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神の見えざる手は具体的人間に備わっている



 [はじめに(続)


 神の見えざる手は
 具体的人間に備わっている
  ――ハイエクは何故自由主義(資本主義)幻覚に
     走ってしまったのか
 
(具体的人間感覚)





1 (神の見えざる手は
  具体的人間に備わっている
)
2 (ハイエクは何故自由主義(資本主義)幻覚に
  走ってしまったのか
)





1 (
神の見えざる手は
  具体的人間に備わっている
)

人間は、生きていくという絶対的な目的を持った、
それでいて社会(国家)を組織して他者と共に生きて
いく(健康で文化的な生活を営んでいく)以外に生きて
いく術のない生き物、そういう具体的人間である。
それ故、正常な人間には、みな、人権擁護システム
社会(国家)を組織して他者と共に生きていく(健康で
文化的な生活を営んでいく)しかない、という具体的
人間感覚(神の見えざる手)を備え持っている。
それ故、「自由放任」の結果として、神の見えざる手
(具体的人間感覚)が働き、自然法が観念され、
人権が観念され、人権擁護システム社会(国家)が
組織されるし、された。
「自由放任」の絶対自由資本主義人工市場似非社会を
実現させるためには、自由と合意(法規と契約)を絶対化し、
自然法と人権(生存権)を抹殺した上で、絶対権力幻覚
国家をでっち上げた上で強引にやるしかない、ということ
になる。
資本主義(自由主義)化というのは、
合意(法規と契約)を絶対化した、人為法(後ろ盾は絶対
権力幻覚国家)を以て強引にやる犯罪なのである。
それはともあれ、要するに、神の見えざる手は具体的
人間に備わっているのであり、それが、自然法を観念
せしめ、人権を観念せしめ、人権擁護システム社会
(国家)を組織せしめるのである。

図G-4―自由主義が空理空論の理由
     神の見えざる手は具体的人間に
     備わっているから
図G-4―自由主義が空理空論の理由 神の見えざる手は具体的人間に備わっているから





2 (
ハイエクは何故自由主義(資本主義)幻覚に
  走ってしまったのか
)

佐和隆光は
フリードリッヒ・ハイエク(1884―1992)を
「漂流する資本主義」(1999年ダイヤモンド社)の
中でこう紹介している。
曰く。
「ケインズ経済学の基本的な考え方に対して、真っ先に
批判の矛先を向けたのはフリードリッヒ・ハイエク
(1884―1992)であった。
ハイエクの経済観は実にユニークである。
その要点を以下に簡単に紹介しておこう。
経済を何らかの意図にそくして「計画」したり「制御」
したりしようとするのは、願ってもかなわぬ絵空事で
あるばかりでなく、有害ですらありうる。
ケインズ経済学は、政府の市場介入を正当化するけれ
ども、それは「理性の濫用」ないし「知的驕慢」にほかなら
ない。
政府の市場介入が一利もないのは当然だとしても、
百害あることを忘れてはならない。
市場、裁判所、法体系等々、現代社会の意味ある制度
のどれをとってみても、はじめからその制度を作ること
を目的とする周到な計画によって創り出されたものは
一つとしてない。
まったく別のことをねらいとする個人の行動、多くの場合、
私利私欲の追求に動機づけられた個人の行動が、
結果的に生み出した意図せざるもの、それが有意義な
社会的制度なのである。
ハイエクが1974年ノーベル経済学賞受賞記念講演の
中で取り上げた次の物語は大いに説得力に富んでいる
ので、多少の脚色を施した上で、その物語のあらすじを
紹介しておこう。
数キロメートル離れた二つの村があるとしよう。
甲村には美味しい酒を造る酒屋がある。
他方、乙村に造り酒屋はないけれども、美味しいミルク
を絞る牧場がある。
乙村に住む酒好きの男が、あるとき、酒を盗みに甲村
にゆこうとした。
これまで両村は没交渉だったため、両村を結ぶまともな
道はない。
そこで男は草木ぼうぼうの中を何とか歩いて甲村に
たどり着いた。
目的を果たした男は、来たときに踏みしだいた跡を
たどって乙村にもどる。
さて今度は、甲村に住むある男が、病気の子供にミルク
を飲ませたいと思い、乙村の牧場にミルクを盗みにゆこう
とした。
草木ぼうぼうの中、先の男が草木を踏みしだいた跡が
残されている。
それに気づいた男はその方が歩きやすいからというだけ
の理由で、先の男が歩いた跡をたどって乙村にたどり
着いた。
目的を果たした後、同じところを歩いて甲村に帰る。
さて、二人の男が利己的に振る舞った結果、両村を結ぶ
道らしきものが出来上がった。
二人の男が両村間に道を作ろうなどという意図がなかった
ことは明らかである。
にもかかわらず、二人の利己的な男のおかげで、まるで
だれかが意図して作ったかのような立派な道が両村の
間に出来上がり、それがきっかけになって両村間で
物品の取引、すなわち貿易が始まり、結果的に、
両村民の福利(ウェルフェア)が高まったのである。
結局、個人の自発的(したがって利己的)な行動が複合
された結果、価値ある社会的制度、装置が出来上がる
のであって、政府や利他主義者の意図によって出来上
がるわけでは決してない。
これがハイエクの哲学的信念なのだが、そこから導か
れるのは次の命題である。
個人や個々の企業の自発的(利己的)行動に制約を課す
るような規制は断固撤廃すべきである。
わが国には数えて約1万1000個もの法的規制があり、
企業や個人の行動に対して様々な制約を課している。
昨今、規制緩和の大合唱が喧しいが、なぜ規制緩和か
好ましいのか。
その根拠はハイエクの哲学的信念に由来するのである。」
(佐和隆光「漂流する資本主義」
1999年ダイヤモンド社74頁以下)、と。


ハイエクが「神の見えざる手」を捉えていたこと自体は
受賞記念講演の物語を見ても間違いない。
たが、「二人の男」が、生きていくという絶対的な目的を
持った、それでいて社会(国家)を組織して他者と共に
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)以外に
生きていく術のない生き物、そういう具体的人間である、
という事実には気が付かなかったのだろう。
具体的人間には、いくつかの特徴がある。
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)という
絶対的な目的を持っているにもかかわらず、有限な
生身の人間であること、その結果一人では生きて
ゆけないこと、それを補う形で、学習能力や対処能力や
互助能力など様々な能力を持っていて、利用できる
ものは利用してしたたかに生きていく、のが具体的
人間なのである。
「二人の男は利己的に振る舞った」のではなく、「二人の
男」が結果として作った「道」は、村という社会の中で
他者と共に生きていく日常の一コマとして、
飲み食い生きていくために合理的な行為をした結果として
できたものだろう。
ハイエクが自由主義(資本主義)に走ってしまった理由は、
神の見えざる手を抽象的観念的な自由意思(志)人感覚
と捉えた結果だ、と考えられる。


人間は何にも拘束されない自由意思(志)人である。
(そう思い込んだ。)
それ故、人間は、みな、人間を自由にしさえすれば何事も
うまくいくのだから自由を拘束してはならない、という
抽象的観念的な自由意思(志)人感覚(神の見えざる手)を
備え持っている。
(そう思い込んだ。)
それ故、「自由放任」の結果として、神の見えざる手(自由
意思(志)人感覚)が働き、自由が絶対化・人権化されるし、
された。
また、同時に、合意(法律と契約)が絶対化・規範化されるし、
された。
(そう思い込んだ。)
そして、自然法と人権(生存権)が抹殺された、絶対万能権力
幻覚国家を後ろ盾にした絶対自由資本主義人工市場似非
社会がでっち上げられた。
とすると、ハイエクが自由と合意(法律と契約)を絶対化し
自然法と人権(生存権)を抹殺した自由主義(資本主義)幻覚に
走ってしまった理由は、神の見えざる手を抽象的観念的な
自由意思(志)人感覚と捉えた結果だ、と考えられてくる。

図G-5―ハイエクが
    自由主義(資本主義)幻覚に走ってしまった理由
図G-5―ハイエクが自由主義(資本主義)幻覚に走ってしまった理由




              

      社会保険労務士
      特定行政書士
      ワークスタイルコーディネーター
      則自然法人権擁護システム社会研究家
            岩崎 秀政