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我妻榮も払拭できなかった近代則人為法絶対自由資本主義


 第一部
  第1章


 我妻榮も払拭できなかった
  近代則人為法絶対自由資本主義


  ――それは「具体的人間」というだけでは
    無理





      目 次


1 (図E―近代資本主義の誤りは
     社会的分業を
     絶対自由主義でやったことだ

2 (図G―近代則人為法絶対自由資本主義がもたらした
     悲惨が現代則自然法社会を生んだ

3 (我妻榮も払拭できなかった
  近代則人為法絶対自由資本主義
  ――それは「具体的な人間」というだけでは
    無理
)
4 (図Q−2―則人為法絶対自由資本主義から
       解放(自由)による
       則自然法社会(国家)顕在化
)






1 (図E―近代資本主義の誤りは
   社会的分業を
   絶対自由主義でやったことだ









2 (図G―近代則人為法絶対自由資本主義がもたらした
     悲惨が現代則自然法社会を生んだ









3 (我妻榮も払拭できなかった
  近代則人為法絶対自由資本主義
  ――それは「具体的な人間」というだけでは
    無理



我妻榮も近代則人為法絶対自由資本主義人工市場似非
社会を払拭することはできなかった。
末広嚴太郎同様、自由(暫定自由)が人権を擁し資し進歩
向上を促すための手段でしかない則自然法暫定自由制度
人権擁護システム社会(国家)が想像できなかったのに違い
ない。
何故なのか?


我妻榮曰く。
「近世法が、すべての個人に権利能力を認め、これを人格者
・・・とすることは、個人について、他人の支配に属さない自主
独立の地位を保障しようとする理想に基づく。
それなら、近世法は、この自主独立の人格者をして、いかなる
手段によってその生存を維持させようとしているのであろうか。
一言でいえば、私有財産権の絶対を認め、契約自由の原則に
よってこれを活用させようとしているのである。
権利能力は、その文化的意義においては、人類文化の発展に
自主独立の一主体として参与しうる能力を意味することは疑い
ないが、その経済的意義においては、所有権能力を意味し、
自由契約能力を意味することもまた、何等の疑いないところで
ある。
しかるに、近時における貧富の懸絶は、社会の多くの個人
から現実に生活資料を所有する能力を奪い、その契約をして
事実上不自由なものとなし、人々の間の事実上の支配関係を
顕著ならしめるにいたった。
ここにおいて、現代法は、個人を抽象的な「人格」とみることから
一歩を進め、これを具体的な「人間」・・・とみて、これに「人間
らしい生存能力」・・・を保障しようと努めるようになった(ワイマ
ール憲法151条)。
わが新憲法第25条もこの思想を表明するものである。
しかし、この理想をいかにして実現すべきかについては、現代法
は今や悩みの最中にあるともいうべく、その傾向さえ、これを
明瞭に把握することは困難である。
ただ僅かに憶測しうることは、個人の自由競争に基づく経済
無政府状態に対して何等かの意味における合理的な規律を
加えていくことがその途なのではないだろうかということである。
なぜなら、個人の財産権は、次第に社会的統制に服し、個人の
契約の自由は、次第に団体的契約ないしは団体的規則によって
排斥され、その結果、個人を中心とする私法関係が次第に各種
の団体や各種の企業組織を中心とする法律関係によっておき
代えられ、権利の主体としての社会的作用は、次第に、個人から
団体ないし組織に移ろうとしていることは、否定すべからざる
事実であるが、かような事実によって、現代法の進むべき方向は、
右のように、社会関係の団体を中心とする合理的規律にあるの
ではなかろうかと推測されるからである。
ただし、かようにいっても、その社会的規律、ないし、個人の自由
活動の合理的規律の手段として、――共産主義をしばらく措いても
――社会主義への途を進むものと、あくまでも資本主義の基盤を
維持しようとするものとの対立があって、その進路は、決して平明
ではない。」
(我妻榮
「新訂民法總則(民法講義T)」岩波書店46頁以下)、と。


何故、我妻榮も、近代則人為法絶対自由資本主義人工市場
似非社会を払拭することはできなかったのだろうか?
人間を「具体的な人間」と捉えただけではダメなのである。
生きていく、という絶対的な目的を持った、それでいて社会
(国家)を組織してみんなで生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)以外に生きていく術のない生き物。
これが「具体的な人間」なのである。
この具体的な人間感覚=神の見えざる手が、全ての人が
社会(国家)の中で、他者と共に生きていく(健康で文化的な生活
を営んでいく)べし、とする超法規社会規範=自然法を観念させ、
人が社会(国家)の中で他者と共に生きていく(健康で文化的な
生活を営んでいく)超法規的(自然法上の)権利(義務)=人権を
観念させ、全ての人が他者と共に生きていく(健康で文化的な
生活を営んでいく)暫定自由制度人権擁護システム社会(国家)を
組織せしめたのである。


憲法第13条前段は、「すべて国民は、個人として尊重される。」、
と規定しているが、これは、具体的な人間個人として尊重される
ということを、確認しているものだ。
後段にある「幸福追求に対する権利」は、幸福を追い求めて生き
ていく(健康で文化的な生活を営んでいく)超法規的(自然法上の)
権利(義務)、すなわち人権を確認しているものだ。
憲法第25条第1項は、「すべて国民は、健康で文化的な最低
限度の生活を営む権利を有する。」と規定しているが、
これは最低限度の人権を確認しているものだ。
生活保護法は人権の最後の砦だ。
憲法第23条は、「学問の自由は、これを保障する。」、と規定して
いる。
これは、学問の自由権が、人権を擁し資し進歩向上を促すための
具体的権利(義務)として存在していることを確認しているものだ。
民法第3条第1項は、「私権の享有は、出生に始まる。」、と
規定しているが、これは、人権の享有が出生に始まる、という
事実を確認しているものだ。
民法第1条第1項は、「私権は、公共の福祉に適合しなければ
ならない。」と規定しているが、「私権」とは「人権」のことであり、
「公共の福祉」とは超法規社会規範(自然法)のことだ。
民法第90条は、「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的
とする法律行為は、無効とする。」と規定している。
これは、超法規社会規範=自然法に反する合意は、法律(法規)
であれ契約であれ、無効であることを確認しているものだ。


要するに、人間は、法も社会も人権も自由には作り得ないし、
実際、現代、則自然法社会(国家)は、人為的に作ったものでは
ないのである。
それは、具体的な人間感覚=神の見えざる手によって創られた
のである。






4 (図Q−2―則人為法絶対自由資本主義から
       解放(自由)による
       則自然法社会(国家)顕在化