的には働きたい人がすべて働ける完全雇用状態に戻る、という
ものです。
だからこそ、短期的には減税や財政出動で景気を支え、
しばらくしたら無駄を排除し生産性を引き上げて、もとのように
一生懸命働けば経済は回復する、という主張が広まっているのです。
そこでは、不況が長期にわたって続くという発想はありません。
しかし、現実の日本では、1990年代初頭のバブル崩壊以降、
不況による雇用不足が20年以上も続き、それが一時的なショック
状態から完全雇用を回復するまでの短期現象だとは、とても思え
ません。
つまり、成熟社会では不況を長期的な現象として捉える必要があ
るのです。
そうなると、経済政策のあり方もまったく違ったものになってきます。
作った物やサービスがすべて売れるなら、一生懸命働いて増産
すれば生活も豊かになります。
しかし、もし物やサービスの需要が足りず、生産能力を使い切れ
ない状態が長期的に続くなら、増産しても売れ残り、効率化を進め
ても労働力が余って失業が増えてしまいます。
これでは逆効果です。
経済政策のあり方も、一時不況を前提とする従来の経済学とは
大きく違ってきます。
たとえば、私は以前から長期不況を念頭に「増税してもそれによって
政府が雇用を作れば、経済成長はできる」と主張しています。
これに対して経済効率を重視する新古典派からは、政府が大きく
なれば民間の生産活動を妨げて経済成長を阻害すると言われるし、
景気下支えを重視するケインジアンからは、増税して民間から
お金を取り上げれば景気を冷やすと言われます。
しかし、成熟社会の経済学ではどちらも該当しません。
成熟社会の長期不況は生産性の低さではなく需要不足が原因
ですから、政府が雇用を作って事業を行っても、余った労働力
が使われるだけで民間の生産活動は阻害せず、そのまま総生産
を増大させます。
また、納税者からお金を取り上げても新たな雇用を通してもどされる
ので、景気を冷やすことはありません。
そのため、生活の質を向上させる事業を行えば、人びとが快適に
暮らせる上に、失業も減って景気もよくなります。
これと同じ効果は、人びとがみずから支出しても生まれます。
だからこそ、自分の生活を楽しむ知恵が必要なのです。」
(小野善康「成熟社会の経済学」岩波新書@頁以下)、と。


(暫定)自由はいいことばかりではない。
(暫定)自由の結果として、
人権(そのもの)の侵害阻害・損傷、
その結果としての社会(国家)の歪み・綻びの惹起は避けえない。
この(暫定)自由の結果もたらされる
人権(そのもの)の侵害阻害・損傷ないし社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
累進課税制度と一体になった(狭義の)国家制度や公共事業制度や
社会(国家)保障制度などの
社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)を以て、
補修され、復元される。
必要最小限度の事前規制と
暫定自由と
事後の社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)
で構成された全体が暫定自由制度だ。
法(自然法)に則った、人権(そのもの)擁護システム社会(国家)、
制度としては、暫定自由制度、
それが、則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)だ。


とすると、人権(そのもの)を侵害阻害・損傷し、
その結果としての社会(国家)の歪み・綻びを惹起させる
最大のものは、この社会(国家)を資本(絶対自由)主義人工市場
似非社会・国家と考える、誤解だろう、と考えられてくる。
それは、則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)の理論化可視化を懈怠してきた付けだろう。
いずれにしろ、資本(絶対自由)主義人工市場似非社会・国家経済学
を以てどうこうできる問題などないはずだ。





5 (
ケインジアンが資本(絶対自由)主義妄想から
   抜け出せなかったのも



人間は、
生きていく、という絶対的な目的を持った、生き物だ。
だが、一人では生きていけない。
社会(国家)を組織してみんなで生きていく以外に
生きていく術はない。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
いかなければならない、超法規的権利義務が
人権(そのもの)だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範が法(自然法)だ。
この超法規社会(国家)規範感覚、
つまり法(自然法)感覚が
人間社会(国家)の神の見えざる手だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
則法(自然法) 暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)は、
この人間社会(国家)の神の見えざる手が創った
普遍的人間社会(国家)だ。
だが、この人間社会(国家)の神の見えざる手が創った
普遍的人間社会(国家)は、
修正資本主義社会と誤解・誤称されたまま、
理論化可視化されてはこなかった。
ガルブレイスも、
「「ケインズ革命」とは、決して「政府による介入」を強めて
自由主義や資本主義を圧殺しようとしたものではなく、
ましては「大きな政府」(ビッグ・ガバメント)の構築それ自身
を目的とし提言されたものでは決してなかった」、
と言っている。
ケインズも、
自由主義資本主義妄想から抜け出せなかったのだ。
しかし、資本(絶対自由)主義とは、
神の見えざる手が欠落した欠落才覚人たちが
限りなく豊かになることを可能にした
人工市場似非社会・国家化をめざす犯罪思想だ。
そこでの人間は自由意思人だ。
決して、生きていく、という絶対的な目的を持った、生き物
としての人間ではない。


ガルブレイスは、こう言っているのだ。
曰く。
「ケインズが、
『このような大不況の中では、もはや「供給はそれ自らの
需要を生み出す』という『セイの法則』(Say’s law)など
まったく通用しない」
と判断して、アダム・スミス以来のミクロ経済学的な
「自由放任主義」(レツセ・フェール)に真っ向から挑戦しよう
と決意したのも、以上のような「個人」の力だけではもはや
どうにもならないイギリス経済の長期低迷があったからこそ
でした。
つまり、「ケインズ革命」とは、決して「政府による介入」を
強めて自由主義や資本主義を圧殺しようとしたものではなく、
ましては「大きな政府」(ビッグ・ガバメント)の構築それ自身
を目的とし提言されたものでは決してなかったのです。
すなわち、その時ケインズは決然として、
「このまま『見えざる手』
のなすがままに放任・放置しておけば、貧しい者はますます
貧しくなる一方であり、膨大な数の失業者に雇用の手が自然に
さしのべられることなどないであろう」
と思い定め、カール・マルクス(Karl Marx 1818〜83年)が
盛んに唱えていたような流血を伴う「大きな革命」を、無血の
「より小さな革命」によって未然に阻止しようとしたのでした。
だからこそ、「世界恐慌」の真っ只中で発表された
「ケインズ経済学」(1936年に刊行された『雇用・利子および
貨幣の一般理論』を濫觴とする)は、その後、第二次世界大戦
が終わった後も冷戦構造の中で末永く生き続け、戦後世界の
経済学の主流として各国の政府にも積極的に採用され、大きな
効果を発揮したのです。
今にして思えば、あの驚異的な「日本の奇跡」や「西ドイツの
奇跡」もケインズ経済学が指し示した経済再建と復興のための
処方箋にしたがって、最も苦しい時代に一種の資本主義的
「計画経済」(plnned economy)を実行したからこそ起こり
得たのではないでしょうか。
それなのに、いつの間にか、アメリカにおけると同様に、日本に
おいても「ケインズ経済学など百害あって一利なし」というような、
極端な「反ケインズ主義」(anti−Keynesianism)が大手を
振ってまかり通るようになってしまった。
なぜでしょう?」
「最も明確に分かっているのは、1980年11月のアメリカ大統領
選挙で、再び共和党の候補すなわちロナルド・レーガン
(Ronald W.Reagan 1911年〜)が勝利した結果、
「サプライ・サイド・エコノミックス」(供給重視の経済学)と呼ばれる
金持ち重視の経済学が、俄然勢いづいたという事実です。
もちろん、それまでにも、「政府による総需要の管理政策によって
経済をコントロールできる」という「需要」側(demand−side)
重視のケインズ経済学派に対する批判や反論は数多くありました。
たとえばミルトン・フリードマン(Milton Friedman1912〜)に
代表される「貨幣の需要を重視した「マネタリズム」(貨幣数量説)や、
ロバート・ルーカス(Robert Emerson Lucas,Jr 1937年〜)、
トーマス・サージェント(Thomas J.Sargent 1943年〜)、
ロバート・バロー(Robert Joseph Barro 1944年〜)らに
代表される「合理的期待形成論」(Rational Expectations 
School=マネタリズム・マークU)、あるいはジェームス・ブキャナン
(James Mcgill Buchanan 1919年〜)らに代表される
「公共選択論」(Public Choice Theory)、もしくは
フリードリッヒ・ハイエク(Friedrich August von Hayek 
1899〜1992年)らに代表される「自由競争主義」(Pure Teory
 of Capital)などがそれです。
しかし、1981年1月20日に発足したレーガン政権の
「レーガノミックス」(Reaganomics)と総称される一連の経済政策は、
極端に「富の供給側」、すなわち大資本や大企業など金持ち階級の
利益を擁護しようとするものでした。
一口に「サプライ・サイダー」と総称されるこのSSE支持者たちの
中にも様々な学派や主張が混在していましたが、その主旨を最も
簡単に言えば、
「ケインズ革命のため、アメリカの『政府』機構は不必要なまでに膨張
してしまった。
この肥大した『大きな政府』(ビッグ・ガバメント)を、
累進税率の廃止や高福祉政策の見直しなどを通じて『小さな政府』
(スモール・ガバメント)に引き戻し、富の生産・供給側が本当に
やる気(incentive)を起こすような経済体制に変えていかなければ
ならない」
というもので、極端なまでに「個人」や「企業」のインセンティブを
重視し、「政府」の果たすべき役割を軽減しようとしたものでした。
そしてこのような政策は、同じような「大きな政府」のマイナス面
(政府支出の増大や国有企業の肥大化、官僚機構の無駄遣いなど)
に頭を悩まされ続けてきた日本の指導者層にも積極的に受け入れ
られ、いわゆる「民営化」論や「社会福祉制度の抜本的見直し」論
などという形で、1980年代の世界を大きく揺り動かしたのです。
もちろん、このような「構造改革」がプラスに働き、資本主義社会
そのものの健全化に寄与すれば、それはそれで高く評価すべき
ものであったのかも知れません。
しかし結果的には、このような「レーガノミックス」は大失敗に終わり
ました。
その原因は幾つも考えられ、また相互に複雑に絡み合っていますが、
最大の問題点は、一方で「小さな政府」への大転換をさかんに喧伝
しておきながら、他方では極端なまでに軍事費を増やしていった
という点です。
そのためレーガン政権の時代には、ぺンタゴン(国防総省)を初め
とする官僚機構がかえって肥大化し、政府支出も増大の一途を
たどるばかりで、結果的に「双子の赤字」(twin deficits)と呼ばれる
抜き差しならない大赤字を抱え込んでしまう結果となりました。
「双子」というのは「財政赤字」ばかりではなく、「貿易赤字」
(経常収支の赤字)まで抱え込んでしまったということであり、
アメリカはまさに火の車状態に追い込まれてしまったのです。」
「「サプライ・サイド」(供給側)のインセンティブや利益を重視する
という考え方は、取りも直さず「デマンド・サイド」(需要側)、
すなわち消費者、とりわけ貧困層に対する結果的な増税や、
福祉サービスの削減などを伴う大幅な負担増となって重く
のしかかってきます。
事実、レーガノミックスが始まってから2年目の1982年11月
には、アメリカの失業率は過去最高の10.7パーセントにまで
上昇し、貧しい人々や熟練した技術を持たない「社会的弱者」
(持たざる階級=have-nots)ほど、「働きたくても働けない」
という悲惨な状況に追い込まれてしまったのです。
フランクリン・ルーズヴェルト大統領の時代には、「政府」の
役割を積極的に発揮して「国家が仕事を創出する」という
積極的な介入政策が取られました。
しかし、ロナルド・レーガン大統領の基本的な政策は、
「政府は介入しない」という正反対の考え方で貫かれていたわけ
ですから、医療や食料の補給などという社会保障費の
大幅な削減とも相まって、アメリカの貧困層にとっては最悪の
状況が到来したのです。」
(ジョン・ケネス・ガルブレイス「日本経済への最後の警告」
(角間隆訳)徳間書店22頁以下)、と。


社会的分業で人々の健康で文化的な生活は向上していく。
勿論、(暫定)自由はいいことばかりではない。
(暫定)自由の結果として、
人権(そのもの)の侵害阻害・損傷、
その結果としての社会(国家)の歪み・綻びの惹起は避けえない。
この(暫定)自由の結果もたらされる
人権(そのもの)の侵害阻害・損傷ないし社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
帰属所得再評価不当利得返還制度である累進課税制度と
一体になった(狭義の)国家制度や公共事業制度や
社会(国家)保障制度などの
社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)を以て、
補修され、復元される。
必要最小限度の事前規制と
暫定自由と
事後の社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)
で構成された全体が暫定自由制度だ。
法(自然法)に則った、人権(そのもの)擁護システム社会(国家)、
制度としては、暫定自由制度、
それが普遍的人間社会(国家)だ。
だが、人間社会(国家)の神の見えざる手が創った
普遍的人間社会(国家)は、
修正資本主義社会と誤解・誤称されたまま、
理論化可視化されてはこなかった。
ガルブレイスも、
「「ケインズ革命」とは、決して「政府による介入」を強めて
自由主義や資本主義を圧殺しようとしたものではなく、
ましては「大きな政府」(ビッグ・ガバメント)の構築それ自身
を目的とし提言されたものでは決してなかった」、
と言っている。
付け込まれるだけの欠陥はあったのである。





6 (人間社会を人工市場似非社会化する
   犯罪思想が新自由主義なのに



「市場での自由競争を尊重する思想」
「市場重視の思想」である
「新自由主義」と「正反対の立場」だとして、
八代尚宏教授は、
「賢人政治」の思想と「共同体重視」の思想を上げ、
「ふたつの思想」は「反市場主義」と「大きな政府」
という面では一致している、と次のように言っている。
曰く。
「「新自由主義」思想の具体的なイメージを掴むために、
まずはそれと正反対の立場を見ることが有益であろう。
日本における伝統的な「反市場主義」の思想としては、
以下のふたつがある。
第一は、「賢人政治」の思想であり、
政府による資源配分や所得分配の規模拡大を重視する
ものである。
すなわち、「高福祉・高負担の名目で、法人税や所得税の
最高税率を引き上げ、大企業や高所得層の負担で
所得再分配を強化する」ことが基本政策となる。
また、利益追求の企業に代わって、国が国民生活に関わる
医療・介護・保育から職業紹介に至るまで、
公共的なサービスの供給に全面的に責任を持つべきとする。
そこには、「非合理な規制や高負担を避けるため、企業が
国内の経済活動を抑制し、海外へ工場を移転するという
可能性は乏しい」という前提があるが、
これはグローバル化が進む時代には希望的観測である。
また、「高福祉」への政策が先行する反面、政治的に
「高負担」は受け入れられにくいため、赤字財政の慢性化や、
後の世代に負担が先送りされる「大きな赤字政府」となりやすい。
第二は、伝統的な「共同体重視」の思想である。
たとえば、零細農業や中小企業、郵便局などを重視し、国内の
大企業などとの市場競争から保護すべきとする。
そのため、貿易や資本の自由化には消極的で、外資の参入を
極力抑制する。
また、「戦後の貿易や資本の自由化は、米国政府の圧力に
屈したもの」などと主張し、ナショナリズムにも訴える。
中小都市や町村を守るためとして、地方分権よりも地方への
財政移転を増やすことで、大きな政府につながる。
また、伝統的な家族を重視し、夫婦別姓選択制のような家族の
多様性を否定する。
これらふたつの思想は、互いに対立する面もすくなくないが、
「反市場主義」と「大きな政府」という面では一致しており、
日本の政界、財界、マスコミなどでも少なからぬ勢力を
維持している。」
(八代尚宏「新自由主義の復権」中公新書6頁以下)、と。


先述のように、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
いかなければならない、超法規的権利義務が
人権(そのもの)だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範が法(自然法)だ。
法律は、形式的には社会(国家)契約であり、
実質的にはこの人権(そのもの)を守るための方策だ。
人権(そのもの)を守るための規制が法律だ。
この法律に抵触しない限り、
なにをしようが取りあえずは自由だ。
この取りあえずの自由が暫定自由だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくには
分業が最も合理的だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範感覚、つまり神の見えざる手が
実在する結果として、暫定自由(制度)の下での産業形態は
分業が必然だ。
分業で人々の健康で文化的な生活は向上していく。
勿論、(暫定)自由はいいことばかりではない。
(暫定)自由の結果として、
人権(そのもの)の侵害阻害・損傷、
その結果としての社会(国家)の歪み・綻びの惹起は避けえない。
この(暫定)自由の結果もたらされる
人権(そのもの)の侵害阻害・損傷ないし社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
帰属所得再評価不当利得返還制度である累進課税制度と
一体になった(狭義の)国家制度や公共事業制度や
社会(国家)保障制度などの
社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)を以て、
補修され、復元される。
必要最小限度の事前規制と
暫定自由と
事後の社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)
で構成された全体が暫定自由制度だ。
法(自然法)に則った、人権(そのもの)擁護システム社会(国家)、
制度としては、暫定自由制度、
それが普遍的人間社会(国家)だ。


「賢人政治」の思想と「共同体重視」の思想を
揚げ足を取って批判するなら、いくらでもできる。
だが、その真意が、
この普遍的人間社会(国家)である
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム
社会(国家)にあるのは、明らかだ。


先述のように、
暫定自由制度を否定した絶対自由を是とする絶対自由主義が
自由主義であり資本主義だ。
自由主義というのは、人間を自由意思人と擬制し、
この人権(そのもの)と法(自然法)の拘束から解放し自由にした
絶対自由主義妄想のことだ。
資本主義というのは、
この絶対自由主義妄想を前提に
所有権と契約を絶対自由とした絶対私有財産制度を
人工的に措置する妄想だ。
絶対万能国家によって担保された絶対万能法律を以て
絶対所有権と人々の自由意思による合意(契約)を担保する
のが、自由主義資本主義だ。
当然、絶対万能国家幻覚は創造主として絶対に欠かせない、
ということになる。
絶対自由と絶対万能法律とそれを支える絶対万能国家で
構成された人工市場似非社会主義が絶対自由(資本)主義だ。
つまり、自由主義資本主義社会とは、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした
人工市場似非社会なのである。
欠落才覚人たちが限りなく豊かになるためには、
人間社会(国家)の破壊は厭わない、
という犯罪思想が絶対自由(資本)主義妄想なのである。
当然、絶対自由(資本)主義妄想を原理原則とした人間社会(国家)
というものはあり得ない、ということになる。
人権(そのもの)を守るための規制がなく、かつ税率がフラットである
絶対自由(資本)主義人工市場似非社会はあり得ても、
それは生身の人間が生きていくための社会(国家)ではない。


要するに、新自由主義などという犯罪思想が跋扈してきてしまう
のも、結局のところ、
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護システム
社会(国家)が、
修正資本主義と誤解・誤解されたまま、
理論化可視化されてこなかったから、だろう。





7 (人間社会(国家)の見えざる手は
   法(自然法)感覚のことなのに



人間は、
生きていく、という絶対的な目的を持った、生き物だ。

だが、一人では生きていけない。
社会(国家)を組織してみんなで生きていく以外に
生きていく術はない。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
いかなければならない、超法規的権利義務が
人権(そのもの)だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範が法(自然法)だ。
この超法規社会(国家)規範感覚、
つまり法(自然法)感覚が
人間社会(国家)の神の見えざる手だ。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
則法(自然法) 暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)は、
この人間社会(国家)の神の見えざる手が創った
普遍的人間社会(国家)だ。
したがって、則法(自然法) 暫定自由制度人権(そのもの)
擁護システム社会(国家)、つまり人間社会(国家)での
自由は、
人為法(絶対万能法律)からの解放に他ならない、
ということになる。


これに対し、絶対自由(資本)主義での自由は、
この人権(そのもの)と超法規社会(国家)規範である
法(自然法)の拘束からの解放のはずだ。
とすれば、それは、人間を自由意思人として擬制しなければ
不可能なはずだ。
実際、絶対自由(資本)主義人工市場似非社会・国家での
法律=社会契約は自由意思を前提とした絶対万能法律だ。
法律は、契約は、法律故に、契約故に、正しく守られるべき
ものだ。
これが妄想・幻覚でしかないのは、自明だ。
なのに、なぜこれほどまでに信奉されるようになってしまった
のだろうか。


人権(そのもの)と法(自然法)の拘束を否定してやってくるのは、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした
人工市場似非社会のはずだ。
勿論、それは、すべての人が生きていくための人間社会
(国家)ではない。
トリックは、「市場メカニズムという見えざる手=vにある。
アダム・スミスは、「市場メカニズムという見えざる手≠ェ
働いて、社会の秩序は維持される」、と主張した、という。
しかし、「市場メカニズムという見えざる手=vが働いて、
秩序が維持される」社会は、
人工市場似非社会でしかない。
それはすべての人が生きていくための人間社会(国家)では
ない。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする法(自然法)感覚、
つまり人間社会(国家)の神の見えざる手を、
人工市場似非社会・国家の神の見えざる手である
「市場メカニズムという見えざる手=vにすり替えたのである。
アダム・スミスを祖とする経済学は、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした
人工市場似非社会・国家の経済学なのである。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
人間社会(国家)の経済学ではないのである。


竹中平蔵教授は、次のように説いている。
曰く。
「人間は社会のなかで生きている。
いや、人間は社会のなかでしか生きることができないと言った
ほうがいいかもしれない。
しかし、人間が社会のなかで生きているということは、
人間の強みであると同時に、きわめて厄介な問題を内包して
いる。
それは、いったい社会の秩序はどのように保たれるのか、
という問題である。
・・・・・
・・・徐々に「自由」という考え方が入ってくる。
たとえば、八百屋の息子が八百屋にならずに職人になる、
という自由である。
仮にそのような自由が実現できる社会になると、きわめて大きな
問題が生ずることになる。
たとえば、その社会から八百屋が一人もいなくなるかもしれない。
そんなことになれば、社会が大混乱するという心配が生じるのだ。
そういう時代にアダム・スミスが登場し、そのような心配には
及ばないことを証明した。
八百屋の数が少なくなれば、八百屋の儲けが増える。
そうすれば、儲かる八百屋になりたいという人が必ず出てきて、
八百屋の数は増える。
そのようにして八百屋の数は一定に保たれる。
つまり、市場メカニズムという見えざる手≠ェ働いて、
社会の秩序は維持されると、アダム・スミスは主張したのである。
つまり、前例や慣習あるいは絶対君主の命令が社会秩序を
維持するという時代が終わりつつあり、新しい自由な生き方が
世の中を支配しはじめていた。
そして、自由な生き方で世の中の秩序が保たれることを
解説する役割を担う経済学者が、必要になってきたのである。
アダム・スミスはまさにそのような時代の要請を受けて、
『国富論』を書き上げたと言ってもいいかもしれない。」
(竹中平蔵「経済古典は役に立つ」光文社新書
24頁以下)、と。


要するに、アダム・スミスの見えざる手は、
欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを可能にした
人工市場似非社会・国家にある見えざる手なのである。
竹中平蔵教授はうまくごまかしているのである。
「市場メカニズムという見えざる手=vが
あたかも人間社会(国家)の見えざる手のことのように。
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていくべし、
とする超法規社会(国家)規範=法(自然法)感覚が
人間社会(国家)の神の見えざる手だ。
人間社会(国家)の神の見えざる手は、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)を創ったのである。
人間社会(国家)の神の見えざる手は人権(そのもの)を
守るための規制を創るし、
人権(そのもの)擁護システムとしての暫定自由制度を
創ったのである。
絶対自由(資本)主義妄想を信奉する欠落才覚人たちは
この神の見えざる手が欠落した人たちのことだ。


絶対自由(資本)主義は、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく
則法(自然法) 暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)を、
人工市場似非社会・国家へと改革しようという
犯罪思想なのである。
これも、結局は、則法(自然法) 暫定自由制度
人権(そのもの)擁護システム社会(国家)が、
修正資本主義社会と誤解・誤称されたままで、
理論化可視化が懈怠されてきたことの付けに他ならない
だろう。





8 (再分配の事実ではなく
   再分配理論の罠なのに



すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
いかなければならない、超法規的権利義務が
人権(そのもの)だ。
社会(国家)そのものが、
すべての人の人権(そのもの)を擁護するシステムに
なっているのが、
修正資本主義社会・国家と誤解されてきた
戦後の日本社会(国家)だ。
制度としては暫定自由制度が採られているが、
すべての人の人権(そのもの)を守っていくには、
おそらく最も合理的なものだ。
だが、理論化可視化は懈怠されてきた。
それが致命的な欠陥になっている。
そこを突く形で、自由主義資本主義化という犯罪が
執拗に続けられている。


「「弱者へのつめたいまなざし」が社会全体を覆っている」、
「中間層が貧しくなり、弱者へのやさしさが、失われた」、
と、井手英策教授は、次のように言っている。
曰く。
「僕たちは弱者につめたい、息苦しい社会を生きています。
でも、この事実は、より根の深い、難しい問題の一部でしか
ありません。
なぜなら、弱者へのつめたいまなざしは、人間への不信感、
人をうたがう気持ちが僕たちの社会を覆いつくしていることの
あらわれでしかないからです。
国際社会調査プログラム、世界価値観調査、ピュー・グローバル
・アティチューズ・プロジェクト・・・・・いろいろな調査を見ていますと、
「あなたは社会にいる他の人たちを信じますか」という質問に
出くわします。
「社会信頼度」の調査です。
じつは、日本人の社会的信頼度は、よくて先進国の平均以下、
悪ければ先進国で最低レベルにあります。
人間を信頼しない社会――この残酷な事実を発見し、僕は
気づきました。
それは、僕たちの社会には数々の「分断線」が引かれている
ということ、わかりやすくいえば、人にレッテルを貼り、
時にはねたみ、時には非難することで得をしようとする、
いやな社会ができあがっているということです。
ひとつの例をあげましょう。
さっき、公務員への悪口について話しました。
でも、親たちが子どもになってほしい職業の1位は、じつは公務員
なのです。
この事実が、いまの日本社会の病をハッキリと示しています。」
「この閉塞感、息苦しさはどこからくるのでしょう。
それは、僕たちの社会が「3つの分断の罠」にはまっていることと
関係しています。
3つの分断の罠とは何でしょう。
ひとつ目は「再分配の罠」です。
この間、アベノミクスに効果があったか、なかったかについて
にぎやかに論じられてきました。
ですが、効果のあるなし以前に、そもそも僕たちは、数年間、
所得が上がったくらいでは取り返せないほど貧しくなりました。
平均的な世帯所得を見てみましょう。
ピークは1990年代のなかばです。
それ以降、ほぼ毎年のように所得は減りつづけ、2割以上落ち込み
ました。
しかも、男性だけではなく女性も働く「共働き社会」に変わったのに、
所得は2割以上落ち込んだのです。
また、これをみごとに反映して、2000年代に入って年収400万円
以下の人たちの割合が増えました。
いまでは全体の5割にせまろうとしています。
少しややこしいですが、大切な点があります。
一部のお金持ちが増えると、他の人たちのくらしは変わりませんが、
平均で見た所得は上がりますね。
平均値だけが勝手に上がれば、それ以下の人は増えます。
じつは、平均所得を下回る人たちは、全体の6割をこえています。

日本人の6割は貧しいといっていいかもしれません。
中間層がじわりじわりと貧しくなるかなで、貧しい人のくらしばかりを
重んじるとどうなるでしょう。
格差是正の必要性を訴えるほど、負担者となる中間層の痛みが増し、
貧しい人への非難、あら探しがはじまります。
マスメディアでは、嘘をついて生活保護をもらう、「不正受給」の
問題がさかんに取り上げられます。
みなさんも生活保護をもらう人の多くが嘘をついてお金をもらっている、
仕事をサボって遊んでいる、と思ったことはありませんか?
でも、実際には、金額で見た不正受給は全体の0.5%くらいに
すぎません。
困っている人を助けようとすると中間層が反発する、
これが「再配分の罠」です。」
(井手英策「18歳からの格差論」東洋経済新報社
32頁以下)、と。


(暫定)自由の結果として、
人権(そのもの)の侵害阻害・損傷、
その結果としての社会(国家)の歪み・綻びの惹起は避けえない。
この(暫定)自由の結果もたらされる
人権(そのもの)の侵害阻害・損傷ないし社会(国家)の歪み・綻びは、
事後的に、
帰属所得再評価不当利得返還制度である累進課税制度と
一体になった(狭義の)国家制度や公共事業制度や
社会(国家)保障制度などの
社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)を以て、
補修され、復元される。
必要最小限度の事前規制と
暫定自由と
事後の社会(国家)補修復元制度(所得再分配制度)
で構成された全体が暫定自由制度だ。
法(自然法)に則った、人権(そのもの)擁護システム社会(国家)、
制度としては、暫定自由制度、
それが普遍的人間社会(国家)だ。


要するに、(狭義の)国家制度や公共事業制度や
社会(国家)保障制度は、
社会(国家)補修復元制度だ。
それと連結一体となった累進課税制度は、
帰属所得再評価不当利得返還制度である。
社会(国家)補修復元の結果としての再分配の
事実が間違いなのではない。
集めて配るという再分配理論が罠なのだ。
この社会(国家)を、欠落才覚人たちが限りなく豊かになることを
可能にした、資本(絶対自由)主義人工市場似非社会・国家
と思い込ませるための罠だ。
「困っている人を助けようとすると反発する中間層」は
この社会(国家)を資本(絶対自由)主義人工市場似非
社会・国家と思い込まされる教育をうけてきたのだ。


実際、「市場競争の結果、格差が生まれてしまうのは
事実である。
経済学者の多くは、市場競争で豊かさを達成し、
その成果を分配し直すことで格差に対処すべきだ
と考えている。」
(大竹文雄「競争と公平感」中公新書?頁以下)
所得再分配理論は、
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)を
資本(絶対自由)主義人工市場似非社会・国家化
するための詐術・罠の一つなのである。


「社会全体を覆っている『弱者へのつめたいまなざし』は
人間社会(国家)そのものが、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則法(自然法)暫定自由制度人権(そのもの)擁護
システム社会(国家)であることが、分かっていない
ことの結果でしかない。
資本(絶対自由)主義妄想・幻覚から抜け出せない、
学者の怠慢だ。
資本(絶対自由)主義妄想・幻覚を信奉する学者や
政治家は狂人なのではないだろうか。





9 (
絶対自由(資本)主義という
   妄想・詐術の決定的終焉なのに



水野和夫教授は、
「日本で続く超低金利は、近代資本主義の終焉のサイン」
なのだから、「資本主義からソフト・ランディング」すべく、
「新しいシステム、定常化社会へ準備を始めなければ
ならない」、と言っている。


確かに、「日本社会も第二次大戦前までは資本主義であった。」
(西山忠範「日本は資本主義ではない」三笠書房19頁)
しかし、第二次大戦後の日本社会(国家)は、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度
システム社会(国家)だ。
修正資本主義と誤解・誤称されてきたために、
その理論化可視化は懈怠されてきたために、
分からなかったに過ぎない。
しかも、資本(絶対自由)主義化により社会(国家)は歪められ
ますます分かりづらくなっていた。
ともあれ、とすると、
「新しいシステム、定常化社会」とは、
則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度
システム社会(国家)のことに違いない、と考えられてくる。
とすると、「資本主義の終焉」も、
「資本主義の終焉」ではなく、
資本主義を正当化する詐術の決定的終焉・破綻のこと
でしかないのではないか、と考えられてくる。


水野和夫教授は、こう言っているのだ。
曰く。
「日本の10年国債利回りが1997年に2%を下回ってから
20年近い月日が経とうとしています。
1997年といえば、北海道拓殖銀行や山一證券が破綻し、
日本の金融システムが大きく揺らぎはじめた年です。
ちょうどその頃、私は証券会社のエコノミストとして、
マクロ経済の調査に明け暮れていました。
当初は景気の低迷によって、一時的に利回りが落ち込んだ
のではないかと考えていましたが、その後も一向に2%を
超えない。
ITバブルで景気が回復しても、戦後最長の景気拡大を
経験しても、国債の利回りだけは2%を超えない。
一体なぜ、超低金利がこれほど長く続くのか。
その謎を考え続けていた時、歴史の中に日本と同じように
超低金利の時代があることに気づきました。

それが「長い16世紀」のイタリア・ジェノヴァで起きた
「利子率革命」です。
「長い16世紀」に起きた「利子率革命」は、中世封建制の
終焉と近代の幕開けを告げる兆候でし。
だとすれば、日本で続く低金利は、近代資本主義の終焉の
サインなのではないか。
そんな仮説を携えて、「長い16世紀」と現代を比較してみると、
単なる偶然では片付けられない相似性が次々と見つかり、
現代は「長い16世紀」と同様の「歴史の危機」にあることを
意識するようになっていきました。
以来、私は、利子率の推移に着目して、世界経済史を見つめ
続けてきましたが、その結果、資本主義の期限もまた、
ローマ教会が上限33%の利子率を容認した1215年あたりに
求められることに思い至りました。
ここで重要なのは、不確実なものに貸付をするときも利息を
つけてよい、と認められたことです。
つまり、リスク性資本の誕生です。
これが資本主義誕生の大きな契機となったのです。
そして、資本は自己増殖を続け、「長い16世紀」を経て、
資本主義は発展してきました。
かのマックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と
資本主義の精神』において、資本主義の倫理をプロテスタント
の「禁欲」主義に求めています。
しんし、「禁欲」した結果として蓄積された資本を、再投資によって
新たな資本を生み出すために使うのが資本主義です。
もっと言えば、余剰を蕩尽しないこと=「禁欲」は、資本を再投資
するためにこそ必要とされたのでしょう。
「禁欲」と「強欲」はコインの裏表なのです。
しかし、いくら資本を再投資しようとも、利潤をあげるフロンティアが
消滅すれば、資本の増殖はストップします。
そのサインが利子率ゼロということです。
利子率がゼロに近づいたということは、資本の自己増殖が
臨界点に達していること、すなわち資本主義が終焉期に入っている
ことを意味しています。
この「歴史の危機」を直視して、資本主義からのソフト・ランディング
を求めるのか、それとも「強欲」資本主義をさらに純化させて
成長にしがみつくのか。
後者の先にあるのは、破局的なバブル崩壊というハード・ランディング
であるにもかかわらず、先進諸国はいまなお成長の病に取り憑かれ
てしまっています。
資本の自己増殖が難しくなって以来、国境の内側や未来世代からの
収奪まで起きるようになりました。
その代償は、遠くない将来、経済危機のみならず、国民国家の危機、
民主主義の危機、地球持続可能性の危機という形で顕在化して
くるでしょう。
それまでに日本は、新しいシステム、定常化社会へ準備を始め
なければなりません。
私がイメージする常化社会、ゼロ成長社会は、貧困化社会とは
異なります。
拡大再生産のために「禁欲」し、余剰をストックし続けることに固執
しない社会です。
資本の蓄積と増殖のための「強欲」な資本主義を手放すことによって、
人々の豊かさを取り戻すプロセスでもあります。」
(水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」集英社新書
210頁以下)、と。


「資本主義の終焉」とは、
「資本主義の終焉」ではなく、
資本主義を正当化する詐術の決定的終焉・破綻のこと
でしかない。
第二次大戦後の日本社会(国家)は、
すべての人が、社会(国家)の中で、他者と共に、
健康で文化的な生活を営むべく自由に生きていく、
則法(自然法)人権(そのもの)擁護暫定自由制度
システム社会(国家)であって、資本(絶対自由)主義
社会・国家ではないのだから。
だが、修正資本主義と誤解・誤称されてきたために、
その理論化可視化は懈怠されてきたために、
第二次大戦後の日本社会(国家)も資本(絶対自由)主義
と誤解されてきてしまったのである。
そこを突く格好で、自由主義資本主義化という犯罪が
執拗に続けられてきている。