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現代則自然法人権擁護社会的分業制度社会論概説











 第一部

 現代則自然法
  
 人権擁護
  社会的分業制度
社会論 
       概説

 
――現代(日本国憲法)の
    自然法と人権と
     法規と社会について
 

現代(日本国憲法)社会が
自然法に則った
社会的分業制度を中核とした
人権擁護システム社会であって
資本主義社会でないことを立証したい。











核心は、日本国憲法29条が確認している
私有財産制は、資本主義ではなく、
社会的分業制度のことだ、という事実にある。
自然法と(自然法上の)人権が存在している
現代(日本国憲法)社会の私有財産制度とは、
人権擁護システムの中核を成す
社会的分業制度のことであって、
資本主義のことではない。
逆に言えば、私有財産制度即資本主義は
資本主義化犯罪のためのトリックだ、と
考えられる。
アメリカが資本主義国家なのは、
アメリカの憲法には自然法と(自然法上の)
人権が欠落しているからだ。
自由は解放の意味しかなく人権ではない。
自由主義は自然法と(自然法上の)人権さえ
否定してしまう幻覚でしかない。
資本主義の前提には自由主義が存在している。
近代(大日本帝国憲法)日本も自然法と
(自然法上の)人権が欠落した
資本主義国家だった。
資本主義が過酷な人権侵害や戦争を引き起こす
のは、自然法と(自然法上の)人権が欠落して
いるからに他ならない。
経済にばかり目をやっていたら
資本主義(自由主義)の間違いは
絶対に分からない道理だ。
人間を自由意志(思)人と思い込むようになったら
資本主義(自由主義)の間違いは
絶対に分からない道理だ。


人間は、社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく以外に生きていく術のない生き物
なのである。
すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていくべし、という自然法が存在しているのは、
その為なのである。
人が社会的分業の下に他者と共に自由に生きていく
権利(義務)、即ち人権が存在しているのは、
その為なのである。


「仮に自然法・・・が存在するとして、どうやってそれを
人間は正しく認識できるのであろうか・・・。」
(佐藤幸治「日本国憲法論」成文堂111頁)
それは、人間が、社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく以外に生きていく術のない生き物であることを
認識しさえすれば、自ずと分かってくることなのである。









1) (私有財産制度即資本主義
   というトリック
)
2) (事は民主主義からではなく
  その前にある自然の法と人権から
  始まる
)
 図AZ―自然の法→人権→法規→社会
3) (憲法13条の「個人」とは
   具体的人間個人のこと
)
4) (社会的分業の下他者と共に自由に
   生きていくべしというのが自然の法
)  
5) (人為の法治社会、自然の法治社会)
6) (社会的分業の下他者と共に自由に
   生きていく権利が人権
)  
7) (自然の法が公共の福祉)  
8) (共生の観念含有している人権)
9) (財産権等は人権のための権利で
   人権そのものではない
)
10) (犯罪は危難を惹起せしめる
   反自然の法行為
)  
11) (人権を守るための方策が
   自然の法治社会の法規

12) (法規は民意を以て作るという
   自然の法治社会のルールが民主主義
)
13) (自然の法に適った社会的な妥当性が
   権利義務

14) (権利義務発生消滅の仕組み
15) (権利義務はすべて
   自然の法上に存在する概念だ
)
16) (自由の規制は
   絶対自由の規制による人権擁護が目的
)
17) (自由それ自体は解放の意味しかない)
18) (表面上の訴訟物は請求債権債務、
     真の訴訟物は被侵害阻害損傷人権
)
19) (実在するのは契約暫定自由の原則
20) (則自然の法分別暫定自由私有財産制度) 
21) (自由共生に必要な仕事の分担の仕組みが
   社会的分業制度
)  
22) (自然の法と人権欠く
    無分別絶対自由私有財産制度
    (資本主義)幻覚

23) (自然の法と人権欠く
    絶対自由資本幻覚
)  
24) (現代国家は現代社会の別称でしかない)  
25) (現代自然の法治
    社会的分業制度を中核とした
    人権擁護システム社会
)  
26) (自由共生の営為は
    「自助」と称すべき筋合いのものでない

27) (あり得ない
    無分別絶対自由私有財産制度
    (資本主義)幻覚の修正

28) (憲法9条の基盤は
    現代自然の法治人権擁護システム社会
)  
29) (自然の法が自然(神)の見えざる手)  
30) (具体的人間感覚喪失している
    喪失才覚人たち
)  
31) (自由主義民主主義は
    資本主義市場社会化完全犯罪の
    前提トリック
)  
32) (自然の法と人権欠く資本主義幻覚が
    引き起こす過酷な人権侵害と戦争
)  
33) (近代資本主義幻覚
    喪失才覚人天下市場社会の超克

34) (11の顔を持つ
   現代自然の法治人権擁護システム社会

35) (自由主義も共産主義も
    所詮人為の法治幻覚のための騙し

36) (資本主義市場社会化は犯罪でしかなく
    修正資本主義というのは罠
)
37) (喪失才覚人の自由の濫用による
    資本主義幻覚市場似非社会化犯罪
)
38) (価格が需要と供給で決まるのは
    社会的分業制度社会だからだ
)
39) (社会を半壊させている
   無分別絶対自由私有財産制度(資本主義)化
   洗脳詐欺犯罪の7つの嘘
)









1) (
私有財産制度即資本主義
  というトリック
)
確かに、日本国憲法29条は私有財産制度を確認した規定
だろう。
しかし、それは、自然の法に則った人権擁護システムの
中核を成す社会(世界)的分業制度であって、則人為の法
無分別絶対自由私有財産制度即ち資本主義ではない。
実際、貨幣制度は社会(世界)的分業制度を可能にした制度
だろう。
自由貿易は社会(世界)的分業制度を押し広めるものであって、
自由主義(資本主義)幻覚とは何の関わりもないことだろう。
現代(日本国憲法)社会は、すべての人が社会(世界)的分業
の下に他者と共に自由に生きていく、自然の法に則った
人権擁護システム社会なのである。
それが、則人為の法無分別絶対自由私有財産制度
即ち資本主義化犯罪によってかなり破壊されてきている、
というのが現実だ、というだけなのである。

従来の憲法学が私有財産制度即資本主義と、誤解して
しまってきて、トリックたることに気付けなかったのは、
人為の法幻覚(その後ろ盾は絶対権力国家幻覚だ。)
にとりつかれてしまってきた結果なのだろう。
●「憲法29条1項は、「財産権は、これを侵してはならない」
と規定する。この規定は、個人の現に有する具体的な財産上の
権利の保障と、個人が財産権を享有しうる法制度、
つまり私有財産制度の保障という二つの面を有する。」
(芦部信喜「憲法 新版補訂版」岩波書店210頁)
●「憲法は29条1項において、「財産権は、これを侵しては
ならない」と定め、財産権を保障する。
この規定は財産権を二つの面から保障する。すなわち、第一に、
各人が現に持っている財産権を保障し、第二に、私有財産制度を
保障する。右条項は、資本主義経済制度を原則とすることを
定めたものである。」
(長尾一紘「憲法の要点整理〔改訂版〕」実務教育出版98頁以下)
●「「財産権は、これを侵してはならない」(29条1項)。
この規定は、次の二つの保障を含むと考えられる。
(1) 第一に、個々の国民は、その財産権につき、国家による侵害を
受けないことを保障される。・・・・
(2) 第二に、この規定は、私有財産制を制度的に保障している。・・
・・「財産権は、これを侵してはならない」という規定は、・・・
・・・経済制度の基礎秩序として、私有財産制という制度的保障を
含むものと考えられる。
・・・私有財産制を廃止したり、私有財産制の本質的内容に侵害を
加えることは許されない。したがって、この憲法の下で、社会主義経済
制度を採用することは認められないとみるべきである(通説。・・・)。」
(橋本公宣「日本国憲法」有斐閣358頁以下)
●「(2) 財産権の不可侵
人間が生活をしていくためには、なんらかの財産が不可欠です。
そのために、第29条は、第1項で「財産権は、これを侵しては
ならない」としています。「侵してはならない」ということは「保障する」
ということです。生産手段(土地、生産用具や原材料)についての
権利も除外されていないから、これによって資本主義が保障される
ことになります。」
(杉原康雄「新版憲法読本」岩波ジュニア新書135頁)
●「日本国憲法で明示的に経済活動の自由を語っているのは、
居住・移転および職業選択の自由を保障している第22条と
財産権を保障している第29条との2カ所である。これらの
法条で近代的な意味での経済活動の自由を確認している。
なかでも「財産権は、これを侵してはならない。」(29条1項)
とする規定は、ふつう理解されているところにしたがえば、
私有財産の制度を保障したものであって、憲法の近代的
性格=資本主義的性格を集中的に表現しているといえよう。」
(奥平康弘「憲法」弘文堂入門双書111頁)
●「私有財産制の中核を、人が人間らしい価値ある生活を
営む上で不可欠な物的手段の享有と解する説も有力に主張
されたが、通説は、資本主義的市場経済を念頭におき、
社会主義ないし共産主義体制を実現することは法的に不可能
と解してきた。日本国憲法が個人の生活に不可欠な物的手段
のみを保障するのであれば(かつての)社会主義国家の憲法
のようにその点を明示したであろうし、また、上述のように
22条1項によって「営業の自由」が保障されていることを考慮
するならば、通説は当然の解釈論的帰結であったといえる。」
(佐藤幸治「日本国憲法論」310頁)




2) (
事は民主主義からではなく
  その前にある自然の法と人権から
  始まる
)
人間は、社会的分業の下に他者と共に自由に生きていく
(健康で文化的な生活を営んでいく)以外に生きていく
術のない生き物、そういう具体的人間なのである。
それ故、具体的人間社会には、
すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)べし、
という自然の法が実在しているのである。
人が社会的分業の下に他者と共に自由に生きていく
(健康で文化的な生活を営んでいく)権利(義務)、
即ち人権は、この自然の法に則って具体化されたものだ。
つまり、人権そのものも自然の法上の権利(義務)なの
である。

法規(法律と契約)は、この自然の法に則って具体化
されたこの人権を守るための方策・政策なのである。
言い換えれば、法規(法律と契約)の前提には、
この自然の法とこの人権が存在している、ということだ。
言い換えれば、事は法規(法律と契約)から始まる
のではなく、
その前にある自然の法と人権から始まる、ということだ。

(暫定自由)民主主義は、この人権を守るための方策
・政策である法規(法律と契約)を民意を以て作るべし、
という規範でしかなく、最上位の規範ではない。
絶対自由民主主義は、法(人為の法)=法規(法律と
契約)を民意を以て作るべし、という規範であり、最上位の
規範である。
勿論、この絶対自由民主主義は幻覚でしかない。

要するに、事は民主主義・法規からではなく、
その前にある自然の法と人権から始まる、ということだ。

図AZ―自然の法→人権→法規→社会




3) (
憲法13条の「個人」とは
   具体的人間個人のこと
)
憲法13条が「すべて国民は個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利に
ついては、公共の福祉に反しない限り、立法その他の
国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と
規定している「個人」は、
社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていく以外に生きていく術のない
生き物である具体的人間個人のことだ。
自由意思人や合理的経済人や神の申し子というような
抽象的人間(幻覚?)のことではない。
したがって、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の
権利」というのは、
「人が社会的分業の下に他者と共に自由に生きていく
権利(義務)」、即ち人権のことだ。




4) (
社会的分業の下他者と共に自由に
   生きていくべしというのが自然の法
)
「人が社会的分業の下に他者と共に自由に生きていく
権利(義務)」、即ち人権の前提には、
「すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていくべし、」という自然の法が
社会規範(法)として存在しているはずだ。
したがって、
憲法14条1項が「すべて国民は、法の下に平等であって、
人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、
政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」
と規定している「法」とは、
すべての人が
社会的分業の下に
他者と共に自由に生きていくべし、
という自然の法のことだ。
法規(法律と契約)はこの法(自然の法)に則って
具体化されたもので、人権を守るための方策・政策だ。
法(自然の法)そのものではない。
事実、憲法14条や民法90条は、明らかに、
この自然の法に則って具体化された法規だ。
民法90条の公序良俗というのはこの自然の法のことだ。
この自然の法に抵触した法規(法律と契約)は無効だ、
と言うのが民法90条の真意だ。




5) (
人為の法治社会、自然の法治社会)
近代(大日本帝国憲法)は人間の意思が法だった。
人が人を支配し、人が人を裁く、人為の法治社会
だった。
自由が人権だった。
それは、人間が自由意思人・合理的経済人であることを
前提としていた。

だが、人間は、間違いなく、社会的分業の下に他者と
共に自由に生きていく以外に
生きていく術のない生き物なのである。
その結果として、すべての人が社会的分業の下に他者と
共に自由に生きていくべし、という自然の法が
社会規範として存在しているのである。
同時に、人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく権利が人権として存在しているのである。
この自然の法は、法(社会規範)であるだけではなく、
生き物としての人間を心底で突き動かしている
自然(神)の見えざる手に他ならないのである。

法規(法律)は、この自然(神)の見えざる手に突き動か
され、この自然の法に則って具体化された人権擁護策に
他ならないのである。
人権擁護策としての妥当性のない法規(法律)は
無効なのである。
現代(日本国憲法)社会は、この自然の法に則って具体化
された人権擁護策による人権擁護システムとして、
自然の法治社会として、
出来ているのである。

財産権等は社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていくための権利(義務)であって、
人権そのものではない。




6) (
社会的分業の下他者と共に自由に
   生きていく権利が人権
)
憲法13条25条が規定しているのは
人が
社会的分業の下に
他者と共に
自由に生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)権利、
即ち人権だ。
この人権そのものは自然の法に則って具体化されたものだ。
自由は解放の意味しかなく人権そのものではない。
平等も不合理な差別によって人権を侵害阻害されない権利
であって、人権そのものではない。
民法3条1項が「私権の享有は、出生に始まる。」と
規定しているのは、「人権の享有は、出生に始まる。」の
誤りだ。

憲法11条が、「国民は、すべての基本的人権の享有を
妨げられない。
この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことの
できない永久の権利として、現在及び将来の国民に
与えられる。」と規定している
「基本的人権」も、
憲法97条の「基本的人権」も、
この人権そのものの誤りだ。
「人が社会的分業の下に他者と共に自由に生きていく
権利(義務)」、即ち人権そのものが、
「侵すことのできない永久の権利」なのである。

財産権等等は、人が社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていくための権利(義務)であって、
人権そのものではない。

権利はすべて他者から見れば侵してはならない義務
である。
権利(義務)の権利(義務)性ないしは社会的相当性・
正当性には強弱がある。
人権の権利(義務)性は強大で、「最低限度の人権」は
特に生存権として憲法25条で確認されている。
そもそも現代社会(国家)は自然の法に則った人権擁護
システムとして出来ている。
人権が本人も放棄できないものであるのは、そのため、
なのではないだろうか。




7) (
自然の法が公共の福祉) 
公共の福祉とは自然の法ないしは人権擁護のことだ。
憲法12条の公共の福祉は人権擁護のことだ。
憲法13条・22条・29条2項・民法1条1項の公共の福祉は
自然の法のことだ。
憲法12条と憲法13条だけでも、
現代(日本国憲法)社会(国家)が自然の法に則った
人権擁護システム社会であることを推し量ることができる。
憲法22条・29条2項に公共の福祉(自然の法)による制限が
うたわれているのは、現代(日本国憲法)社会(国家)が
人為の法に則った無分別絶対自由私有財産制度
即ち資本主義でないことの表れだ。
都市計画法1条、建築基準法1条などの公共の福祉
(の増進)は人権(健康で文化的な生活)のことだ。
環境基本法1条の「(国民の)健康で文化的な生活(確保)」は
人権のことだ。




8) (
共生の観念含有している人権)
人権は共生の観念を含有している。
民法1条1項は、「私権は、公共の福祉に適合
しなければならない。」と規定している。
「私権の享有は、出生に始まる。」(民法第3条
第1項)の「私権」は
「人権」のことだろうから、
民法1条1項は、
「人権は、法(自然法)に適合しなければならない」
と規定しているもの、と解されてくる。
これは、「人が
生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく
)権利」と人権を規定した
憲法25条1項が、正確には、
人が社会的分業の下に他者と共に自由に生きて
いく
(健康で文化的な生活を営んでいく)権利(義務)」
であることを見抜いたものだ、と考えられてくる。
しかして、憲法25条1項(生存権)は、
人権を「人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)権利
(義務)」と、
定義した規定だ、と考えられてくる。
人権は共生の観念を含有している、と考えられてくる。
最低限度の人権が生存権だ。

人権は、憲法13条25条と社会的分業制度を規定した
29条とを基にして始めて把握し得るものだ。




9) (
財産権等は人権のための権利で
     人権そのものではない
)
憲法21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の
表現の自由は、これを保障する。
A検閲は、これをしてはならない。
通信の秘密は、これを侵してはならない。」と規定している。
同22条は、「何人も、公共の福祉に反しない限り、
居住、移転及び職業選択の自由を有する。
A何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を
侵されない。」と規定している。
同23条は、「学問の自由は、これを保障する。」と
規定している。
これら、集会・結社・表現権にしろ、
居住・移転・職業選択権、外国移住・国籍離脱権にしろ、
学問権にしろ、
財産権にしろ、
すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていくための権利(義務)である、と考えられる。
人が社会的分業の下に他者と共に自由に生きていく
権利(義務)、即ち人権そのものではない。
ちなみに、ここでの「自由」は「(学問権を)侵してはなら
ない。」という意味だろう。
要するに、これらの権利(義務)は、
すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていくのに不可欠故に、規定されている、
と考えられる。




10) (
犯罪は危難を惹起せしめる
    反自然の法行為
)
犯罪とは
個々人の受忍し得ない社会的にも放置し得ない
人権侵害阻害、即ち危難を惹起せしめる
反自然の法行為のことであり、
再犯の可能性を実体とする「現在の社会的危難」を
推定させる証拠だ。
正当防衛や緊急避難が犯罪でないのは
それらの行為が危難からの脱出をするための
合自然の法行為であって、
危難を惹起せしめる行為ではないからだ。
緊急避難と正当防衛の要件差は、
危難からの脱出が、反撃によるか、第三者への
転嫁によるか、という形態差から出て来る、
一般的な抽象的な程度の差にしか過ぎない。
勿論、転嫁型の脱出行為(緊急避難)の方が
要件が厳しいのは当然である。

刑罰は、「犯罪から推定される再犯の可能性」、
即ち「現在の社会的危難」から脱出するための手段
(再犯の可能性の矯正)であり、
合自然の法行為である。
犯罪はその「現在の社会的危難」を推定させる証拠
である。
刑法が「心神喪失者の行為は、罰しない。」
(39条1項)と、
また、「14歳に満たない者の行為は、罰しない。」(41条)
と規定しているのはそのためである。
「現在の社会的危難」の推定は、行為者が行為の是非を
弁別し、かつ、その弁別にしたがって 行動を制御しうる
と考えられている、普通の正常な人間であることを前提に
して、可能となるものである。
したがって、酩酊中の行為や幼児の行為は、結果として
罰せられない。
このように、犯罪者が正常な通常の判断力を持った
正常人でなければならないのは、「現在の社会的危難」の
推定を可能とする前提条件なのであって、「責任」とは
何の関係もない。
つまり、刑罰は責任の追及として科されるのではない。

勿論、この「現在の社会的危難」の推定は、決して容易
ではない。
したがって、(狭義の)国家の恣意により社(国)民の人権が
侵害される危険性は、極めて大きい。
この危険性を出来るだけ小さくするため、予め法律(自然の
法に則って具体化された人権を守るための方策)によって
推定上の枠を設定しようとする考え方が、いわゆる罪刑
法定主義である。
つまり、刑法は、少なくとも直接的には、犯罪の類型を規定
しているのではなく、刑罰の対象となる「現在の社会的危難」
推定上必要な事実や、その大きさの表現である刑罰量
推定上の制限枠を、規定しているのである。
故意犯は危難を意図的に惹起せしめる行為である。
刑法はこの故意犯を処罰することを原則としている
(38条1項)。
これは、過失犯から推定される「現在の社会的危難」が、
故意犯から推定されるものと比べると、圧倒的に小さい
からである。
不能犯が犯罪でないのも、障害未遂が既遂と同じ刑で
あり得るのも、中止犯の刑が減免されるのも、常習犯の
刑が重いのも、犯罪が「現在の社会的危難」推定の
ための証拠であると考えなかったら、説明がつかない。

要するに、犯罪も自然の法上の概念なのである。●●●




11) (
人権を守るための方策が
   自然の法治社会の法規

法規(法律と契約)は自然の法=社会規範(法)に則って
具体化されたもので、人権を守るための方策・政策だ。

 法規(憲法22条1項)
「すべての人が社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)べし、という自然の法」が社会規範として
存在していて、
すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていくための人権擁護システム社会にとって
「何人も、公共の福祉(自然の法)に反しない限り、
居住、移転及び職業選択の自由を有する。」
という最高法規(憲法22条1項)が不可欠故に、
最高法規(憲法22条1項)が存在する。
これは、明らかに、法規(憲法22条1項)は
自然の法に則って具体化されたもので、人権を守る
ための方策・政策であることを教えている。
ちなみに、ここでの「自由」は
「侵してはならない」の意味だ、と考えられる。

 法規(憲法14条1項)
「すべての人が社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)べし、という自然の法」が社会規範として
存在していて、
「人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)
権利」が人権として具体化されていて、
不合理な差別によって人権を侵害阻害されない
ことが不可欠故に、
「すべての国民は、法(自然の法)の下に平等で
あって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地
により、政治的、経済的又は社会的関係において、
差別されない。」
という最高法規(憲法14条1項)が存在する。
これは、明らかに、法規(憲法14条1項)は
自然の法に則って具体化されたもので、人権を守る
ための方策・政策であることを教えている。

 法規(民法90条)
「すべての人が社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)べし、という自然の法」が社会規範として
存在していて、
この自然の法に則って具体化した人権を守るための
方策・政策、即ち法規(法律と契約)が不可欠
故に、
「公の秩序又は善良の風俗(自然の法)に反する
事項を目的とする法律行為(法規)は無効とする。」
という法規(民法90条)が存在する。
これは、明らかに、法規(民法90条)は
自然の法に則って具体化されたもので、人権を守る
ための方策・政策であることを教えている。

 法規(憲法25条1項)
「すべての人が社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)べし、という自然の法」が社会規範として
存在している故に、
この自然の法(社会規範)を具体化する形で
「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、
即ち生存権が存在する。
それ故に、「すべての国民は、健康で文化的な
最低限度の生活を営む権利を有する。」という
最高法規(憲法25条1項)が存在する。
これは、明らかに、法規(憲法25条1項)は
自然の法に則って具体化されたもので、人権を守る
ための方策・政策であることを教えている。

 法規(刑法36条1項)
「すべての人が社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)べし、という自然の法」が社会規範として
存在している故に、
犯罪は法(自然の法)に反し個々人の受忍し得ない
社会的にも放置し得ない人権侵害阻害、即ち
危難を惹起せしめる行為のこと故に、
正当防衛行為は危難を惹起せしめる行為ではない故に
犯罪ではない故、
「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を
防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」
という法規(刑法36条1項)が存在する。
これは、明らかに、法規(刑法36条1項)は
自然の法に則って具体化されたもので、人権を守る
ための方策・政策であることを教えている。

 法規(憲法30条)
「すべての人が社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)べし、という自然の法」が社会規範として
存在している。
そして、この自然の法に則って具体化された、人権を守る
ための方策・政策としての法規(法律と契約)が
存在している。
したがって、憲法30条が「国民は、法律の定める
ところにより、納税の義務を負ふ。」と規定している
「法律の定める・・・」というのは、
「自然の法が具体化された、人権を守るための方策・政策
としての法律の定める・・・」の意味だ。

 法規(憲法29条2項)
「すべての人が社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)べし、という自然の法」が社会規範として
存在している。
そして、この自然の法に則って具体化された、人権を守る
ための方策・政策としての法規(法律と契約)が
存在している。
したがって、憲法29条2項が「財産権の内容は、
公共の福祉に適合するやうに、法律で定める。」
というのは、
「財産権の内容は、公共の福祉(自然の法)に適合
するやうに、法律(自然の法に則って具体化された人権を
守るための方策・政策)で定める。」
という意味だ。
「法律の定める・・・」というのは、
「自然の法に則って具体化した人権を守るための
方策・政策としての法律の定める・・・」の意味だ。

法規は法(自然の法)そのものではない。
法規は合理性に相応した規範性がある。
規範性の正体はそれを守らなかったら生きていけない、
という拘束力・強制力だ。

第27条で人為の法に則った無分別絶対自由私有財産制度
即ち資本主義幻覚を定めた大日本帝国憲法(明治憲法)は、
本来無効だった。
拘束力・強制力のないものを腕尽くで強いるための
トリックが絶対権力国家幻覚だ。
もっとも、必要悪だったかもしれないが・・・。




12) (
法規は民意を以て作るという
   自然の法治社会のルールが民主主義
)
すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)べし、
という自然の法を否定する自由は、
具体的人間にはない。
(暫定自由)民主主義とは、人が社会的分業の下に
他者と共に自由に生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)権利(義務)、即ち人権を守るための方策
・政策である法規は、民意を以て作る、
という現代(日本国憲法)自然の法治社会的分業制度
人権擁護システム社会のルールのことだ。

法規(法律と契約)が法である人為の法治
無分別絶対自由私有財産制度(資本主義)幻覚
市場似非社会での民主主義は、
勿論、法即ち法規(法律と契約)を民意を以て作る、
というルールのことで、
無分別絶対自由私有財産制度(資本主義)幻覚
市場似非社会化犯罪を完全犯罪たらしめている。
「自由と民主主義」は、無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)幻覚市場似非社会化完全犯罪の道具だ。




13) (
自然の法に適った社会的な妥当性が
   権利義務
) 
 損害賠償請求債権債務
「すべての人が社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)べし、という自然の法」と
故意過失によって他人の権利又は法律上保護
される利益を侵害した(民法709条)、という
「権利義務を発生消滅せしめるに足る
規範的に意味のある行為事実」とを基に
「自然の法(社会規範)に適っている故の、
社会的な妥当性(の意識)」として、
損害賠償請求債権債務は発生する。

これは、明らかに、法規(民法709条)は
自然の法に則って具体化されたもので、人権を守る
ための方策・政策であることを教えている。
同時に、権利義務が自然の法に適った社会的な
妥当性のことであることを教えている。

解雇請求債権債務(解雇権)
「すべての人が社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)べし、という自然の法」と
「客観的に合理的な理由」を成し
「社会通念上相当であると認められ」るに足る、
即ち解雇請求債権債務(解雇権)という
「権利義務を発生消滅せしめるに足る
規範的に意味のある行為事実」とを基に
「自然の法(社会規範)に適っている故の、
社会的な妥当性(の意識)」として、
解雇請求債権債務(解雇権)は発生する。

これは、明らかに、法規(労働契約法16条)は
自然の法に則って具体化されたもので、人権を守る
ための方策・政策であることを教えている。
同時に、権利義務が自然の法に適った社会的な
妥当性のことであることを教えている。




14) (
権利義務発生消滅の仕組み) 
「すべての人が社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)べし、という自然の法」が社会規範として
存在している。
そして、この自然の法と
「客観的に合理的な理由」を成し
「社会通念上相当であると認められる」に足る
権利義務を発生消滅させるに足る
規範的に意味のある行為事実とを基に、
すべての権利義務は、
自然の法(社会規範)に適っている故の、
社会的な妥当性(の意識)として、
発生消滅する。
それ故、
「客観的に合理的な理由」を成さず
「社会通念上相当であると認められる」に足りない、
権利義務を発生消滅させるに足りない
規範的に意味のない行為事実を基にしては、
権利義務が発生消滅することはないのである。
それ故、たとえ権利の名を以て行使されたとしても、
それは「権利の名の濫用」でしかなく「許されない。」
ということになる。
しかして、「権利の濫用は、これを許さない。」という
法規(民法1条3項)は、自然の法に則って具体化された
ものであり、人権を守るための方策・政策である、
と考えられてくる。
同時に、権利義務は自然の法に適った社会的な妥当性
(の意識)のことだ、と考えられてくる。
また、自然の法と規範的に意味のある行為事実とを基に
自然の法に適った社会的な妥当性(の意識)として
発生消滅する、というのが権利義務発生消滅の仕組みだ、
と考えられてくる。




15) (
権利義務はすべて
   自然の法上に存在する概念だ
)
たとえば、こう言われてきた。
曰く。
「Aは、Bから有名な絵画を買う契約を締結して代金を
支払ったが、それが贋作だとわかったので、無効を主張した。
この場合、売買契約は遡及的に無効となり、Bは、
その代金を領収する「法律上の原因」はないから、返還しな
ければならないし、Aもまた、同様に、その贋作絵画をBに
返還すべき義務を負うことになる。」
(近江幸治「民法講義Y事務管理・不当利得・不法行為」
成文堂25頁)、と。

しかし、事実は、自然の法と
「法律上の原因なく他人の財産又は労務によって利益を
受け、そのために他人に損失を及ぼした」という
規範的に意味のある行為事実とを基に、
自然の法に適っている故の社会的な政策的な妥当性として、
不当利得返還請求債権債務は発生するのだろう。
要するに、単に、「法律上の原因」なくなったから、
ということではなく、このような場合に、Bに代金を返還
させると同時に、Aに贋作絵画を返還させなかったら、
「すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく社会は立ち行かなくなるから」だろう。
とすれば、「法律上の原因なく他人の財産又は労務に
よって利益を受け、そのために他人に損失を及ぼした」
(民法703条)という事実は、
「民法703条に定められた結果としてはじめて発生する
不当利得返還請求権」を発生させる「要件事実」なのでは
なく、「自然の法上の不当利得返還請求債権債務」を
発生させる「規範的に意味のある行為事実」だ、と考えられ
てくる。
ということは、「民法703条に定められた結果としてはじめて
発生する不当利得返還請求権」というのは、実在しない、
ということである。
請求権の競合といわれている問題は、こういう実在しない
請求権の競合を問う問題に他ならない。
ともあれ、要するに、権利義務は、すべて、自然の法上
存在する概念だ、ということだ。




16) (
自由の規制は
   絶対自由の規制による人権擁護が目的
)
  すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)べし、
という規範が自然の法だ。
人が社会的分業の下に他者と共に自由に生きていく
(健康で文化的な生活を営んでいく)権利(義務)が
人権だ。
道路交通規制、環境規制、食品衛生規制、労働規制
など、自由の規制はこの人権擁護が目的である。
これは自由が人権そのものではないことを意味している。

だが、人為の法治幻覚にとりつかれている通説は、
たとえば、こう言っている。
曰く。
「1 ・・・・・行政手続法とは何か
近代国家の憲法は、営業活動の自由を保障しているが、
もちろん、公共の安全や公衆衛生などにリスクをもたらす
営業活動については、許認可を要するとされるなど、
一定の制約が課されることになる。
しかし、こうした制約が行政機関やその職員の恣意に委ね
られるとすれば、営業活動の自由も画に描いた餅となる。
そこで、近代国家においては、たとえば許認可やその取消し
の要件などは、議会が制定した法律などのルールによって
定められ、それにそって自由の制約がなされることとなる。
周知のように、こうした考え方を「法治国家原理」とよぶ。
(山田洋「行政手続法総論」
(「行政書士のための行政法【第2版】」
日本評論社)50頁)、と。

ここでは、「営業活動の自由」が人権であり、
「議会が制定した法律などのルール」が法だと
考えられている。
したがって、自由に、何故、「一定の制約が課される」のか、
その理由が明かされることはないのである。

だが、事実は、「公共の安全や公衆衛生などにリスクを
もたらす営業活動」によって侵害阻害されるリスクに
さらされるのは、人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)権利(義務)、
即ち人権だろう。
この人権を侵害阻害させる危険性の高い行為・活動に
対して予め「許認可を要する」などの「一定の規制」をさせる
のは、「自由の制約」をさせるのは、
すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)べし、
という自然の法だろう。
「議会が制定した法律などのルール」は、人権を守るため
の方策・政策であり、いわば自然の法に則って具体化された
ものだろう。
要するに、自由の規制目的は、自然の法と人権を否定する
絶対自由を規制することによる人権擁護だ。
現代(日本国憲法)社会(国家)は自然の法治社会的
分業制度人権擁護システム社会(国家)であり、
人が人を支配し裁く人為の法治無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)幻覚市場似非社会ではないのである。




17) (
自由それ自体は解放の意味しかない)
自由それ自体は解放の意味しか持っていない。
したがって、自由の意味は解放される被解放事象
(奴隷解放で言えば、奴隷制度)と一体を以てしか
理解できない。
言い換えれば、自由は持ってくる被解放事象如何で
どんな意味にもなる多義語である、と言うことである。

当然、自由は濫用され、犯罪の道具にもなっている。
曰く。
「・・・徐々に「自由」という考え方が入ってくる。
たとえば、八百屋の息子が八百屋にならずに職人になる、
という自由である。
仮にそのような自由が実現できる社会になると、きわめて
大きな問題が生ずることになる。
たとえば、その社会から八百屋が一人もいなくなるか
もしれない。
そんなことになれば、社会が大混乱するという心配が
生じる。
そういう時代にアダム・スミスが登場し、そのような心配には
及ばないことを証明した。
八百屋の数が少なくなれば、八百屋の儲けが増える。
そうすれば、儲かる八百屋になりたいという人が必ず出てきて、
八百屋の数は増える。
そのようにして八百屋の数は一定に保たれる。
つまり、市場メカニズムという見えざる手≠ェ働いて、
社会の秩序は維持されると、アダム・スミスは主張した
のである。」
(竹中平蔵「経済古典は役に立つ」
光文社新書25頁)、と。
ここでは、自由は封建制度からの解放の意味と、
自然の法と人権から解放された絶対自由の意味に
使われている。
無分別絶対自由私有財産制度(資本主義)幻覚
市場似非社会化は、
現代(日本国憲法)社会では犯罪なのである。

現代自然の法治社会で行われている自由の規制目的は、
自然の法と人権を否定する無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)を規制することによる
人権擁護なのである。

自由は自由故に尊い、正しい、という事実はない。
自由にすれば、自ずと無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)マーケット似非社会が開けてくる、
という事実もない。
自由(権)が人権だ、という事実はない。
人間は、生きていく、という絶対的な目的を持った、
それでいて、社会的分業の下に、他者と共に自由に
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)以外に
生きていく術のない生き物、そういう具体的人間である。
とすると、人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)権利
(義務)が人権だ、と考えられてくる。
また、自由の本義はこの人権を侵害阻害する事象から
の解放のはずだ、と考えられてくる。




18) (
表面上の訴訟物は請求債権債務、
     真の訴訟物は被侵害阻害損傷人権
)
訴訟物を「実体法上の請求権を基準にする考え方を実体法説、
あるいは旧訴訟物理論と言います。」
「甲という患者が乙という医師のところで手術を受けました。
ところが、乙の手術ミスによって甲に三百万円の損害が発生
しました。」
この「事実関係から」、
「民法709条の不法行為に基づく損害賠償請求」権と
「治療契約」上の「債務の本旨に従った履行ではない。
つまり不完全履行であるとして、
民法415条に基づく債務不履行による損害賠償請求」権が
発生する。
「実体法説は、
素朴に実体法上の請求権毎に一個の訴訟物を認めますから、
この場合に甲には二個の訴訟物が成立しうる
というふうに考えます。」
(吉野正三郎「集中講義民事訴訟法[第4版]」
成文堂103ページ)。
伊藤眞教授は、
「判例およびかつての通説はこれを採用し、
また現在の実務もこれにもとづいて運営されている。
本書もこの立場をとる。」
(伊藤眞「民事訴訟法」有斐閣163ページ)、
と言っている。

勿論、「甲には二個の訴訟物が成立する」というばかげた結論を
本気で主張する狂人はどこにもいない。
「甲には一個の訴訟物しか成立しない」、という結果は、
選択的併合という弥縫策によって導かれている。
要するに、「判例およびかつての通説」も、「現在の実務も」
本当に実体法説ないし旧訴訟物理論によっている、
という事実はないのである。

そもそも「民法709条の不法行為に基づく損害賠償請求」権、
民法415条に基づく債務不履行による損害賠償請求」権
そのものが実在しないのである。
つまり実体法説・旧訴訟物理論そのものが幻覚でしか
ないのである。
これは、要するに、現代(日本国憲法)社会を、人為の法に
則った修正「無分別絶対自由私有財産制度(資本主義)」
市場社会と思い込む思い込みが間違っていた、
ということに他ならない。

事実は、権利義務(たとえば、損害賠償請求債権債務)は、
すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に生きていく
(健康で文化的な生活を営んでいく)べし、という自然の法と
「自動車を運転していたAが、うっかり赤信号を見落として、
横断歩道を歩いているBに衝突して怪我をさせてしまった」
というような規範的に意味のある行為事実とを基に、
自然の法に適っている故の社会的な妥当性(正しさ)として、
自然法上の権利義務として発生消滅するのである。

とすれば、表面上形式上の訴訟物は、
この損害賠償請求債権債務である、
隠れたる真の訴訟物は、
侵害阻害損傷された補修回復されるべき侵害阻害損傷人権だ、
と考えられてくる。




19) (
実在するのは契約暫定自由の原則
「すべての人が社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていく(健康で文化的な生活を
営んでいく)べし、という自然の法」が社会規範として
存在している。
そして、この自然の法に則って具体化された、人権を守る
ための方策・政策としての法規(法律と契約)が
存在している。
したがって、憲法27条1項が「賃金、就業時間、
休息その他の労働条件に関する基準は、法律で
これを定める。」と規定している
「法律でこれを定める。」というのは、
「自然の法に則って具体化した人権を守るための
方策・政策としての法律でこれを定める。」の意味だ。
したがって、これを受けて在る労働基準法は、雇用の
場での労働者の人権を守る方策・政策として在る、
と考えられてくる。
たとえば、労基法32条1項は、「使用者は、労働者に、
休憩時間を除き、1週間について40時間を超えて、
労働させてはならない。」と規定している。
これは、「契約自由の原則を修正」する形で存在して
いるものではない。
そもそも契約は人権を守るための方策・政策である
法規であって、それを作成するのが自由なのは当たり前
なのである。
当然、法(自然の法)に反する合理性のない契約は無効
なのである。
つまり、契約を契約故に守らなければならない契約絶対
自由の原則は実在しないのである。
存在している契約の自由は、契約暫定自由の原則であり、
分別暫定自由私有財産制度と相俟って
社会的(世界的)分業制度を成している。




20) (
則自然の法分別暫定自由私有財産制度)
憲法29条が規定するのは
人権擁護システムの中核を成す
自然の法に則った分別暫定自由私有財産制度
(社会的分業制度)であって、
人為の法に則った無分別絶対自由私有財産制度
即ち資本主義ではない。
人為の法に則った無分別絶対自由私有財産制度
即ち資本主義化は犯罪でしかない。
民法206条が規定している所有権も
所有物を自然の法に則って自由に使用・収益・処分し得る
自然の法に則った暫定自由所有権であって、
人為の法に則った絶対自由所有権ではない。




21) (
自由共生に必要な仕事の分担の仕組みが
    社会的分業制度

社会的分業制度とは
すべての人が他者と共に自由に生きていくために
必要な仕事の分担の仕組みのことである。
具体的には、
@ 重要なインフラを除いたすべての物を
A 生き物たる具体的人間個々人の
B 自然の法に則った暫定自由所有権の対象に委ね、
C 契約暫定自由の原則と相まって成る、
D すべての人が他者と共に自由に生きていくこととした
自然の法に則った分別暫定自由私有財産制度のことだ。
自然の法に則った人権擁護システム、即ち社会(国家)の
中核を成す制度だ。




22) (
自然の法と人権欠く
   無分別絶対自由私有財産制度
   (資本主義)幻覚

資本主義とは
@ すべての物を
A 抽象的人間個人の
B 人為の法に則った絶対自由所有権の対象とすること
によって、
C 同時に、契約絶対自由を原則とすることによって、
D また同時に、税率をフラット化させることによって、
E 喪失才覚人たちを限りなく豊かにせしめることとした
人為の法に則った無分別絶対自由私有財産制度のことで、
喪失才覚人特有の一種の幻覚だ。
前提には、自然の法の存在・拘束を否定する自由主義幻覚が
存在している。

資本主義幻覚の祖は、アダム・スミスだ、と言われている。
アダム・スミスを祖とするのが経済学だと言われている。
とすると、経済学は無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)幻覚市場似非社会化犯罪を指南するための
学問(?)だ、ということになる。




23) (
自然の法と人権欠く
    絶対自由資本幻覚

資本とは、自然の法の拘束を受けないで、
自由(絶対自由)に、物を使用・収益・処分し得る、
抽象的な観念的な絶対自由所有権幻覚のことだ。
大日本帝国憲法(明治憲法)27条が規定していたのは
この「人為法に則った絶対自由所有権」だった。
それは法(自然の法)と人権が欠落していた論理的帰結だ。
近代(大日本帝国憲法)という時代は、
法(自然の法)と人権が欠落した、絶対権力国家という幻覚を
後ろ盾にした人為の法に則った無分別絶対自由私有財産制度、
即ち資本主義(自由主義)幻覚喪失才覚人天下市場似非社会
だった。




24) (
現代国家は現代社会の別称でしかない)
日本国憲法が規定する国・国家(広義の国家)とは
すべての人が
社会的分業の下に
他者と共に自由に生きていく
システム(人権擁護システム)、
即ち社会のことだ。
要するに、自然の法に則った分別暫定自由私有財産制度
(社会的分業制度)を中核とした人権擁護システムが
現代(日本国憲法)社会・国家だ。
要するに、現代国家は現代社会の別称でしかない。
国会・内閣・裁判所という狭義の国・国家は
人権擁護を専務とする
社会(広義の国家)の機関だ。




25) (
現代自然の法治
   社会的分業制度を中核とした
   人権擁護システム社会

現代(日本国憲法)自然の法に則った人権擁護システム
社会は
T) 事前・人権擁護制度
   許認可制度、道路交通ルール、環境規制、労働規制など
   人権擁護に欠かせない必要最小限の事前規制制度
U) 事中・人権擁護制度
   自然の法に則った分別暫定自由私有財産制度
   (社会的分業制度)
V) 事後・人権擁護制度
   帰属所得再評価不当利得返還制度(税制度)、
   社会保障(生活保護)制度、
   裁判制度、刑罰制度などによる
   事後救済補修制度
の3段構造から出来ている。




26) (
自由共生の営為は
   「自助」と称すべき筋合いのものでない

現代(日本国憲法)社会(国家)は、
すべての人が社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていくためのシステム(人権擁護システム)
として出来ている。
事実、憲法29条が規定しているのは、
人権擁護システムの中核を成す
自然の法に則った分別暫定自由私有財産制度
即ち社会的分業制度であって、
人為法に則った無分別絶対自由私有財産制度
即ち資本主義ではない。
したがって、「国民は社会的、経済的、精神的に自立し、
自ら働いて自分の生活を支え、自分の健康は自分で維持
する、というのが基本です。」
 (香取照幸「教養としての社会保障」東洋経済新報社
 47頁)
という社会(国家)の理解の仕方は誤りだ。

人が社会的分業の下に他者と共に自由に生きていく
営為は「自助」と称すべき筋合いのものではない。




27) (
あり得ない
   無分別絶対自由私有財産制度
   (資本主義)幻覚の修正

@ 重要なインフラを除いたすべての物を
A 生き物たる具体的人間個々人の
B 自然の法に則った暫定自由所有権の対象に委ねる
社会的(世界的)分業制度、即ち自然の法に則った
分別暫定自由私有財産制度が、
「国民は社会的、経済的、精神的に自立し、自ら働いて
自分の生活を支え、自分の健康は自分で維持する、
というのが基本」の無分別絶対自由私有財産制度、
即ち資本主義と誤解されてきている。
しかし、共助、公助を以て無分別絶対自由私有財産制度、
即ち資本主義を修正すれば、その絶対性は消失し、
資本主義の姿は消失するはずだ。
無分別絶対自由私有財産制度、即ち資本主義幻覚の
修正はあり得ないのである。
こういう誤解がされてきたのは、私有財産制度には、
人為の法に則った無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)と
自然の法に則った分別暫定自由私有財産制度
(社会的分業制度)という、
全く異質の次元の違う二つの制度があるのに、
資本主義が漠然と「私有財産制度」と思い込まれ
てきた、結果だ、と考えられる。
要するに、資本主義は私有財産制度を利用した
トリックなのである。




28) (
憲法9条の基盤は
   現代自然の法治人権擁護システム社会
) 
現代(日本国憲法)社会は、
すべての人が社会的(世界的)分業の下に他者と共に
自由に生きていくためのシステムを成す
自然の法に則った人権擁護システム自由共生
多生共存社会(国家)だ。
現代(日本国憲法)社会(国家)は全体社会(世界)
の部分社会として出来ている。
自然の法、人権に国境も人種もない。
したがって、「国防のための軍隊」を観念する余地も
ない。
戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認を規定する
憲法9条の基盤は
自然の法に則った社会的分業制度を中核とした
人権擁護システム社会(国家)にある。
憲法9条は平和主義の理念に基づくというようなもの
ではない。
自衛隊が許されるとしたら、それは「すべての人の人権
を守るための自衛隊」であり、専守防衛だろう。




29) (
自然の法が自然(神)の見えざる手)
(自然の法上の)人権を観念させ、  
権利義務を観念させ、
社会(人権擁護システム)を組織せしめたものは、
社会的分業の下に
他者と共に
自由に生きていくべし、
という自然の法、即ち自然の見えざる手だ。
つまり、自然の法が人間を突き動かす見えざる手
だ、と考えられてくる。




30) (
具体的人間感覚喪失している喪失才覚人たち
則人為の法無分別絶対自由私有財産制度、
即ち資本主義幻覚化犯罪によって
社会(国家)を破壊・歪曲させるのは、
具体的人間感覚・自然の法感覚を喪失した
喪失才覚人たちだ。
経済学はこの喪失才覚人たちの御用学なのが現実だ。
具体的人間感覚・自然の法感覚を喪失した、強欲で、
戦略的で、口八丁手八丁で、騙しの才覚に恵まれているのが、
喪失才覚人たちだ。




31) (
自由主義民主主義は
   資本主義市場社会化完全犯罪の
   前提トリック

法(自然の法)を否定するトリックとして使われているのは
自由主義という言葉だ。
合意(法律と契約)を社会規範化するトリックとして
使われているのは民主主義という言葉だ。
つまり、人為の法に則った無分別絶対自由私有財産制度化、
即ち資本主義化犯罪は自由主義民主主義という
言葉を使って行われている。
自由主義民主主義という言葉が資本主義化犯罪トリック
として効いてしまうのは、現代(日本国憲法)社会(国家)
が、すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていくシステムを成す自然の法に則った人権擁護
システム自由共生多生共存社会として出来ている、
という事実を人々が知らないからに他ならない。




32) (
自然の法と人権欠く資本主義幻覚が
    引き起こす過酷な人権侵害と戦争

絶対自由は法(自然の法)と(自然の法上の)人権を
圧殺するためのトリックだ。
則人為の法無分別絶対自由私有財産制度、
即ち資本主義幻覚が過酷な人権侵害や戦争を
引き起こすのは、法(自然の法)と(自然の法上の)人権
が欠落しているからに他ならない。
近代(大日本帝国憲法)という時代はそういう法(自然
の法)と人権を欠く無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)幻覚の時代だった。


「明治憲法の歴史は、多少誇張したいい方をすれば、
戦争の歴史でした。
1890(明治23)年の明治憲法の施行から1945(昭和20)年
までの55年間に、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、
そして「満州事変」、「支那事変」(日中戦争)、
「大東亜戦争」(アジア太平洋戦争)とつづくいわゆる「15年戦争」
をしていたのです。
国民の受けた損害と苦痛は、大変なものでした。
アジア太平洋戦争だけでも、死者・行方不明者は220万人
をこえ(うち、一般国民約66万人)、焼かれた住宅は300万戸
に達し、1000万人以上の国民が家を失ったといわれています。
沖縄では県民の3分の1が殺されました。
戦争が終わる直前の1945(昭和20)年8月6日広島では
一発の原子爆弾で約14万人の人が殺され、3日後の9日
長崎でも約7万人の人が殺されたといわれています(いずれも
同年12月までの死亡者数)。
負傷をした人、肉親や恋人などの親しい者を失い、そのために
生活をだいなしにされてしまった人、食糧不足や過労などで
病気になった人、などのことまで考えると、国民のこうむった
損害ははかりしれないものになるはずです。」
(杉原泰雄「新版憲法読本」岩波ジュニア新書
 110頁以下)


「産業革命の後、非常に乱暴な形で資本主義が展開
していく中で、各国で貧富の差が広がり、貧困問題が
生じ、社会不安が大きくなります。
当時の労働者は1日16時間から17時間という過酷な
労働を強いられていました。
初期の資本主義、言わば剥き出しの資本主義の下で、
資本家は労働者を生産手段としか考えておらず、翌日
働くために最低限度必要な休息以外はすべて労働に
使うのが当たり前と考えていました。
家に帰ってご飯を食べて寝る以外すべて労働時間という
時代だったわけです。
もちろん女性も子どもも働かせていました。
しかし、当然のことですが、労働者は生きた人間です。
使い捨てにするようなことをしていると、労働力はすぐに
枯渇してしまいます。
それでは社会は持続できません。
そのことに気が付いて、最初はイギリスで工場法が
でき、まず年少労働に関する労働時間の規制が始まり
ます。
資本主義社会の持続可能性を考えても、一定の
労働力が再生産できるようなルールがなければなりません。
それでも1833年に制定された工場法の労働時間
規制は18歳未満の労働者で週69時間、というもの
でした。」
(香取照幸「教養としての社会保障」東洋経済新報社
 24頁以下)


自由主義資本主義幻覚が過酷な人権侵害や戦争を
引き起こすのは、法(自然の法)と(自然の法上の)人権が
欠落しているからに他ならない。
近代(大日本帝国憲法)という時代はそういう法(自然の
法)と人権を欠く無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)幻覚の時代だった。




33) (
近代資本主義幻覚
    喪失才覚人天下市場社会の超克

「近代社会の理念は、個人の自由と基本的人権を
普遍的な価値とするということですから、人間はみんな
自由に行動し、自分の望む人生を選べるということに
なっています。
それは尊いことですが、反対から見れば、一人ひとりが
自分の責任で生きていかなくてはならない社会だという
ことでもあります。
すると、病気や怪我、失業、被災といった、生きていく
中で起こり得る事故については、必然的に、自分の
責任で対処するのが基本ということになります。」
「例えば、アメリカは端的にそういう社会だと言えると
思います。
アメリカでは、とにかく自由に何をやってもいい、能力を
最大限に発揮して、勝負して生き残っていく。
勝った者はアメリカンドリームを具現し、負けた者は
自己責任でどうぞと、そういう社会の仕組みになって
います。
極端な話、アメリカでは自分の生命を守ることすら
自分でやる。
自分の身を守るのは自分の責任であり権利だと考えます。
だから、銃を持つのも権利だ、となるわけです。
つまり、刀狩りをしていない、刀狩り以前の社会と
いうことだと思います。」
(香取照幸「教養としての社会保障」東洋経済新報社
 51頁以下)


このような事実は、アメリカが、未だに、
近代則人為の法無分別絶対自由私有財産制度
即ち資本主義幻覚喪失才覚人天下市場社会を
超克し得ないでいることを教えている。
要するに、現代自然の法治社会的分業制度人権擁護
システム多生共存社会(国家)は、
近代人為の法治無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)幻覚喪失才覚人天下市場社会の
超克の上に在る、ということだ。




34) (
11の顔を持つ
   現代自然の法治人権擁護システム社会

現代(日本国憲法)社会は、すべての人が社会的
分業の下に他者と共に自由に生きていくための
システムを成す社会であり、11の顔を持っている。
 自然の法治社会
 社会的分業制度社会
※ 社会的分業制度は、
 正確には、分別暫定自由私有財産制度と
 契約暫定自由の原則とで成るが、
 単に分別暫定自由私有財産制度と言ってもいい、
 と思う。
 ちなみに、資本主義幻覚市場社会は、
 無分別絶対自由私有財産制度と
 契約絶対自由の原則とで成るが、
 単に無分別絶対自由私有財産制度と言ってもいい、
 と思う。
 暫定自由制度社会
 人権擁護システム社会
 社会一元社会
  ※ (広義の)国家は社会の別称である。
 自由共生社会・多生共存社会
  ※ すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
  生きていく社会
  ※ 多様な自由な個々人の生が共存する社会
 ワーク・ライフ・バランス社会
 正直・寛容社会
  ※ 近代則人為の法無分別絶対自由私有財産制度、
   即ち資本主義幻覚市場社会は、
   喪失才覚人たちを限りなく豊かにすることを目的
   とした騙しの限りを尽くした詐欺社会だった。
   喪失才覚人たちを限りなく豊かにすることを目的に
   すべてを集中した非寛容社会だった。
 世界連邦社会
 グローバル社会
 生命の本質にマッチした持続可能な社会




35) (自由主義も共産主義も
    所詮人為の法治幻覚のための騙し

自由主義(資本主義)といい、共産主義(社会主義)と
いい、
大きな政府か小さな政府かといい、
所詮、人が人を支配し、人が人を裁く、人為の法治
幻覚の旗印に過ぎない。
生き物である人間を心底で突き動かしているのは、
自然の法即ち自然(神)の見えざる手だ。
現代(日本国憲法)が、立憲主義、国民主権主義、
基本的人権尊重主義、自由主義、個人主義、平和主義、
権力分立主義」などで成り立っている、と言うのは、
事実に反している。
近代人為の法治無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)幻覚喪失才覚人天下市場社会は
近代で終わっているのである。




36) (資本主義市場社会化は犯罪でしかなく
     修正資本主義というのは罠
)
「(1) ワーク・ライフ・バランスとは
「ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)」は、
老若男女誰もが、仕事、家庭生活、地域生活、個人の自己啓発
など、様々な活動について、自ら希望するバランスで展開できる
状態である。
政府より、2007年に、「仕事と生活の調和
(ワーク・ライフ・バランス)憲章」(「憲章」)と「仕事生活の調和推進
のための行動指針」が公表されている。
憲章では、仕事と生活の調和が実現した社会を、
「国民一人ひとりがやりがいや充実感を感じながら働き、仕事上の
責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、
子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方
が選択・実現できる社会」としている。
また、憲章は、仕事と生活の調和と経済成長は車の両輪であり、
若者が経済的に自立し、性や年齢などに関わらず誰もが意欲と
能力を発揮して労働市場に参加することは、我が国の活力と
成長力を高め、ひいては、少子化の流れを変え、持続可能な社会
の実現にも資することとなるとしている。」
(坂東利国「新版働き方マスター試験ワークスタイル
コーディネーター認定試験公式テキスト」全日本情報
学習振興協会22頁以下)

自然の法と人権が欠落した無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)市場社会化犯罪の目的は、
喪失才覚人たちを限りなく豊かにせしめることだ。
そのための騙しが、
自由であり、規制緩和であり、頑張った人が報われる社会で
あり、小さな政府であり、機会の平等であり、マーケットであり、
アダム・スミスの見えざる手であり、「民間でできることは民間
でする社会」であり、豊かな国であり、国富であり、競争が一番
大事であり、景気がいいのが一番大事であり、経済成長であり、
GDPである。
仕事と生活の調和と「経済成長」が「車の両輪」として
捉えられている限り、
自然の法と人権が顕在するワーク・ライフ・バランス社会が
実現することはあり得ない。
自然の法と人権が欠落した無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)の修正は効かない、あり得ない、のである。

現代社会は人為の法治幻覚社会から自然の法治社会へと
大転換する端境期なのである。
過酷な人権侵害と戦争という極大の犠牲を払って、
日本国憲法は、一足先に、人が人を支配し、人が人を裁く
人為の法治幻覚社会から、
すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)
自然の法治社会へと大転換を果たしているのである。




37) (
喪失才覚人の自由の濫用による
   資本主義幻覚市場似非社会化犯罪
)
人為の法治無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)幻覚市場似非社会化洗脳詐欺犯罪は、
喪失才覚人たちによって、
自由の濫用によって、行われてきた。

人為の法治無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)幻覚市場似非社会は
喪失才覚人たちを限りなく豊かにせしめることを目的とした
市場似非社会であり、
当然、財富は一部の喪失才覚人たちに偏蓄され、
少なからざる貧困者を生み出すはずだ。

橋本健二早稲田大学教授は
朝日新聞のインタビューで、
「累進課税の強化などで最低の生活保障を
実現する再分配政策を前に進めていかないと、
もはや社会が持続できないと思います」
(2019・7・17朝日新聞朝刊)と、
言っている。
「80年代後半以降の『フリーター』の増加を
皮切りに、非正規雇用の割合が増えました。
もはや一時的な現象の帰結である『世代』では
なく恒常的な『階級』として捉えたほうがいい」
「橋本の言う「アンダークラス」は主にパートの
主婦を除く非正規雇用の労働者たちを指す。
60歳未満の平均個人年収は約185万円。
職を失う恐れと先行き不安にさいなまれる日々
を送る。
人口約1億2600万人の日本で、こうした層は
橋本の試算では900万人以上。
若者から高齢者まで広がる。
日本経済はじり貧傾向が続き、社会保障制度
など「安心」の仕組みの未来は心もとない。
自分や家族もいずれ「転落」してしまうのでは
――。
そうした不安が広がっている。
中間層が転落の不安を抱えつつ、格差拡大も
やむなしという「自己責任論」に傾きつつある
のだという。
橋本は、現代の豊かな中間層の意識の変容と
社会の分断を象徴する風景の一つが、大都市
に広がるタワーマンションだとみる。」
(「「階級社会」中間層襲う転落不安」
2019・7・17朝日新聞朝刊)

封建制度から解放し、
人為の法治無分別絶対自由私有財産制度
(資本主義)幻覚市場似非社会化する犯罪は、
自由の一語を濫用することによって可能なのである。
曰く。
「・・・徐々に「自由」という考え方が入ってくる。
たとえば、八百屋の息子が八百屋にならずに職人になる、
という自由である。
仮にそのような自由が実現できる社会になると、きわめて
大きな問題が生ずることになる。
たとえば、その社会から八百屋が一人もいなくなるか
もしれない。
そんなことになれば、社会が大混乱するという心配が
生じる。
そういう時代にアダム・スミスが登場し、そのような心配には
及ばないことを証明した。
八百屋の数が少なくなれば、八百屋の儲けが増える。
そうすれば、儲かる八百屋になりたいという人が必ず出てきて、
八百屋の数は増える。
そのようにして八百屋の数は一定に保たれる。
つまり、市場メカニズムという見えざる手≠ェ働いて、
社会の秩序は維持されると、アダム・スミスは主張した
のである。」
(竹中平蔵「経済古典は役に立つ」
光文社新書25頁)、と。

確かに、近代(大日本帝国憲法)社会はマーケットだった
かもしれない。
そこでの秩序は市場メカニズムによって保たれていた
のかもしれない。
しかし、現代(日本国憲法)社会は、マーケットではない。
暫定自由私有財産制度も職業選択の自由も、すべての人が
社会的分業の下に他者と共に自由に生きていく(健康で
文化的な生活を営んでいく)、自然の法治社会的分業制度
人権擁護システムとして存在しているのが、現代(日本国
憲法)社会なのである。
現代(日本国憲法)社会の秩序は、自然の法によって
保たれているのである。
自然の法を否定する自由はないのである。




38) (
価格が需要と供給で決まるのは
     社会的分業制度社会だからだ
)
価格が需要と供給で決まるのは、社会的分業制度社会
だからだ。
貨幣は社会的分業の手段として存在している。
社会的分業制度は
すべての人が他者と共に自由に生きていくために
必要な仕事の分担の仕組みのことである。
具体的には、
重要なインフラを除いたすべての物を
生き物たる具体的人間個々人の
自然の法に則った暫定自由所有権の対象に委ね、
契約暫定自由の原則と相まって成る、
すべての人が他者と共に自由に生きていくこととした
自然の法に則った分別暫定自由私有財産制度だ。

したがって、自然の法と人権が欠落している
無分別絶対自由私有財産制度即ち資本主義
市場似非社会での擬似社会的分業制度は、
喪失才覚人たちを限りなく豊かにするための
機械的制度としての意味しか持っていないはずだ。
とすれば、そこでの市場メカニズムは人間を心底から
突き動かす見えざる手ではあり得ない。
自然の法と人権を否定しての経済至上視が、
無分別絶対自由私有財産制度(資本主義)幻覚
市場似非社会化洗脳詐欺犯罪の禍根に違いない。




39) (
社会を半壊させている
   無分別絶対自由私有財産制度(資本主義)化
   洗脳詐欺犯罪の7つの嘘
)
現代(日本国憲法)社会を半壊させている
無分別絶対自由私有財産制度(資本主義)
人工市場似非社会化洗脳詐欺完全犯罪に使われている
大きな嘘・トリックには
次のように7つある。

1. 人間は自由意思(志)人である、という嘘
 しかし、事実は、人間は、生きていく、という絶対的な
 目的を持った、それでいて、社会的分業の下に他者と
 共に自由に生きていく(健康で文化的な生活を営んで
 いく)以外に生きていく術のない生き物、そういう具体的
 人間である。
2. 人間は法を自由に作れる、という
  民主主義・国民主権トリック
 しかし、すべての人が社会的分業の下に他者と共に
 自由に生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)
 べし、という自然の法を否定する自由は、具体的人間
 にはない。
3.  国家(絶対権力国家)にさえ否定できない
   自由(絶対自由)がある、というトリック
 しかし、絶対権力国家も絶対自由も、どちらも、
 幻覚でしかない。
 「絶対権力国家」は「絶対自由」を幻覚として
 浮かび上がらせるためのトリックである。
4.  自由が人権である、という嘘
 しかし、自由は人権ではない。
 事実は、人権とは、人が社会的分業の下に他者と共に
 自由に生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)
 権利(義務)のことである。
5.  絶対自由所有権が実在し得る、という
   絶対自由所有権トリック
 しかし、実在するのは、自然の法に則った暫定自由所有権
 である。
6.  契約絶対自由の原則が実在し得る、という
   という契約絶対自由の原則トリック
 しかし、実在するのは、自然の法に則った契約暫定自由
 の原則である。
7.  日本国憲法を修正資本主義を原理としている
   と理解できる、という嘘
 しかし、日本国憲法が目指している社会は、
 すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
 生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)ための、
 自然の法治社会的分業制度人権擁護システム社会
 (国家)である。






図AZ―自然の法→人権→法規→社会


自然の法自然(神)の見えざる手
(すべての人が社会的分業の下に他者と共に
自由に生きていく(健康で文化的な生活を営んで
いく)べし、
という最上位の規範・自然(神)の見えざる手)
     
人権
(自然の法に則って具体化された、
人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)
権利(義務))
     
法規(法律と契約)
(自然の法に則って具体化された、
人権を守るための方策・政策)
 ※ 人権を守るための方策・政策である
   法規(法律と契約)は民意を以て作るべし、
   という次順位規範が(暫定自由)民主主義
     
社会
(自然の法に則って具体化された、
すべての人が社会的分業の下に他者と共に自由に
生きていく(健康で文化的な生活を営んでいく)
ための
自然の法治社会的分業制度人権擁護システム
社会(国家))






 図A-9―現代自然の法治社会的分業制度
     人権擁護システム自由共生社会

図A-9―現代自然の法治社会的分業制度人権擁護システム自由共生社会






 図A-9の2―近代人為の法治市場社会、
       現代自然の法治人権擁護システム社会

図A-9の2―近代人為の法治市場社会、現代自然の法治人権擁護システム社会






   社会保険労務士
   特定行政書士
   現代自然の法治社会研究家
      岩崎 秀政