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飯田経夫は何に唖然・呆然としたのだろうか



 あとがき

 飯田経夫は
 何に唖然・呆然としたのだろうか
  ――アダム・スミスを祖とする
    「自由放任」経済学は
      始めから幻覚
    ――人間一人では生きていけない
 (自由放任幻覚)






飯田経夫は何に唖然・呆然としたのだろうか。
未だに従人為法絶対自由資本主義人工市場似非社会主義
・幻覚国家主義にしがみついている経済学に
唖然・呆然としたのである。
アダム・スミスを祖とする「自由放任」経済学は始めから
幻覚でしかなかったのである。
全ての人が、社会(国家)を組織して他者と共に、
幸福を追い求めて生きていく(健康で文化的な生活を営んで
いく)べし、とする超法規社会規範=法(自然法)が
存在しない自然状態を措定したのが幻覚だったのである。
人間を超法規社会規範=法(自然法)に拘束されない
自由意思人として錯覚・擬制したのが誤りだったのである。


1997年に著した「経済学のおわり」で、
飯田経夫はこう言っていた。
曰く。
「二百数十年の徒労
経済学二百何十年の歴史を、以上のように駆け足で振り
返ってみるととき、私たちが感じるのは、まさにアンティ・
クライマックス(anti-climax=拍子抜け)そのものであり、
それ以外の何物でもない。そのことに、私は唖然とし、呆然と
する。
もし上でいう「性悪説」が正しく、ケインズ主義と福祉国家の
企てが身の程知らずだとしたら、私たちが帰り着く先は、結局
のところ、アダム・スミスしかないからである。多くの知恵を動員
してケインズ主義を操作し、巨額のカネを費やして福祉国家を
運営してみても、それがただ社会に混乱を招くだけだとしたら、
そういう無駄は即刻止めたほうがいいし、止めざるを得ない。
そのとき経済は、「安い政府」のスミスに戻らざるを得ないだ
ろう。
二百何十年前、経済学はアダム・スミスから出発した。以後
それは、長い時間を費やしてマルクスとケインズを遍歴し、
多くの経験を積んだ。それが長い旅路の終わりに行き着く
先が、もし出発点とまったく同じスミスだとしたら、はたしてこの
長い遍歴は、何だったのであろうか。それは、まったくの徒労
だったのか。この二百何十年間の歳月に、いったいどのような
意味があったのだろうか。
これがアンティ・クライマックスでなくて、いったい何であろうか。
それに唖然とし、呆然とするのは、はたしてただ私だけであろ
うか。不遜とは知りながらも、経済学は何とつまらない学問で
あろうかと、ひとこと愚痴をいってみたくもなるではないか。
経済がスミスに戻れば、人びとはただ、余計なことはいっさい
考えずに、ひたすらカネ儲けに励むだろう。「自由放任」の
世界だから、規制はまったくない。世はこともなく、平和その
ものであるかに見える。しかし、同じ現実でも、見る人がちがえ
ば、まったくちがって見える。第4章でスケッチしたマルクスの
目から見れば、「狂気」を含んだ資本主義の世界にほかなら
ない。
そういえば、近年の資本主義・市場経済は、「狂気」というほど
ではないにしても、以前とくらべてずいぶん荒っぽくなったことに
気づく。先進諸国に限っていえば、以前は事実上「完全雇用」
が維持され、失業率はほぼ5パーセント未満という印象だった
のが、いつの間にかそれは軒並み上昇して、とくにヨーロッパ
諸国では、10パーセントを上まわるのがふつうになってしまった。
アメリカでは、失業率は上がっているわけではないけれども、
よく知られているとおり、所得分配の不平等化傾向が著しい。
たとえばレスター・サローは、近著『資本主義の未来』(TBS
ブリタニカ、1996)で、このままでは「システムはもたないだろう」
と、はなはだ深刻な警告を発している。優勝劣敗・弱肉強食
というマルクスの古典的な図式が、現代アメリカに復活して
いるわけである。部分的にもせよ、「失業と飢えの恐怖」は、
徐々によみがおりつつあるのではないだろうか。
失業率もとくに上昇せず、所得分配にもとくに不平等化傾向
が見られないのは、幸いなことに、わが日本くらいのものである。
しかし、その日本でも、人びとがーーとくに「ヒラの人たち」が、
現状に関しては、ほとんど「飽食」にも等しい「豊かさ」に満足感
・幸福感を満喫しつつも、前途に対して抱く漠然たる不安感は、
ひところよりもずいぶん大きいのでではないだろうか。それが
人に与える心理的効果は、「失業と飢えの恐怖」と共通する
ところがある。」
(飯田経夫「経済学のおわり」PHP新書172頁以下)、と。


経済学も、合理的経済人というより法律学同様、人間を
自由意思人と錯覚・擬制したのだ。
絶対自由資本主義人工市場似非社会主義・幻覚国家主義
では、「規制はまったくしない」し、所得再配分もまったく
しないし、市場の失敗という概念もないはずだから、だ。
勿論、人間は決して自由意思人ではなく、
生きていくという絶対的な目的を持ったそれでいて社会
(国家)を組織してみんなででしか生きていけない生き物
である。
法(自然法)も社会(国家)も人間が社会(国家)を組織して
みんなで生きていくべきものとして出来ている。
従人為法絶対自由主義似非社会から則自然法人権擁護
システム社会(国家)へコペ転換しているのが現代だ。


飯田経夫は何に唖然・呆然としたのだろうか。
未だに従人為法絶対自由資本主義人工市場似非社会主義
・幻覚国家主義にしがみついている経済学に
唖然・呆然としたのである。
アダム・スミスを祖とする「自由放任」経済学は始めから
幻覚でしかなかったのである。
自然状態に、全ての人が社会(国家)を組織して他者と共に、
幸福を追い求めて生きていく(健康で文化的な生活を営んで
いく)べし、とする超法規社会規範=法(自然法)が存在しない、
と思うこと自体が異常なのである。
アダム・スミスを祖とする「自由放任」経済学は始めから
幻覚でしかなかったのである。
超法規社会規範=法(自然法)が存在しない自然状態など
いつの時代だってあり得ないのである。



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       ワークスタイルコーディネーター
       則法人権擁護システム社会研究家
            岩崎 秀政