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国民の自由意思幻覚に基づく承諾に求めた国家主権幻覚の根拠


 第一部
  第2章



 国民の自由意思幻覚に基づく
 承諾に求めた
  国家主権幻覚の根拠


  
――それは絶対万能主権国家が
     幻覚でしかない証だ







         目 次


1 (図J―則自然法人権擁護システム社会(国家)確認した
     憲法13条
)
2 (図J−2―自然法・人権感覚が
      人権擁護システム社会創らしめた
)
3 (図M―法規(法律)も契約も
     法律制度=人権擁護システムの一環としてある
)
4 (国民の自由意思幻覚に基づく承諾に求めた
   国家主権幻覚の根拠
   ――それは絶対万能主権国家が
    幻覚でしかない証だ








1 (図J―則自然法人権擁護システム社会(国家)確認した
     憲法13条
)







2 (図J−2―自然法・人権感覚が
      人権擁護システム社会創らしめた
)







3 (図M―
法規(法律)も契約も
     法律制度=人権擁護システムの一環としてある
)







4 (国民の自由意思幻覚に基づく承諾に求めた
   国家主権幻覚の根拠
   ――それは絶対万能主権国家が
    幻覚でしかない証だ


すべての人が他者と共に生きていく(健康で文化的な生活
を営んでいく)ためのシステムとして出来ている則自然法
暫定自由制度人権擁護システム社会にあっては、国家
とはその社会の別称でしかない。
社会とは別個独立に観念されている国家とは、近代則
人為法絶対自由資本主義人工市場似非社会の後ろ盾
として措定された幻覚。詐術である。
末広嚴太郎は、明らかにそういう時代であった大正15年に
出版された「民法講話(上巻)」(岩波書店刊)で、
「国家主権の根拠」は「国民の自由意思幻覚に基づく承諾」
に求められていることを、こう書いている(なお、原文は旧
字体である。)。


末広嚴太郎曰く。
「第一 契約の社会的意義と法律
一 現代は契約の時代である。
契約の社会的作用に向かって無上の力を認め、これによって
社会各般の統制を固め又規律を立てようとして居る時代で
ある。
第十八世紀以来の個人主義的にして而かも国家万能的なる
法律思想に依れば、吾々に向つて拘束を加え得るものは独り
主権ある「国家」と吾々各個人自らの「意思」とのみである。
国家には主権がある。
其れ故に国家は吾々の意に反してまでも吾々に拘束を加へる
ことが出来る。
而かも国家は何故に主権を有するかの根本論に立戻るとき、
飽くまでも個人に無上の権威を認め何処までも個人の自由意思
を出発点として万事を思惟せむと欲する近代の個人主義的
法律学者乃至政治学者は――色々形こそ異なれ何れも
同じ社会契約説の流れを汲んで――国民を拘束する主権の
根拠をも亦国民の自由意思に基く承諾と契約との上に求め
ようとして居る。
従つて斯くの如く国家主権の根拠をも国民の自由意思に基く
承諾に求めようとして居る人々が、国家の命令以外のもの
にして吾々個人を拘束するものの存在することを否認する
の傾向あるは極めて自然であつて、契約が法制上社会上
極めて重要な地位を占めて居るのは蓋し当然である。
近代倫理説は個人の意思に無上の価値を認める。
この故に、自己を拘束するものは独り自己のみであって、
各人は自己の自由意思に依つて選びとりたる結果は自ら
又喜びて之を受け容れねばならぬ。
従つて近代的法律は又すべて各人に絶対自由の意思ある
ことを仮説し、之を基礎として幾多の社会的拘束を説明せむ
と試みて居る。
契約の法律上重要の価値を占むるに至れる蓋し当然なり
と言はねばならない。
・・・・第十八世紀的個人主義的倫理思想の反映は過失主義
不法行為論――不法行為に基く賠償責任の根拠をも不法
行為者自らの自由意思に求め彼れに故意あり過失ある
場合にのみ責任ありとする学説――の上にも明瞭に現はれ
て居るのであって、現行法制が万事個人に自由意思ありと
する仮説の上に成り立つて居ると云ふ事実は、法律を研究
せむとするものの常に心して忘るべからざる事柄である。
しかし、吾々は同時に、現実の事実としては絶対自由の意思
なるものが実際上存在しないと云ふことを忘れてはならぬ。
自由意思の仮説は畢竟仮説に外ならない。
さうして仮説はこれによつて大多数の場合大体妥当に矛盾
なく事を説明し得るが故に、尚仮説として大に其の効力を
有するのである。
而かも仮説は永久に仮説に外ならないから、現実の事実が
其の仮説を離れて居るが如き場合に於ては、其の離れて居る
程度が甚しければ甚しい程、実際上仮説は其の働きを失ばね
ばならないのであつて、従来契約法理に依つて妥当に説明
せられたるものの中にも、やがては別に別異の法律的論拠を
求めて説明せねばならないものを生ずるに至るべきこと素より
当然である。
二 契約が社会上重要な価値を有するに至つたのは一面
かくの如き個人主義思想の発達に原因するのであるが、
同時に産業革命此方社会的分業が著しき発達を遂ぐるに
つれて分業者相互間の協働関係を特に強固確実ならしむる
の必要亦自ら増大したることが契約の社会的価値を著しく
発達せしめた他の一の原因であることを看逃がしてはなら
ない。
蓋し分業の社会的価値が如何に大きくとも、分業は畢竟分業
者相互間の協働聯絡あるに依つてのみ成立することが出来る。
而かも現在社会の分業関係は全然経済自然の法則に放任
せられつゝあるを原則として居る。
中世封建の経済組織の下に於ては今日に比すれば遙かに
国家的に分業関係が規律されて居た。
従つて分業相互の協働関係も亦多く国家的他律的に定められ
て居た。
又極端なる共産主義の国を仮想するならば、其国に於ける
分業及び協働の関係も亦多く国家的に規律せられ、従つて
各個国民自由の意思を容るゝの余地は甚しく狭めらるゝに違ひ
ない。
これに反し、自由主義経済組織の上に立つて居る現在の社会に
於ては、各人は原則として職業の自由を有し、各人が如何に
分業するかは各人の自由であり、又すべて経済自然の傾向に
放任されて居る。
従つて斯くして成り立つ分業者相互間の協働関係もすべて原則
として分業者各自の自由意思に放任されて居る。
而して各自が自己の為めに協働関係を創設し、一方他人に助力
を與へ、他方又他人の助力を仰ぐべき関係を創設することも亦
各人相互の協定約束に一任されて居る。
茲に於てか、国家のこの社会的傾向に対して取るべき態度は、
各人が如何に協働するかを各人自由の決定に一任すると同時に、
彼等の自由に決定したる結果を強行するに付いては国家飽く迄
も助力を與へ、違約して濫に協働関係を破るが如き者に対しては、
飽く迄も国家的制裁を加へて極力協働関係の維持を図ることで
なければならない。
而してかくの如き態度こそ実に近代契約法の根本的精神をなす
ものである。」
(末広嚴太郎「民法講話(上巻)」岩波書店176頁以下)、と。


要するに、「国家主権の根拠」が「国民の自由意思幻覚に基
づく承諾」にある、という事実は、絶対万能主権国家が幻覚で
しかない証なのである。
国家・国とは、社会の別称でしかないのである。
国家公務員とは、人権擁護を専務とする社会(国家)の機関
でしかないのである。
天皇とて、すべての人が他者と共に生きていく(健康で文化的
な生活を営んでいく)ためのシステムとして出来ている則自然法
暫定自由制度人権擁護システム社会(国家)の象徴的行為を
やることを専務とした、国家公務員でしかない。


則自然法暫定自由制度人権擁護システム社会(国家)は、
自由を絶対(人権)化し、超法規社会規範=自然法と人権を
否定・抹殺した結果の悲惨を経験しなかったら、やっては
こないものなのかもしれない。
末広嚴太郎も我妻榮同様、(暫定)自由が人権を擁し資し
進歩向上を促すための手段でしかない則自然法暫定自由
制度人権擁護システム社会(国家)が想像できなかったのに
違いない。


何故、我妻榮も、近代則人為法絶対自由資本主義人工市場
似非社会を払拭することはできなかったのだろうか?
人間を「具体的な人間」と捉えただけではダメなのである。
生きていく、という絶対的な目的を持った、それでいて社会
(国家)を組織してみんなで生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)以外に生きていく術のない生き物。
これが「具体的な人間」なのである。
この具体的な人間感覚=神の見えざる手が、全ての人が
社会(国家)の中で、他者と共に生きていく(健康で文化的な生活
を営んでいく)べし、とする超法規社会規範=自然法を観念させ、
人が社会(国家)の中で他者と共に生きていく(健康で文化的な
生活を営んでいく)超法規的(自然法上の)権利(義務)=人権を
観念させ、全ての人が他者と共に生きていく(健康で文化的な
生活を営んでいく)暫定自由制度人権擁護システム社会(国家)を
組織せしめたのである。


現代社会(国家)は、人間が、社会(国家)の中で他者と共に、
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)ための
システムとして出来ている。
仕事・職業とは、他者と共に生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)人間の行為ないし営みのことである。
社会的(世界的)分業とは、この仕事・職業を社会(世界)の全ての
人が何らかの形で分担・分業して行っていく形態ないしシステムの
ことである。
暫定自由制度では事前規制による人権擁護は必要最小限に
とどめられ原則暫定自由である。
社会的(世界的)分業はその結果として成るものであり、社会(世界)
の全ての人が他者と共に生きていく(健康で文化的な生活を営んで
いく)に最も合理的なシステムである、と考えられる。
社会的(世界的)分業が人権享受と人権の進歩向上に寄与するのは
間違いない。
憲法29条は、「財産権は、これを侵してはならない。」(1項)、
「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを
定める。」(2項)と規定している。
また、憲法22条1項は、「何人も、公共の福祉に反しない限り、
居住、移転及び職業選択の自由を有する。」と規定している。
これらの規定が、人間が生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)
ための財産権と社会的(世界的)分業制度を保障したものであることは
明らかだ。
そもそも、自由が絶対(人権)化された資本主義似非社会は、
絶対権力幻覚国家を後ろ盾にして成り立つ、単なるマーケット
でしかなく、人間が生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)
ための社会(国家)ではない。


要するに、人間は、法も社会も人権も自由には作り得ないし、
実際、現代、則自然法社会(国家)は、人為的に作ったものでは
ないのである。
それは、自然法・人権感覚=神の見えざる手によって創られた
のである。